歩いて再び京の都へ 旧中山道夫婦旅   (第21回)  塩尻宿~贄川宿 後編

*ぐ~んと冷え込み各地で降雪予報の19日(日)。
再び街道旅へと向かいました、

坂道をくだり、左手で国道19号との出会いです。
両側に山並みが迫り、信濃路からいよいよ木曽路へと近づいて来たようです*

 

の後編です。

 

本山宿を抜けて坂道を下ると、左手からの国道19号に合流し,

しばらくの間、国道とJR中央西線の間を歩きます

ほんらいは左手の山の高巻き道や、釜の沢越えと言われる捲き道迂回旧道があった

ようですが、今は通行不能となってるそうです。

(青く塗られた小屋前が出口かな?)

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中山道は先の右手、砂利道に入り、工場側へ第2中仙道踏切を渡ってゆきまし。

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踏切を渡ったところの工場横に、「日出塩の青木跡」の道案内板が立ち、貴人の塚

と言われる上に大桧があって,

「洗馬の肘松,日出塩の青木,お江戸の屏風の絵でござる」

         と唄われた銘木があったと記載されている。

  案内に沿って工場の裏へ回ると・・・若木と碑がありました。

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「あら、白いものが、雪じゃない!!」びっくりしたようなカミさんの声。

見回すとちらちらふわふわ、白いものが!なんと雪が降って来たんです。

降ると言うより、風に乗って舞ってるような・・

空には青空もあり、雲の流れで日差しが射したり曇ったりです。

少し先で,国道から分かれた日出塩(ひでしお)集落に通じる車道に合流,

再び右手に分かれ細い道を行くが,すぐに先ほど分かれた道に戻ると,

道の左手に江戸から61里,京へ71里、標柱のみの「日出塩一里塚跡」が

現れます。

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ここからは、本山宿と先の贄川宿の間に置かれた「立場茶屋」があった旧日出塩

集落になります。

熊の毛皮や熊の肝などを商っていたそうです。
左手に、洞宗秀永山長泉院。

門前に庚申塔など石仏・石碑,六地蔵などが並んでます。

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日が差してますが雪が舞ってます。

前方の木曽谷方向は山間が少し霞んでます。

f:id:hansui:20171123111211j:plain日出塩は地元の「節分草を育てる会」が、節分草を大切に守り育てているそうです。

日出塩駅の北側に「桜の丘公園」があり、公園内にも節分草を育成しているエリア

があるのだそうです。

咲く季節の通る機会があったら、公園へ寄ってみたいですね。

左手へ入るとJR日出塩駅、時刻はPM1:20でした。

今日の街道旅の「二番目」の目的足止め地にしていたのが、ここ日出塩駅前、

塩尻駅から約12kmでした。

第一の目的足止め地にしてるのは、ここから5km先の贄川駅前。

青空があるとはいえ、木曽谷方向の左側は雪降りか、霞んでいます。

雪も降ったり止んだりの気象・・さて進むべきか、足止めか・・・

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JR贄川駅からの塩尻駅へ戻る列車の時刻は、PM4:06、あと2時間40分

「雪は舞ってるけれど、ほとんど風はない」

「この分なら、先へ進めそう」とカミさんと意見も一致、小雪舞う街道旅を続けます。

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集落外れ下り道に道祖神・筆塚・秋葉大権現などの石塔群。

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坂を下り国道19号のガード下を抜けると、左手に線路ガードを潜る道があり、

日出塩の鎮守、熊野神社があるようです。

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街道はそのまま進んで国道に合せず、斜め右手の細道へ入り、国道19号の高架を

潜り国道右側の歩道帯に合します。

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いよいよ木曽路、木曽谷間の街道旅となって来たことが強く感じられます。

左手山裾にはJR中央線、一段下がって国道19号。

歩道右手は急斜面の落ち込みで、下には奈良井川、と山裾。

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600mほど進むと右手に江戸初期中山道の解説板が立ってます。

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先に見える建物の手前から、左手の山(峠)へ通じる県道254があり、
これが慶長6年(1601年)大久保長安によって整備された、下諏訪から

岡谷を経て三沢(小野)峠を越して小野へ出て、牛首峠を越してここに出た
「初期中山道(古中山道)」です。

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大きく左へカーブする右手はトンネル工事現場になってます。

いずれは谷沿いの国道はトンネルで短縮されるのでしょう。

大きな「木曽」の文字が入った看板が立ってます。

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急カーブを曲がると奈良井川に注ぐ旧境川(桜沢川)に架かる桜沢橋のたもとに

「是より南・木曽路」標識が見えます。

この境川の進行方向が木曽路、そしてこれまで歩いてきた部分の信濃路に分かれ、
古くは木曽と信濃、江戸時代には尾張藩と松本藩の境界になっていた場所です。

また現在では塩尻市と楢川村との境界になっています。

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橋を渡った右手の崖上の広場に東屋、地域案内板、そして昭和初期に建てられた

大きな石碑が立ってます。

石碑には「是より南・木曽路」とあり、石碑の裏側には
木曽路はここ桜沢より、神坂に至る南20余里なり」という内容が書かれています。

いよいよ信濃路から木曽路へと入ります。

この辺は標高812m。

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(15年か、わしの生まれた年だ!)

