歩いて再び京の都へ 旧中山道夫婦旅  第26回      和田峠越え 後編

*峠越えは後半へ

 広重画 和田t宿・和田峠 峠は切通しで描かれてますね・

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薄曇りで遠くは霞む空模様ですが吹く風も心地よく、雲間から薄日挿す峠です。

それでも、朝の天気予報にあった山沿いでの雷雨注意報を意識して、

30分ほどの休憩で記念写真を撮って、峠を下ります。

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 和田峠といえば、険しいことで知られた中山道でも一二を争う名うての難所です。

参考資料などによれば少し長いが引用します。

「参勤交代といった往昔の峠道の往還には、荷物の運搬のための人足や馬が必要に

 なる。所謂人馬継立とも伝馬が宿に置かれその用に供した。助郷と呼ばれる

 人馬継立 の負担は大変であったようで、宿だけでは対応できず、近郷の村にも

 応援を求めた。

(常任を定助郷、臨時を代助郷と呼ぶ)
 人馬継立・伝馬は公用の場合は無料で奉仕することになる。宿はその負担の代償

 と して年貢を免ぜられた、とのことであるが、それでも伝馬の維持は大変で、

 しばしは幕府からの下渡金が支給されたようである。和田宿の脇本陣である

「翠川家文書」には享和3年(1803)には1300両(現在の価値で1億三千万円程度)

 を10年の無利子で借り受けたりもしている。
 和田宿通過が幕府から公認されている大名は美濃加納、美濃苗木、信州松本、

 信州 飯田の4大名。そのほか、彦根の井伊家、大垣の戸田家など本来は東海道

 筋 を進む 8大名が中山道通過も認められていた。公式にはこれだけの大名が

 参勤交代で和田峠を越えることになる。とはいうものの、実際は天竜川や大井川

 などの川止めを嫌った多くの大名が参勤交代に中山道を利用し和田峠を越え

 ている。 参勤交代で和田峠を越える大名家はほとんどが3月から9月に集中し

 て いる。 冬には積雪3mとも言われる峠の往還を避けたわけである。とはい

 う ものの、積雪 期に峠を越える大名もいたわけで、そのときには和田宿他か

 ら 人足が出て雪踏みを することになる。文政8年1月8日(西暦1861年

 4月6日)の尾州様御帰国に は24ヶ村から人足1800名が動員され、

 峠茶屋 より峠までの雪踏みを行っている。積雪が残っていたのだろうが、

 とも あれ大変なる 負担である。 また、和田峠を皇女和宮が越えたのも冬季

 である。下諏訪宿を 出立したのが1861年12月7日。積雪の時期ではある。

 ただ、和宮のお供は3万名とも言われ、雪の吹き溜まりもあろうが、なにせお供を

 先導する人足が大勢 出て雪を踏み固め、筵などで道を整備するので心配ない、

 と宿からの回答がある。

 ともあれ、冬の峠越えは宿にとって大騒動ではあったのだろう」

   とありました。

 驚くのは和宮の行列が、日の短い旧暦11月6日冬季に峠越をしたことですね。

下諏訪を夜明けの朝7時に出発して、日が暮れた峠道を松明を掲げて、夜6時に

和田宿に到着したと言う記録が残っているそうです。

約6里弱(22.5km)の山道を、11時間で走るように上り駆け下った!!


さよなら~和田峠、再び足を運ぶことはあるかな??

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左手は賽の河原と名付けられた岩ゴロゴロの傾斜地で、

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和田側登りは街道らしい道幅の草道が続いていましたが、街道書にも記されてる

「賽の河原七曲り」と呼ばれる、所々ガレ場の狭い急下り険路が始まるようです。

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ここからが和田峠西坂下り急坂です。

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さらに下っていきます。大きく曲がるところには「七曲り」、「六曲り」と名称が

