歩いて再び京の都へ 旧中山道夫婦旅   (第10回) 新町宿~倉賀野宿さらに高崎宿へ 後編

11月26日、中山道新町宿~倉賀野宿入り。

倉賀野駅で足止めの予定でしたが、高崎宿まで足を延ばすことになりました。

旅の続き、後編。

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 倉賀野駅入口交差点に戻り、121号中山道に復帰。

 

県121号を150mほど戻り中町十字路を南に下ると烏川・共栄橋があり、

橋の上流側が倉賀野河岸跡で碑が立っているそうですが、先ほどの本陣跡

ベイシアの角にある路地が倉賀野河岸の入口だったそうで、往時は八幡宮の鳥居が

建ち、烏川沿いの井戸八幡宮の前を通る道が中山道と河岸場を結ぶ道だった

そうです。

それで井戸端八幡宮へ向かい、倉賀野河岸跡を境内から眺めることに。

細い坂道下ると右手から降りてくる道と出会い、さらに曲がりながら下ると、

右手の小高い所が井戸端八幡宮

そのまま河岸へ下ってゆくと倉賀野河岸跡へ行くようで、下てきた道や

先ほど合さった道は、荷を運ぶ牛街道とも呼ばれたとか。

正保3年(1646年)倉賀野城三の廓跡の古井戸から、一夜にして水が湧き出て

八幡大神が現れたのが起源と伝えられる神社。

町の人たちから井戸八幡宮と呼ばれ親しまれ、井戸は今も残りその上に神輿が

保管されている。(写真右、神輿保管祠の下が井戸)

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境内にはこんな碑も。

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境内から下に烏川が流れ、左手、橋たもと付近が河岸跡。

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倉賀野河岸は1561年ごろ、地元民10人ほどが船による回船業を開始したのが

始まりで、上信越地方の物産を江戸へ運んだ。

1648年には76業者になり、嘉永5年(1852年)には船数133艘、船持十数軒、

問屋十数軒が軒を連ねたと言われ、1884年の鉄道開通にともない使命を終えた。

井戸八幡の右手上流付近崖上が昔の倉賀野城址だそうです。

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倉賀野氏は武蔵七党の1つ児玉党の流れを汲み、有道(児玉)経行の四男・行高の

三男、三郎高俊にはじまるとされ、建久元年(1190)に源頼朝が上洛した際の

随行員として倉賀野三郎の名があるそうです。

その後幾多の変遷を経て、武田氏の武将金井秀景が新たに倉賀野城主となる。

天正十年(1582)に武田氏が滅亡し、秀景は織田信長の重臣滝川一益に従った。

しかし、同年中に本能寺の変が起こると、北条氏直が大軍を率いて北上し神流川

戦いとなり敗れ、倉賀野氏は北条氏に降伏し、倉賀野城は北条家傘下となる。

天正18年(1590年)の小田原の役に北条氏が滅ぶと、倉賀野城は廃城となった。

 

県121中山道倉賀野駅交差点に戻り、左手の倉賀野仲町山車倉前に、

中町御伝馬人馬継立場跡、中町問屋場跡です。倉賀野宿は、問屋場が下町・中町・

上町に1軒ずつ、計3軒もあって、それぞれ10日交代で問屋を務めていた

そうです。

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その先右手の連子格子の旅籠風2階建てで卯建の上がる家が、河岸問屋も営んだ

須賀喜太郎家脇本陣跡。

建物は明治23年の築造といわれるが、表門は江戸時代に建てられたもので

脇本陣の格式が感じられるそうです。

明治4年(1871)に宿場制度が廃止になると旅籠業を営んだようです。

(残念ながら門付近は修復工事中で、下写真は拝借しました)

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隣に須賀長太郎問屋場跡で、そばに高札場跡で高札が復元されてます。

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高札場のうしろに一本の木が立っていて、案内板が立っている。

安政3年(1855)宿は大火に見舞われ、焼け野が原の化した。しかし只1軒焼け残った旧家があった。どこからか大天狗が現れ防火に努めたからという。

家では古峯様を信仰していたので古峯の天狗が助けたのだそうな。

この樅の木はその伝説に由来すると言う。・・樅の木は枯れ植え替えられているが。

向かいに須賀庄兵衛脇本陣跡、碑だけが建ってます。

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須賀家は、倉賀野十六騎の中に須賀佐渡守の名前が見られる事から、後裔又は

一族と思われます。九品寺境内にあった須賀家墓苑は一族のかな。

左手にしめ縄の下がった赤い柱、倉賀野神社への参道入り口でした。

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倉賀野神社は,およそ2000年前祟神天皇時代に起源を持ち,「飯玉社」

といわれ,江戸時代は,近郷12ケ郷の総鎮守であった。

明治10年大国魂神社と改称,同43年に近隣の数社を合併して

倉賀野神社となった。

御祭神は大国魂大神(おおくにたまのおおかみ)で大国主神(おおくにぬしのかみ)

