歩いて再び京の都へ 旧中山道夫婦旅   (第17回)  望月宿~長久保宿 後編

*ひょいと歩き出した東海道五十三次
途中で、断念かの肝臓癌をなんとか乗り越えて、京の三条大橋へ到着。
勢いをかって「歩いて再び京の都へ」と乗り出した中山道六十九次。
またまた腹部大動脈瘤、心臓動脈硬化、そしておまけに腹部ヘルニア。
挫折しそうになりながらも、カミさんの支えもあって、またまた乗り越え
旅の再開。
そんな、じじばば道中ブログです。*

10月17日(火)長雨の隙間、次第に晴れる予報を頼りに、
 簡易雨コート着て、AM8:30、第17回の旅立ち。

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笠取峠頂上(標高は約900mかな)で、北佐久郡立科町から小県郡長和町

入りました。

後編です。

やれやれ、笠取峠の下りに入ります。

素朴に響く「峠」の言葉とは全くイメージが違う、大型トラックがびゅんびゅん

行き交う幅広い国道。

それでも茶屋を見て、ほっと一息したであろう、昔の旅人気持ちを感じます。

 

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道路の反対側には「学者村」?という興味を引く名称の石碑が立っています。

「学者村」とはこのあたりの長野県長和町の町営別荘地の名称のようです。

別荘地のためか、ログハウス専門の建築業者があります。

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道を下って行くと、峠乃茶屋、笠取峠と書かれた常夜燈、長野県知事吉村午良書の

笠取峠石碑が建ち、「ふるさと交流館 芦田宿」に展示されている笠取峠立場図の

レリーフが斜面の擁壁に埋め込まれている。

レリーフに描かれている立場茶屋は、国道142号線の笠取峠よりも数メートル

南に位置していたようで、峠の坂道を走る飛脚、峠の平地に建つ数軒の茶店で

休憩をとる旅人、武士、駕籠かきなどの姿が描かれている。

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とんとんと下ると、えっ、こんな所に?の「ペットショップ」

ああ、付近は別荘地帯だから・・f:id:hansui:20171020155950j:plain

さらに下ると「中山道」の案内標識があり、ここからは国道142を離れて、

右側旧国道に入っていきます。

この旧国道は、結構な急坂で、右に左にとヘアピンカーブを繰り返します。

(だいぶ前になりますが、一度だけ車で登りを走ったことが有ったね)

中山道は旧国道を進むのではなく、急坂のヘピンカーブで下る旧国道を
串刺しするようにショートカット下りの、中山道源道と言われる山道になります。

 

資料を見ながらカミさんは、さっさと旧国道の方へ。
つられて老いては妻に従え、後をついて二人とも道を下ります。

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だいぶ下った曲がりふきんで「変ね、左の源道標識が無いわよ!」ともう一度
街道書を確認。
見落としたようだな、でもすぐに合流するからこのまま行こう。

(後で写真を見ると・・赤〇源道標識 赤線進路方向へ入るんでした)f:id:hansui:20171020161123j:plain

 

 

ヘアピンカーブを曲がると下ってくる源道と合流。

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中山道笠取峠原道」と書かれた木柱が立てられ、樹齢150年といわれる

桜の大木。

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ここから、つづら折りになった旧国道を少しだけ下り、再び源道の標識に従って、

踏み跡感じの草道を下ります。

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朝まで降った雨ため小川のせせらぎ状態の道を下り、再び旧道に。

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いったん国道142号線と合流し、すぐに右の旧道へ入っていきます。

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しばらく旧道を行き、

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現れた標識に従って旧道から脇道へと入って行き、更にガードレール切れ目から

すとんと石段を下ってショートカットでぐんぐん下りが続きます。

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民家前の土手道を下り、再び旧道を横断、「松尾神社 長久保宿」と書かれた

標識に従いガードレールの切れ目から石段を下ると、長久保宿松尾神社の境内に

出ました。 

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1時間少し掛かって登った笠取峠も、源道のショートカットで直線的にぐんぐん下り、30分ほどで裏から松尾神社に入ります。

中山道は裏から境内を通って続いて行くようです、なぜかな??

松尾神社は 拝殿の由緒書きによると、

以前は、長久保の町裏、大欅の森にに鎮座していたが
小学校の拡張のため、昭和33年に現在地に移転したようです。

中山道が通っていたところに、後から神社が移って来たと言うことか。

これで、旧中仙道の境内通り抜けが納得です。

f:id:hansui:20171020175953j:plain松尾神社は、京都の松尾大社の祭神「大山昨命(おおやまくいのかみ)」を分霊し、

酒造の守護神として近隣の酒蔵家の信仰を集めているという。

(茂田井宿の酒造元なども笠取峠を越えて参拝したのではないでしょうか)

文政10年(1827年)に再建された拝殿。

左には樹齢200年と推定される御神木の保存樹、椹(さわら)の大木が、

頭上高くそびえ立っています。

(最近上の方は枝払いをしたようです)