書かれた白い杭が立っています。

枯れてしまった水場脇には苔むした地蔵尊が静かに見守って、

急坂七曲りも終わりですが・・・

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とにかく中山道は峠越えの連続ですね。

このアップダウンの激しい山道を、皇女和宮の御降嫁の大行列は通っていったとは。

七曲りが終わって少し下ると右手に石小屋跡の案内板が建ってます。

今は石垣場が残っただけの岩の塊ですが、ここにあったに石小屋は、雨や雷、風雪を

防ぐための避難小屋で、安政2年(1855年)、下原村の名主・勝五郎によって造られた

もので、高さ2メートルの石積みをした上に片屋根を掛けた構造をもち、

長さ約55メートルという非常に大きい施設で、人馬の待避所や荷置場には絶好の

施設であった。その後慶応3年に修理したが、現在は、石垣の一部を残すのみ、

と案内板には記載されています。

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 石小屋跡から少し緩やかなカラマツ林の中を、ケルンに小石を置いて下がって

行きます。

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林を抜けると広々とした草場にでてきます。

和田峠からは1kmほど下って来たようですが、約25分かかてますね。

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草場は植林された若木が筒の中で鹿などの食害から守られてます。

今頃歩かれた方の資料では、蕨摘みが出来る、と記されてましたね。

草場の縁を回り込むようにして道は続き、狭い急坂を一気に下って行くと、

国道142号線の旧道との出会いです。

左手の丸太道標には、「←矢印和田峠0.9km諏訪大社秋宮11.1km→」

和田宿、下諏訪宿間は約22,5km、やっと中間までたどり着いたようです。

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国道142号線を斜めに横切り、道標に従って再び草道を下って行きます。

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雪融け時期や雨が降ったら、小川になりそうな狭い道を下って行くと、

再び国道の横断です。

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道標に導かれてジグザグに曲がる国道142号線の旧道を一気に貫くよう
に横断してゆきます。

すぐ下が次の国道横断。大型トラックがうなり声をあげて登って行きました。

ガードレールの切れ目から再び草道の急下りです。

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 しばらく下って行くと、ヒノキ林の下に文字道祖神牛頭天王碑が立ち、

石垣の奥には古い墓地がみえ、草原の広場へと降りてきました。

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右手にこんな注意看板!

(でも6月だと最近じゃないわね?てカミさん)

最近じゃなくとも生息地だぞ、持参の熊鈴を盛大に鳴らします。

資料によればこの付近で瓢標高は約1300m。

和田峠から1.5km、標高差300mを1時間強かけて降りて来たんですね。

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かつてここは西坂の立場(休憩所)で、西餅屋茶屋(跡)があったところでした。

建っている案内板によれば、

「茶屋本陣の小口家、それに茶屋の武居家、犬飼家、小松家という4軒の茶屋があり

 ました。東餅屋同様たいへん賑わっていたそうですが、明治の時代に入って

 交通機関が整備されるとともに中山道を歩く人が激減し、急激に寂れていき、

 大正時代に離村してしまった」とのことです。
街道書や資料によれば、

*名物は「氷餅」で、重湯のようにしたうるち米を、氷点下の中で自然乾燥させた

ものです。*

和田峠道で出会った方の何人かは、下諏訪の宿から此処まで車で送ってもらった

様でした。

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 「あら、この花はなんの花なの?」

てカミさんが覗き込んだには、おっ、白花のオドリコソウではないかな・・

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再び国道142号を横断し、ガードレールの切れ間から石ゴロの草道を

下って行きます。

案内書によっては「雨降り時などは国道を進むように」とのアドバイスもある、

渓流沿いの道が始まります。

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いいオブジェだね・・太い蔦の絡まりが独特の雰囲気を演出してます。

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国道142号の土手下坂は垂木坂と呼ばれるようです。

少し下ると右土手に江戸日本橋から53番目の一里塚(跡)がありました。

現在では塚らしきものは見当たらず、大きな石でできた一里塚碑のみが置かれている

だけです。

塚の上は国道が走り、あいかわらずのハルゼミの大合唱と、バイクの轟音が木々に

響き渡てます。

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一里塚から先は、左下が和田峠の南方面に連なる車山(1925m)に源を発する

「砥川(とがわ)」で、右上方を国道が走るガレ場の連続する荒れた山道になり、

(垂木坂と呼ばれている)、倒木の下をくぐりフタリシズカを「5人静」だねなん

 ておしゃべりしながら進むと、左下は切り落ちた崖上のごく細いガレ場道になって

 きました。

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右手には黄色と黒の通称“虎ロープ”が張られ、危険地帯と教えてくれます。

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「出来るだけ右側を歩きなよ!」と言うほど、道下はえぐられて、

梯(かけはし)のようになった所もあらわれます。

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ぐんぐん下り渓流の流れが近くなってきます。

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石の囲いに守られてクリンソウが一本、

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おや、この小さな白花は・・ワダソウか!違うかな?

