歩いて再び京の都へ 旧中山道69次夫婦歩き旅  第29回 馬籠~落合宿~中津川宿 中編

 旧街道の面影を色濃く残す山間の木曽路はここで終りました。
そして美濃路に入ります!

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一里塚先を中山道カラー舗装道と分岐し、斜め右に石畳の新茶屋遊歩道に入ります。

平成17年(2005年)の越県合併の記念事業として120m間を

 新茶屋遊歩道として整備されました、との案内板が建ってます。

(カラー舗装の旧中山道と遊歩道石畳、どちらが本来の中山道になるのかな?)

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整備した石畳遊歩道に入り、突き当たる車道を横断して石段を下ると、

こんどは旧中山道の十曲峠(じゅっこくとうげ)落合の石畳になります。

(多くの資料や紀行文に馬籠、落合の間に十曲峠落合石畳とありますが、

 標高500mと言われる「峠「」は、新茶屋の付近になるのでしょうか?)
落合の石畳は、保存されていた江戸時代の石畳(三ケ所70.8m)を繋ぎながら

復元した全長830mの道で、江戸時代の部分は岐阜県指定史跡になってます。
石畳はいつごろ敷設されたのかは不明ですが、皇女和宮明治天皇行幸の際には

修理さた記録があるそうです。

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落合の石畳道を進むと右手の開けた所に東屋(休憩小屋)があり、ここは新茶屋に

移転する前の立場茶屋跡で、大きな中山道パネルが建てられてます。

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鬱蒼とした木立の中の道。

うわ!猛烈なやぶ蚊の襲来で蚊に刺されやすいカミさんは大慌て。

虫よけスプレーだけでは防げない!

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先に進むと左手に「なんじゃもんじゃ」の杜碑があります。

学名を「ヒトツバタゴ」というモクセイ科の落葉高木で、東美濃木曽川流域に

分布する雌雄が異株の稀産種ですが、村人達は名が分からず、

「ナンジャモンジャ」と呼んでいたことに由来するそうです。

ヒトツバタゴの自生地は、愛知県犬山市岐阜県瑞浪市恵那市中津川市

またがる自生地と、長崎県対馬市にある自生地が国の天然記念物に指定されて

いるんですね。
家近くのお寺や県立公園にも2本植栽されていて、5~6月頃小枝の先に多数の

白い花を咲かせます。

f:id:hansui:20180920202705j:plain葉や小枝の積もる、苔むした石畳道の勾配は次第にきつくなり、足を滑らせぬよう

慎重に下って行くと、「山のうさぎ茶屋」の看板を掲げた小屋が現れました。

股旅姿の絵看板、入口木柱には「出羽三山神社修験道羽黒派」と書かれてる。

営業はしてない様子の???謎の小屋でしたね・・・

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謎の小屋から200mくらい下ると、石畳道の解説パネルが建っていました。

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解説パネルから、約300mほど下ると木橋を渡り車道に合流して石畳は終わり、

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車道を横断して再びカラー舗装の街道となり山中の集落へと続き、

左手に寛保2年(1742年)この先にある医王寺の梵鐘を鋳ったことから、

「かねいえいば」と呼ばれる跡があり、木立の中に桜の木の下に馬頭観音が祀って

あるようですが草木が繁り見つけられません。

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この先からは山中集落に入り進むと左手に、浄土宗瑠璃山医王寺があります。

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本尊は行基上人が彫ったという薬師如来が安置されていて、別名・山中薬師と呼ばれて、 古来より「虫封じの薬師「」として広く信仰を集めていた由。

 

江戸時代には、刀傷に効く「狐膏薬」(和 尚さんに命を助けられた狐が御礼に

造り方を伝えた)なるものを売って評判になっていたとか。

十返舎一九の「木曽街道・続膝栗毛」にも出ているそうです。
 
「 サアサアお買いなさってござりませ 当所の名方 狐膏薬 御道中お足の痛み 金瘡 切疵 ねぶと はれもの 所嫌はず一つけにてなほる事受合ひ 外に又吸膏薬の吸ひ寄せる事は金持の金銀を吸ひ寄せ 惚れた女中をもぴたぴたと吸ひ寄せる事奇妙希代 御たしなみお買なされ」。
 
 孤膏薬は、本陣井口善兵衛の子善右衛門を分家させて十曲峠に住ませ、その製造販売をさせたものである、と解説板にありました。

本堂の賽銭箱の脇に狐膏薬看板が展示されています(写真右)。

境内には芭蕉句碑や大きな枝垂れ桜も有りました。

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 医王寺を出るとすぐ先で再び下り坂、、それもかなりの急坂になってきて、

