歩いて再び京の都へ 旧中山道夫婦旅   (第24回)       藪原宿~木曽福島 後編

4月29日(昭和の日)

 藪原宿から木曽福島宿へと足を進め、正午12時10分、

ついに中山道69次、中間点へ着くことが出来ました。

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旅の後編です。

 

時刻も昼時、先を左手に折れて国道19号へ出ると「道の駅日義木曽駒高原」です。

さすがGW、木曽路へこんなに人々が繰り出してたのか!と驚いたほど、

道の駅は車がびっちり、大変な賑わいです。

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混雑はしてましたが、やっぱりお蕎麦がいい、食事処へ。

道の駅にも「中山道中間」の案内板が建ってます。

ぐ~んと身近に、中央アルプス木曽駒ヶ岳が迫ってきます。

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木曽駒ヶ岳ももう十数年前ですが、伊奈側からロープウェイ、千畳敷経由で

登りましたね。

頂上でガスがすごかったわね~、なんてお蕎麦を食べながらしばし、思い出話。

(思い出ショット・左は宝剣岳

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PM1:00、ゆっくり足休めをして街道旅の再開です。

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少し進むと道はYの字になり、右の細い道への道標が建てます。

この辺は小沢の集落と案内図に記されてました。

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細い道を200mほど行くと右手に小沢センターがあり、

中山道→この下の橋を渡り木曽福島へ」の案内板が左手草道を指してます。

あれ、えっ、これが街道!と言いたくなる道を下ります。

カミさんは、わ~て言いながら楽しそうに下って行きました。

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下ると木曽川の支流、正沢川となり川沿いを少し進んで、鋼桁に網鉄板を敷いた

鉄橋を渡ります。

中山道の案内もしっかりとついてます。

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この先は やや上りながら右手へ道なりに畑の中の道を進むと、

コミュニティーバスの通る新開集落の道へでます。

渡った川が日義と木曽福島境川で、マンホール蓋も福島関所のデザインに。

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木曽義仲元服を迎えるまでの幼少年期を、かくまわれて過ごした云われ、

巴御前の誕生地でもある、義仲の養父「「中原兼遠」館跡への案内板を見送り、

(往復1.5km以上あるので寄りません)

100mほど先の天神橋を渡って進むと、左手に木々に覆われた小高い土手が現れ

ます。

土手下に、嘉永5年(1852年)建立と言われる巨大な廿三夜塔や庚申塔が建ち、

並んで「薬師堂」があります。

薬師堂は創建年代は不明で、再建されたと案内板に記されてます。

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すぐ隣りに急で幅狭な石段,斜面上に手習天神が祀られてます。
古くは山下天神と呼び,木曽義仲を養育した中原兼遠が義仲の学問の神として

北野天満宮勧進したものと伝えられている。

境内の「一位(イチイ)」の古木は,樹齢1000年とも伝えられ、

名木として中山道を往来する旅人は、必ずここに杖を留め参詣したと云う。

イチイ、子供のころは「温故の木」て言ってましたね。

樹齢1000年の大木も、あの赤い実をつけるのかな??

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道端の福寿草やスミレなどを愛でながら数分進歩き、上田集落を過ぎると

道は二股になり、道の左側には「中山道ウォーキングの方へ この先、道がなくなっていて危険です。・・迂回をお願いします」と記された看板が建ってますが、

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持参街道書では「Y字右の細い道へ入り、国道のガードを潜って左手の階段で

国道19号に出、すこし国道を戻り上田口信号で右側に国道を横断する」とあり、

街道書の通り足を進めます。

100mほど進み、国道下をくぐり抜けると先は田畑となって、

残念ながら旧中山道は消滅で先は不明のようです。

ガードを潜った左手の階段を上り、国道19号へ出ます。

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少し国道を戻り、上田口交差点で右側へ渡り進みます。

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交差点から約400m歩くと右側に、日本橋から69番目の「出尻一里塚跡」の

石碑と解説板が建っていました。

先ほど不明の旧中山道は、この付近へ続いていたのではと言われてるそうです。

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一里塚跡手前から右に急下りの草道があり、出尻上道標も建ってるので

下って行きます。

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下ったところの道標は出尻下道標。

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100mほど進むとY字道になり、左の道を上がって再び国道へと合流します。