ここで危く街道を見失うところでした。

この辺から、奈良井川の浸食による断崖の淵を避けるため、高巻きの道が

設けられてるそうですが、街道書では

「江戸方面からは、木曽路碑向かいの坂道を上がる」としか記載されて

いません。

高巻とは沢や淵などの難所を避けるため、沢の上流側や山の上斜面に迂回する

道です。

国道の向かい側面には前方へ上って行く道が見当たりません。

それらしき道標も見当たらないんです。

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右手の奈良井川側は、かなり深い崖となっていて、

「ここから左手の山へ高巻になってるはず」と、

もう一度確かめると、向かいのコンクリート壁に沿って、フェンスも無しの

落ち葉の積もった狭い登り道らしいのが、戻る感じで左へと山の中へと続いてます。

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(写真、中付近に桜沢橋が見えてました)

少し上ると国道脇の石碑も見えてます。

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ジグザグにしばらく高度を上げると、国道の崖上を国道と並行する崖の

岨道(そばみち)です。

畑の有るところから、崖上道を南へと進むようになります。

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左手の斜面には厄除馬頭観世音文字塔と馬頭観音像が祀られ、この山道が街道である

ことを示していて、一安心ですね。

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右手を覗きこむと国道のさらに下方に奈良井川の清流を望む。

往時この辺りは断崖で街道は崖上を迂回する高巻き道となっていた。

村の人たちが自力で岩を削って道を作り、通行料を取っていたとか。

(なるほど、有料道路なんだ!)

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先に進むと左手の祠の中に、三面六臂馬頭観音像が安置されています。

傍らには道祖神、明和9年(1772年)建立の南無阿弥陀仏名号碑があります。

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「あら、なにかしら?」と、ちょっと奥の山側に登ったカミさんが「トンネルよ!」

旅の事前調べていた、昔の中央線のレンガ造り廃線トンネルでした。

内部は完全に埋まっている。
 塩尻ー奈良井間の鉄道の開業は,明治42年(1909年)。

昭和40年代から列車の増大に対応するため電化・複線化が進められた際に,

ルート変更が行われ,廃棄されたトンネルでした。

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軌道跡なんでしょうね、先へと延びていました。

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街道はトンネルしたから急降下で国道と合さります。

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小やみだった雪が、また舞ってきました。

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木曽路にはいって最初の集落が桜沢集落で、街道に沿って家並みが続きます。
この集落は江戸時代に本山宿と贄川宿の間の宿として、また木曽路の入口として

栄えていました。 

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桜沢立場で立派な門構えの風格のある屋敷が,藤屋百瀬家が勤めた茶屋本陣。

明治天皇櫻澤御膳水休碑、明治天皇櫻澤御小休所碑、明治天皇櫻澤御駐簾跡碑がある。

上段間と次の間を残しているそうですが、公開はされてません。

(あの「是より南 木曽路石碑」を立てた家ですね)

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街道書を見ていたカミさんが、

「洗馬宿の本陣の家も百瀬家だけど、ここの百瀬家と一族なのかしら?」て。

(帰宅してから調べたけれど、まだ不明)

国道下、奈良井川との間に何軒かの家があり、一部旧道があるそうです。

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左手傾斜地に、小さな祠があり小さな神社が鎮座しています。

何を祀ったのかな??

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国道を進むと右手の眼下に奈良井川の片平ダムの景が広がります、奈良井川木曽駒ケ岳北の茶臼山に源を発し、流末は梓川に落合います。

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先で奈良井川を片平橋で渡ると左手の林越に古い橋が見えてます。
本来の中山道は,現片平橋よりやや上流側を渡り、杉林の中を通過していたと云う。

旧片平橋は、昭和10年竣工の「日本近代化土木遺産Aランク」に選定されていて、

開腹部をアーケード・RC造りアーチ橋として美しい姿を残していると云う。

残念ながら現在は通行不可になっており、遠くから眺めるだけです。

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先50mほど進むと右手に階段があり、その上に白山神社の鳥居がありますが、

立ちよりはしませんでした。

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道筋が変わってしまったんだね、原の奥にポツンと庚申塔

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300mほどゆくと道は国道19号から右手の坂道へ分かれ、旧片平村へと入ります。分岐点には中北道標「←片平地区を経てJR贄川駅2.2km/

