歩いて再び京の都へ 旧中山道夫婦旅   (第12回) 安中宿駅から安中、松井田宿へ  前編

>平成28年6月18日、3年半をかけて東海道五十三次を旅し、
京の三条大橋に立ちました。
そして夫婦は旧中山道69次の旅、再び京を目指して歩いています。

 

12月2日、高崎宿を立ち、江戸から14番目・板鼻宿を過ぎて、

次の安中宿へ向かいましたが、途中のJR安中駅前で足止めとしてました。

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12月10日(土)夫婦はまたもや旅に出ます。

早めに家を出て、関越高速・上里PAにて、久しぶりに持参「カップそば」

で朝食。

AM6:40、ちょうど朝焼けになってました。

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 上信越高速に入り、碓氷松井田ICで降りて、信越線、JR西松井田駅・駐車場へ。

ここには、広い無料駐車場あるんです。

平日なら通勤、通学など地元の方がたの利用でしょうから、

遠慮しなければならないでしょうね。

今日は前回の足止め地、安中駅前から松井田宿が目的ですので、街道沿いになる

この西松井田駅に駐車させていただきました。

調べておいた電車時刻まで、あと3分。間に合う、それ~・・・ 

すぐ来た電車で群馬県北西部、安中駅へ向かい、

AM8:10、第12回の旅立ちです。

天気予報では、最高気温10℃、北風多少強しでしたが、出発時は、足元から冷気が昇るを感じますが、無風状態でした。

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駅前を横切る国道18号の高架下を通り、街道へ戻って碓氷川を

久芳橋北側(右手側)を渡って安中市街地へ入ってゆきます。

(久芳橋は江戸時代「二つ橋」と呼ばれた)

昔は中州を挟んで仮橋や渡渉で碓氷川を越えました。

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碓氷川ではサギたちが朝の食事獲物を物色中。

左手に妙義山の異様な山並み、その左奥にはテーブルマウンティンの荒船山

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渡り終えて下野尻交差点を歩道橋を使って国道を渡り、旧中仙道は左手に

県125となって安中街中へと向かいます。

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300m位行くと右手に正龍寺。

上野国巡礼札所34か所第25番、本尊は千手観音。

石碑裏に書かれた由緒書きには、

応永年間(1394~1427年)に、関東管領山内上杉家家臣の松本将監が、

信州での合戦のおりに黄金の千手観音を授かり、それを当下の尻村(下野尻町)に

堂を建て祀った。兵かに焼かれ慶長2年再建され三百有余年、時代を経て老巧化のため

区民の浄財にて山門、お堂はともに平成に再建された由

(観音さまも?)。

お堂内には、33体の観音様、中央に千手観音様。

お堂前に大きな馬頭観音石碑。

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安中・下野尻はまだ静かなたたずまい。

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しばらく進んだ県121との十字路交差点角、手前の右手の軒下を何気なく見ると、

こんな石碑が。長野110kmとありますが、長野善光寺までかな?

そして交差点の向こう側、

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理髪店のある角に、「安中宿下木戸跡碑」が建ち、安中宿の江戸口(東口)。

江戸から15番安中宿に入ります。

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安中はその昔,野後という地名であったが,永禄2年(1552年) 越後新発田から

安中忠政がこの地に城を築き、安中城と称したことから安中と呼ばれるようになった、

江戸時代、安中藩3万石の城下町でもあった。

日本橋から29里19町40間,15番目の宿である。

人口348人,家数64,本陣1,脇本陣2,旅籠17軒。

また1783年 の浅間山大爆発で壊滅的な被害を受けている。

木戸口の右手の坂道を登ると、小高い丘陵突き当りに熊野神社

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安中城築城に際し、越後国新発田熊野神社をあらためて祀り,安中藩

鬼門の守護神・総鎮守として歴代藩主に厚く崇敬されてきた。

小振りの神社ですが、社殿の彫刻が見事で、市の重要文化財

本殿の七面の羽目板に鳳凰らしい鳥を中心に,梅,楓などの樹木や霞様の雲を廃した彫刻を施している.

また、市指定天然記念物、推定樹齢1000年の大欅がある。

これに祈願すると疣が取れる霊験ありと言われ、現在は落雷により大きく折れ、

支柱で補強されている。(一千年とはすごい!)

