*「大雪になる前に、あと一回旅へでたいわね」のカミさんの一言があって、
帰宅後すぐに週間天気予報とにらめっこ。
よし、25日(土)なら歩けそう、と再び旧中山道夫婦歩き旅へ。*
の後編です。
ゆっくりと道の駅・木曽ならかわで足休めして、街道へ戻ります。
木曽平沢(旧木曽楢川村奈良井木曽平川)と変わってます。
魚は岩魚?鮎?
ゆるい登り坂道が続きます。
右手に馬頭観音の立つところで、今日初めて街道旅の御夫婦とすれ違いました。
下りとなり、物見坂。
前方の建物は塩尻市「楢川支所」、元楢川村役場でした。
平成の大合併で塩尻市に編入されるまで、
贄川から奈良井に至る地域は、楢川村と呼ばれていた。
1889年(明治22年) 町村制の施行で、西筑摩郡奈良井村と贄川村の区域は、
改称して木曽郡となり、楢川村が発足。
贄川と奈良井が合併する際に、奈良井のナラと贄川のカワを合わせて
楢川(ならかわ)になりった。
そして楢川村役場は、贄川、奈良井の両宿の間にあり、
旧村内のもう一つの大字名である木曽平沢に置かれた。
さらに、2005年(平成17年)塩尻市に編入し楢川村は廃止に。
現在の地番、地域名や地図上では楢川は有りませんが、旧楢川村役場名が支所名で
残ってるんですね。
支所前に「お塗處・吉久屋」、う~ん、良いですね。
左手は塩尻市楢川支所の敷地内に、木曽平沢の解説板と芭蕉の句碑があります。
貞享五年(1688)に芭蕉が木曽を訪れたときに詠んだと言われる。
「送られつ送りつ果ては木曽の秋」
宝暦十一年(1761)木曽代官山村甚兵衛良啓が建立したものです。
「国選定重要伝統的建造物群保存地区」の解説板は、日本語、中国語、ハングル字、
英文で書かれてます。
今は冬、あたたかなシーズンになれば、外国の観光客も多いのでしょうね。
そして旧中山道は、句碑の後ろで右手の草道坂に入ってゆきます。
これが旧中山道・諏訪坂です。
短い坂を上りと左手に鳥居が立ち、大宝2年(702年)創建と言われる
平沢諏訪神社があります。
鳥居を入ると、正面は舞屋、その奥に覆屋を兼ねている拝殿は、柱や壁が赤と黒に
塗られています。
本殿は後部が透かし塀の覆屋内に鎮座しています。
(左、舞屋 右、拝殿を兼ねた覆屋)
街道書によると、
天正10年(1582年)鳥居峠で木曽義昌に敗れた武田勝頼は、敗走の途次
社殿に火を掛け全焼した。
現在の本殿は朱塗(総漆塗りだそうです)で、享保17年(1732年)の再建。
(覆屋の板塀隙間から覗くと赤い建物が見えました)
境内の左右には2本ずつの御柱が建てられていて、『楢川村文化財散歩』には、
「木曽郡下では平沢諏訪神社と贄川麻衣廼神社でのみ、御柱祭がおこなわれている。
この平沢諏訪神社の御柱祭が木曽谷における南限地となる」とあります。
境内右手から石段を下ると中北道標と二十三夜塔が立ってます。
傍らの説明板の二十三夜の伝承は、
「神に願かけ叶わぬならば、二十三夜さまお立ち待ち」 月が出るまで飲酒談合して待つのだが「お立ち待ち」といって月が上がるまで腰を下ろさず立ち続ける」
とありました。
坂を下ると、県道257号に合流する左側に中北道標が建ち、中山道と彫られた小さな石碑が立ってます。
先に集落の街並みが見えてきました。
旅館、ここが??
