歩いて再び京の都へ 旧中山道夫婦旅  (第15回)  沓掛~岩村田 後編

*ひょいと歩き出した東海道五十三次
途中で、断念かの肝臓癌をなんとか乗り越えて、京の三条大橋へ到着。
勢いをかって「歩いて再び京の都へ」と乗り出した中山道六十九次。
またまた腹部大動脈瘤、心臓動脈硬化、そしておまけに腹部ヘルニア。
挫折しそうになりながらも、カミさんの支えもあって、またまた乗り越え
旅の再開。
そんな、じじばば道中ブログです。*
 
9月19日(火)再び街道旅へ。
沓掛宿(中軽井沢)を旅立ちました・・

追分宿の「分去れ」より、旧中山道は国道を横断し左に入り、
「笑坂」と呼ばれる長い坂を下っていきます。 笑う坂?  続きます・・

 

後編 f:id:hansui:20170927200513j:plain

分去れから300mほど国道18号の右側を歩き、横断歩道の有る信号交差点で

左に渡り分岐する道に入る(写真左上)とすぐに、

左手からの旧中山道(写真左下)に復帰し、右手にゆるく曲がりながら街道は

長~い長~い下り坂へ(写真右)と進みます。

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そうです、ここからが「笑坂」。

追分宿から次の小田井宿まで、約1.3里(約5km)標高差220m

さらに岩村田までも下り坂で、10km近い坂が続いてます。

京から江戸へ向かう旅人は、大変なダラダラ上りとなる。

街道を登ってきた旅人が追分宿の燈火を見て、

笑みをこぼしたので「笑坂(わらいさか)」と呼ばれたという。

(今旅人は下りましたが、それでも笑い坂、実感です)

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現在、このあたりは西軽井沢と呼ばれ、追分笑坂上の別荘地として開発されています。

浅間山を背に、前方に見え隠れする蓼科、美ヶ原を眺めながらゆるい坂が続きます。

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およそ1kmほど歩いた軽井沢町追分と御代田(みよた)町との境目に,

左手に細長い貯水池様の水路が見える。

浅間神社前なども流れがみられた御影用水路で、
水源である千ケ滝から、40kmも離れた御影新田に至っても水温が低いため,
川幅を広げた水路を作り水温を温めようとする施設「千ヶ滝湯川用水温水路」です。

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街道書によれば、
「慶安3年(1650年)に柏木小石衛門なる人物が開削した、長さ約16里にも及ぶ
農業用の水路です。
現在のものは戦後、約21kmにわたって改修し、軽井沢町の千ヶ滝と湯川を
水源とし、御影用水路、岩村田用水路に分かれ、約21kmに及ぶ用水路により
導水しています。
浅間山の中腹を水源とした河川で、雪解け水や湧水が中心なので水温が低く、
稲の生育には不向きな水だったのですが、この冷水を温めるため、
延長約934メートル、幅約20メートル、水深約20cm、勾配2,000分の1の水路(人工の池)が作られました。この水路は日当たりの良い場所に傾斜が小さく作られていて、太陽光によって水温を上げようというものです。
 この温水路で水温は1.5度上昇すると言われます。」
稲作には、1.5度でも大きな影響が有るんですね。
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しばらく下ると、木々の陰に観音像が立っています。

なぜ観音像?

側に石碑が有りますが判読できなかったです。

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追分から入った街道には、所々に中部北陸自然歩道の木道標が建ってます。

この三叉路には標識板があり

「小田井 3.4km,塩名田宿 13.5km,追分 1.8km」

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街道歩きでは道端の野草や木々、沿線のお宅の庭に咲く花々が楽しみの一つで、

旅の疲れを癒してくれます。

珍しいかな、白と赤のゲンノショウコが同じ場所に咲いている。

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秋桜が方々で咲き誇ってます。

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過保護!!

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右手に大山神社です。古い木の鳥居が印象的です。

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民家角の入口標柱を目印に、街道から少し右に入と、

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江戸日本橋から41里目の一里塚、「御代田一里塚」がほぼ原型を留めたまま

残されています。(40里目の一里塚「荒町一里塚」は位置が不明の由)

寛永12年(1635年)に中山道の改修工事が行われたのですが、

そのとき中山道のコースが一里塚の外側に変わってしまったのだそうです。

その後も道路工事等に遭わず昔のままに残ったという一里塚です。

こちらは直径13メートル、高さ5メートルの西側(進行方向右側)の塚で、

東側の塚(うかつにも確認しませんでした)も同様の規模だそうです。

この一里塚には立派な枝垂桜の木が植えられていて、桜の季節には満開の枝垂桜の

向こうに浅間山の姿が見えるという、思わづパチリと写したくなる風景でしょうね。。

 

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浅間を背景に西塚

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御代田一里塚跡を出てすこし下ると、“しなの鉄道”の線路で分断されます。

ここには地下道があり、旧中山道はこの地下道を潜って行きます。

右に行くと御代田駅があります。

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地下道で鉄道を越えると東西への道に出、右の栄町信号のT字路を

左へ曲がって行くのが街道ですが、電車や路線バスの時刻などを確認のため

そのまま300mほど先の御代田駅南口へ向かいます。

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駅近くの街路樹、ナナカマドの実が日に当たり真っ赤に輝いてます。

故郷北海道では普通に街路樹として植えられてますが、本州では珍しいですね。

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駅へ着き時刻表などを調べ、ちょうど昼近いので食事ができるところ・・なし!