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本殿

拝殿の後方、斜面に廊下があり、少し高い場所に垣に囲まれて流造の本殿がある。

諏訪の宮大工・三代立川和四郎富重の建築で万延元年(1860年)再建。

沢山の彫刻が彫られてるそうですが、薄暗くて見えません。

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松尾神社の創祀年代は不詳だそうですが、ちょっと調べたところ、
正親町天皇弘治3年(1557年)に再建された記録があると言われ、

数百年の歴史のある古社であろう。との記述が有りました。

社殿の右手に境内社が並んでおり、その横に塞神などの石祠。
境内社は左から、市神社、産泰社、伊雑皇社、金比羅社、八幡神社、白山社、

白山神社

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境内社の鳥居手前にちょと変わった注連縄が架けられた、2本の「御柱」が立って

います。

木札に「注連縄掛木建立 平成25年 松尾神社皇大神宮 式年遷宮御柱」と

記載されてます。注連縄をかけるための御柱なんですね。

御柱などの行事についてはよくわかりませんでした。

鳥居の原型なのでしょうね。

(前々回の、上、下の諏訪大社と小川村の御柱祭りの里曳に行ったことがありました)

 

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本殿の左手石段のうえには山神社と社名未確認の境内社

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五十鈴川を松尾橋で渡ります。

「あら、伊勢神宮のところを流れている川も五十鈴川だったわ、」て思い出す

カミさん。

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長久保宿本陣の石合家から寄進された、赤い鳥居を潜ります。

鳥居を抜けた先に、常夜灯と松尾神社の案内表示板が立っています。

このあたりが長久保宿の江戸方の出入り口でした。

 

 

 

 

 

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 長久保宿へ入って行きます。   

長久保宿長窪宿)は、慶長七年(1602)の中山道制定にともない、小県郡

領した真田氏の配下で、本陣・問屋を勤めた石合氏、問屋を勤めた小林氏が

中核となり、当初は現在の位置より西下の依田川沿いに宿場が設けられました。
しかしながら、寛永8年(1631年)の大洪水により宿場が流失したため、

段丘上の現在地に移り、本陣・問屋を中心に東西方向に「竪町」が形成され、

後に宿場が賑わうにつれ、南北方向に「横町」が形成されていき、特異なL字型の

町並みとなりました。

(資料館のパンフより)

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お江戸日本橋から27番目47里24町(187.2Km)、
       京へ88里10町 (346.7Km)
 天保14年(1843年)中山道宿村大概帳によれば、

総家数187軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠屋43軒、人口721名、
最盛期には旅籠の数は43軒となり、信濃26宿のなかで塩尻に次ぐ宿場でした。

江戸方に笠取峠、京方に和田峠、更に茅野に向かう大門道の大門峠などの

難所を控え、大内道、北国街道の分岐する交通の要衝に位置していたことから

大変賑わったといわれます。元々は長窪宿と表記していた。

広重画 長久保(大門川の落合橋と言われてます)

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木梯子でのぼる納屋の二階、軒下の藁、なにか懐かしい気持ちになります。

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 けっこう急な坂道を下ると、昔の屋号を掲げた家々が見られます。

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右手に丸木屋です。

江戸時代末の旅籠を改修し、現在は地域交流センターとして開放されています。

f:id:hansui:20171020213915j:plain竪町に入るとすぐ左手に、旅籠建築に多く見られる、総二階建て出梁造りの大きな

建物があり、一福処「濱屋」です。

明治時代の初期に旅籠として建てられたが、中山道の旅人が減ったため開業に

至らなかったという。

旅籠建築の歴史的建造物として後世に伝えるべく、町に寄進され

現在は無料の休憩所を兼ねる「長久保宿歴史資料館」になっています。

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中に入ると入り口に、来訪者記名簿があったので、記名。

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一福処「濱屋」長久保宿歴史資料館を出て、長久保宿の中心部へと入っていきます。

右手に、寛永年間(1624~)の建築とされ、中山道最古の本陣という

石合家本陣。

表門や大名の泊まった御殿の間が今も昔のまま現存するという。

当時の当主石合十蔵道定は周辺を支配した土豪で、真田家の家老職を勤めたが、

関ケ原敗戦後帰農したと言われます。

石合家が本陣そして問屋場も勤め、四代目当主石合十蔵には真田信繁(幸村)の

娘が嫁いでいる。

長久保宿歴史資料館には、慶長20年(1615年)石合十蔵あてた真田信繁(幸村)

の手紙が展示されてました。

要約では

「私ども籠城の上は必死の覚悟でおりますから、この世で面談することはもうない

かと存じます。 この「すへ」いろいろと御心にかなわぬことがございましても、

どうかお見捨てなきようお頼み申し上げます」。
死を覚悟の親の、娘への愛情・・いいですね。

 

