歩いて再び京の都へ 中山道69次夫婦歩き旅 第28回    野尻宿~三留野宿、妻籠宿、馬籠宿 後編の後編

木曽路もいよいよ終わりが近づいてます。

妻籠から馬籠への後半へ入ります。

先の小さな木橋で渓流を渡ると女滝の展望所です。
響き渡る水音、ナチュラル・ミストが流れ、なんともい~清涼風にほてった体包まれ体力気力回復で、さあ、峠へ。

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涼しい川沿の「女滝」から「男滝」方向へに戻る途中で左折し、脇の急な鉄階段の

道を手すりにすがりながら登ると県道7号に出、廃業した「滝見茶屋跡」と

バス停があり、バス停名は男捶滝(おだるたき)とありました。
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県道を左手に行くと、歴史の道中山道の案内板が建ち、左手に滝の上の山道を

通る中山道が降りてきて街道に復帰します。

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街道に復帰して一石沢を右手に100m程行くと、右手に木造橋が架かり

「馬籠宿4.6km」の木道標が有り、渡ると石畳の荒れた道が続いています。

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一石沢へ流れ込む小さな沢を木橋で渡り返ししながら、木曽林の山道を進みます。

AM11:10

この付近から、馬籠方面から次々とやってくる欧米系の方とすれ違います。

日傘片手の女性もいましたね。

「こんにちは」「コンニチハ」・・あ~忙しい!

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直ぐそばを綺麗な沢が流れてるので、時々手拭を濡らして、顔や首すじに、

「うわ~、ひゃっこい!!」思わずお国言葉が飛び出します。

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先が明るくなって左右に通る県道に(峠入口)のバス停が見え、横断手前には

東上り旅人のために京方向きで中山道自然石道標が建ち、

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横断した先には京上りの旅人のために

東方向きで一石栃口道標(自然石)が建ち、石畳の道が馬籠峠へと続いています。

道標の手前には国史中山道解説があり、

 「県道7号中津川南木曽線の敷設に際しては、破壊することなく、形状を

 維持したまま、埋蔵保存を実施しました。」と記されています。 

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途中から砂利道になり、木橋を渡って進むと日、英語で記された

「サワラ合体木解説板」があり、

「この対岸の山のサワラの大木は合体木です、享保元年(1716)頃、

 木の伐採を行い、切株の横に幼木二本植えました。

 文久三年(1863)幼木は成長しながら一本の木になりました。

 そして平成二十一年(2009)合体木となり今でも成長を続けています。」

 と記されていますが、合体木はどこかな??

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やがて左手に樹齢300年以上、「神居木」と呼ばれる」サワラの大樹があり、

手前に建つ説明板は日本語だけで、
「このサワラ大樹は、樹齢300年、胴回り5.5m、樹高41m、材積34?。

 サワラ材は耐水性が強く、風呂桶や壁板、建具等に多く使われます。
 この木一本で約300個の風呂桶を作ることが出来ます。

 さらに、このサワラの下枝が立ち上がって、
 特異な枝振りとなっていますが、
 このような形の枝を持った針葉樹を神居木(かもいぎ)と言います。
 昔から山の神(または天狗)が腰をかけて休む場所あると信じられてきました。
 傷つけたり切ったりしますと、たちまち祟ると言い伝えられ、
 杣人(そまびと=きこり)はこの木の下を通ることを嫌がりました。
 この木のように両方に枝の出た木を両神居(りょうかもい)と言います。」

   木曽森林管理所 南木曽支署

大木の横から枝が横に立ち上がっているが、山の神の腰掛け、はこの枝のことかな。

(写真の右手、樹上は枝葉が繁り見えませんでした)

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コンイチハ!!元気な声で母親と手をつなぎ、低学年の男の子が下って行きます。

ほのぼのとした、いい風景ですね。

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さらに樹林の中の山道を進み、木橋を渡ると木柵が見えてきます。

川の脇に実はクルミでうね。

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木柵の先に番所門があり、一石栃白木改番所跡でした。

「一石栃」とは「一石」もの栃の実がとれる大木があったそうで、

白木とは皮をはいだ木材の事です。

白木改番所は木曽から移出される木材を取締るために設けられた番所で、

ヒノキの小枝に至るまで、許可を示す刻印が焼いてあるかどうかを調べるほど

厳重であったといわれています。

 