の荒魂。

わが国には古来、同一の神について荒々しく神意さかんな面を荒魂、柔和な徳を

備えた側面を和魂(にぎみたま)とたたえ、異なる神名で呼び分ける習わしが

あった。

御神体は「クニタマさま」と呼ばれる亀形の自然石だそうです。

本殿は一間社流れ造りで、正面及び背面に唐破風が付き,屋根は銅板葺きで

多種多様な彫刻が施されています。

境内には北向道祖神、冠稲荷、甲子大黒天などが祀られてます。

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13年かけて慶応2年(1866)に完成した本殿の彫刻は見事で、市指定文化財。 

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街道に戻る参道脇の民家に「水車」が??f:id:hansui:20161128135249j:plain

街道121号をさらに西へ200mほど進むと歩道橋手前右に、

安楽寺

境内には安永4年(1775)の庚申塔,身に甲冑をつけた勝軍地蔵尊

珍しい室町時代の将棋の駒型「異形板碑」があるほか,本堂裏手には安楽寺古墳が

ある。

 

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安楽寺付近が上の木戸跡で倉賀野宿もここまで、上町西交差点を過ぎた辺りが

倉賀野一里塚跡だったようですが跡形もなし。

この先は県121号旧中山道(東国文化歴史街道)ながら殺風景な車道が

続いてます。

道路造成時に植えたと思われる松並木が多少の風情を醸し出している。

丈夫に育って、立派な中山道松並木になってほしいもんですね

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400mほど行くと左手奥にこんもりした森が見えてきます。

国指定史跡浅間山古墳で前方後円墳。 4世紀後半に造られたそうです。

関東平野でも小規模ながらたくさんの古墳がありますね。

古墳巡りも面白そうね、てカミさん。

寄りませんでしたので、拝借写真

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右手に「倉賀野町交通事故犠牲者供養塔」の交通安全地蔵尊

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たんたんと500mほど、おしゃべりしながら足を進めてると

左手に、おっ、駅弁だるま弁当だよ!

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右手にこんなのも・・時間が合えば寄りたかったね。

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高崎粕沢橋郵便局付近が、粕沢の立場跡っと言われますが、判りませんね。

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殺風景な広い道路で風のないのがありがたいが、ただひたすら歩くと

先に国道17号(現中山道)のガードが見えきます。

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あっ、ネリネ、いい色合いね~・・ぱっと明るくなった弾んだ声

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17号を過ぎると県12号、先に上越新幹線のガード。

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新幹線のガード手前を左右に抜ける道は、紅葉した楓(ふう)の並木、そして

電柱のない街並み、県134号道標新田下後閑線に変わります。

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ガードを抜けるとやはり電柱のないスッキリとした銀杏並木。

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上信電鉄踏切手前右には高崎アリーナの巨大な建物が工事仕上げ中。

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すぐ側が上信電鉄踏切です。この辺りが高碕宿東入り口になるそうです。

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踏切を越えると高崎宿、江戸から数えて13番目。

慶長2年(1597年)井伊直政により城が築かれ高崎と命名され、中山道随一の

宿場町として、また物資の集散地・商業のまちとして大いに賑わった。

街道筋の田町、本町、新町などに市が立ち、その様子は

「お江戸見たけりゃ高崎田町、紺ののれんがひらひらと」と詠われたほど。

その代わり、宿場の機能としては貧弱で、諸大名が御城下での宿泊を敬遠した

ことから本陣、脇本陣は置かれていなく、旅籠が15軒あるだけだった。

天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、高崎宿の宿内家数は837軒、

宿内人口は3,235人。

 

正面に高層ビルが空を突き抜けています。

方向的に高崎市役所のビルでは?

えっ、あんな高層ビルが市役所なの!!カミさんがビックリ。

地上約100mで高崎一、前橋の群馬県庁に次いで、役所としては群馬第二の

役所高層ビルなんですね。

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500mほど進みゆるく右カーブする南町信号の左手奥に鳥居が見え、

入ってゆっくと突き当りに愛宕神社があります。

この曲がった桝形の食い違い道は高崎宿の二つ目の東木戸口との説があり、

前は交番があったとか。

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愛宕神社は江戸時代、和田城(後の高崎城)の鎮護神として京都 愛宕神社の御分霊を

祭祀創建された。

その後高崎城となり、元和三年(1617年) 高崎城主松平信吉が火防の神として

再建されてます。(ご利益は??)

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街道に戻り新町交差点にて今回の旅は足止めです。

新町宿から2里弱(約8km)、倉賀野宿1里19町(約5km)

お江戸日本橋から13番目、26里31町40間(約108km)

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中山道上野国もあと4宿となりました。

雪の季節になる前に、旅に出れるのはあと何度かな?

 

中山道夫婦旅はまだまだ続きます。