眼下に落合宿や大井(中津川)方面がが遥かに遠望できます。

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下った先でY字路となり左手の傾斜地に、

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馬頭観音(いぼ観音)が祀られてます。

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街道はY字路を右手へと下っていきます。

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かなりの急勾配、足に負担がかからないよう、ジグザグに道を切りながら下ると

「落合川」に架かる「下桁橋」が見えてくる。

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合川は恵那山に源を発し、同じく恵那山を源とする湯舟沢川を上流で吸収し、

流末は木曽川に落合います。

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広重画、落合宿は、落合川に架かる下桁橋(落合橋)、先の御判形坂(下の枡形)、
そして落合宿の宿並を描いています、遠景の山並は恵那山だそうです。f:id:hansui:20180921120645j:plain

この橋から医王寺までは難所の為、何度か道が付け替えられたことが書かれた

案内板がありました。

 

「下桁橋は落合橋と呼ばれ、少し下流に架橋されていました。

しかし洪水により度々流失した為、寛保元年(1741)から神坂湯舟沢経由の

新道が開削されましたが、悪路で約1.8kmも遠回りでした。
そこで明和八年(1771)再び十曲峠を通る以前の道筋に戻りました、その際

つづら折りの道を廃し、現在の北側に大きく曲がって穏やかに上る道に付替られま

した。」 

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 下桁橋を渡り、上り坂を進むと上道に合流します。

この分岐点には道祖神享保十五年(1730)建立の馬頭観音像等があります。

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この上道の一部が開削された神坂湯舟沢旧道です。

(写真の右手の下ってくる道)

追分道標「右飯田道/左善光寺 御岳道」、

飯田道道標「右神坂ヲ経テ飯田町ニ通ズ」、が建ってます。

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分岐合流から少し先の滝場地区に入る左手、石垣上の民家付近が、

寛文9年(1669年)から享保12年(1727年)まで白木番所が置かれ、

また江戸初期からあった堂前では、下馬しないと落馬するとのいわれから

下馬庚申堂とよばれた堂が有ったことを示す小さな標識が立ってます。

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滝場地区を花々を愛でながら行くと、

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集落を抜けると県道7号中津川南木曽線に突き当たります。

左側に中北道標ここが落合宿の高札場跡(石柱)、落合宿に到着です!

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 県道を横断して、向いの右に緩やかに上る横町を行き、道は右手に桝形を

 曲がって行きます。 f:id:hansui:20180921140706j:plain

枡形跡を曲ると上町、すぐ右手に、井戸が残され、寛政4年(1792)の

年号のある上町の秋葉常夜燈が建ってます。

落合宿には4基の常夜燈があり道の中央にあったと言われています。

道路整備の際、3基は他へ移されて、この1基だけがここに移設されている。

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落合宿は美濃路の東端にあたり、日本橋より44番目、84里12町 約331km

天保14年(1843)の中山道宿村大概帳によれば、

宿内家数は75軒、本陣 1、脇本陣 1、旅籠14、宿内人口は370人

と小さな宿でした。
宿長は三町三十五間(約390m)で、宿並は東から横町、上町、中町、下町で構成され、宿並みの中央には幅二尺の用水が流れていましたが、明治天皇通行に際し片側に寄せられました。

文化2年(1804年)、同12年(1815)の二度の大火で宿内ほとんど焼失してしまい、あまり多くの古い町家を残していないが、街道街らしい雰囲気は

漂てましたね。

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宿並を進むと左手に落合宿脇本陣跡(白い石柱)があります。

塚田家が脇本陣を勤め、問屋そして尾張徳川家給人山村氏(木曽方)の庄屋を

兼ねました。

敷地内には飢饉に備え、穀物を備蓄した郷倉があったそうです。

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次いで右手に落合宿本陣跡(石柱)があります。

井口家が代々本陣を勤め、問屋、そして尾張徳川家給人千村氏(久々利方)の庄屋

を兼ねました。
二度にわたって大火で本陣も焼失したが、文化15年(1818年)に復興された。

本陣門は、その際に当家を常宿としていた加賀前田家から火事事見舞いとして

寄贈されたもので、玄関から上段の間、本陣門は文化5年のまま

残されてるそうです。

本陣門脇には明治天皇落合御小休所碑があります。

明治十三年(1880)巡幸に際に休息所となりました。

平成22年、国史中山道の一部として追加指定を受けてます。

6年ほど前まで、井口家住居として使われてましたが、現在は市に寄贈され

手入れをして、現在は一般公開されてます。

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先の左手に落合宿助け合い大釜があります、 文久元年(1861)皇女和宮

大通行時には、四日間で述べ約二万六千人余が落合宿を通行しました、

その際、暖かいおもてなしをする為に、各家の竈(かまど)はひきも切らず焚き

つづけられたといいます。この大釜はその時の状況を示す象徴です、大釜は寒天の

材料である天草を煮る時に使用されたもので、直径1・5m、容量1000リットル

を越えるという。(解説板記)