木曽の森林資源は、領主たる尾張藩にとって、それほど重要なものだったのです。

番所は当初、下り谷に設置されていましたが、蛇抜けによってここ一石栃に移転

しました、木曽谷諸事覚書には寛延二年(1749)のことと記されています。

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 改番所前から右の坂を上ると

「一石栃沢流域に住むものは難産しない、という言い伝え信仰の子安観音堂と、

二度の大蛇抜けにも耐えてきた枝垂れ桜古木があります」

と持参街道書に記されており、遠くからぱしゃり。

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番所の先、玄関脇に御休み処の看板が掲げられている「一石栃立場跡」の

牧野家住宅があります。

江戸中期の建物で築約300年と言われており、桧や高野槙が使われている建物です。
往時は七軒の茶屋がありましたが、今は、牧野家が一軒残っているだけです。
当時は間口が十間半ありましたが、現在は八間に縮小されてるそうです。

中山道の今旅人の多くが、立ち寄ってお茶を頂くことを薦めていますね。

室内は土間で、いかにも時代を遡った茶屋の雰囲気。

中では外国の方が多く、10人くらいの方が分厚い板木の大きなテーブルを囲み

お茶をいただきながら一休みしています。

丁度空いた席に腰掛けるとすぐに、小屋番の方が熱いお茶を出してくれます。

猛暑の中、冷たい飲料ばかり飲んでいた体に、熱いお茶のなんとも美味しいこと。

お代わりをさせていただきました。

(茶代は志に、とあり竹筒に入れさせていただきました)

テーブルには数冊のノートが置かれ、訪れた方がそれぞれの思いを綴っていて、

開いてみると、なんとほとんどが欧米系の横文字!!

東南アジアや中東系の文字は有りませんでしたね。

お隣のブロンド髪の可愛い女の子が、一生懸命ボールペンと取り組んでいましたね。

私も、”いい旅、暑いぞ中山道!”

と遠慮気味に書き込んで、お後に席を譲ります。

 周辺には子安観音堂の枝垂れ桜をはじめ、たくさんの桜の木が見られます。

春には中山道旅に突如現れる桜の園に出会えるんだそうで、

のどかな時間が流れる立場茶屋に訪れる事を目的に、妻籠や馬籠から中山道

歩く方もおおいんだとか。 う~ん、桜の季節に再び・・・来てみたい

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立場を後にして、歩き出せば馬籠峠まではあと1km弱です、・・・

次々と出会い、追い越され、石仏を目にしながら葛籠折りの急坂を登って行きます。

 

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前方が明るくなり石畳になった峠道をさらにひと行き、ぽ~んと広場に出、

そこが県道7号線前で、馬籠峠頂上(801m)でした。

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広場の左側に峠の茶屋があり、茶屋の右側に正岡子規の句碑が建ってい・・

 あっ忘れた!。

馬籠峠は今は町境、県境ではあるが、峠頂上は長野県南南木曾町(妻籠)。

平成17年の越県合併により、長野県木曽郡南木曽町岐阜県中津川馬籠の県境に

なりました。

それまでは馬籠の新茶屋が信濃(長野)、美濃(岐阜)の國境(県境)でした。f:id:hansui:20180805034233j:plain時もお昼、峠の茶屋に入り、まずはかき氷、うま~い!

五平餅を頼み、持参のお馴染み健康補助食品とでお昼タイム。

うん?五平餅が丸いよ??

