*ひょいと歩き出した東海道五十三次。
途中で、断念かの肝臓癌をなんとか乗り越えて、京の三条大橋へ到着。
勢いをかって「歩いて再び京の都へ」と乗り出した中山道六十九次。
またまた腹部大動脈瘤、心臓動脈硬化、そしておまけに腹部ヘルニア。
挫折しそうになりながらも、カミさんの支えもあって、またまた乗り越え
旅の再開。
そんな、じじばば道中ブログです*
11月3日に歩き残してた「碓氷峠越え」を果たし、街道は江戸から
28番目・和田宿へ一本線に継ながりました。
先にはこれまた難所の和田峠越えがあり、雪の季節となり
峠越しは雪融けを待ってとし、元気なうち歩ける内にと峠を飛ばして
足を前へと進めています。
先日の21回目、後半はとうとう雪降り街道旅(おおげかな?)となり、
江戸から33番目、贄川宿(にえかわ)手前の贄川駅で足を止めてます。
帰りの車の中で、
「大雪になる前に、あと一回旅へでたいわね」のカミさんの一言があって、
帰宅後すぐに週間天気予報とにらめっこ。
よし、25日(土)なら歩けそう、と再び旧中山道夫婦歩き旅へ。
中央高速を走り、前回と同じくみどり湖PAで朝ラーメンで朝食。
塩尻ICから国道20、19と走りAM8:30、前夜降ったらしい新雪積もった
道の駅・奈良井木曽の大橋の水辺公園・駅東駐車場へ車を停め、地域振興バスで
前回足止めの贄川駅へ向かいます。
野山は雪景色、北国で過ごした子供のころを思い出し、なにかワクワクする
気分になるのが不思議ですね。
AM9:30 贄川駅前から第22回目の旧中山道夫婦歩き旅の旅立ち。
今日の歩き旅は、江戸から33番目「贄川宿」から約2里(8km)の
34番目「奈良井宿」までの短い距離です。
すこし雪道を歩くことになりそうですが、風もなく国道気温標識は4℃、
歩きやすい一日になりそうです。
国道19号、駅のすぐ先に「贄川宿」の大きな看板が立ってます。
さらに駅から300mほど行くと、左手JR中央線の向こう側に、復元された
「贄川関所跡」が見えてきます。(左端)
国道から左折すると、関所橋でJR中央本線を渡ります。
関所橋は、大名行列の欄干飾りや、欄干に吊るされた金属パイプを連続して叩くと
「木曽節」の一節を奏でるところから、別名「メロディー橋」と呼ばれています。
(カミさんが演奏?したら、なんとも間延びした「木曽節」で大笑い)
これはプリズム塔だね、
当時の関所はいまの位置より西側にあり、旧中山道は贄川駅の北方向から線路を渡り、駅舎の東側を通ってこの関所前へ続いていたそうです。
現在は鉄路敷設に伴い、失われた街道となってます。
左手に坂を下ると
明治初年に取り壊されましたが、昭和51年に古図をもとに”板葺き石置屋根”の
贄川関所(木曽考古館)として復復元され、一般公開されています。
解説板によれば、
「建武2年(1334)頃,源義仲7代の孫讃岐守家村が贄川に関所を設けたのが最初で,天正18年に豊臣秀吉が番所を置き、木曽材木の監視のため南の妻籠番所とともに取締りに当たり,関ヶ原の戦いの後、徳川幕府もこれを継承して、福島関所の副関所として木曽代官山村氏の配下が守り,鉄砲と女改めに加え木曽檜の加工品や木材などの搬出を厳重に監視し尾張藩の”北番所”とも呼ばれた。」
(マンホール蓋も関所です、カラーでないのが、またいいですね)
関所前が江戸方(東方)、関所から戻り贄川宿内へと足を進めます。
江戸から数えて三十三番目、62里27町14間(246.5km)
木曽11宿の最北端の宿場で、江戸からの木曽路の入口宿場です。
街道書に書かれている、
「木曽路はすべて山の中である。
あるところは岨(そば)づたいに行く崖の道であり、あるところは数十間の深さに
臨む木曽川の岸であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入口である。
一筋の街道はこの深い森林地帯を貫いていた」