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谷底を流れるせせらぎの音が大きくなり、さらにら道を下って行くと、

再び国道に合流です。

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この国道142号線に合流するあたりは、地形が焙烙に似ていることから

「焙烙(ほうろく)平」と呼ばれているそうです。

焙烙とは素焼(すやき)の平たく浅い土鍋のことです。

そういえば焙烙地蔵尊が、八百屋お七絡みでありましたね。

合流地点に建つ道標には、

「これより先下諏訪方面中山道は国道の拡幅等により、道筋が確定しておりません。

是より先は国道を1.7km下り、左手に浪人塚に向かいます車にご注意ください」

とあります。

土曜日とは言え、有料道路も合流した国道142号は結構大型車も多く、諏訪方面へ

の下りは一車線、和田峠への登りは登坂車線があって二車線です。

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 難所と言われたピークは過ぎましたが、びゅんびゅん行き交う歩道帯の取ってない

国道歩きは、これまた現代の難所ですね。

街道書のアドバイスには「歩道帯の無い交通量の多い坂道は、登坂車線のある方を

歩くように」とあります。

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先行していたカミさんが右上を指しながら呼んでます。

レンゲツツジが咲いてるわよ~

レンゲツツジの季節になってきてるんですね。

和田峠に連なる高原や、美ヶ原に連なる高ボッチ、鉢伏山

レンゲツツジの大群生が良く知られ、私達も何度か足を運んだことがあるんです。

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(以前に訪れた、鉢伏山レンゲツツジ

 うっすらと最奥に霞んでる峰が和田峠方面の山並みです)

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資料ではこの付近で標高は1100m、和田峠から1時間40分ほどかけて、
500m程下ってきたことになります。

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歩道のない国道をしばらく下ると、左手の側道への道標が建っており、

行き交う車両を確認してそれっと渡り側道を下って行きます。

”芙蓉パーライト工業”の工場に突き当たり、道なりに右に国道下をくぐり抜けた先に

道標と「浪人塚」への案内板が建ってます。

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資料によれば、

パーライトとは黒曜石や真珠岩などのガラス質の火山岩を1,000℃ぐらいに焼いて

膨張させた球形の小さな砂利のことで、重量が普通の砂の10~20%ほどで、セメントと混合してパーライトモルタルを作ります。このパーライトモルタルは軽量であるうえに断熱性、吸音性にすぐれ、断熱材、軽量骨材、軽量プラスターなど建築用材として用いられます*

大型ダンプが2台、側道を下ってきて、トンネルを抜けてゆきました。

原料を運ぶダンプなんでしょうね。

左手に「浪人塚」と書かれた石碑が建ち、その先が「浪人塚」でした。

解説によれば

「浪人とは「天狗党」と呼ばれた水戸藩士を中心とした千余人の浪士達のことです。

ここ和田峠で幕末の元治元年(1864年)11月に「天狗党の乱」と呼ばれる一連の戦いの

1つが繰り広げられました。ここはその天狗党が高島(諏訪)藩・松本藩両藩の藩兵との

間で激戦が繰り広げられた跡です」とあります。 

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案内板を読んでたカミさんが、「なぜ高島藩が敵対した天狗党のために

浪人塚を造ったのかしら??」て、ごもっとも。

 「きっと、明治になって恭順の意志と尊王の態度を示すために、ではないかな?」

なんて自己流解釈を。

でもこのことにより水戸市との交流が生まれ、下諏訪町に対する水戸市長名の

御礼の木碑とともに、水戸の名木梅が植樹されているそうです。

浪人塚から再び国道下のトンネルを抜け、工場前を通って砥川を渡り、

右手に砥川、さらに右に国道を望みながら進みます。 

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砥川を樋橋で渡り国道142合流手前に注連縄をさげた鳥居が建ち、

