歩いて再び京の都へ 中山道69次夫婦歩き旅 第28回    野尻宿~三留野宿、妻籠宿、馬籠宿 中編

現在PM1:30です。
野尻宿から約11km、4時間30分も掛かって歩いてきました。

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この先に待つのは「妻籠宿 」、3.7km

木曽路はすべて山の中である」へと向かいます。

ガンと凍らせて断熱シートに包んだペットボトル飲料は、まだ半分以上は氷が

残っています。これからは山の中、木陰道も多くなるし、

「進みましょうか!」「よ~し、行こうか!」
気力体力、まだOK、もうひと踏ん張りと足を進めます。

民家の間の細い道を進むと和合集落で、

「昔,木曽の谷中に酒なし 和合の里人はじめてこれを造る 和合酒という」

江戸時代、和合酒「諸白」を醸造した遠山家跡は畑になり、町の天然記念物に

指定されてい遠山氏の庭木だった、名残りの「和合の枝垂梅」が道に枝を伸ば

している。

春には見事な枝垂れ白梅が咲くそうな。

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枝垂れ梅から少し道を下ると右手からくる道と合さり、街道は左方向の上り坂を

進みます。右方向への道は坂を下ると左下にD51が展示されたSL公園があり、

そのまま道をたどると南木曾駅へと続いています(写真左下)。

木陰になるたびに、足は自然にゆっくりになりまますね。

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山裾のゆるい坂道を行き、街道はいよいよ山の中へ。

道祖神や自然石の道標など如何にも中山道らしい道を行き、

川辺が近づくと、すーと涼しさを含んだ風が通り抜けてゆきます。

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最後に急坂(神戸坂)を上ると、立場であった神戸(旧合村)集落に入る。

街道書によると、

蜀山人の号でも知られ江戸時代の文化人、太田南畝は壬戌紀行の中で

「立場名物のあんもちを「東海道にもかゝる餅はまれなるべしと思はる」

と絶賛しているそうです。 f:id:hansui:20180723211652j:plain

村外れの左手に袖振り松の切株があります。 

 案内板の謂れによると、
木曽義仲が弓を引く際、邪魔になった松を巴御前が袖を振って倒し、
 その横倒しになった松から新芽が伸び、いつしか「袖振りの松」と呼ばれ
 何代目か後の樹齢130年ほどの松も虫害で枯れ、平成21年に伐採されて
 しまった。平成22年に巴御前が晩年過ごした富山県南砺市より、
「巴塚の松」と呼ばれる樹齢750年程の黒松の実生苗木を譲り受け、
 再植樹した」と記されてます。
(写真は写し損ねたので、左2枚はお借りしたものです、

               松はもう少し大きくなっていた)

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右手にはイベントが有ったのかテントが建てられていて、

後ろ側に神戸村の鎮守、慶応3年の「ええじゃないか」騒動に降ってきた御札を

祭ったと謂われの「神明神社」がありました。

わりと最近、建てられたような神社でした。

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 神明社の左脇から石段を下るとかぶと観音堂の境内にはいります。

 案内資料よれば

「平安末期、木曽義仲が北陸路に出撃する際、砦を築いた妻籠の鬼門の方角に

 兜前立の飾りの観音像を外して祠ったのが、始まりとされる。

 戦国武将で、後に初代木曽代官となる山村良候が中心になって

 1589年に堂舎が建立されたと伝えられ、現在の建物は江戸中期の築で、

 幕末の1847年に改修され、郡内の堂では最古級」とあり、

   側にひときわ大きな観音像も建ってます。

 また、資料によれば、

「後の天正十二年(1584)小牧長久手の合戦の際、秀吉方の木曽義昌

山村良勝に妻籠城の守備を命じましたが、落城寸前になったところ、義昌が

かぶと観音に祈願すると、白鳩が舞い上がり、妻籠城の天守に止まったので瑞兆と

戦意が高揚し、ついに徳川軍を退けました。

以来、武家の崇敬が篤く、往来の武士はもとより参勤交代の大名も必ず参拝したと

いいます」とありました。

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境内へ下った石段脇に、南木曽町読書地区の住民有志が、伐採した130年の

「袖ふり松」にて造った大にな水舟が置かれ、こんこんと流れていますが、

「飲めません」と、注意書きがありました。

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境内にはトイレもあり、出た先の地元民芸品を商う木工製作所前に自販機も

あったので、冷たいコーヒーで喉を潤し、しばし足休めをし街道へ戻ります。

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かぶと観音の参道口に中北道標「←1.2kmJR南木曽駅妻籠宿2.5km→」

があり、木工製作所右手の下り坂に入り、進むとY字路となり左方向に進みます。

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坂を下り、広い車道を横断し小さな橋を渡ると、右側に源臣光照院塚大明神碑が

建っていましたが、塚ということは何かを埋めた??