連休後の火曜日だから?お店はみんなシャッターが閉まってます。

こんな時は、バス停ベンチをお借りして、いつも持参の栄養補助食品とバナナで

代替え昼食。

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長い下りで負担がかかったのか、足指に軽い痛みを感じ、

念のためテーピングで応急処置。

今日の予定はあと約6kmの岩村田宿入口まで、さらに下り坂。

ここで足止めなら、しなの鉄道で中軽井沢へ二駅。

「テーピングで痛みは大丈夫そう。

  時間は早いからゆっくり歩きで、先へ進もう」

カミさんはちょっと心配そうだったが、

最悪、タクシー利用してもいいわ、と駅前のタクシー会社の電話番号をメモ。

30分ほどの足休めで、栄町のT字路から街道へ復帰、南下します。

(右手が駅への道)

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  <栄町>から中山道の標識に従って南下する。
 くっきりと青空に聳える浅間山を背景に下る道は、前方にはいつの日にか越える

和田峠の美が原の山並み。

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左側に、長い階段状板塀、敷地内にはマンションもある大きな屋敷があります。

むかし、このあたり一帯の名主を務めていた?

f:id:hansui:20170928155931j:plain追分宿の標高が約1,000メートルで、このあたりの標高は約790メートル。

だいぶ下ってきました。

振り返って浅間山

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長野県道137号にぶつかる、小田井上宿交差点。

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手前に右手に御嶽山、八海山やらの石碑が

沢山並んでいます。

f:id:hansui:20170928163225j:plain交差点を渡った先が、小田井宿の江戸方の下木戸の跡で先が桝形になってます。

ここから小田井宿に入ります。

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桝形の左手に小田井宿案内板と小田井宿地図板があります。 

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小田井宿とは、中山道六十九次のうち江戸・日本橋から数えて21番目の宿場です。

天保14年(1843年)の記録によれば、町並みは8町40間。

小田井宿の宿内家数は107軒、うち本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠5軒で

宿内人口は319人の規模の小さな宿場です。

参勤交代などで、大名が北国街道との分岐点でもあった追分宿で宿をとる際,

小田井宿は,盛り場もほとんど無く、女性が安心して利用でき、

姫君や側女たちの宿にあてられることが多く「姫の宿」とも呼ばれた。

皇女和宮もここで昼食休憩していそうでする。

「姫の宿」と呼ばれるように、昔も女性達から人気の静かな佇まいの

宿場だったそうで、その面影が今も色濃く残っています。 

宝永元年(1704)から岩村田藩内藤氏の領地でした。

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小田井宿の街並みは非常に良く保存されていて、現在でも街並みの半分は

江戸時代からのものだそうです。

本陣跡、上・下問屋跡、旅籠などのほか用水も当時のものが残されており、

案内板も設置されています。

現在用水路は道の片側に移されているが豊かな水が流れていた。

昔、このあたりの住民達は鉄道(信越本線)の通過に反対したそうで、

そのため発展から取り残されてしまったのですが、

そのため往時の宿場の面影は残っているとのことのようです。

小田井宿は東西に桝形,道路中央に用水路,東から上・中・下の宿

(どういうわけか順番が普通と異なる)。

 

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左手にお地蔵さんが祀られてます。

「おはる地蔵」です。

江戸時代の話ではありませんが、説明板によると

“おはる”とは“安川はる”さんという実在の人物のことで、明治36年(1903年)、

小田井に生まれ、当初は小学校教員をしていました。

高価な肥料が買えない農民に安い肥料を提供するため、ゴミと人糞から燻炭肥料を

作る「安川式肥料燻炭炉」を発明した方なのだそうです。

「安川式肥料燻炭炉」は副産物として高価な7種類の薬品が摂れることから

経済的に大変優れた発明として期待されたのですが、安川はるさんが難病にかかり

計画を中断。

戦後は小学校の全教室へテレビを寄付するなど地域に大変貢献しました。

生涯独身で人々のために献身的な活動をして、

平成3年(1991年)、89歳で永眠なさいました。

このように地域に様々な貢献をしたということで、地元の方々が

安川はるさんの功績を称えて「おはる地蔵」を建てたということのようです。

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左手に「宝珠院」の案内板があり、寄り道へ。

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宝珠院は本尊は聖観世音菩薩。

正徳年間(1711~15)に本堂が建築された。
風情あるかやぶき屋根の鐘楼。

そして樹齢300年とも言われる枝垂れ桜と手入れの行き届いた

二本が寄り添った赤松。

どちらも御代田町の天然記念物に指定されています。

手入れの行き届いた、素敵なお寺でしたね。

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街道に戻ると向かい右手側に、小田井宿の本陣跡(現安川家住宅)です。