杉林の中に、蠶玉(かいこたま)神社と山の神が祀られてます。

蠶玉神社は養蚕が盛んだった地域での守り神なのかな。

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神社の先で国道142号に合流すると、火の見ヤグラのところで左に国道を挟んで

S字状に曲がる旧道に入ります。

ここが樋橋立場跡で国道側には樋橋茶屋本陣跡碑があります。
樋橋(とよはし)村は寛永11年(1634)立場として開村し、茶屋本陣は

小松家が代々勤め、数軒の茶屋があったそうです。
茶屋本陣には御殿と呼ぶ小建築があり、文久元年(1861)皇女和宮はここで

休息しているとありました。

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樋橋集落は下諏訪コミュニティーバスの折り返し地点です。

今、PM3:03です。3:07発の下諏訪行きがすぐにありますね。

西餅屋付近で追い越して行った若い方が。バス停で待ってました。

雷雨や何かのアクシデントがあったら、ここからのバスを利用することに

してましたが、有りがたいことにこのまま歩き続けられそうです。

すぐに国道に合流した右手に、小さな墓地の一角があり、 つい最近までここには

茶屋本陣を勤める小松家の者が全国巡礼達成後に建立した地蔵堂があり、

延命地蔵尊が安置されていましたそうです。

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先を側道にちょこっとだけ進み、再び国道142号線に戻ります。

小さく標識もあったので、この極短い側道が旧中山道で、桝形であったようです。 

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国道142号線に合流した地点に「標高1,000メートル」の標識が立っています。

和田峠の頂上は標高が1,600メートルだったので、あそこから一気に約6km、

600メートルも下ってきたことになります。f:id:hansui:20180530085608j:plain

再び先の分岐点に中山道道標があり、国道142号線と分かれ、国道と並行して

延びる側道を歩きます。このあたりは「深沢越え」と呼ばれてるそうです。

そのまま国道下の草道進むかと思いましたが、道標が建ってるところで、逆戻りの

上りをすると、やっと歩道帯の分離された国道に合流し、やれやれです。

f:id:hansui:20180530090340j:plain樋橋茶屋本陣から先の本来の中山道は,国道の右手下砥川の間を通っていたそうです。

現在はそのほとんどが失われているため、国道の歩道を進みます。

まだニセアカシアが咲いてますね。

(この先も何枚かの撮影をしたのですが、露出や絞りの調節ダイヤルが効かず、

 残念ながら真っ白け!予備のコンデジを忘れていた・・・)

カミさんが取り扱いが乱暴すぎない!!・・て。はい、ごもっともです・・

(なんと左足のふくらはぎが、攣りの痛みが出始めた・・)

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軽くストレッチ気味に動きながら、足を進めます(しばらく撮影無し)

国道の右手、砥川との間は工業地帯で、大きなリサイクルセンターや産業廃棄物の

処理工場が続いてます。

消滅している中山道は、工場の敷地の川側の淵を通っていたようです。

国道142号から分岐し、右手の産業廃棄物の処理工場の敷地へ通じる道に

「一里塚碑」の案内看板が立っています。

これはここから急坂を下った敷地内に、江戸の日本橋から数えて54里目の、

「樋橋一里塚」の跡碑があるそうですが、パスしました。

 

(かちゃかちゃカメラをいじりながら歩いてるうちに、カメラの不調が復帰した!

やれやれです。そのうえ、なんと左足の不調も回復、連動してるぞ!!)

樋橋立場から1.5kを30分もかかって下って、道路標識には標高930mと

ありました。かなり下ってきたので、気温が上昇27℃の表示です。

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右手のドライブインの自販機に立ち寄り、アイスコーヒーが美味い!

