定勝寺をでて隣の水船庭のベンチでお昼としました。
歩き旅の後編。
12時、20分ほどの昼食タイム後旅の足を進めます。
向かいの板塀を回した、大きな屋敷の角を右手入り足を進めてますが、・・・
??、ここまでブログを記してきましたが、街道書と写真を確認していて
気が付きました。なんと、桝形・「鍵屋の坂」を通っていなかったんです。
直前に二人の旅人が、街からやってきてこの角を曲がっていたんです。
「あ、あそこを右だ」と桝形のことをコロッと忘れて、全く疑わずに足を進めて
いたわけです。
正しくは、定勝寺から少し戻って、写真に残してたこの「蔵」のところを
曲がるんでした。
そして「真中に用水が流れ、左右に家があるという宿場の原風景をとどめるという
中を下って行く」と記されてる道、歩きたかったな~・・
定勝寺前の水船案内図、ちゃんと見てたんだけど・・・、
赤枠、曲がる桝形 青線、誤った道筋
坂を下ると突き当りを左へ曲がって、大きな屋敷前を通って行きます。
街道はゆるやかな左カーブになり100mほど先で、須原の街並みから真っすぐ来る
県道265号線に合流して、右方向に進んだ二股を左の道へと歩きます。
二股の左手脇に、「左、野尻宿」の石柱が建ってます。
補足のように⇒で指す道筋板もありました。
県道265号・須原大桑停車場線の緩い上り坂を行くと、中央線の第9中仙道踏切
を渡ります。
眼下に木曽川と中央線を眺めながら長い、その名も長坂を歩いていきます。
福沢諭吉の娘婿、福沢桃介が造ったと言われる、須原水力発電所も見えてます。
長坂が下りにかかる付近の、昔茶屋が二軒あったと言われたところは、
なんの印もありませんが、民家が一軒ありましたね。
まだバイカウツギ(写真右)が綺麗に咲いてます。
ゆるい下り坂も線路が近づくほどに下ると、旧橋場村の案内板があり、
穏やかな里山集落、橋場へと入って行きます。
大桑村公民館橋場分館と、赤いポストのある所で左折し山裾を行くと、
左手崖上の中腹に、高いやぐらの上に御堂がある懸崖造りで、本尊は馬頭観音。
この懸崖造りの景観から木曽の清水寺と呼ばれているそうです。
案内パンフによると、
文化10年(1813)に焼失,須原の定勝寺19代住職により再建された。
堂内には沢山の絵馬が奉納されていてこの地方の人々の暮らしや文化を伝えている。
山側の崖に多数の石像が建ち,馬頭観音や三十三観音が集められている。
右はウツボ草、中は?? 公民館分館の十字路に戻り南へ進むと、
伊那川渓谷が流れ、伊奈川橋を渡ります。
英泉の木曽69次野尻宿「伊奈川橋遠景の図」はこの橋を描いたと言われます。
伊奈川は暴れ川であったため、橋桁が架けられづ刎ね橋であったことが,
この絵で分かりますね。
左手上の奥には、ちょっと判りづらいですが、岩出観音堂も描かれてます。
(旧橋場村は、この橋の築造保守担う職人衆が居住していた集落だったそうです)
現在架けられている橋 にも橋杭が無く、往時の姿を残しているよう。
橋を渡ったT字路を伊奈川にそって、擁壁側の歩道を右手へ向かいます。
しばらく坂道を上がって擁壁が石積で低くなったところで、
足元に「どっさ」と何かが落ちてきて、
「うわ~、蛇だぞ!」えっ、と言ったきりカミさんは近寄って来ませんでした。
なんと太い大きな蛇がぎょっろと睨みつけて、素早く道端の草むらへ
動き出しました。
普通に見られる青大将か、と思ってましたが、帰宅して写真をよく見ると、
ちょっと違う様子。
調べてみると、並んでる赤い文様などから、なんと「ヤマガガシ」の様です。