社殿前の両脇の狛犬をみて、「あら、ひょうきん顔!」

威嚇してるようで、どこか愛嬌のある憎めないペット顔。

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拝殿内の絵馬、推定樹齢1000年の大欅

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神社を出て右手に安中城東門跡板碑。後方一帯が安中城跡になるようです。

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すこし坂を下ると右手石垣上に真宗大谷派,本尊阿弥陀如来、西廣寺。

石段を上ると、樹齢300年という県指定天然記念物のツバキが蕾をつけてます。

境内に聖徳太子を祀る太子堂がありました。

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境内横からの坂道をに西に行くと、文安年間(1444~1449)創建といわれる、

大泉寺。(木柱や山門の屋根が・・傾いてる)

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山門を入ってすぐ左手に素朴な五輪塔風供養塔ありました。

その名も「ちゃんころりん」で、そばに面白い「チャンコロリン」由来板。

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この妖怪伝説?は、女優の市原悦子さんが語り部となり、子供たちに人気のあった

TVまんが「日本むかしばなし」に「大泉寺のころがり石」としてあるんですよ。

http://nihon.syoukoukai.com/modules/stories/index.php?lid=664&cid=19

 

物語的には、「日本むかしばなし」のお話のほうが、優しい物語かな。

そういえば、旧東海道を歩いた時も、道端の「石」物語が有ったわね、て

カミさんがまた思い出話。

そうでした、静岡の金谷宿と日坂宿の間の、小夜の中山峠にて「夜泣き石」

伝説のお寺と供養塔がありました。

「伝説にまつわる水飴、お店が閉まっていて舐めなかったな・・」なんて石談義、

(夜泣き石伝説)

http://whitenoel.com/saigyou/notedplace/noted_place_sizuoka/noted_place_kuenji.htm

奥の墓地には,井伊直政の息、直勝が安中城主となり、

井伊直政正室の墓」「井伊直好生母の墓」があるそうですが、寄りませんでした。

県125に戻り先に進むと左手に安中郵便局があり、ここが須藤本陣跡。

建坪192坪,門構え・玄関。

本陣横で問屋場,人馬継立て一切を取り仕切っていたと言われますが、

残念ながら、石柱と木板の案内のみで解説板も無し。

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尚、 脇本陣2軒は,須田家,金井家が勤めていたそうですが、本陣に比して

狭いものだったというが、こちらも遺構も無く碑も何もないんですね。

郵便局先の伝馬町交差点を右に入り坂を上ると、突き当りが先ほど寄った大泉寺。

道なりに曲がって上ると、大名通りという道が台地を東から西に通ってます。

この周辺は南を碓氷川、北側を九十九川が流れる間の河岸台地。

 

一番高い所に安中小学校があり、昔は安中城があったのです。

名の通り、南側が大きく明るく広がる河岸台地は武家地。

下がって碓氷川に沿って東西に横長に、城下町兼宿場町が続いてたんですね。

左手が三社神社(石川忠房生祠)の裏手で、石川忠房生祠がありました。

安中宿の助郷の窮乏を、時の道中奉行石川忠房に訴え、救ってもらえたことから、

村民が感謝して生神様として祀ったと言われます。

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 生存中に祀るのも珍しいと思いますが、それだけ助郷に駆り出される周辺農民の

感謝の現れなんでしょうね。

助郷

*江戸時代,幕府が諸街道の宿駅の継立てを援助,補充させるため,宿場周辺の農村に

課した夫役。交通需要の増大につれ,宿場常備の人馬 (御定人馬) では不足のため,この臨時の人馬徴発が行われ,初めは臨時で行われる人馬徴発であったが、参勤交代など交通需要の増大に連れ、助郷制度として恒常化した。

村が人馬を提供できない場合、金銭で代納することになっていた。

安中は小さな宿場町であったが、碓氷川を控え交通需要の増大に連れ、徴発された

村民(農民)の負担が重く、農村それにもかかわらず、法定の報酬はわずかであり

村財政が窮乏し「幕府や藩に窮状を訴えて減免を願い、宿駅と助郷村の紛争も相次いだという。*

大名通り右手に 

明治11年12月開庁の碓氷郡役所跡の建物があります。

当初は伝馬町の旧本陣須藤国平氏宅を仮用していたが,明治21年6月,

現在地に移り、明治43年全焼したため、当初は白亜の洋館でしたが、

近代和風建築で明治44年9月再建されてます。

群馬県内で唯一現存する旧郡役所の遺構だそうです。。

 大正15年7月1日碓氷郡役所は廃止となり,同49年群馬県が土地家屋を

安中市へ贈与。

 地方自治の歴史を示す貴重な建物であるため,平成8年度から地域文化財保全事業により建物の改修を行い後世に保全することを目的に事業が進められ,平成10年4月より公開されている。(解説資料より)