『夜明け前』島崎藤村、の有名な始まりです。
(高校生のころ一度だけ読んだかな?記憶があいまい)
「贄川」の名は,古くは温泉が出たことから「熱川(にえかわ)」が,温泉が
枯れて現在の字が充てられるようになったとの説や,奈良井川で獲れた川魚を
諏訪大社の神事の御贄として奉納していたことから、神に供えるいけにえ(生贄)
の魚を捕る川という説の二説があるそうです。
宿は天文年間(1532~54)に開設され,桜沢から小野を経て下諏訪に到る
古中山道の宿として,さらに塩尻峠の開通により,贄川から本山,塩尻を経て
諏訪に到る中山道の宿駅として整備された。
昭和5年(1930)の大火で町の大半が焼失し往時の面影はほとんど残って
いない。
天保14年(1843年)、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠25軒、人口:545人
(広重画、贄川)
ここにも 水場がありました。
郵便局の向かいあたりが本陣跡、木曽家の子孫千村家が勤め,問屋,庄屋を兼ねて
いた、と街道書にはあるが印すものは何もありません。
立派な門を構えた家がありましたので、パチリ。
郵便局の向こう隣りの民家。
津島、秋葉神社
神社の左隣り「麻衣廼(あさぎぬ)神社」の石柱と「観音寺」との案内板があり、
右手の細い道を入りJR中央線を橋で渡り、信号で国道19号を越えると、
大きな観音像の建つお寺がありました。
山門の前に大きな観音様、寛政4年(1792年)に再建されたと云う立派な
山門を持った、大同元年(806年)創建されたと言われる古刹、観音寺です。
観音寺の左手奥に延びる参道に登ると、麻衣廼(あさぎぬ)神社の鳥居の前に
出るのですが、少し深そうな雪道となって足元が悪そうなので拝観は取りやめ。
このあとの街道旅の行き来で、近くを通る機会がありそうなので再訪したいですね。
街道書によれば
「麻衣廼(あさぎぬ)神社は天慶年間(938~47)の創立,
諏訪大社の系列の長い歴史をもつ神社である。
天正10年の戦火により焼失,文禄年間(1592~96)現在地に再建された。
現在の社殿は延享4年(1747)建立,拝殿は慶応元年(1865)再建。
毎年春の祭りに加え6年目ごとの寅年と申年に御柱祭を行う。
この神社の御柱は4本並列配置である」とありました。
来た道を戻り、宿場の街並みへ。
街道書では今は酒店とありましたが、閉店したようです。
(「たばこ販売店」と書かれた赤いプレートに、贄川の文字が見えました)
街並みの中に漆塗店の暖簾をかけたり、屋号をつけた民家が何軒かありました。
少し先右手に秋葉、津嶋神社
隣りに水場があって、野沢菜を洗ってました。
向かいの建物が、贄川宿に唯一残る江戸時代の建物、深澤家です。
深澤家は屋号を加納屋と称し,行商を中心とする商家を営み
文化年間(1804~17年)には,京,大阪などから北陸・東北地方への
遠隔地商売を展開し贄川屈指の商人となった。
街道に西面した短冊型の敷地(564.47㎡)に主屋(2階建切妻造)が建ち,
その背後に中庭を挟んで北蔵と南蔵が並ぶ。
主屋は嘉永4年(1851年)の大火後の再建で同7年に竣工。
北蔵は文政4年(1821年),南蔵は文久2年(1862年)の建築。
各建物の建築年代がほぼ明らかで,保存状態も良く江戸末期の木曽地方宿駅の
町家の姿を忠実に留め,主屋の規模・大きさ,独特な正面外観,整然とした架構,
洗練された重厚で落ち着いた室内が構成され,木曽地方の町家建築の到達点を
示す建物として価値が高く,国重要文化財に指定されている。
幕末に建てられた深沢家住宅三棟(国重要文化財)は実にどっしりしています。
深澤家住宅から約60m歩くと、右側にひのきや漆器店があり、店の先を
右折し桝形状に進み跨架橋で鉄道を越し国道へ合流します。
街道書にも記載がありませんが、京方(西方)になるのでしょうか。