昔は飼っている人もいたようで、50年くらい前までは毒蛇と思われていなかった
ようですね。
いや~、危ないところでした。
中山道で蛇にも何回か出会ってますが、こんな足元近くに上から落ちてきたのは
初めてでしたね。
坂を上り切ったところで、Y字路を左へ入ると中北道標が現れ、大島という
集落へ入ったようです。
Y字路を左方向に約220m歩くと、「初期の中山道」との分岐点へやってくる。
左側に大桑村消防団第二分団があり、その約30m先が十字路になっており、
街道書には、ここを直進する道は「江戸初期の中山道」といわれ、木曽川畔を辿る
道筋だったが、度重なる水害に遭い現在の大回りの道に付け替えられたと
記されてます。
代わりに左折する道が造られ、十字路右角に中北道標、右手須原宿(京から来て)
の石柱が建つここを左折する。左折角に水船があります。
曲がって進む道は街道書を見ても、木曽川から大きく離れた山を回り込む道で
載ってます。
左折してしばらく歩くと緩やかな上り坂となり、東集落へと入って来たようです。
自転車の少年が「こんにちは!」と大きな挨拶を残して追い抜いてゆきました。
ほっと、心が微笑みますね。
田植えも終えたのどかな里路を行きます。
左手の用水路には、こんな幟もありました。
一気にすべての蕾が開花しような、カルミア、このブルーの花は?
家々に巨大な葉の朴木が、1本は植えていますね。
神社の幟柱を見てしばらく行くと分岐があり、八幡神社入口標石が建っていました。
八幡神社入口を右手に送り、ゆるく曲がる道へと進みます。
八幡神社入口標石から100mほど歩くと、T字路になり、手前左手の段上に
大正十二年(1923)の土石流で二十六名が犠牲になった水害記念碑が
あります。碑によると土石流のことを「蛇抜け」というようです。
旧道分岐から800m程、分岐の道の左手には中北道標と「右 中山道 野尻宿へ」
「左 中山道 須原宿へ」の標石があり、右手に足を進めると東集落から西集落へ
入ります。
右手は山裾、左手に田畑や民家が点在する、山々に大きく囲まれた、のどかな
広々とした里が広がっています。
持参街道図を見ると、何本かの川が里の中を流れ、木曽川にそそいでいるようです。
その河川が大洪水を引き起こしたのでしょうか。
心地よい里風に吹かれながらのんびり進むと、田畑の中に寺院の屋根が見えて
きて、左山裾に道標と案内板が立つ、天長院への道が分岐してます。
街道から左手に折れて、天長院へ向かいます。
山門石段下にいろんなポーズのお地蔵さんが迎えてくれます。
天長院は、もとは真言宗であったと云われているが現在は臨済宗妙心寺派。
室町時代に木曽家祈願所として、伊奈川大野に創建され広徳寺と称したが、
天文年間(1540~)に武田軍の兵火で焼失。
その後文禄年間(1594~)須原の定勝寺の第7代住職により開山され,
寛文年間(1662~)に現在地に移転された。
境内山門脇に、子供を抱いた子育て地蔵があり、抱いた紐が十文字になっている
ところからマリア地蔵とも呼ばれています。
木曽谷には隠れキリシタンが住んでいたのでしょうか。
山門下には、ばんざいをしたお地蔵さんなどユニークなお地蔵さんが並び、
思わず頬が緩みます。
街道に戻り、山裾の道を少し行くと、道下に山からの豊富な湧水を利用した、
水場や池が見られます。
カミさんが、わあ、面白いわよ、て手招きする先に、山裾道脇に水場から流れ出る
小さな水溜まりが見え、カミさんが草むらをトンと足踏みすると、何かが
ぴょんぴょん飛び込みます。
何匹ものカエルでした。トノサマカエルかな?