歩道帯のある国道はまだまだ下り坂です。

さらに500mほど下ると、左手山側に町屋敷集落、右手国道下川沿いに下屋敷集落

が見えてきて、さらにくだると左手に「木落し坂」の立て看板と、諏訪大社秋宮へ

標識があらわれました。

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中山道は国道の左手の道へ通じて、町屋敷集落へと入りますが、交通量の多い

国道なのに信号も横断歩道もありません。

右手に「中山道」の標識が出てきて、「地下道を渡る」と書かれています。

国道右下から上ってくる階段先、小屋掛けのところが国道横断地下道でした。

資料の中には、先ほどの一里塚を通る消滅してる旧中山道は、この階段に繋がり、

左手山側へ通じていた、ともありました。

この地下道が、中山道そのものだということのようです。

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 地下道は渡らず、それっ!と国道を横断し、町屋敷集落へと入ります。

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 道路に面して花々の植えられた静かな里路を300mほど進むと、

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左角地に、さすが諏訪大社のお膝元ですね、御柱に守られた道祖神が建ってます。

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道祖神の先の二股を右手の下り坂へと下りてゆきます。

坂道のマンホール蓋

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坂を下ったT字路右手角に、見事な苔庭を見て、左手の上り坂を100mほど

登ると・・

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諏訪大社、秋宮春宮の御柱木落し坂上です。

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上った右手に木落し坂広場があり、広場には

諏訪大社下社御柱街道天下の木落し坂碑」、「模擬御柱「」等があります。

偶然居合わせた地元の木遣保存会の方から、いろいろ説明を頂きや資料なども

頂きました。

そして木落し坂を覗き込むと、急勾配の下に国道142号線が望めます。

*『御柱祭』、正式には「諏訪大社式年造営御柱(みはしら)大祭」と言われる

 諏訪大社のお祭りです。この祭りは、七年に一度の寅と申の年に行われ、社殿の

 造営 (現在は宝殿のみ)と「御柱」と呼ばれる直径約1メートル、

 長さ約17メートル、 重さ約10トンにもなる樅(モミ)の木の巨木を山から

 切り出し、それを大勢の人々の 力で山から里へ曳き、最後に上社、下社の

 各社殿の四隅に建てます。

 現存する最古の記録では、平安時代桓武天皇の御代(在位西暦781年~805年)

 から、信濃国一国をあげて奉仕がなされ、盛大に行われたとなっていますが、

 それよりも以前から諏訪地方では大木を建立する祭りが行われていたとされて

 いて、明確な 起源は判っていない*

 ということです。  (資料より)

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 諏訪大社下社の春宮と秋宮に立てる御柱(樅の大木)八本を奥山から切り出し、

曳行の途中、この坂から御柱を落とす神事が「下社山出し祭」最高の見せ場

「木落し」と呼ばれる奇祭です。

氏子達は滑り落ちる大木に跨り

  「男見るなら七年一度諏訪の木落し坂落し」

                  と唄われてきました。

*実は私たちは前々回(9年前)に上社、下社の御柱祭り里曳きの日に来たこと

があり、下社の日はこの坂を下った先の、木落し後御柱を里曳まで安置する

「注連縄掛」広場からの御柱の坂落とし、里曳きに訪れたことがありました*

 

御柱木落し坂上からの下り道を教えていただき、急坂を国道へと向かいます。

木落し広場内の外れに「←和田峠8.5km 諏訪大社下社(秋宮)3.5km→」の

中北道標があり、ここから歩行者用の舗装路を下ります。

下る右手に落合発電所の送水管があり、先は階段になっています。

 

 

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約400m程下ると国道142号に出、手前右手の斜面に道祖神や馬頭観世音等が

祀られ、左手には芭蕉句碑がありその隣が「落合発電所」でした。

芭蕉の句「はゆき散るや 穂屋のすすきの 刈残し」とあるそうで、

 元禄3年(1690)四十九歳時の句で、 甲州道中の御射山祭りの神事の様を

 描写していると街道書に記載されてます。

「落合発電所」脇の標柱には「諏訪地方電気発祥の地 明治三十三年(1900)

 運転開始」とありました。

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砥川にそそぐ東俣川を一つ目の落合橋で渡り、二つ目の落合橋の手前で落合旧道に

入ります。

この分岐点には中山道道標や中北道標「←諏訪大社下社(秋宮)3.1km 

和田峠8.9km→」があります。PM4:12

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砥川を左手に何軒かの工場を見ながら、木落しされた御柱が曳かれる道を下ります。

おや石仏、あっ、ニッコウキスゲが咲いている!

えっ、なぜ工務店の壁に「小売りします」が??

