歩いて再び京の都へ 旧中山道夫婦旅   (第21回)  塩尻宿~贄川宿 中編

ぐ~んと冷え込み各地で降雪予報の19日(日)。

再び街道旅へと向かいました、の中編です。

 

*洗馬宿を後にし、JR中央線のガードを潜って中山道(県道304)次の本山宿へと向かいます。   

f:id:hansui:20171121164201j:plainガードを潜り尾沢川を渡ると、左手へ入る荒れた道があり、鳥居が見えてます。

道を入ってみると、川沿いに道は奥の山中へと続いてゆきます。

街道書では、

草道の参道を辿ると、国道19号を越えて尾沢川沿いに滝神社があり、

由来となった滝が落ちている、と記載がありました。

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尾沢川と言えば、宿にあった洗馬宿案内版に、「洗馬宿設立時、この尾沢川から

用水を引き入れ宿内に水を供給した」とありました。

上流の方から取水したと思われますが、滝神社と関係があるのかな。

街道に戻ると今度は登り坂となり、

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左の道路わきに新設された感じで「一里塚」の石碑と案内板が建ってます。

案内板には「牧野の一里塚跡、江戸より60里,京へ72里」とある。

塚の上?には旧牧野村公民館が建ってましたね。

 

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その少し上の斜面に馬頭観音や石塔が見えました。

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坂道を上ると平坦地となり、街道は穏やかなかっては立場茶屋が置かれたと言う、

牧野の集落を行きます。

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けっこうな頻度で中央線の特急電車が行き来してますね。

(各駅停は朝、夕中心に1時間に1本ですが)

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一里塚跡からおよそ1km,牧野信号で国道19号に併せ、しばらく

国道を歩きます。

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およそ約700mほど行き国道19号から離れ、ため池の有る右手へ道(県304)

に入ってゆきます。

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ため池の先、すぐの右手に「中山道本山宿 しののめのみち」と書かれた標柱が

あります。

「しののめみち」は塩尻観光案内誌には

「松本平の明け方の方向にある東山沿いの道。どこからでも美しい北アルプスを眺望できます。この道は塩尻市の本山宿にはじまり、延長50km。道沿いには多くの仏閣、神社をはじめ、温泉、史跡、宿場、高原などがあり、四季の彩りや鮮やかな自然と共に、訪れた人を魅了します」と記載されてます。

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そのすぐ先左脇に秋葉神社馬頭観音,お地蔵さんなど11体の

「石仏群」が並んでいます。(案内板によると、ここへ移設したそうです)

 

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軒下の飾り、いいですね~思わずパチリ、

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 畑の先に右へ入る細い道角に、池生神社社叢入口標識があり、

ここが本山宿の下木戸跡(江戸口)です

ため池近くにあった秋葉神社、石仏石塔群はかってはここにあったんですね。 

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手前に案内板、収穫の終わったそば畑奥に、本山そばの里(食事処)があります。

本山地域はそばの産地として知られ、宝永3年(1706)の雲鈴の隋筆[風俗文選]

に今風の細長い蕎麦になった「そば切り発祥の地」が本山であることが記載されているそうです。

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中山道を往来する旅人の舌を満たした蕎麦切りの技術は、ここ本山宿から全国へ

と広がりました。

時代の流れでその姿を消してい きましたが、その技術は家々に継承され、

平成3年、歴史ある蕎麦切りの里の復活を願う有志により、

地元産の蕎麦粉 100%を用いた蕎麦打ち体験もできる「本山そばの里」が

復活したそうです。

お昼も近いので、ここでお蕎麦を頂きました。

蕎麦掻もメニューにあったので、一人前だけとって食してみました。

(宿内のそば処はここだけだったような?) 

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付け合わせで出た、パセリの佃煮風が美味しかったて、カミさん。

(余談、蕎麦切りの発祥の地については山梨県だという説や、木曽の須原宿という

 説などもあるようですが、どれが正しいのか分からないようです)

さあ、宿内へ足を進めましょう。


本山宿は、江戸から数えて32番目の宿場。

天保14年(1843)に編纂された「中山道宿村大概帳」によると宿場は

松本平の出口、中山道木曽路の入り口として栄え、宿往還の長さ5町20間。
 人口:592人,家数:117軒,本陣1軒(小林家・下問屋と兼任)、

脇本陣1軒(花村家・上問屋と兼任)、問屋2軒、旅籠34軒が設置され京都からみると、松本藩最初の中山道の宿場町であったことから、口留番所が

置かれ人物改めや荷改めが厳重に行われ重要視されました

 