国道を進むと右手に、推定樹齢千年というトチの木(長野県天然記念物)の
案内板があります。
「贄川のトチ」
推定樹齢千年,樹高33m,根元周囲17.6m。
1mの高さに瘤があり,その上3mから大枝が分かれさらに5本に分岐している。
元文四年(1740)の書物に、「栃の大木一本有り」との記述があり、280年前に
はすでに大樹であった。
枝張り,樹姿,樹幹の美しさは県下一のものとされ,地元の人たちから樹下に
祀られている小祠にちなんで「ウエンジンサマのトチの木」と呼ばれ大切に
されていると云う。
樹高33m,一切の支え無しで堂々としてますね。
根元周囲17.6m。
後ろへも回ってみたかったが、結構な傾斜で雪もあるため
諦めて、右から左から飽きずに眺めましたね。
花の咲時期にもう一度訪れてみたいもんです。
国道(中山道)へ戻り先へ進みます。
旧中山道はこの辺は国道左下の鉄道敷地内を通っていたそうですが、今は消滅です。
トチノ木入口より約200m弱歩くと右手に、地蔵尊、観音菩薩、馬頭観音などの
石仏石塔群が並びぶ傾斜地があり、奥には枝垂れ桜の古木や桜木が立ってます。
街道書には、「桜の宮跡」とありました。
200m程先で、国道両側には歩道帯がなくなり、土曜日ですが大型車両がびゅうんびゅん行き交います。
街道書では国道左手に木曽路民芸館があり、その先国道の擁壁上に設けられた
グレーチング(金網)を敷いた側道「旧中山道用の歩道」を行くとあり、
それ!と横断して国道の左側へ渡りました。
(TV的に言えば、よいこのみなさん、マネしないでね・・でした)
擁壁上にグレーチングを敷いた雪道を進み、突き当りの仮設階段を上ります。
階段を上ると落ち葉の積もった草道となり、お地蔵さんや馬頭観音を見ながら
しばらく行くと、
街道時代からの道幅と思われる桃岡集落を抜けると、ここにも水場があり
小屋の中には水神さんかな?
その向かいの畑の中に日本橋から63番目の押込の一里塚跡で、石碑と解説標板が
立ってます。
江戸時代、押込村と云われた地籍があったが,国道や鉄道敷設などのため消滅した由。
その先右手は国道19号、その奥山側は鉄道路線で、トンネルがありました。
丁度タンク車連結の貨物列車がトンネルへ入ります。
(撮り鉄さんが一人三脚を立ててましたね)
すぐ先十字路左手からくる道は、贄川駅付近から国道と奈良井川の間に通された
明治道で、右折してすぐに国道19と合流し、左手に進み桃岡橋を渡り
鉄橋下を進みます。
振り返り鉄橋、トンネル、列車来ないかな~・・諦めて歩みます。
このあたり漆器店、工場が目についてきます。
200mほど先で中山道は国道から左に分岐し、旧長瀬集落へと入ります。
街道らしい道幅の集落を、およそ7,800m歩きます。
「あら、メジロよ」4,5羽もいましたね、柿を啄ばんでます。
抜けると再び国道に合流し、さらに約500mほど歩くと平沢北交差点となり、
横断して右手の道、県道257木曽平沢線へ入ります。
AM11:30、道の駅ならかわへ。
(塩尻市に合併する前は楢川(ならかわ)村でした)
おっ、二連重の貨物列車だ!
お昼も近しで、併設のCafé、UーLIFE(フィンランド料理のお店だったようです)で、パスタでランチ。
コーヒーもいただきゆっくりと足休め。
(オーナーはフィンランドの方だそうです)
暮らし工芸館を見学。
お目当ては実物を見る機会が無かった、長野オリンピック時の、
金銀銅メダル(漆塗)でした。
目にしたメダル、素晴らしいです!!
単にオリンピックメダルというより、美術工芸品ですね。
(館内は撮影ご遠慮くださいになってます)
*木曽暮らしの工芸館、HP*
http://www.kiso.or.jp/info/post-1.html
木曽で作られている漆器類の展示販売や漆塗り体験学習なども開かれています。ゆっくりと時を過ごし。街道へ復帰し漆器の里集落「平沢」へ向かいます
続きます、