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左手に御柱の里曳きまで安置される、「注連縄掛」広場への道を分けると、

国道142と合流し左手へ曲がって行きます。

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合流して回り込んだところが、9年前に訪れた「注連縄掛」広場からの

御柱坂落しと里曳き祭りの出発地です。

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(2010年5月8日)

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車の流れは142号バイパスへと流れるため、わりと静かな国道になり、

国道142号線の右側は砥川の谷になって、せせらぎの音が心地いいです。

諏訪湖が見え、下諏訪宿はまもなくです。

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先の左手擁壁上に馬頭観音など六基が並んでいます。  

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 右手砥川の川棚はのどかな畑です。

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 左手に山之神があります。
 山之神の背後の山は宝暦の頃(1750年代)白鷺が巣をかける瑞兆があったと

ころから白鷺山と呼ばれ、山頂には石尊大権現と白鷺稲荷大明神が鎮座し、山中には

三十体に及ぶ神仏碑が祀られています。 

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 「山の神」の前を通り過ぎたところで、一度右の側道に入ります。国道142号線から

一段下がったところに民家が立ち並んでいて、ここが昔の街道だったってことが

 偲ばれます。民家の屋根越しに諏訪湖が目の前に見えてます。

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 ここが中山道だったことを物語るように、道の傍らに道祖神が祀られています。

「木落し坂」のところにあった道祖神もそうでしたが、この諏訪地方の道祖神

特徴は周囲に4本の御柱が立っていること。

さすがに諏訪大社のお膝元って感じですね。f:id:hansui:20180531051521j:plain

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道祖神から約270m歩くと、国道142号線のほうも徐々に高度を下げてきて、

再び合流します。
右側に中山道道標がたっており、道標のところでR142に合流し、右方向に進み

ます。

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合流したR142を約180m歩くと、諏訪神社下社・春宮方向に右折する分岐が

あり、斜め右の道に入ります。

 しばらく歩くと右手に旧道入口があり、諏訪大社の「春宮」が見えてきます。

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右側には杉並木が続き、木立の隙間から諏訪大社 下社春宮が見えてます。 

諏訪大社には諏訪湖を挟んで南に「上社(かみしゃ)」、北に「下社(しもしゃ)」が

あり、さらに「下社」には「秋宮(あきみや)」と「春宮(はるみや)」という2つの

お宮があります。春宮はJR下諏訪駅から少し遠いためか、秋宮ほど参拝者は多くない

のですが、鬱蒼と茂る静寂な森の中に社殿が建ち並んでいて、歴史の深さが偲ばれる

神社です。 

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 春宮の境内を右下に見て歩いていると、縄で仕切られた場所があり、

そこは里曳きにおいて最後の難所とされる「春宮上(はるみやうえ)」
と呼ばれる地点です。御柱を境内に直接落とす、落し口でした。

ここまで運ばれてきた御柱はこの急傾斜を使って木落しが行われ、一気に春宮の
境内に運び込まれます。

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( 2010年御柱祭り落とし口の様子)

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御柱落とし口から約50m歩くと左に曲がるり、曲がり角右手の石段から

春宮の境内に直接行くことも出来ます。
左に曲がって急坂を下ると、春宮に繋がっている道路の分岐があり、分岐点に道標が建っていました。

右にUカーブの坂を下ると、春宮の正門鳥居と万治3年建立と言われる最近人気の

パワースポット、万治の石仏へとつながってます。

旧街道は春宮に繋がっている道を横切り、真っ直ぐに進みます。

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(春宮や石仏へは御柱祭りの折に拝観してるので寄りませんでした)

万治の石仏 参拝方法 】
「万治」は、本来は年号である。しかし何時の頃からか、「万(よろず)のことを

 丸く治(おさ)める」という意味に変わってきたそうで、石仏近くの説明版には、

 お参りの作法が書かれていて、
1.正面で一礼し手を合わせて「よろずおさまりますように」と心で念じる
2.石仏の周りを願い事を心で唱えながら時計回りに三周する
3.正面に戻り「よろずおさめました」と唱えてから一礼する

(以前の御柱里曳で寄った万治の石仏です)

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坂をおりて約70m歩くと、左の石段を上った先に慈雲寺という寺院があります。