向かい土手上は墓地です。土手に,石仏石塔群がありました
道両側に漆器を扱うお店がずらりと軒を連ねている、400有余年の歴史を誇る
木曽平沢は海抜およそ900メートルの高地にあり夏は涼しく、冬は寒いという独特な
気候で自然豊かな大森林は良材を育み、漆を塗る作業に良く、漆器の里として
栄えてきた。
すぐの左手に、先ほど「木曽暮らしの工芸館」で見ることができた、
あの「長野オリンピック漆蒔絵入賞メダル」企画作成した「まる又漆器店」が
ありました。
町並み保存の家・まるやま
敷地前面の三角形の空地アガモチと呼ばれ、街道と斜交いに建物が立ってます。
創業300年の看板を掲げた店
切妻出梁造りの旅籠風家屋
「ちきりや手塚万右衛門商店」は寛政年間(1789~1800)創業で、
向かいに古い漆器や作業道具を展示した「漆資料館」を併設しています。
職人同士が軒を並べている町、木曽平沢。
中山道や奈良井川が南北に縦断する市域南部の中央に位置し、
谷あいを北流する奈良井川が大きく湾曲した河川敷に発達した集落です。
慶長7年(1602年)に、奈良井川対岸にあった中山道を現在地付近に
付け替えた際、周辺の民家を集められて成立した。
宿場ではなかったが、檜物細工や漆器が地場産業として発展し、
江戸時代中期以降になると、中山道沿いの集落の中では最大の漆器生産地として
発展し、何時しか「平沢塗物」として全国的にも知名度が広がりました。
現在の木曽平沢の町並みは寛永2年(1749)の大火後に計画されたもので、
火災の経験を生かし、短冊状の敷地割にはアガモチと称する前面道路と主屋の間に
空地を設け、主屋、中庭、塗蔵(漆塗をする作業場、土蔵造りで、2階が乾燥場)、
離れ又は物置の順に配され、隣家の建物同士を離す為、敷地奥に設けられた塗蔵
へは外部の通路を通すなどの工夫が見られます。
木曽平沢は全国的にも少ない、漆工という伝統的工芸の職人町、漆器店が軒を
連ねる町として、平成18年(2006年)に、
「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されています。
本通りと称される、中山道に面して、1軒だけ見かけた前庭を持つ和洋の建物。
通りには漆店以外の飲食、土産物店など商店街風は全くなく、看板などもありません。
調和のとれた美しい家並みが、緩い曲がりを描き続いています。
漆以外の看板を掲げていた、唯一のようなお店・・
(店先には何故か果物が・・)
明治時代に大火があり,江戸時代のものはあまり残ってはいないが,
縦格子をはめ込み,垂木構造の小庇を持つ出梁造り、切妻の出梁造りの旅籠風の
建築、大谷石の蔵などなど、ゆっくりと眺めて、漆製品を見せていただき、
お話をお聞ききしたりと、保存され残された町並みではなく、現在も生活の場、
活動する漆塗りの産業地、なんとも楽しい散策に名残を惜しみ、町を後にします。
(街外れの、国登録有形文化財の漆工房巣山、昭和初期の状態が保持されている)
近世前期に「木曽物」で知られた木曽の漆器は、ほとんどが奈良井宿で生産されていましたが、
近世後期になると「平沢塗物」の名で流通するほどに発展します。
明治以降も技術革新によって成長し続けました。
木曽平沢は現在でも日本有数の漆器生産地として、
その地位を維持し続けているそうです。
町並みの南の外れ,右手からの道を併せたところに津嶋神社があり、
道祖神や御嶽山三社大神が祀られ、奈良井まで1.7kmの標識と
「国選定重要伝統的建造物群保存地区」の看板も立ってます。
その先で道は二股になり左側の細い道をゆき、すぐに元の奈良井川道に戻ります。
奈良井川の対岸には「雀おどり」の屋根飾りを乗せた、木曽漆器館がありました。
「笹良漆器会館」の先で道は二股に分かれ、中山道(県道258号)は左手踏切を
渡って国道19号に合流し、奈良井駅付近で奈良井川を渡り、奈良井宿へ
通じてるようですが、街道書は県道とは離れ右手の坂を下り、JR線のガードを
くぐり奈良井川の左岸沿いの道(信濃路自然歩道)へと記されてます。
ガードを過ぎ堤防上の遊歩道に上がると,街道書に奈良井川の歩道橋を渡った対岸に
一里塚跡があると、記されています。
奈良井川の一本鋼桁の歩道橋を渡った対岸に案内板がが見えてます。
橋は渡らず川沿いを行くと、対岸に「橋戸一里塚跡」と白い説明板が見えてます。
橋戸一里塚は,中山道の付け替えで残された江戸から64番目の一里塚です。
地区住民により中山道の歴史をしのぶ公園(橋戸一里塚パーク)として親しまれ、
周辺整備が行われているそうです。
奈良井川左岸の道を行き少し先の左手に,木曽の木材を多く使用して造った
「木曽楢川小学校」があります。学校名はそのままなんですね。
街道書では、「給食の食器は漆器が使われている」とありますが、今でもかな?
小学校からしばらく進むと、右折して奈良井川を渡る道、左手に国道19号に
合流する道、直進した先でて国道に合流する分岐の三叉路となり、
街道書の通り、真っ直ぐ進み奈良井大橋へ出ると、
国道から右手に分かれてきた県道258(中山道)と合し、奈良井橋を渡ります。
左手にとって川沿いを奈良井宿へと向かいます。
橋のたもとで、奈良井駅から来た、地域振興バスに出会いました。
「あら、朝のバスと同じ運転手さんよ!」の声で見ると、バスの運転手さんも
気づいたようで、手を挙げ笑顔で返してくれましたね。
道の道路標識には「楢川村奈良井」のままですね・・
左手は奈良井川、右手山側は鉄道路線に挟まれて、街道は緩く下って行き、
踏切を渡ると奈良井の集落へと入ってゆき、
左先に奈良井の駅が見えてきました。
途中に石造りの3階建て蔵を持つ「丸山漆器店」という店がある。
街道書によると、
「栃木県宇都宮大谷に産し、土台石や塀などによく使われてる大谷造りで、
木曽地方で大谷石とは珍しい」と記されてます。
遥か栃木県宇都宮大谷から運んだのでしょうか。
奈良井宿へたどり着きました。
続きます。