碑の謂れはわかりませんでしたね。

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次いで戦沢を戦沢橋で渡ると、大きな解説板があります。

重要伝統的建造物群保存地区南木曽町妻籠宿保存地区の説明が記されています。

いよいよ妻籠宿が近くなってきました。

川風が心地よく吹き抜けます。

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街道は左手に竹林の、復元された石畳道の上り坂になり、先でY字路を左側に

進みむと、自然石の「せん澤道標、右妻籠宿へ/下り国道へ/左なきそ駅へ」が

あります。

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上空が開け空が大きく広がりましたが、f:id:hansui:20180725165021j:plain

右手の木立の中を進むと、草木が繁りわかりずらいですが、両塚かが現存して

いる上久保(うわくぼ)の一里塚が現れます。

江戸より数えて八十里目ですが、なぜか解説板には78里目と記されています。

町内には十二兼、金地屋、上久保、お一里塚がありましたが、原型を留めるのは

ここだけです。

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旧道を下ると左側の傾斜地に良寛歌碑。

この歌は良寛木曽路を通った際に、詠んだ二首の内の一首で、

「この暮れの もの悲しきに わかくさの 妻呼びたてて 小牡鹿(さおしか)鳴くも」

と彫られているそうです。

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良寛歌碑からすぐ先の右手に、勝野家で「くぼほら茶屋跡」です。

手前の左手には中山道自然石道標「右つまご/くぼほら茶屋/左みどの」と

石置き屋根の水車小屋があります。

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 茶屋跡からは曲がりくねった上り坂を進み、突当りの上道(志ん道)を

右折します。

この分岐点には中北道標があり、妻籠宿1.4kmとありました。

右折すると左手に昭和45年(1970年)の建立の

中山道蛇石(へんびいし)」と刻まれた自然石道標が建ち、

「右つまご宿/左志ん道(新道)/下り道旧道」とあります。

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街道書では、少し先に蛇の頭のように見える蛇石(へんびいし)いわれる大石が

あり、「旧中仙道名石の一つ」と、書かれた木札が立て掛けられている、と

ありましたが、草木に埋もれていたのか気づかずに通り過ぎてました。

(資料の写真)

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木曽路の山間に穿かれた街道らしい風景が広がり、鬱蒼とした森がつづきます。

蛇石標板から約200m程歩くとY字路になり、右側の砂利道を先に進むと

すぐ車道と合さり、その先右手に「しろやま茶屋」の廃屋があります

妻籠方面からやって来た若い欧米系のカップルに、「ナギソステーシション」と

指さしで聞かれます。「イエス、ナギソ」こちらも指先で。

f:id:hansui:20180725203648j:plain しろやま茶屋のすぐ先が三叉路になっていて、真ん中の下り坂が旧中山道で、

道標には妻籠・1km、右手は妻籠城跡への山道です。

 分岐の木陰では3人の男性旅人が休んでいました。

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時刻はPM2:40、城址へ寄ることにし、右手の山道へと入ります。

この分岐点には妻籠城跡道標(下写真・右端の石)があります。

途中では、下りてきた欧米系の方が3組と、ハイキングスタイルの日本人ご夫婦に

出会います。

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外国の方々は、かなりラフなスタイル、妻籠に宿泊かな?

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結構な上り坂を進むと左手は竹林の谷、そのさきに土橋跡(写真左下)があり

左側に解説パネル、さらに約60m進むとY字路となり右に進み、堀切跡などを

見送ると、

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最後のきつい登り、息を切らしながら上がると、15分ほどで妻籠城址に出ました。

城は典型的な山城で、空堀、曲輪、土塁も備えていいたといわれます。

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木曽義仲が砦を築いたと、かぶと観音堂の案内に在りましたが、

城址の案内板や妻籠観光協会の資料によると、

室町時代中期ころ木曾氏復興の祖と称した、木曾義仲七世孫・木曾家7代当主

木曽家村が築城といわれ、標高521mに位置し、戦国時代には木曽氏中興の祖、

木曽義昌が整備した。

義昌は甲斐の武田信玄に従属していましたが、

天正10年(1582年)武田勝頼を裏切り、織田信長に寝返りました。

信長はこれを機に甲斐の武田勝頼を攻め滅ぼしました。

天正12年(1584年)小牧長久手の戦いに際し、一旦は徳川家康に従っていま

したが、羽柴秀吉に寝返りしています。

天正14年(1586年)秀吉と家康は講和を結び、義昌は再び家康の傘下に

入ります。戦国時代を器用に泳ぎ切った義昌でしたが、家康の関東移封のさい

秀吉により天正18年(1590年)下総國阿知戸一万石に移封され、5年後に

没しました。」

と記されてます。

また、関ケ原の合戦に間に合わなかった徳川秀忠は,、この妻籠城で勝利を知らされ、
家康の怒りに慄いたと言われてる。

妻籠城は元和2年(1616年)廃城となる。

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城址の西端から、これから訪れる妻籠宿の眺め、吹き上げてくる心地良い風に、