その境内に「矢除石」と呼ばれる岩があるようで、

慈雲寺の境内には寄りませんでしたが、街道書には、

武田信玄が慈雲寺に立ち寄った際、慈雲寺中興の祖と言われる天桂和尚に戦勝祈願を

問うと、天桂和尚は境内にある岩の上に立ち、信玄に「弓で射よ!」と告げました。

信玄が数本弓を射ると、矢はことごとく岩に弾かれて、天桂和尚には1本も刺さる

事はありませんでした。天桂和尚はこの岩には矢除けの霊力がある…と信玄に告げ、

それ以降、武田信玄はたびたび戦勝祈願に訪れるようになった、と記されてます。

その慈雲寺の入口には「龍の口」と呼ばれる湧き水が流れ落ちている、龍頭水口の

石像があります。この龍頭水口の石像は寛政年間に山田金右衛門という職人の手に

よって作られた物と言われ、参拝に来た人だけでなく、中山道を旅する多くの旅人の

間でも評判だったとのだそうです。

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 慈雲寺の前を過ぎると、一気に風景が変わってきます。土蔵造りの家屋や旧旅館などが建ち並んでいて、宿場の雰囲気が漂ってきます。

昔からの温泉宿の風情が残る湯田坂を抜けて、下諏訪宿の中心部へと向かいます。

 

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右手の民家の前の板葺き屋根の軒下に小さな石碑が立っています。

これは江戸の日本橋から数えて55番目、「下諏訪(下之原)の一里塚」跡でした。

 

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一里塚碑の隣が伏見屋邸で、150年ほど前に建てられ、近年、復元修理された

「歴史的風致形成建造物」でした。

伏見屋は信玄の諏訪統治と共にこの地に移り住み、代々名主・年寄役を勤めた

そうです。
現在は休憩所として無料公開されているますが時間外でした。 

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 少し先の左手に御作田神社があり、境内に柵で囲われた小さい水田があります。

この水田は諏訪大社の水田で、春宮の「御田植神事」はここで行われます。

また、収穫された稲は春宮の神供として捧げられます。

(今年は田植えはこれから?雑草生い茂る田になっていた)

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御作田神社から200m程歩くと右側の角に番所跡石碑が建っていて、下諏訪宿

江戸口であったようです。

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街道資料によれば、

下諏訪宿は、江戸・日本橋から29番目の宿場で、五街道の1つ「甲州街道」の

 江戸」・日本橋から39番目の終点にあたる宿場です。
 下諏訪宿は現在の長野県諏訪郡下諏訪町の中心部にあたり、難所であった

 和田峠の西の入口として、また、諏訪大社下社の門前町として大いに栄えた

 ところでした。

 天保14年(1843年)の中山道宿村大概帳によると、下諏訪宿の宿内家数は315軒で、

 人口は1,345人。本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠40軒、この他、茶屋が2軒、商屋が

 15軒あり、さらには宿の外れには木賃宿もあって、巡礼者や下級の旅芸人などが

 利用した。

 古くは鎌倉時代から温泉の利用が確認されており、中山道唯一の温泉の

 ある宿場として知られ、ともに難所である和田峠塩尻峠の間にあり、旅人に

 とって格好の休憩地だった」とありました。

 旧称は「下ノ諏訪」と言ったようです。

 写真左上に鉄鉱泉本館、下は鎌倉時代、慈雲寺を訪れる修行僧達の為に建てられた

と いわれる旦過寮の湯で、湯口は52度という高温で、戦いで傷ついた武士も入浴し

たと言われます。

下諏訪温泉はかつては各旅籠に引き込まれておらず、共同浴場でした。

古くから「綿の湯」、「児湯(こゆ)」、「旦過の湯(たんかのゆ)」などの湯があり、

今でも共同浴場が営業されています。

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鉱泉本館からすぐ先の右側に、今井邦子文学館がありました。

今井邦子文学館は茶屋「松屋」の建物を復元したものです。

案内板によれば、

「今井邦子は、四国・徳島市出身の「アララギ」の歌人で小説家。後に女流短歌誌

「明日香」を創刊したことで知られています。四国・徳島の生まれではありますが

 2歳の時に下諏訪町の祖父母の家に引き取られ、ここで育ちました。結婚、出産を

 経てアララギ歌人の島木赤彦と出会い、短歌の新境地を開いた」とありました。

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おっ、宿場町にクラシックカー、合うわね~てカミさん。

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 宿場の入口から坂を少し上った左に、天文10年(1541年)創建の来迎寺があります。