本陣御殿は上段の間、二之間、三之間、小姓部屋などが今も残り、格調高い内装も

含めて、現存する中山道最古の本陣遺構と言われている。

現在も石合家の住まいで、公開はされていないです。

写真の門は江戸時代末期の建築だそうです。

 

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本陣の隣には高札場が復元されている。

大きいですね。

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高札場を過ぎて街道はもう少し下って行きます。

左手に古久屋の看板を下げた家屋が有ります。

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江戸時代、天保年間(1830~43年)頃の建築と推定される

旅籠「古久屋」(羽毛田家)です。

この時期の標準的な規模の旅籠建築として唯一現存する建造物で、

側面の壁の上部には旧主君・真田氏との関係を示す「六文銭」が描かれています。

二階の格子、屋号の吊ってある庇といい、江戸時代のその風情を伝えています。

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旅籠「古久屋」の手前の空き地と家屋の立つ敷地には脇本陣跡で、

示す標識が立てられてました。

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脇本陣の向かいは、江戸時代初期に酒造業を始め、長久保宿の役職も勤めた

釜鳴屋の竹内家です。

竹内家の建物は享保16年(1731年)以前の建築と推定される町家建築で、

屋根 には大きな「本卯建(うだつ)」をあげた風格ある構えの建物である。

このような卯建は“火煽り”とか“火返し”と呼ばれているそうです。

(卯建(うだつ)も街道旅や四国周遊で多く見かけましたが、この形は初めてでした)

 

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長野県最古の建屋と言われます。

敷地はなんと1500坪、建坪約百坪(330平方㍍)、もあったそうです。

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看板右手の縦格子戸中は、坪庭のような庭になってるようでした。

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釜鳴屋の斜め対面の建物は「問屋・小林家」。

宿場の草創期から代々「九右衛門」の名で問屋を勤めてきたのだとか。

建物は明治3年(1870)の大火で焼失しその後再建されたものだが、

2階の出格子が昔の面影を伝えている。

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宿場内の道が竪町から直角に左に曲がって横町に入る角に、現在も旅館を営業する

濱田屋が有り、今でも中山道を旅する人々に大変重宝されています。

中山道はこの先左に折れて、南北に通る横町を南へ進み和田宿へと向かいます。

(写真右)

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T字路の右折角には「中山道 長久保宿 左ぜんこうじ」と書かれた

道標が立っています。

このT字路の場所が善光寺へ通じる上田道との追分(分岐点)でした。

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今日はこのT字路が今日の歩き旅の足止めで、バスで上田経由で帰る予定でしたが、

長久保発のバス時刻に時間余裕があったので、濱田屋角を左折し長久保宿の外れ

ちかくのお寺まで足を伸ばします。

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横町をしばらく行くと旅籠・辰野屋竹重家の出桁造り総二階建ての建物が、

格子窓の重厚な佇まいを残し、江戸時代の旅籠建物の様子を伝えています。

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旅籠・辰野屋を過ぎたところで、宿場内の街道は桝形となって長久保宿の京方の

出入り口に当たり、右に曲がりすぐに左に折れて長久保横町交差点て国道142号と

合流します。

きょうはここで辰野屋手前を左へ入り、細い坂道を上り、峠から下って来た国道142を横断し、長安寺へ向かいます。

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創建は元和4年(1618年)依田川辺にあった宮昌庵(阿弥陀堂)を曹洞宗

道場としたのが始まりと伝えられています。

寛永4年(1627年)に当時の小諸城主松平憲良が開基となり

於大の方」(徳川家康の生母)の位牌を安置、さらに寛永7年(1630)

洪水で大破した堂宇を現在地に再建し、長安寺と改称しています。

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現在の経蔵は、江戸時代末期に建てられ土蔵平屋建て、外壁は白漆喰仕上げ。

明治4年(1871年)の火事で本堂他多くの堂宇が焼失する中、唯一当時の

建物として残されています。

経蔵の天上は格天井で、狩野派絵師の武重桃堂など多くの絵画で彩られ内部には

朱塗りの八角輪蔵で内部には大般若経600巻が収められているそうです。

残念ながら覗き窓もなく、中は見ることはできませんでした。f:id:hansui:20171021144023j:plain

長安寺をあとにして街道を戻り、長久保バス停へ。

長安寺境内から、この先足を進める山並みの先、和田宿方面を眺めます。

難所と言われる距離の長い和田峠越えが待ってます。

日本橋から北上し、高崎から西へと辿り、旧中山道はここから、

南へと向かうんですね。

 

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バス事務所で、長久保の駐車場について、アドバイスをいただき、

PM3:00発上田行バスに乗って

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 大屋駅で乗換、しなの鉄道、JR小梅線と乗り継ぎ、佐久平からマイカー

で帰路へ。

真田家つながりの宿場町、

昨年は街道沿いに、大河ドラマの幟が林立していたのかな~・ふっと思いましたね。

またいつの日か旅へ・・

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第17回、おわります