身を委ねます。

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広重は妻籠として画面の左に恵那山、中央に妻籠宿に向かう峠道、そして右手に妻籠城があった城山を描いたと言われます。峠独特の七折八折の道を旅人が行き交う。

天秤を担いだ人足、大きな荷を背負ったお遍路。杖をついた旅人。

皆一様に膝を曲げた姿で峠道の上り下りを描写していると言われます。

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城址を後に道を下り、再び三叉路へ戻り、いよいよ妻籠宿への最後の1kmです。

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 三差路中央の急勾配の石畳風舗装路の下り坂をゆくと、先で車道に合流し、

右にカーブした左手に中北道標「3.0km JR南木曽駅妻籠宿 0.7km」

があり、 その後も頻繁に道標が有りましたね。

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先に進むと妻籠宿手前の集落に入る右手に、英文字でも書かれた
道標「妻籠0.5km/南木曾駅3.2km」があり、先を右曲がりすると

Y字路となって、右手に路を取り妻籠宿へと入って行きます。 

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 妻籠宿の江戸(東)口の恋野に到着です。

右手に、今旅人が宿泊したと紀行文に書かれる、御宿大吉、続いて民宿ふじ屋の

趣のある建物が現れます。

さすが三連休、大吉は問い合わせましたが満室で予約できませんでした。

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民宿ふじ屋の隣は、江戸時代後期建築の長屋の一部が残る南木曽町有形文化財

「熊谷家住宅」 f:id:hansui:20180726205050j:plain

その向かいに恋野の地名由来になった大きな「鯉ケ岩」があります。

中山道三名石「烏帽子岩吾妻橋地区、兜岩(神戸地区))の一つで、

文化2年(1805年)刊行の木曽名所図会に記載(写真右)されているそうです。

しかし明治24年(1891年)の濃尾地震で頭部が落ち、形が変わってしまい

今は案内板が無ければ、巨大な岩というだけですね。

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進むと地蔵沢橋がありこの手前左手が、後に福島関所に統合され廃止された

口留(くちどめ)番所跡で、往来の人々を監視していました。

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 木造の地蔵沢橋を渡ると、この辺りからが東枡形跡で妻籠宿の江戸口、

PM3:20、三留野から約3.7kを2時間余も掛りながらも妻籠宿へ到着です。   

10年以上前ですが、御嶽山登山の折に足を伸ばし、 妻籠、馬籠を訪れたことが

有りました。  右手に曲がると、

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思い出よみがえる街並みが、眼に飛び込んできます。

あの時は車で来ましたが、いま一歩一歩歩いたどり着ついた妻籠

う~ん、感無量ですね。

前後が桝形で急坂の途中に、高さ二間、長さ二間、横五尺五寸と往時の通りに

復元された高札場があり、次いで左手に水車小屋があり稼働しており、過ぎて宿の

中心部へと入って行きます。

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高札が7枚ほど復元し、掲げられている。

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妻籠宿は江戸から81里6町47間(318.5km)42番目の宿場です。

宿内の町並みの長さは2町30間(約270m)。

木曽17宿の中では一番小さい宿場町と言われているが,中世からの宿として

利用され、木曾路から伊那街道と飛騨街道との追分を控え大いに賑わいました。

 

宿場は上町、中町、下町で構成され、寺下・在郷を含んだ

妻籠村を形成していた。中町に本陣、脇本陣問屋場が置かれ、

建物は出梁により二階を張り出した切妻造、平入りが特徴です。

電信柱は奈良井宿もそうでしたが、建物の裏手など目に入りにくいところに

設置しています。

下ると下町に入ります。

(ゆるい下り道の妻籠宿)

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坂を下ったところから、右手に分かれる細道を下ると国道256に出て、

南木曾、妻籠、馬籠を結ぶバス停がありますが、南木曾へのバス時刻までまだ

余裕が有るので、少し先まで足を進めます。 

 

天保14年(1843年)の中山道宿村大概帳によれば、

妻籠宿の宿内家数は八十三軒、うち本陣一、脇本陣一、旅籠三十一軒で、

宿内人口は四百十八人と記されてる。

 