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 寺院の境内には平安中期の歌人和泉式部の供養塔があり、傍らに

「あらざらむ この世のほかの 思い出に 今ひとたびの 逢うこともかな」

という和泉式部の歌碑も立ってます。

和泉式部の幼少の頃にまつわる伝説の守り本尊の「銕焼地蔵尊」があり、

毎年4月中旬にご開帳供養が行われるそうです。

また、写真左下は、「かな焼地蔵尊」というそうで、

「平安の昔、顔に大けがを負った「かね」という少女が、普段から信仰厚くお参りし

 ていたこの地蔵様に拝んだところ、不思議なことに傷は地蔵様の顔に移り、傷はた

 ちどころに治ったという伝説があります。そして美しく成長した少女「かね」の噂

 は都にまで聞こえ、時の帝に召し出され、のちにかの平安の歌人和泉式部

 なったとの言い伝えもあることから、立身出世にもご利益があると言われて

 います。とありました。 

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中山道を挟み来迎寺の反対側に、諏訪大社の神陵とされた諏訪地方随一の

前方後円墳青塚古墳」があったそうですが、気づかずに通り過ぎたようです。

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「遊泉ハウス児湯」の前あたりからが下諏訪宿の中心部となり、

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左に本陣跡の標識が見え、向かいに真っ白い漆喰の壁が印象的な大津屋が建ってます。

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公開時間は過ぎていましたので、はいることはできませんでしたが、

左手に格式高い門構えの岩波家本陣跡があります。(PM5:20)

岩波家本陣は本陣問屋役を元禄元年から明治維新まで務めていた家で、

現在の当主は28代目にあたるのだそうです。

この岩波家本陣は諏訪大社下社秋宮の境内を借景とし、ここの広大な庭園は

中山道随一の名園としても有名だったそうです。

現在も一部が一般公開され、皇女和宮が御降嫁される際に、また明治天皇が宿泊した

際に利用された奥の座敷を見学することができます。

また、玄関には、参勤交代の際、大名家が宿泊している時に掲げる関札を展示して、

徳川御三家や井伊家などの関札が残されているのだそうです。

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 本陣の少し先に「綿の湯」の跡があり、当時の「錦の湯」の様子を描いたタイル絵が

飾られています。

江戸時代、各旅籠には温泉は引き込まれておらず、宿泊客も一般開放されていたこの「錦の湯」を利用しました。

他の湯は地元の人以外は入れず、温泉は混浴が普通だったのだそうです。

*広重画 下諏訪宿、客が風呂に入ってますね。この宿は温泉ではなかった?

(広重は当地を訪れていなかった、の説もありますね)

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直進する道は甲州街道で、ここには「甲州街道中山道合流之地」と刻まれた碑が

立っています。

ここで江戸の日本橋からやって来た中山道と、甲斐国(山梨県)経由でやって来た

甲州街道が合流しました。

埋め込まれているタイルには、
 「旧甲州道中・江戸53里11町、旧中山道・江戸55里7町、京都77里3町」

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そのまま真っすぐにたどれば、諏訪大社秋宮の門前を通り甲州街道が江戸へ続き、

中山道は直角に右に折れ、元脇本陣丸屋、旅籠だった「桔梗屋」の間を真っすぐに

笠取峠越えと向かいます。

歩き残していた難所、和田峠をなんとか超えることが出来て下諏訪宿へ到着し、

念願の「中山道歩き旅」を継なぐことが出来ました。

(PM5:25)

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すこし急ぎ足で駅へ向かいます。

予定の列車にも間に合い、下諏訪PM5:40発、

初めての中央線 特急あずさ30号乗車、PM9:20帰宅、旅を終えました。

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いや~登れました、下れました。歩き旅というより、登山旅でした!

下諏訪宿の先は、昨年11月に下諏訪を旅立ち、現在は木曽路を歩んでいます。

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おわり