本陣の客室は1756年に建てられた当時のままだそうで、

 安川庄右衛門が勤め,建坪195坪,屋根は元来茅葺置き。宝暦6年(1756)に大規模な改修が行われている。客室は切妻造りで式台・広間・三の間・二の間・上段の間・入側などが原形を留めているという。現在,非公開で見学はできない。

宮家や公家等の姫君が泊まることが多かったため、姫の宿(姫宿、ひめじゅく)とも

いわれていたそうです。 

文久2年(1862)、和宮がここで休憩している。

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小田井の町では毎年8月16日に「小田井宿まつり」が開催されています。

中山道と言えば、皇女和宮の降嫁の行列です。

文久元年(1861年)、皇女和宮が第14代将軍の徳川家茂に降嫁する際の一行は、

お供や警護の者を含めると総計でおよそ8万人にも及ぶ空前絶後の規模でした。

この佐久地域では八幡宿と沓掛宿に泊まり、小田井宿では昼食を摂りました。

その際、給仕をした少年の安川時太郎に御所人形が贈られました。

これにちなみこの「小田井宿まつり」では、皇女和宮から拝領した高さ8cmの

ふっくらとした姿の唐笠を被った童子の人形を籠に乗せ、

当時の行列が再現されます。(街道資料より)

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小田井宿の問屋(といや)跡です。

小田井宿には問屋が2ヶ所あり、これはその1つで、本陣と同じく安川家のものです。

江戸時代後期(享保・文化年間)に建てられたもので切妻造りで、

屋根は板葺(現在は防火のために鉄板葺に改修)。荷置場・帳場・客室部・廐・

土間などがよく保存されているそうです。

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脇本陣「すわまや」の跡です。建物は現存してなくて、民家の庭先に案内柱だけが立っています。

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旅人もう1つの問屋は尾台家のものです。明和9年(1772年)の大火以降に建てられたもので、こちらは白壁で綺麗に保存されています。

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宿内のバス停待合室、良いですね~・・

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小田井宿 は観光地化せずに、街道風情を持つ古い家並みがは2町(約220メートル)に

わたり街並みが続いていました。

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宿もはずれに来ると、枡形に曲がって終わりとなります。

ここが小田井宿の京方の入り口、上木戸があったところで木標識が建ってます。

(左)

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小田井宿を出ると右手には旅籠のような、古い家も残っています。

1階の庇屋根が落ちないよう、2階から吊って補強しているのかな?

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京方の入り口、中山道小田井宿の看板の少し先で、御代田小田井から佐久市小田井

になります。

小田井宿御代田町なんですね。

小田井宿を出て、次の岩村田宿を目指して歩きます。

小田井宿岩村田宿 1里7町 4.7Km

小田井下町の信号を越えた先には「馬頭観音」や「道祖神」などが1ヶ所にまとめられて立っています。

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小田井の宿からおよそ600m,<小田井南>で県道9号線に合流。

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 急に交通量も多いが、歩道がきちんとあるので、安心して歩けますね。

県道と合流してを進むと、右手に皎月原と呼ばれる草地が広がり、

石仏等が沢山残されていて、近くには咬月古墳もあると街道資料にありましたが、

お喋りをしていて通り過ぎたようです。

この写真奥がそうだったようですね。

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 さらに進んで<横根入口バス停>の左手に木の茂った小高い丘が見えてくる

「鵜縄沢端(うなわざわばた)一里塚」でした。

江戸から42番目,中山道開設当初に設置された一里塚である。

寛永12年(1635)に中山道の大改修が行われたため,

街道の東に置き去られた形となった。東塚のみ現存。

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一里塚を過ぎると左手はリンゴ畑が広がり、何種類かのリンゴが

実りの季節を迎えてました。

無造作に枝が歩道まで張り出し、ひょいと手を出せば・・・

くぐるように通過します。

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岩村田橋で上信越自動車道の上を通り振り返ると、浅間山が大きく姿を見せてます。

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この辺りは佐久インターができたので、左新しいスーパーや大型店などが続いて

ます。

洋菓子ショップの大きなアイスクリーム看板を見て、ちょいと魅かれて足休めに。

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佐久IC東交差点を越えると左手に千手観音石碑などの石仏があり、