足を進め中町に入ると右手に、屋号を奥谷といい林家が脇本陣を勤め、

問屋、庄屋を兼ねた「奥谷脇本陣跡」があり、林家は島崎藤村の初恋の人

「おゆう」の嫁ぎ先でした。

造り酒屋を兼ねており、造り酒屋の屋号が[「奥谷」だったのですね。

現在の建物は明治10年(1877年))禁制が解除されたヒノキをふんだんに

使用して建てられており、国重要文化財になってます。

 現在は皇女和宮よりの拝領品など、歴史を語る品々を展示した南木曽町博物館の

施設の名称として「脇本陣奥谷」と呼ばれ、公開しています。

 

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隣接して歴史資料館もあります。
前に立ち寄ったことがあるので、施設関連を今回は拝観しませんでした。

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妻籠観光協会の資料引用)

「時代が変り明治になり鉄道や道路が新たに造られ、宿場としての機能を失った

 妻籠宿は衰退の一途をたどりました。
 やがて昭和になり経済成長の中、江戸時代の宿場の姿を色濃く残している

 町並みが 見直され、ここに全国に先駆けて保存運動が起こったのです。
 妻籠の人たちは町並みを守るために家や土地を、

   「売らない・貸さない・壊さない」

 という3原則をつくり、ここで生活しながら、江戸時代の町並みという貴重な

 財産を後世に伝えているのです。

 昭和五十一年(1976)に妻籠宿は重要伝統的建造物群保存地区に指定され、

 地区内にある二百三十三棟の伝統的建造物の内、五十三棟が復元され一躍

 脚光を浴びるようになりました。」

 (詳しい妻籠宿については、下記 妻籠宿観光協会のHPにお立ち寄りください)

www.tumago.jp

 

 先左手に、桧をふんだんに使って建てられた無料休憩所「妻籠宿ふれあい館」

土間で広い板間になっていて、観光客が気軽に寝転んだり、お弁当を食べたりと、

自由にくつろぐことができる休憩所となっています。

季節季節に、お雛様や節句などの飾りがあり、朝市や地元民芸品の実演販売も

行われるそうです。つかの間足休め。

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休憩所の係りの方の話では、7月上旬の記録的豪雨の折には、南木曽町内の

地域バスもすべて運休となり、中央線も中津川、塩尻間が運転見合わせや峠道の

通行止めが起きて、大変な混乱があったそうです。

ひな祭りは1ケ月遅れの

 

振り返って来た街並み。

右手、軒卯建の建物は屋号「柏屋」

妻籠へ入った途端、日本人より多く感じるほどの外国の観光客です。

午後も3時を過ぎて、一般の日本人観光客は少なくなり、多くは欧米系の外国の

方々が宿場町をそぞろ歩きしたり、軒下ベンチで寛いでいたりしてます。

今夜は何処へ泊るのでしょうか? 

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休憩所の先隣は、代々島崎家が勤め問屋を兼ねた「妻籠本陣跡」があり、

島崎家は馬籠宿の本陣を勤める島崎家とは同族です。

幕末には妻籠の島崎家から、ぬい(藤村の母)が馬籠の島崎正樹のもとに嫁ぎ、

七人の子供をもうけ、末子が島崎藤村でした。

また、藤村の次兄広助は妻籠宿本陣の養子となり最後の当主となりました。

その後、本陣は明治32年(1899年)に取り壊されましたが、

平成7年(1955年)に、島崎家に残っていた江戸時代後期の間取り図を元に

忠実に復元されました。

本陣門手前脇に人馬会所(問屋場)が復元されています。

妻籠宿には本陣と脇本陣に人馬会所があり、半月交代で勤め、問屋、年寄、帳付、馬指、人足指などの宿役人が勤務し、人足の指図や荷物の割振りを行いました。

本陣は島崎氏が、脇本陣は林氏が、両方とも江戸時代を通じて勤めていた。

(人馬会所(問屋場)、右手が本陣です。)

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本陣跡の少し先、上町に足を進めると右手に、

島崎藤村『夜明け前』にも開局当時の様子が描かれている妻籠郵便局。

現在の建物は、昭和53年度に郵政本省建築部の指導で復元され、

同時に局前のポストも、全国で唯一の黒いポストが復元されました。

郵便史料館も併設された今も現役の郵便局で、昭和60年に開設されました。

妻籠案内資料から) 

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ゆるい坂道をさらに進むと、先は桝形の様で左手の妻籠宿観光協会(写真右)は、

江戸時代を抜け出して、大正昭和のレトロ感ですね。

 