館内にて、上野国宿場絵展が催されていたのでしばし館内見学。

(展は撮影ご遠慮下さい、でした)

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郡役所の前の通りは大名小路という

 (参、市観光資料より)

安中の地名は,戦国時代に原市の榎下城にいた安中忠正が,野尻と呼ばれていた

この地に永禄2年(1559)に城を築き野尻を安中と改めたことに始まると

いわれている。

この地域は,越後の上杉,甲斐の武田,小田原の北条という有力戦国大名が三つ巴の

戦いを繰り広げた場であり,安中氏は武田信玄と戦い,永禄7年に降伏した。

以後武田氏に属したが天正3年(1575)長篠の戦いで城主以下全員討ち死にし,

やがて安中城は廃城となり城地は農地となっていた。 

江戸時代に入り元和元年(1615年)に井伊直勝が近江彦根から分家、

初代藩主として安中に移り城を再建、町割りを行ない安中宿を開いた。

安中城は九十九川と碓氷川に挟まれた河岸段丘上に位置し,安中宿より一段高い

所にあった。お城といっても天守閣は無く,茅葺き平屋建ての御殿が本丸に、

二の丸は安中小学校のあたりで、東西750m,南北500m。

 明治維新の廃藩置県により取り壊され,城の遺構はほとんど残っていない。

 安中藩主は五家(井伊・水野i・堀田・板倉・内藤)十六代が勤め,中山道の関東への入り口に当たる為いずれも徳川譜代の大名が置かれた。

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旧碓井郡役所の道を隔てて西隣りに建つのが 「日本キリスト教団安中教会」

大谷石造りのゴシック様式の重厚な外観、この教会は有形文化財に登録されている.
大正8年(1919)竣工。

残念ながら日曜礼拝時なら旅人も入れますが、今日は土曜日か・・・

通常日の拝観は、3週間前に電話予約が必要だそうです。

(変な協会ね、普通は門戸開放でしょう!!て、カミさんが抗議口調)

*安中教会*

http://www8.wind.ne.jp/a-church/profile/index.html

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大名小路から南の街道へ下る道角に、門番所跡木碑。

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長い協会のフェンス沿いにしばらく行くと、右手奥は二の丸跡に安中小学校。

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すぐ先の信号機のある十字路手前角に,復元された旧安中藩の郡奉行役宅。

15代藩主板倉勝明の側近山田三郎(1804~1862)が住んでいたと伝えられ,文政年間(1818~29年)の建築された役宅だったそうです。

その後幕末から明治にかけて猪狩磯右衛門懐忠(1820~1883)が住んだ。

 

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道を隔てて武家長屋が復元・保存されていている。(修復工事中でした)

安中藩は3万石の小藩だったので,最も高禄の年寄り(家老)級でも300石未満で

多くの藩士は慎ましい暮らしをしていた。住居についても一戸建ての独立家屋に

住めたのは30名ほどの上級藩士だけで,ほとんどの藩士は長屋住まいであった

と言う。 この建物はそのうちの4軒長屋で,3軒だけ残っていたものを図面を元に

当初の姿に復元したもの。西側から八間・六間・六間・六間に区分されている。

それぞれ,台所(土間)・下座敷・上座敷・押入れ・床の間,前庭(実際は畑に使った)側に流し場・縁側・厠が並ぶ。武家長屋が建てられた正確な年代は不明,

幕末から明治初年の絵図に描かれている点や柱間の寸法(役1.82m)などから1800年代中頃といわれます。

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交差点を北側奥に進むと、本丸跡に建つ安中市文化センターに突き当たり、

その左手に、安中藩安政遠足之碑&日本マラソン発祥の地碑が建ってます。

碑には、

安政二年(一八五五年)ときの安中藩主板倉勝明公は
藩士の心身鍛錬を目的として五十才以下の藩士九十八名を
数隊に分け五月中旬より六月初旬にかけ安中城内より
碓氷峠熊野権現まで七里余の中山道を走らせた。
これを「安中御城内御藩士御遠足」という」

 と記され、まさに日本におけるマラソンのはじめですね。

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安中藩安政遠足は“とおあし”と読みます。

今も、市の行事として、毎年5月の第2日曜日に開催され、

毎回たくさんの仮装したランナーが走るそうです。

コースを見たら、なんと、いつの日か挑戦することになる、旧中山道

碓氷峠越えでした。

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大名小路への戻り道の右手は「旧邸地区」と呼ばれてるそうで、

広大な生垣に囲まれた敷地などが並でいました。

昔、学校があったと聞きましたが、詳細は不明。

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大名小路を横切り坂を下って、旧中山道へ戻ります。

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しばらく宿場の街中を左右の家屋を楽しみながら足を進めます。

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左手に、境内に石塔に刻まれた六地蔵があったので天台宗安楽寺」かな。

どんなお寺かは調べても??