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英泉は馬籠として画面手前に馬籠峠、中間に馬籠宿そして遠景に恵那山を描いて

います。
ところが実際には馬籠峠から馬籠宿は望めません、しいて言えば峠村が当てはまり

ます。
そして馬籠峠上から流れ落ちる男滝、女滝を描いていますが、これも実際には

谷間にあるものです。
滝の先に牛方を描いています。

牛方は木曽谷を中心に荷を運び駄賃稼ぎをしました。

峠村にはこの牛方が多く住み、村内には牛方の頭を讃えた碑もあります。

(ある解説分から引用です)

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お腹を満たし、喉を潤し、足も休めて街道へ戻ります。 茶屋から50m程下ると長野県から岐阜県に入る県境となり、左側に県境標識が建っていました。

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さらに下ると分岐となり、右手に下る中山道の道しるべと、左手に熊除け鐘が

設置されていて、モザイク舗装の下り道へ入ります。

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木立の中を100m程行くと視界が開け、「峠」と呼ばれる集落へ入ります。

集落に「峠の一里塚」江戸から82番目が有ったそうですが、今は位置不明の由。

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左手に灯篭の建つ石段鳥居があり熊野神社が祀られてます。

境内の大樹は樹齢500年と街道書に在りました。

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旧旅籠桔梗屋

峠集落は民間の荷を運ぶ牛方の集落で、名物「栗こわ飯」の茶店なども有った

そうです。

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牛方組頭・今井仁兵衛居住跡・

今井家住宅は中津川市景観重要建造物指定

両端、軒下の石柱は牛繫ぎ石だそうです。

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怪獣!巨竜!

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モミジバルコウソウに、八重クチナシ

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集落の外れに「峠之御頭」の碑。安政3年に中津川の問屋との争いに、上の今井家が頭を勤める牛方が勝ったことを記念した

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いいですね~、菅笠かぶりの御夫婦旅。

菅笠は妻籠の実演販売で買われたとか。

馬籠に車を置き、バスで妻籠へ出て宿泊されたそうです。

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すぐ先で道は分岐となり、馬籠1.6kmの中北道標。

中山道峠 右 ま古め宿 左 伝田原」と刻まれた自然石道標が置かれた

右手の道へ下ると、

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「渋皮乃 むけし女は 見えねども 栗のこはめし ここ乃名物」と彫られた

十返舎一九の歌碑が建ち、広場の一角に休憩所とトイレが設置されてます。

外国人の旅人が妻籠へ向けて旅立ってゆきました。

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句碑より先は県道7号を二度横断し

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アジサイ咲く田圃脇の道や、

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竹林や石仏の今風石畳道を5分ほど行くと、

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県道に出、手前を右に曲がり橋を渡ったところに、水車小屋があり、

休憩所の左手に水車塚の碑がありました。

その碑文は、明治37年(1904)の水害で、ここにあった家屋は一瞬にして

押し流され、一家4人が亡くなった遺族と親交があっ、た島崎藤村によるものと

案内板に書かれてます。

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県道を横断し、県道土手下の石畳道をしばらく進みます。

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10分ほど行くと県道へ出、脇の歩道を行くと

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県道右手に熊除け鐘の設置された、石段の登り山道陣馬坂が現れ、

重い足を持ち上げて、ふうふう最後のあがきか・・・と期待して上ると、

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ど~んと空が広がり、霞んではいますが恵那山が正面に姿を見せ、

美濃を見下ろす高台へと出てきます。

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回り込むように右手に行くと陣馬見晴台で、天正12年(1584年)、徳川家康

豊臣秀吉が戦った小牧・長久手の戦いの時、徳川方の菅沼・保科・諏訪氏の軍が

陣をとった場所であり、ここは馬籠宿の江戸への出口。

正面に聳える美しい恵那山、美濃の最高峰であり、中央アルプスの最南端。

標高2191m、日本百名山

馬籠宿と妻籠宿も、この山の北山麓に当たるのかな。

誰もいないように見えますが、見晴台は近隣のお国の観光客の言葉が

大きく飛び交っています。

周りは大勢の観光客で騒がしいくらいなんです。

2007年8月にも御嶽山登山の折に、マイカーで妻籠、馬籠を訪れてます。

確か見晴台側に駐車したと覚えてます。

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写真左上、、島崎藤村の父・正樹の長歌反歌の自筆による歌碑。

生まれ故郷の木曽谷神坂をたたえているものだそうです。

左下写真は、島崎藤村の筆による「心を起さうとおもはば先づ身を起せ 

  ニィチェの言葉より」の碑。 なぜこの言葉ここに?
右は、「越県合併の記念碑」

ある旅人の言葉では、。越県合併がよほど異例だったのか、かつて木曽が

 美濃であったことや、「夜明け前」の「あの山の向うが中津川だよ

 美濃は好い国だねえ」の一節も引き合いに出しながら、合併の正当性を

 必死にアピールしている感がある」

 と書かれてたのを読んだことがあったね。

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妻籠を出てからの中山道は、本当に多くの欧米系の外国人ハイカーに出会いました。