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国道19に合流し、古中山道の道筋は矢崎旧道といわれ、約130m進む左側の

ブリヂストンの看板の所で左折、鉄橋を眺めながら右折し、登り坂に入って

先に見える矢崎橋交差点へ下って来たようです。
(左の白いガードレール)

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あら、白藤よ、てカミさんが右手を指差し。

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国道を進み矢崎橋信号を過ぎると,荒町信号の手前右手に「そば処くるまや」があり、
国道の山側金網フェンスの中に「芭蕉塚」が、

あら、見渡らないわよ?とカミさん。

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と、先を見ると信号手前左側に最近移設されたようで、経塚と共にありました。

左)「芭蕉句碑」には,
       思い立つ 木曽や四月の さくら狩り  とあるそうです。

右)「経塚」は,初代木曽代官山村良忠が家臣を伴って全国の霊場を回った記念に,

その百回忌の元禄14年(1701)に建立したと記されてます。

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 この先で,右下の道をたどり、

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関町の先で、国道は左へカーブし「福島トンネル」に入って行き、

中山道は右手の木曽川沿い旧国道に進みます。

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見た目感じませんが、結構な傾斜があるんですね。

流れも速き木曽川

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旧国道に入り10分ほど歩くと、街道を跨いで巨大な冠木門がが建ち、

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左手の石垣に付けられた道を上がると、復元された「福島関所」跡があります。

(関所は、山裾の木曽川の断崖上という、関所を置くには絶好の地にありました

  断崖は道路設置の為に削られ高い石垣上となってます)

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 番所(関所)跡、建物は資料館、

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関所の奥横に島崎藤村の姉である園の嫁ぎ先で、代々関所番を務めた

山村代官の家臣・「高瀬家「」の資料館があります。

(前に寄ったので、今回は入館はしませんでした)

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PM2:30、

江戸より69里24町(274Km)、
37番目の宿場町・福島宿到着です。

木曽福島には十数年前に、木曽の御嶽山登山の折少しだけ寄り道をしています。
その際にこの関所跡、資料館や、これから向かう「興禅寺」にも立ち寄りして

ましたね。

広重画、福島宿は関所が描かれてます。

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木曽福島は、戦国時代は領主木曽氏の城下町として、その後豊臣秀吉が直轄領となり、江戸時代には尾張藩領となり、木曽代官山村氏の陣屋町として栄え、四大関所の

一つ福島関所が設けられていました。

関所があり、代官所があるこの地は、木曽路の中心であったそうです。

天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、
家数は158軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠14軒で、宿内人口は972人。

昭和2年(1927年)の大火で大半を焼失したため、往時の面影は少ないが,

「上之段」と呼ばれている地区に、わずかに江戸時代末期の建造物が残り、

街道情緒を感じさせてくれます。

石垣脇の階段を下り旧国道(中山道)に戻ります。

左手に、木曽川沿いの道を行けば宿場街並みへ続きますが、ちょっと回り道をして

木曽義仲墓所の有る、木曽川右岸段丘上の興禅寺へ立ち寄るため、

木曽川を関所橋で渡って向かいます。

木曽川の左手家並みが宿場の街並み。

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橋を渡って100mほど登り、T字路を右手に行くと「興禅寺」です。

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興禅寺 臨済宗妙心寺派(禅寺)。
永享6年(1434年)この地を支配した木曽氏十二代信道が。

先祖木曽義仲公菩提の為,荒廃していた旧寺を改建したお寺で、 木曽義仲並びに

木曽家代々,福島関所代官山村家代々の菩提所です。

いらい三度の火災にあい、本堂などすべて焼失たが、諸堂宇が再建されています。

石段を上がると治承4年(1180年)源行家以仁王の勅使として平家追討の

令旨を,この門を通り観音堂において義仲に伝えたといわれている勅使門。

室町時代の様式で国宝であったが焼失、昭和29年に原形通りに復元された門です。

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勅使門を入ってすぐ左手に入ると平成11年作庭の「昇龍庭」。

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奥の宝物殿窓口で宝物殿や庭園などの拝観料を納め、館内拝見。

 右より、山岡鉄舟勝海舟高橋泥舟、「幕末三舟」の筆による掛軸。

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書画、工芸品、古文書などを、ゆっくりと拝観。f:id:hansui:20180503170021j:plain