水溜まりの草陰からのっそりと出てきたのは・・
おっ、イモリかな??いや、もしかして「サンショウウオ!!」
(判別はつきませんね)
中山道に戻り、
下り坂をグングン進むとY字路が現れます、左に進みます、
やがて左手からの上田沢がすぐそばへ寄ってくる。
下りきると分岐に中北道標があり、左手の道へ進み、すぐ先の斜めT字路を
左折し、上田沢を長野宿橋で渡ります。
T字路を右手へ行く道が本来の中山道で,この先で道は土石流災害で埋まり
消滅しているという。
周辺は「弓矢」という集落があり,当時は間の宿として「弓矢茶屋本陣」が
あったそうです。
橋を渡った50mほど先の十字路を、右折し下ったた突きあたりが、
JR中央本線の大桑駅で、左手に行くと大桑役場があり、大桑村の中心かな。
そのまま直進し、ししご沢に掛かる長野橋を渡り黒塀の大きな家を見送り進むと、
JR踏切手前左側の山裾に、奉燈と記された常夜燈が2基があり、
「第10中仙道踏切」を渡って国道19号に合流します。
国道を横断し、右折して大桑駅のところから木曽川方面へ下り、道なりに進むと
古中仙道の「大桑の一里塚」が残っているようですが、寄りませんでした。
江戸時代の中山道としての一里塚は築かれなかったのでしょうか。
国道19号線に出て横断し、左に緩やかに坂を上って行きます。
大桑の道の駅案内板が見えてきました。
もう少しだ、頑張ろう、ソフトが待っているぞ!
振り返れば中央アルプスの山並みも見えるはずですが、雲に隠れてますね。
坂を上り切ると右手裏手は木曽川の崖となっていて、片欄干橋(桟のようなもの)
が架けられた難所だったという。この狭い通路を利用して木曽義仲が関所を置いた
といわれるが、詳しい経緯はわかりません。
関所跡には廃墟のホテルと手打ちそば関山が並びに、奇妙な関所跡碑があります。
碑には関所跡・モーテル関山と。モーテルが独自に建てた物なんでしょうね。
関所跡先の国道19号線右側の歩道に架かるニガ溝橋橋側歩道橋を渡ります。
「橋側歩道橋とは河川、湖沼、海峡、運河などの水面を越えるため、あるいは水の
ない谷、凹地または、建築物や他の交通路等を越えるために桁下に空間を残し、
架設される 道路構造物で橋長2.0以上のものをいう。」
(国土交通省資料)
要するに「かけはし(梯)」に類した橋ということかな。
関所跡の下をトンネルで抜けた、特急電車が駆け抜けてゆきます。
関所跡から500mくらい国道を進み、ガソリンスタンドの手前で、
国道を左手に横断し、道の駅大桑(木楽舎)で一休み。
PM2:15
日陰で食したリンゴソフト、気温の高い中の歩き旅の疲れを
スーッと取り除いてくれたような。
20分ほどの足休めをして街道へ戻ります。
のぞきど森林公園の大きな標識先を、右の国道と中央線の間の
下り坂へ入って行きます。右手草むらの中に中山道の石柱がありました。
線路わきは大きくはなってますが、ワラビがいっぱいです。
「頭の部分なら、まだまだ食べられるわね」てカミさん。
第11中仙道踏切で右手に渡ると林集落で、ばったんばったんと機械音が聞こえ、
賑やかなお喋りが、右手の建物から聞こえてきました。
集落の方々の集会所兼作業所の様です。
先が大きく開け、中北道標の建つ分岐を、左手へとゆるやかな坂を進みます。
振り返ると、・・もう少し前のなら雪を頂いた中央アルプスの峰々が見られる
そうですが、ちょ雲がかかってしまってます。
第12中仙道踏切を渡って、倉坂の少し急な道を上ると、
斜めT字路で、左・野尻宿と刻まれた道標が立ち、右手坂下には煉瓦造りの
洋館が見えてました。
左手へ行くとすぐに、右・野尻宿の道標があらわれ、さらに坂道を右手へ登ります。
Y字路分岐から約40m歩くと、左側に南無妙法蓮華経髭題目碑があり、
台石が、触るとイボが治ると言われるイボ石で説明板がありました。
すぐ先が野尻宿の「東のはずれ」といわれる江戸口の様で、どちらかの家が
「はずれ」という屋号札を掛けているそうですが、見落としたかな?