欧米系以外の方には全く出会っていませんね。

あの鳥居峠越えは、トレッキングスタイルの方が多かったのですが、

妻籠から出会う人は団扇や日傘片手の女性もちらほら、散策スタイルも

多かったです。

木曽路の紹介の文の中に、

「2009年に「妻籠・馬籠宿」がミシュラングリーンガイドブックで一つ星を

 獲得してから、世界的に有名なガイドブック「ロンリープラネットJAPAN」

 に、他の観光地よりもずっと行を割いて『中山道』が薦められています。

 ハイキングや ランドネなど農山村地域を歩くことが文化的に受容されてきた

 欧 米諸国のツーリストは、訪日観光でも日本独自の自然や文化に触 れられる

 歩く ツーリズムを求めるようになってきているようです。
 紀伊熊野古道を訪れる観光客の8割が外国人ともいわれています。
 馬籠宿〜妻籠宿間にある山間部の街道は、現在では世界中から訪 日者を

 集めるインバウンド観光地となっている。

 インバウンド・ツーリストは名古屋や松本方面から中津川駅へ とアクセスし、

 そこから徒歩をメインに落合宿を経て、宿場町で1〜2泊し、妻籠宿と

 馬籠宿の間にある約7.3km の山間街道を歩きを楽しむのだそうです」

 と解説されてます。

 「ロンリープラネットJAPAN」ガイドブックらしきものを片手にする姿を

 多く見かけます。

 今やネット社会。一枚の写真があっという間に全世界を巡る時代、

 そして世界中から人々が集まって、観光地へ来ると痛感しますね。

  馬籠宿は、江戸から43番目の宿場町で、距離は83里4町・332km。

 道路が南北に通り、山の尾根に沿いで急斜面の為、その両側に石垣を築いては

 屋敷を造る「坂の宿場町」です。
 山の尾根のため水に恵まれておらず、火災が多いのが特徴で、何度かの大きな

 火災がありは、1896年の大火でほとんど焼失してしまい、いまある家並みは

  その後 復興されたものです。

 観光協会の案内には 
 「馬籠は島崎藤村の生地として、藤村記念館を訪れる人が飛躍的に増加する

 ようになったのは日本が高度経済成長期に入った頃からと言われます。

 その後の紆余曲折はあったものの、環境保護の機運も高まり、

 町並みの景観整備、電柱の移動などの街道の修景美化などが実施され

 街道そのものを自然の博物館とする発想に基づく、岐阜県境から妻籠宿に至る

 間の中山道およびその周辺の環境を整備し、観光客がこの街道を歩くことに

 意義を 持たせるという

 「フィールド博物館構想」に基づいた街造りが行われた」 とあります。

 妻籠奈良井宿の伝統的建造群保存地区の持つたっぷり浸れる「江戸情緒」

 に対して、「江戸情緒を持たせた観光地」の受け止めでした。

 ある方は「街道宿場テーマーパーク」とも表現してましたね。

 見晴らし台から西手にだらだらと坂を下りていくと、高札場があり

 先に県道7号に突き当り、馬籠の家並みを見下ろしながら下ります。

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坂を下って振り返り、馬籠宿石碑が建っ角の蕎麦屋が、依然来た時より

綺麗に見えるね。

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板石を敷いた宿場の街並みへ下ります。

街中を抜ける風はなく、家々の間から時折風にホット一息です。

 

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とてつもなく大きな葉は、なんの葉???