館を後にし、庫裡西側の斜面を利用した江戸中期金森宗和の作庭、

池泉水の「万松庭」は脇からの覗き見して、

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禅宗庭園として昭和37年に現代作庭家の第一人者重森三玲氏の作で、

紀州沖の島産の青石(緑泥片岩)を用いた枯山水の庭「看雲庭」。

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本堂前を通り、山側登って行くと西北隅斜面に「木曽義仲公の墓」がある。

寿永3年(1184年)粟津ケ原で源義経らの軍勢に敗れ,その時わずか

13騎の護衛の中に居た巴に、

「義仲死に臨み女を従うは後世の恥なり,汝はこれより木曽に去るべし」と

遺髪を巴御前にたくした。その遺髪がここに収められているという。

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 義仲の墓を後に路を下ると,左手の木曽では珍しい洋風の建物が建っている。

「元宮内庁御料局木曽庁舎」で、明治維新尾張藩有林から皇室財産の御料林と

なった木曽谷の森林を経営管理する為,明治36年(1903)に建てられた。

 昭和2年(1927)5月木曽福島町の大火により焼失するも、

同年12月旧庁舎の姿をほぼそのままに再建され,現在は,森林・林業の技術開発

・普及指導を行う「森林技術第一センター」の庁舎として使用されている。

f:id:hansui:20180503184911j:plain木曽谷の人々にとって昔から今に至るまで,木曽谷の森林と切っても切れない

深い縁があることを感じますね。

興禅寺を後に100mほど行くと、左手に臨済宗妙心寺派・龍元山長福寺は、

代官山村家の菩提寺です。

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長福寺前から少し進み、木曽福島会館のところを道なりに左折し、

坂道を下った木曽川に架かる「中央橋」の手前で右折して山村代官屋敷敷へ

向かいます。

山村代官屋敷敷地の大半は,現在福島小学校になっていて、

右手のグランド下に「山村代官屋敷東門跡」の石垣と、石に刻まれた紀行文の

一説についての由来案内板が建ってます。

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先が代官屋敷交差点で交差点の右手に、福島関所を預かり、木曽11宿を含む

木曽一帯を治めていた山村家の下屋敷跡があり、立派な屋敷門が復元されてます。

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「山村代官屋敷」
 山村氏は戦国時代から木曽谷を治めていた木曽氏の旧臣で,慶長5年の関ヶ原の戦いで,徳川秀忠の先陣を承って,犬山城主石川光吉と戦いこれを破るなど活躍した。その功により木曽代官を命ぜられ,福島関所を預かった。
 後に木曽が尾張領となった以降は,尾張藩の武士として引き続き木曽を支配しながら石高7500石を給付され,福島関所の関守として幕府から旗本の一種,交替寄合の待遇を許されて,明治2年(1869)に至る274年間木曽谷を支配した。
 木曽の山林と四大関所の一つ福島関所の関守を兼ねていたその権力は絶大であり,その屋敷は豪壮を極め,文政年間(1818~30)の屋敷図によれば,福島小学校を含む敷地に庭園が20もあり,そのうち築山泉水の庭が5つ,その一つが現存する下屋敷と庭園である。
現在の建物は,享保8年(1723)2月4日の火災で全焼して再建された建物であり,12代木曽良棋の下屋敷の一部で代官屋敷唯一の遺構であり,良棋は号を城陽と称したので「城陽亭」と呼ばれている。
亭内には,書斎の間「看雨山房」を中心に数室からなり歴代代官の書跡や愛用品などが展示されている。庭園は駒ケ岳と周囲の山を借景とし,静寂そのもので町中にあるの感がない。
 山村氏は明治維新の際には,新政府に与した尾張藩の家臣で,かつ幕府旗本であるとの微妙な立場に立たされたことが「夜明け前に」に記されている。

 