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高札場からここまでの妻籠宿は、宿場の雰囲気十分ですが、あの奈良井宿よりも

なにか開放的な明るさを感じますね。

ゆるい山の傾斜地なのと道幅も広めだし、家々も少し間隔をもって建てられてる

からかな。

西の桝形下ると、

「そこに人が住み、生活しながら続いてきたのが、

   妻籠宿の保存運動。
    最初に保存事業が行われた寺下地区は、

     妻籠宿の原点とも言うべき町並みです。」

 と妻籠を語る時に称される寺下地区に入りますが、

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時刻はPM3:50

南木曾駅へ戻るバスの時刻が迫っています。

石畳を下ったところから、案内板に従って右折し国道256の妻籠橋バス停へ.。

 

PM4:04分の南木曾駅行(馬籠始発)へ乗車。

南木曾駅から小一時間待ちの中央線の電車で、今朝旅立ちした野尻駅へ戻ります。
さらに、マイカーで国道9号を南下し、今夜の宿は岐阜県北東部・中津川市
駅前ビジネスホテルへ投宿です。

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バスは国道256を走り山を下り国道9号へ出て、そして県道と国道を交互に走り、

直通バスのように途中の乗降もなく、なんと、文明の利器を使えば約15分ほどで

南木曾駅前です。

2時間もかけて行ったのにね~・・とカミさんと大笑い!

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 マイカーを置いた野尻駅への電車時刻に小一時間ほどあるので、

その間に歩いて10分ほどの、木曽川にかかる吊り橋・桃介橋へ行く予定でしたが、

駅前にCafé・izumiyaを見つけたので、まずは涼みに入ります。

メニューは英語、日本語表記で最近の外国観光客の多いことが判ります。

比較的に最近オープンしたお店の様でした。

カミさんはカフェオレ、私はホットブレンド

歩きの最中は冷たい飲み物ばかりだったので、冷房の効いたところでの暖かい

飲み物が何とも美味しんですね。付いて来た塩豆も美味しかった!

(残念ながら写すのを忘れてた)

マスターとの会話は、やはり続く豪雨の話。

木曽川も警報が出たそうですし、妻籠、馬籠を目指す外国の観光客も足止めに

なったりで、大変混乱したそうです。

店内の棚には木曽路関連のパンフレットが何種類もあり、

 マスターが都合がつけば如何ですか、と進めてくれたのが

南木曾から木曽川を対岸の山へ入った「田立の滝」でした。

中山道の話や私たちが登った御嶽山や木曽駒岳の話、滝の話などに時を忘れて
しまい、あっ、電車の時間だ!

立ち寄る予定だった桃介橋は、またの機会にとし、

南木曾駅のホームへ出たとき。駅前を賑やかなお囃子と共に、

大きな神輿が通り過ぎました。

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そういえば当初の予定では、バス停隣の南木曾駅前駐車場へ車を停める

事にしてましたが、駐車場には祭り用かテントが張られていて、駐車禁止に

なってましたね。予定を代えてよかった、危ないところでした。

野尻駅から車を走らせ、夕刻の中津川駅近くの大きなショッピングモールで、

夕飯を調達し宿入り。

さっそくシャワーで汗を流し、まずは「カンパ~イ」う~なんとも美味い!!!

暑かったけれど、予定通りの一日、明日の馬籠への旅が楽しみです。

 

中津川へ向かう国道は、桃介吊り橋の下を通ってました。

Caféで貰ったパンフに有った写真を、お借りして。

(実際に目にした橋は、思っていたより大きい構造物で素晴らしい景観でしたね)

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パンフより、

 「桃介橋(ももすけばし)」大正11年9月に完成しました。木曽川水力発電

  開発に力を注いだ大同電力(福沢桃介社長)が読書発電所(大正12年完成)

  建設の資材運搬路として架けたものです。
  その後、昭和25年から村道(現在の町道)として、両岸集落の交通や、

  高校生・中学生の通学など地域の交通に大いに役立っていましたが、

  昭和53年頃から老朽化も進み、本格的な修理もできなかったため廃橋寸前と

  なっていました。この間、保存・活用の声が多くあり、付近一帯の天白公園

  整備に併せて近代化遺産(南木曽町有形文化財)として復元し、大正時代の

  長大吊橋の本格的な保存と活用をめざしたものです。

  橋の中央に資材運搬用のトロッコのレールが敷かれていたため、その痕跡が

  分かるように復元してあります。 

  桃介橋は全長247m、幅2.7mで、この付近では最大川幅のところに

  あり、美しく雄大な景観を誇っています」

 

 明日のほうが猛暑の予報!、続きます。