是より南木曽路碑1.3km JR日出塩駅3.0km→」がありました。

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ほんの100m程の集落ですが、旧家と思われる家々です。

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国道に出会い右手の坂道左が、永平寺の末寺で,境内が国道に削られこじんまりした

無住職の寺、「飛梅山鴬着寺」、「鶯が着く(来る)お寺かしら?」てカミさん。

街道書には(おうちゃく)寺とありました。

なんの変哲もないお寺ですが、あとで偶然みた贄川宿に伝わる民話に、こんな逸話が。

「参勤交代の加賀藩主前田候が中山道を通り、片平のある寺に立ち寄り休憩された。
 この時、和尚様が寺の名前が定まっていないことを幸いに、寺の名を請うた。
 折は春で、庭に鶯が飛んできて「ホーホケキョ」とさえずった。
 そこで前田候は鶯が着く寺と言う意味の「飛梅山 鶯着寺としたらよかろう」と

 申された。
 以後前田藩から毎年下げ渡し金が届いた」
(楢川村むらおこし農家組合)とありました。

カミさんの推測は正しかった!

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(でも前田候は、なぜ遠回のこの道を通ったりしたのでしょうね?)

鴬着寺の先の横断歩道で、国道19号を左手にわたります。

渡ると歩道橋脇に男女双体道祖神や供養塔などが並んでます。

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 再び歩道橋で国道の右側へ戻り、足を進めます。

木曽路の前方は右側は明るさがありますが、左側の山々は白く、遠くは

白く雲の中、雪が降ってるかな。

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国道沿いを300mほど行くと、右手擁壁上に国道に削られて小さく

西塚を残している、江戸日本橋より六十二里目の若神子の一里塚跡。

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その先すぐに国道から街道は右手に別れ、旧若神子集落へと入ってゆきます。

中北道標には「JR贄川駅・1.7km」とあります。

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 山は雪山になってます。チラチラ雪が舞い降りてます。

左手のコンクリート製品は何??

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 集落内には何か所かの水場があり、今も現役で使用されている様子。

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このオブジェは??

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集落の終りの左手曲り角に石塔群が残ってます。

f:id:hansui:20171123212015j:plain天文3年(1534年)建立の道祖神、明和2年(1765年)建立の廿三夜待供養の

そして馬頭観音などが祀られてます。

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みぎての上の方に参道を辿ると、若神子村の鎮守、諏訪神社が祀られてます。

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集落から一旦下り街道は国道へは出ず、再び標識に従って右手の上り道へ

入ってゆきます。

雪の舞が多くなってきました。

先の山では結構降ってるような感じです。

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青空も見えてますが雪は降り続いてます。

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谷間に下ると石造群

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道の整備などで移動され、ここに集められたかな?

無造作に沢山置かれたと言う感じだ。

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谷間から登ると、左手下に線路と国道が平行し続いてる展望が開けた道になり、

雪降りに煙る山々を見ながら進みます。

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その先で林の中への道を行く「JR贄川駅0.6キロ」と書かれた標柱が立ち、

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その先で道は国道へ下る道と、右へ山側の草道に出会いますが、

街道書には「山道は古中山道である」と記され、中山道は左、国道へ下るとあります。。

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前方左手にJR贄川の駅舎が見えてきました。

道路の温度計は2℃、雪の舞から雪降り街道となってきました。

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右から古中山道も下ってきて、本来の中山道はここで国道、JR鉄路を縦断して

川沿いに進み、先の贄川宿番所前へと続いていたそうです。

鉄道敷設、国道新設などにより街道は消滅し、今は国道を歩き贄川宿へ向かいます。

 

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駅手前、数軒の民家が建ち並ぶ道路沿、ここにも水場がさずけられてました。

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木曽路の山々は雪雲に蔽われ、見通せなくなくなってきました。

あの付近はかなりの降雪になってるんでしょうね。

左手が贄川駅です。

ここもJR贄川駅舎は、贄川の宿場から離れたところに設けられ、

駅周りには「そば処」が1軒あるだけです。

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時刻はPM3:20、5km強の道のりを、約2時間かけて歩いて来たんです。

(スタスタ歩いたつもりでも、人々の倍は掛かってますね)

 

 

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贄川宿はここから300m程先が入口の関所跡がありますが、21回の旅は

ここで足止めします。

電車時刻まで、駅隣りの蕎麦所で、あたたかいコーヒでくつろぎ、電車で塩尻駅へ。

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松本行きの車内では、登山スタイルの10名ほどの外国の方が居ました。

御嶽へ登ったかな?それとも、これから北アルプス方面へ向かうのでしょうか。

塩尻駅前から中央高速を走り、渋滞があって5時間ほどかけて帰宅。

「大雪になる前に、あと一回旅へでたいわね」のカミさんでした。

第21回旅、終わりです。