巨大な蕗の葉は古里北海道で見ますが、負けず劣らずの巨大さ。

(お聞きしたら「桐」の幼木の葉なんだそうです)

右手の休憩所で一休み。

居合わせた係りの方が「今年は異常なんです。とくに今日は33℃の異常高温に

なってます」

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それでも多くの観光客が行き交います。

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現大黒屋茶房は、かって問屋を勤め、造り酒屋を営んでいました。
10代当主が40年間書き続けた「大黒屋日記」が、

島崎藤村「夜明け前」の原点になっているそうです。

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右側に上段の間が復元されてるという蜂谷脇本陣跡は、いまは資料館

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続いて島崎藤村の生家・問屋庄屋を兼ねた馬篭宿本陣跡があり、

藤村記念館となってます。

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藤村は最後の当主、島崎正樹の末っ子で、9才までここで過ごしたそうです。

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すぐ下に良く観光案内書籍などに出てくる馬籠茶屋がある、向かいには外国人が良く泊まるらしい、宿泊宿の馬籠茶屋が建ってます。

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太陽に向かって下る街道は、真向かいから陽の光を受け、日陰が無いために

宿場内は猛烈な暑さです。

おっ、ソフトがあるよ!!

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抹茶ソフトでカンパ~イ?

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約110年前の囲炉裏が残されていると言われる、但馬屋。

向かいには、藤村の父親である島崎正樹の自筆文献を所蔵している

槌馬屋資料館がありました。

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左側に宿役人を勤めた原家の清水屋資料館があり、古文書や藤村の書簡などが展示されているそうです。(有料)

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清水屋資料館から左折の道を約40m歩くと、街道は右に石階段を下ります。

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急階段を降りると、右手に「馬籠水力発電1号機」の札を掲げた水車小屋があり、

先を90度左折(桝形)。

(えっ、水車の回転で発電??)

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さらに下って枡形道を左折して進むと、正面に阿弥陀堂があり、街道はここを

右折して進むと、

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左右に土産物店が建ち並ぶ、県道7号に突き当たり、街道は横断し

真っ直ぐに進み、1里5町4.5km先の「落合宿」を目指すはずでしたが、

西日を受けての下り道・・・・、

  今日はここで足止めをすることにしました。

 

突き当たった県道7号を横断した右角に宿碑が建っていました。
馬籠宿の京出口のような場所で、右手が中津川への沿発バス停で、向かい側には

妻籠、南木曾駅方面バス停、一般車駐車場。

左手には巨大な土産物店とバス駐車場があり、十数台もの観光バスが並び次々と

出入りもしています。

まだPM2:40、ツアーのバスが次々ときて観光客を下ろしてゆきますが、

猛烈な暑さ、人々はすぐに軒下や家屋の中へ入り日差しを避けてましたね。

見晴台から高低差約100m、ここからだと上り道。

35℃だって、と悲鳴に近い声も聞こえてました。

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PM2:55発のバスに乗り中津川駅へ。 

f:id:hansui:20180816171855j:plain前泊ホテルに置かせてもらったマイカーで、今夜の宿、中津川IC近くの

ホテル(よく利用するチェーンのホテル)へ移動し、早めのチェックイン。

なんと中津川は38℃の表示です。f:id:hansui:20180816172331j:plain

7月17日、当初計画では、前日歩けなかった場合は午前中を馬籠から落合宿へ

下る予定でしたが、 朝の天気予報ではこの付近はまたも38℃予想。

あっさりと歩き旅は中止として、ゆっくり朝ドラを見てから、

それでは少しでも涼しいものを見て帰ろうと、

南木曾駅前のCaféで奨められた、南木曾、木曽川西岸の山に流れ落ちる

田立の滝(滝群)へ寄り道することに。

主爆「天河滝」までは駐車場から登り1時間。

途中に幾つかの滝があり、渓谷沿いなら少しは涼しかろう、登れるとこまで

行ってみようと車を走らせました。

木曽川を西岸に渡り、かなり厳しい山道を走ると、1時間ほどで駐車場へ。

「熊注意」の看板にビビりながら山道へ。

うん、こりゃ登山だね!