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帰し街並みを振り返ると、街並みの向こうに恵那山がなだらかな山容をみせてます。

f:id:hansui:20180921161447j:plain本陣から100mほど先に、慶長5年(1600年)の創建の曹洞宗善昌寺

があり、右手に樹齢450年といわれる松が道路上に突き出ています。
創建時の善昌寺山門を覆っていたことから、門冠(もんかぶり)の松と呼ばれてい

ましたが、明治24年(1891)の道路改修工事で寺の一部が道路となり、

寺は東側へ移設されましたが、境内にあった松はそのまま残され、

現在は「路上の松」と呼ばれているそうです。

先の本陣、上段の間に危急の際の抜け穴が有り、この善昌寺の裏手に通じていた、
と本陣の係りの方の説明に有りました。

中山道は門冠の松前を左折します。西の枡形跡で落合宿の京口です。
直進の道筋は明治の道路改修で新設されたものです、往時は行き止りでした。

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時刻はお昼を回ってます。

桝形を曲がらずそのまま道を下って国道へ出て、コンビニ・イートンコーナーで

質素にランチタイム。

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 しばし足も休めて道を戻り、善昌寺前の歩道帯の桝形(京方)を曲がり、街道旅へ

復帰します。

この分岐点の左手には大正11年(1922年)建立の「中仙道中津町石柱道標」

と青色歴史の道道標「←中山道→」、向いの公園には落合宿案内板があり、

中山道の印のカラー舗装は田中地区へと入って行きます。

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下り坂は、やがて向坂という急坂を息を切らせて上ると、路肩に地蔵尊が祀られて

います。

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上り詰めを右折して、国道19号線をおがらん橋で跨ぎます。

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渡詰め右手の石段上に「落合五郎城跡(おがらん様)」がある。

街道書によれば、落合五郎兼行は木曾義仲の四天王の1人で義仲の育ての親で

美濃国の押さえとして「落合」に館を構え ていたというという伝承がある

そうですが、建てられてる説明板によれば、不確定でもある様子。

 館跡とされるところは「おがらん」と呼ばれ、寺院の「伽藍」から来たものと推定
されている。
鳥居の額には「おがらん四社」とあり、案内板に書かれた
愛宕神社、山之神神社、天神社、落合五郎兼行神社」の4つの神社が鎮座している。
愛宕神社には落合五郎の霊が祀られているそうです。

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おがらん四社前から左に国道19号線に沿って坂を下り、突き当りのL字路を

右折します。ここには青色歴史の道道標「↑中山道→」があります。
左右にうねる旧道を進み下落合川を横手橋で渡ります。

 

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その先で国道に旧道は阻まれて(国道を渡れない)道が消えている

(カラー舗装がなくなる)。

そのまま国道沿いに行き、

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先の十字路分岐を左折して国道19号線ガードをくぐり、カラー舗装になった

中山道へ合流します。

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この間は青い道標がポイントごとに設置されていて、迷うことは有りませんでした。

ここからが「与坂」で、途中で一休みも二休みもしなければならないほどの急坂。

ここがあまり難所とはいわれていないのが不思議なくらい、と言われてるようです。

おっ、ヒメリンゴかな?

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おや、おの奥の山は中央アルプスかな?

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左右にうねる上り坂をグングン上り切ると、実りの田圃が広がり恵那山が姿を現し

与坂の集落です。

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一息ついたところ、右手に与坂立場跡。

立場茶屋越前屋の名物は、米粉餅に黒砂糖をまぶした三文餅。
立場跡の向いには、石造地蔵尊坐像二体を安置した地蔵祠と、弘法大師三十六番

札所標石があります。

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ここからは、うっかり転んだらそのまま転げ落ちそうな、まるでジェットコースター

の様な急坂を下ります。

小石を投げたら、ピョンピョン飛び跳ねてカーブしながら転がって行きました。

(人がいたら、どうするの!!、カミさんに叱られましたが・・)

歩幅を狭め、道幅一杯をジグザクに使い、ゆっくり下ります。

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この急坂の途中には中北道標「←落合の石畳 2.6km/JR中津川駅 2.5km→」があります。道端には彼岸花が咲き、秋の街道を演出してくれます。

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 道の両側に点々と10か所ほど、小さな祠が切り株に乗っかってます。

春に旅された方の紀行文に、小鳥の餌場と記述がありましたが、

これがそのようですね。

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最後の曲がりを下ると、集落が広がってます。

 

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 転がるが如く下り、三五沢を三五沢橋で渡ります。

 三五沢は落合と中津川の境川で、地名も中津川となってきます。

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後編へ続きます。