宿は南から上町・下町に区分され、中央には本陣・脇本陣問屋場がありました。
何度か大火に見舞われたが、現在残る建物は幕末から明治時代の建築で、
道に面して屋敷割りは、洗馬宿の3間間口に比べて4~5間の家が多く、
 各家には屋号が付けられ、当時をしのぶことができます。
比較的広い街道の両側に、倉や、「俵屋」など平入り出桁造り、千本格子窓の旅籠。

古民家にはそれぞれに屋号が付けられ、風情ある町並みが続きます。

(置き屋根造りの倉)

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古民家の左手、二本の木が立つ奥が、諏訪神社跡(合祀され本山神社となった)

 

 

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明治時代の大火でほとんどの建物が失われてますが、出梁造の町屋が点在し、

元旅籠の

秋山家(若松屋)(明治前期、木造2階建、切妻、鉄板葺、平入、出桁造)左奥、

田中家(池田屋)(明治前期、木造2階建、切妻、鉄板葺、平入、出桁造)中、

小林家(川口屋)(明治前期、木造2階建、切妻、鉄板葺、平入、出桁造)右手前

が国登録有形文化財に登録され、当時の雰囲気は感じることができます。

建物の並び方が斜交(はすかい)屋敷といい、家が道と斜めにのこぎり状に並んで

いるのがよくわかりますね。。

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向かいが、代々小林家が世襲した本陣跡。

文久元年(1861)の皇女和宮や明治13年(1880)の明治天皇御巡幸の際に

宿泊として利用され、特に皇女和宮が本山宿を宿泊した際には、松本藩が警備し

4日間で総勢8万人が宿場を通過しています。

(奥の雀おどり屋根飾りの建物は、子孫の方のお住いとか)

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左手は小林家が兼任していた下問屋跡

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本陣跡の宿場案内版

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案内板の隣には江戸時代からの水場が今もこんこんと流れ出ていました。

f:id:hansui:20171122162952j:plain 本山仲町バス停の左に、現在は公民館となっている「花村屋脇本陣跡」「上問屋場跡」

葉を落としたモミジがポツンと立ってます。

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街道は緩い下り坂となり、その先で大きく左手へ曲がってゆきます。

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右手に「口留め番所跡」
 本山は松本領としては木曽路入口の重要な場所であったので,番所を設け厳しく監視をしていた。年貢米が他領に流出しないよう,また関所同様,女人の通行手形改めもしたと云う。

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左曲がりの緩い坂道の左手土手上は廃寺となた 長久寺・常光寺の跡地で小公園に

なってます。

長久寺は慶応4年(1868年)、松本藩主がここで東山道軍(官軍)総督岩倉具定

に勤皇を誓うが、決定が遅いと藩主は謹慎、藩には軍資金、兵糧の献金と出兵が

命じられたと言われる歴史のお寺でした。

土手に沿って登って行くと、荒瀬不動尊があり石造群があります。

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f:id:hansui:20171122173313j:plain さらに奥の山へ、国道19号を跨線橋で渡った先に、本山宿江戸口近くにあった

諏訪神社と、八幡神社が昭和26年合祀された「本山神社」
社地には檜,松などの老木が多く,拝殿の後ろの神殿は本峰造り一間社流造りだ

そうですが、板格子囲いの建物に鎮座しています。

 

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本山神社から来た道を街道へ戻ると、石垣と街道の間に石垣に沿って入れる道があり、

すぐの石垣下に高札場跡、秋葉大権現、秋葉常夜燈があり、

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その先に大きな本山宿の看板が立ってます。

(この先は水路の橋で渡れないわよ!)

高札場跡が、本山宿の京方(西口)でした。
 

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坂道をくだり、左手で国道19号との出会いです。

両側に山並みが迫り、信濃路からいよいよ木曽路へと近づいて来たようです。

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 広重が本山宿として描いた場所の特定には諸説あります。

最も有力な説は本山宿の西(京口)の外れを、宿方向に向かって描いたというもの

です。

「街道は上りから下りにちょうど切り替わっています、本山宿の宿並は東(江戸口)から上り坂の中に構成されています。

これが宿の外れで下りに変わります、ここが正に広重が本山として描いた場所といわれる根拠です。

強烈な野分の後でしょうか、松の大木が横倒しになり、丸太で支えられています。

その奥にはすでに切り倒された切株があります、斧ではなく、木挽き(こびき)に

よって倒された痕跡を残しています」

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続きます。