深い谷、渓流の水音、吹き抜ける山風、山道は結構な急登り。

湧き出る山肌を流れ落ちる清流に手拭を浸し「ヒャッコイ!」

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 エッチラオッチラ、途中の小滝を見ながら1時間以上かかって、

 やっと一つ目のお目当て滝、 「霧が滝」へ。

 「ゴツゴツとした岩壁を水は踊るように落ち、飛沫は大乱舞しています」

  パンフの言葉通り、素敵な清涼感溢れるいい滝です。 f:id:hansui:20180816180826j:plain

 

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 これて良かったわね・・、ああ、いい滝だ~

もう少し登れば主爆・天河滝ですが、十分いい滝を楽しめたと、

  しばし飛沫を浴びながら心地よい涼風を受けて寛ぎ、下山へ。

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2017年9月10日から10か月を掛けて信濃の国を歩き抜けました。

正式には、もうほんの少し先までですが、木曽路の旅も終わりです。

猛暑の中の街道旅でしたが、しっかりと足を進め、美濃の国入り。
一歩一歩、京の都が近づいてきます。
      中山道69次夫婦歩き旅 第28回 
              「完」

木曽路と言えば、有る方の文で「夜明け前」を引用した一文があり、

印象に残ってました。

あらためて図書館で借りてきて、目を通しました。 

 

島崎藤村の「夜明け前」序の章から


「木曾路はすべて山の中である。あるところは岨そばづたいに行く崖の道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曾川の岸であり、 あるところは山の尾をめぐる谷の入り口である。一筋の街道はこの深い森林地帯を貫いていた。東ざかいの桜沢から、西の十曲峠じっきょくとうげ まで、木曾十一宿はこの街道に添うて、二十二里余にわたる長い谿谷の間に散在していた。道路の位置も幾たびか改まったもので、古道はいつのまにか深い 山間やまあいに埋うずもれた。名高い桟かけはしも、蔦のかずらを頼みにしたような危ない場処ではなくなって、 徳川時代の末にはすでに渡ることのできる橋であった。新規に新規にとできた道はだんだん谷の下の方の位置へと降くだって来た。 道の狭いところには、木を伐きって並べ、藤づるでからめ、それで街道の狭いのを補った。長い間にこの木曾路に起こって来た変化は、 いくらかずつでも嶮岨けんそな山坂の多いところを歩きよくした。そのかわり、大雨ごとにやって来る河水の氾濫が旅行を困難にする。 そのたびに旅人は最寄り最寄りの宿場に逗留して、道路の開通を待つこともめずらしくない。
この街道の変遷は幾世紀にわたる封建時代の発達をも、その制度組織の用心深さをも語っていた。鉄砲を改め女を改めるほど旅行者の取り締まりを厳重にした時代に、 これほどよい要害の地勢もないからである。この谿谷の最も深いところには木曾福島の関所も隠れていた。
東山道とうさんどうとも言い、木曾街道六十九次つぎとも言った駅路の一部がここだ。この道は東は板橋を経て 江戸に続き、西は大津を経て京都にまで続いて行っている。東海道方面を回らないほどの旅人は、否いやでも応でもこの道を踏まねばならぬ。 一里ごとに塚を築き、榎を植えて、里程を知るたよりとした昔は、旅人はいずれも道中記をふところにして、宿場から宿場へとかかりながら、この街道筋を往来した。 馬籠まごめは木曾十一宿の一つで、この長い谿谷の尽きたところにある。西よりする木曾路の最初の入り口にあたる。そこは美濃境にも近い。 美濃方面から十曲峠に添うて、曲がりくねった山坂をよじ登って来るものは、高い峠の上の位置にこの宿を見つける。街道の両側には一段ずつ石垣を築いて その上に民家を建てたようなところで、風雪をしのぐための石を載せた板屋根がその左右に並んでいる。宿場らしい高札こうさつの立つ ところを中心に、本陣、問屋、年寄、伝馬役、定歩行役じょうほこうやく、水役みずやく、 七里役しちりやく(飛脚)などより成る百軒ばかりの家々が主な部分で、まだそのほかに宿内の控えとなっている小名こな の家数を加えると六十軒ばかりの民家を数える。荒町あらまち、みつや、横手、中のかや、岩田、峠などの部落がそれだ。 そこの宿はずれでは狸の膏薬を売る。名物栗こわめしの看板を軒に掛けて、往来の客を待つ御休処もある。山の中とは言いながら、広い空は恵那山のふもとの方に ひらけて、美濃の平野を望むことのできるような位置にもある。なんとなく西の空気も通って来るようなところだ。…」

 

木曽路は山の中”でしたね。