(さっきの「いぼ石説明板」のところが高札場だった、との説あり)
立ち寄りませんが、野尻の七曲りの道を行くと、左手に上る細い参道の国道を
横断した山側に、「妙覚寺」があります。
資料によれば、
「臨済宗妙心寺派の古刹で須原定勝寺の末寺。 およそ700年前の創建とされて
いるが,火災で焼失後,寛永元年(1624)に再建された。「鐘楼門」は
1726年の建立,「本堂」は天保3年(1813) の建立,「観音堂」は
安政3年(1856)の建立。 観音堂の左手奥に 天保3年(1832年)
建立の「マリア観音」が安置されている。
千手観音の右手には錫杖(しゃくじょう),左手に持った宝激(ほうげき)に
紛れて十字架のようなものを高く捧げている。石仏の裏には「天保三辰年」の
銘が刻ま れていて,キリシタン禁制の時代にひそかに造られたものである。
木曽川右岸の「野尻向」に在ったものを昭和46年(1971年)に現在地に
安置された。」
(次回、野尻宿旅立ち時、寄ってみたいと思ってます)
参道角の右手に常夜燈と祠がありました。
中仙道の石柱を左手に見て、野尻宿の宿場街並みへと入ります。
野尻宿は左右にくねくねとうねる街道筋に家々が軒を連ねる町並み。
この宿場を貫く道は「七曲がり」と呼ばれ、先を見通せないようにすることで
外敵の進入を防ぐ目的があった。
真っ直ぐに通りを約30m進むと、左側に本陣碑と明治天皇御小休所碑が建って
いました。
本陣は森本家が務め問屋も兼ねていましたが、建物は明治27(1894)年の
大火で焼失しまったそうです。
本陣から約30m先の右側に問屋と庄屋を兼ねた脇本陣があり、現クリーニング店の前に跡碑が建っていました。
野尻宿は、江戸から77里6町47間,日本橋から40番目の宿場。
古くから集落が形成されていて,以前は「野路里」と書いた。他の宿駅と同じく
駅伝制度が出来た慶長6年(1601)に宿場として整備された。
宿は現在の大桑村南端にあり,木曽川左岸の段丘上に位置し,上町・仲町・下町・
荒田町となっており,荒田町の端に「はずれ」という屋号をもった家がある。
宿建人馬は25人,25頭で,不足の場合は下4宿(野尻・三留野・妻籠・馬籠)
共有の助郷制度で賄われた。
江戸時代に2回(1791・1824),明治27年(1894)に大火で,
宿場の大半が焼失し,さらに昭和18年(1943)の火災で追い打ちをかけられ
,昔の面影はほとんど残っていない。
街道の姿をわずかにとどめるのは,格子窓と低い軒並み。「七曲り」と呼ばれる
曲がりくねった街道筋(現県道261号)と「枡形」で外敵から町を守る町並みが
特徴的である。
人口986人(男:490人 女:496人) 家数:362軒 本陣:1 脇本陣:1 問屋:2 旅籠:19
(以上街道解説より)
交番(写真右)を過ぎて,御大典記念碑から約30m歩くと、
左側に宿場の雰囲気が漂う旅館庭田屋があり、
倉本駅から約14km(3里半)、夏日になりましたが、木陰は爽やかで
今日もいい歩き旅。
江戸より77里6町37間(303.1Km)、京都より58里26町55間(230.7Km)、
一歩一歩京の都が近づいてます。
角を右折し野尻駅にて、PM3:20、第27回の歩き旅は足を止めました。
帰りは権兵衛峠は通らずに奈良井を通り、塩尻から高速道へ入り、
多少の渋滞は有りましたが、8時30分帰宅で、旅はおわります。
帰宅後すぐに関東甲信越は梅雨入りでした。
次の旅路は天気予報と睨めっこしながらかな。