木曽福島駅の列車時刻もあって屋敷内へは立ち寄らず後にし、坂道を少しくだり

木曽川を大手橋で渡ります。

中山道から代官屋敷へ渡る橋で「御屋敷橋」と云われていたが,明治になって

大手橋と名づけられた。

明治以降2度の洪水で流失し、昭和11年(1936)工学博士中島武氏の設計に

よって架けられた、世界最初の珍しい、鉄筋コンクリートアーチ橋。f:id:hansui:20180504051425j:plain

渡るとすぐが支所前交差点で横切ってるのが中山道になり、そのまま進んだ

突きあたりの「木曽町木曽福島支所」が、白木家が勤め問屋場を兼ねた

本陣跡ですが、今は一片の標石と説明板が立つのみです。

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 支所前交差点へ戻り、左手へ木曽川左岸の街道(旧国道)を進みます。

f:id:hansui:20180504051605j:plain 数分歩くと左手に杉玉をかかげた明治時代創業の「七笑酒造」、

対面に旅館「つたや」。

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その先右手に創業350年と言われる、木曽路の宿・いわや

(あれ、写真はピンボケ!)

関所から本陣を経て続いて来た街道は、そこで左折(桝形)し横宿と呼ばれる街並み

となります。

この辺りに敷地100坪,問屋を兼ねた亀子孫大夫家が務めた「脇本陣」が

在ったらしいが不明。

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「七笑酒造」の醸造

f:id:hansui:20180504055121j:plainちょっと先右手に 「喜又橋」 清水の湧き出た小川に架けられた橋を再現したもの。
喜又とは,この地を治めた十一代目当主の名で,島崎藤村の実兄とともにこの町の山林確保に私財を投げ打って町の人々の為に尽くした。人々はその天晴な人柄を想い,喜又橋と命名されたと云う。

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この先は木曽川の段丘で左右に細い小路が複雑に入り組んでます。

左手に下って行くと、本陣跡の支所前へ出るようです。

f:id:hansui:20180504060733j:plain 街道にもどり進むと、この辺りから街道は,直角に何度か曲がる「枡形」を

形成しており,右に折れて急傾斜の上の段坂を上る途中の右手に「高札場跡」。

f:id:hansui:20180504112707j:plain 坂を上り切ったところは、木曽義仲から19代目の木曽義昌の居城「上之段城」が

在った所とされる「上の段(うえのだん)」と呼ばれる地域で,宿より一段高い

段丘上で「水場」が曲がり角にあります。

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昭和2年の大火から免れた水場・石置き板屋根・出梁造り・袖うだつ・千本格子・

なまこ壁の土蔵などなどが福島宿でただ一か所、往時の面影を残している

街並みです。

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右手にまつり会館があったので、ちょっと覗いてみました。

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松島亭・肥田亭などの町屋造り通りを来る、トレッキングスタイルの外国の方々、

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上段の町筋には 多くの小路地が残されています。なまこ壁や板張りの家屋が

印象的な「寺門小路」を入るっと、突きあたりに武田信玄ゆかりの大通寺がが

ありました。

山門は楼門形式の建物で、江戸時代中期の安永7年(1778年)と言われてる

そうです。

境内に武田信玄の娘で、木曽義昌正室である真理姫の供養塔があるそうです。。

(供養塔は誰が、何時頃建立されたのは不詳とか)

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 ナマコ壁の小路を出ると、

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角にはこの高台なのに水場(上の段用水)があり、勢いよく水が出ている。

この水場は宿場時代の昔から昭和の始めの頃まで、町内の簡易水道として利用されて

いたもので、この先の段丘を下ったところを流れる、八沢川上流約2kmから

取水されているそうです。

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上段の街並みの桝形を曲がり坂道を下ると、途中に見られた古井戸。

江戸時代中頃に造られ、昭和の中頃まで町民の飲み水として使われていた由。

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 古井戸からひと下りで中矢沢橋で木曽川の支流、八沢川を渡り右手へと、f:id:hansui:20180504140652j:plain街道らしく曲がりくねって木曽福島駅方向へ向かいます。

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この付近が木曽福島宿の京方でしょうか。

左手の坂道へ行き木曽福島駅へ向かいます。

 

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300mくらい坂道を上るとJR木曽福島駅

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PM4:25、中山道夫婦歩き旅、第24回目は足止め。

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4時32分の松本行電車で、出立地藪原駅へむかい、藪原駅前を5時、

イカーにて帰路へ。

中央道の渋滞もあって5時間ほどかかり、帰宅は午後の10時になりましたが、

いい旅を終えて、心地よい疲れですね。

(お店前のプランターに咲いていた、八重咲イチリンソウ)

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またいつの日か旅路へ・・

中山道夫婦歩き旅、第24回目紀行は終。