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 その先に「住吉神社」が有りました。

このあたりが岩村田宿の江戸方の入り口でした。

境内には、溶岩で出来た常夜灯と、落雷のため中に大きな空洞が出来てる、

樹齢400年と言われる大きな欅(けやき)の木があり、

また天明年間(1781~1788)に祀られた、男女二体像の道祖神など多くの

仏塔があります。

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小田井宿岩村田宿 1里7町 約4.7Km

沓掛~ 岩村田 3里20町 約14km
岩村田宿は江戸から22番目の宿です。

岩村田藩内藤家1万5千石の城下町であり、商業の町でした。

城下町であったので、堅苦しい城下町の雰囲気が嫌われ、大名や公家は泊まらず、

旅人もあまり寄りつかなかったと言われています。

本陣、脇本陣はなく、旅籠も最盛期で8軒のみと小規模の宿場でした。

本陣、脇本陣の代わりとして龍雲寺、西念寺、法華堂などがが利用されたようです。

 

住吉神社の少し先道路の右向こう側角に「従是善光寺道」道標だ建ってます。

これは平成8年に復元建立したもので、江戸時代の道標は交通事故で破損したため、

修理されて住吉神社に移設してあるそうです。

住吉神社境内に入って、溶岩の常夜燈の側に立ってましたね)

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風情ある屋敷も左手に見ながら、 道は緩やかに左にカーブして

岩村田宿に入って行きます。

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立派なお屋敷ですね。左倉造りは会社名のプレートが架けられてました。

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その先、左側に龍雲寺、武田信玄公御墓所と彫られた大きな石柱があります。 

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参道を行くと、正面に総門が建ち、正門は総門右手奥(住宅側)になります。
総門には正親町天皇の勅額「東山法窟」(東山道第一の道場)が掲げられている。

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 街道資料より、

龍雲寺は曹洞宗の寺院で山号は太田山。

当初は正和元年(1312年)に鎌倉時代からこのあたりを支配していた豪族・大井氏が

開いた曹洞宗の寺です。

かつての大井庄で、その中心がここ岩村田でした。

現在の寺院は、戦国期後期に武田信玄が佐久に進軍し大井氏を破った後に

再建されたものです。

武田信玄の帰依が熱く、信濃路に出兵する際は必ず詣で戦勝祈願をした。

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堂々たる山門ですね。

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本堂

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武田信玄が京を目指して上洛の途上、病気が悪化して死去した際、

その死を秘匿するために遺骨を生前信玄と親しかったこの龍雲寺に運び、

ここに葬られたとされています。

昭和6年(1931年)、ここで発見された骨壷から骨と短刀、袈裟環が出てきて、

これが武田信玄の遺骨であると確認されたとされ、境内奥のその骨壺が発見された

場所には「武田信玄霊廟」と「五輪塔」が建てられています。

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 (とありますが、信玄没にまつわる多々の説があり、異議があったようで

この龍雲寺の「武田信玄霊廟」は正式には国の史跡に指定されておりません)

信玄は「甲斐の国」ということでしょうかね?

龍雲寺を後にし、街道へもどります。

150mほど進むと、岩村田の交差点へ来ました。

交差点の先はアーケード商店街が続き岩村田宿の中心となりますが、

今日の旅はここまで、岩村田交差点で足止め します。

PM2:40  沓掛宿をAM8:00出立、

3里20町 約14kmをゆったり、のんびり6時間40分をかけて歩いてきました。

 

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栄泉・岩村田宿画、なんか変な宿画ですね?

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信号を右に折れる左手に大きな伽藍が見えてます。

浄土宗西念寺で、宗派なのでお参りに立ち寄り。

山門を入るとすぐに、12本の柱に支えられた立派な楼門が建ち、
正面が本堂です。

創建は弘治元年(1555)、武田信玄が開基となり岌往上人(出生不詳の甲州の名僧、京都知恩院二十一世)が開山したのが始まりと伝えられています

街旧岩村田領主仙石秀久、内藤正国の菩提寺。苔むした五輪塔が400余年の歴史を

偲ばせ、本尊阿弥陀如来座像が県宝に指定されている由。

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電車の時間が有るのでお参りだけ済ませ、境内の散策は次回によることにして

お寺を後にしました。

交差点を右にお折れて約500mほど行くと、JR小梅線の岩村田駅です。

小海線(こうみせん)は、山梨県北杜市小淵沢駅から、長野県小諸市

小諸駅までを結ぶJR東日本鉄道路線

八ヶ岳高原線」の愛称が付けら、日本百名山八ヶ岳南麓の高原を走ります。

途中に日本最高所の駅、野辺山駅や若い方々に人気のリゾート地、清里もありますね。

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終点小諸駅で、しなの鉄道へ乗り換え、中軽井沢駅へ。

中山道夫婦歩き旅、第15回 おわり。