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安楽寺の対面、街道右手の坂上に赤く塗られた山門は時宗碓氷山・長徳寺。

時宗のお寺とは珍しいですね。山門前に文字青面金剛塔(庚申塔)がありますが

ご由緒などは不明でした。

時宗と言えば総本山は、東海道の旅でもお参りした、東海道藤沢宿

遊行寺(ゆぎょうじ)」の名で親しまれてる「澤山 無量光院 清浄光寺

ですね。

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長徳寺を出て、右手の路地に入ってゆくと、そこは医院の駐車場でした。

道にでてすぐ右手に長徳寺から見えていた赤いお堂。

上り参道らしき道は、そばの民家の方が駐車場にしてる。

庚申塔道祖神が並び、廃棄物などが見られる荒れた参道?で冬桜が

ひっそり咲いてました。

参道を上ると、そこに祀られていたのは稲荷神社でした。

鳥居は普通のコンクリート造りだったので、稲荷神社とは気が付きませんでしたね。

 

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道に戻ってすぐ稲荷神社裏手は、明応年間(1492年~1501年)の開山で、

開基は安中忠親の母・法昌院と言われる日蓮宗・蓮久寺、安中鬼子母神

総本山は甲州(山梨)身延山久遠寺かな。

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道の突き当り、広々とした大地に大きな伽藍の久光山・妙光院。

由緒は不明だが、859年の開山ともいわれ、安中藩板倉家の祈願所であった。
墓地には、新島襄(後述)の祖父・弁治と弟・雙六の墓があるそうで、

新島家の菩提寺か?

なお、新島襄の両親(民治、とみ)の墓は、襄とともに京都にある。

新島襄はあの同志社大学の創設者ですね。安中宿では頻繁に名の記された史跡が

現れます。

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南へ坂を下り旧中山道・県125へで戻ります。

250m進むと右手に大きな石倉造が見えてきます。

天保3年(1832年)創業の老舗、醤油醸造の蔵元・有田屋です。

*有田屋HP*

http://www.aritaya.com/frame/frame_kuramoto.html

向かいに明治5年(1872年)有田屋当主が私財を投じて創設した、

日本初の私設図書館の便覧舎跡(市指定史跡)。建物は火災で焼失、碑のみ。

尚、明治11年(1878年)新島襄から地元住人が洗礼を受け、信者となったのも

この便覧舎で、安中教会発祥につながるそうです。

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有田屋から100mほど先、信号手前右に、おっ、狭山茶

田島屋本店の店舗でした。横の蔵がいいですね~。

狭山茶は埼玉が誇る、我が町の特産品、おいしいですよ~!!

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先の信号を左手に入り、すこし戻る感じですが、曹洞宗・龍昌寺へ。

龍昌寺は、明治7年(1874年)新島襄が宣教師として帰国後、初めてキリスト教

講演をした寺院だそうです。

ははは、お寺の住職は太っ腹!

その4年後に、便覧舎で地元の信徒に洗礼を授けたんだそうです。

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境内の参道の左右に(和合の鐘)と言われる、108の梵鐘が並んでいます。
備えの開運小槌で「過去・現在・未来」と3回撞いてお参りするんだとか。

備え付けの小槌は持ち帰りもできるんですよ。

解説板に書かれてました。

「開運小槌は一年間各家庭の仏壇、または床の間におまつりし、おかえしください。

その一年間に煩悩生づる時小槌で頭をたたいて下さい。心身の病を癒やすことが

できます」 お返しに1年後これればな~・・・・・これたらお礼参りだね。

順番にたたいてゆくメロディーが流れる・・なんて、どうかしら、てカミさん。

おっ、それもまた楽しだねなんて、失礼しましたお住職様。

 

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龍昌寺を後に旧道に戻ります。おや、こんどは田島商店です。

田島とついたお店が何軒か見かけたので、一族かな?

f:id:hansui:20161212183054j:plain300m程進んだ左手「安中上野尻郵便局」の駐車場隅にポツンと石碑が建ってます。近寄ってみると「安中大木戸跡」で、上ノ木戸跡(京口)かな。

AM11:10、江戸から15番目、安中宿を後にします。

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 旅は江戸から16番目、松井田宿へと足を進めます。

少し風は強くなったようです。帽子を深めにかぶりなおして歩きます。

 

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