転がるが如く下り、三五沢を三五沢橋で渡ります。
三五沢は落合と中津川の境川で、地名も中津川となってきます。
続きです・・
三五沢橋を渡ると上りの坂道となって、100mほどをゆるゆる坂を上って
行くと、左手斜面に子野の一里塚跡碑石柱が建ち、わずかに盛り上がった東塚痕跡
を残しています。江戸日本橋より数えて八十四里目です。
道路脇に建てられる案内板には英語表記のみとなってるの何故?
一里塚跡から、槙坂(まきさか)と言う急勾配の坂をふうふう登ると、
坂の途中左手に案内板はここも英文表記のみで、年号不詳(元禄8年ともいわ
れる)馬頭観音が建ってます。
ようやく槇坂を上り切ると右手に、天明5年(1785年)木曽御嶽を開くため、
覚明行者が中山道を通り、ここにあった茶屋に泊ったを記念して「覚明霊神」を
祀った御嶽神社があり、その際に残した金剛杖、湯呑、数珠等を祀っているそうです。
御嶽神社先は、こんどは曲がりくねった急な下り坂になり、左手の森の中には
子野地区の守り神、神明神社が祀られてます。遠望の街並みは中津川ですね。
だいぶ気温が上がり、汗ばむ肌に吹き上げてくる風が心地よい。
坂の左手にはJR中津川駅 2.0kmの中北道標があり、トイレもある休憩所の
快心庵がありました。
ようやく坂を下り切ると子野川の橋の袂へ下りてきます。
子野川の橋手前に駐車場やベンチの有る広場があり、右手下に「子供たちが大人に
なってここに住みたいと思ってくれれば良いと思います」との願いで
「子野区ふるさとを守る会」が子供を含め区民で管理している、ホタルの舞う
小川の流れる野原が広がっていて、5月末~6月にかけて源氏ボタルが舞うそうです。
馬籠宿でも蛍が観られる、てポスターがあった、とカミさんが思い出しました。
あっ、””このはし”を渡れね!、てカミさんが面白がった「子野橋」を渡ると、
道は再び上り坂になり、秋の花や実を楽しみながら足を進めます。
もう午後の3時ちかくですが、ルコウソウがまだ綺麗に咲いてます。
先に進むと、なんとも見事な枝垂れ桜の大木が、街道を覆っています。
樹齢は350年以上と言われてるようです。
枝垂れ桜の下は小野の地蔵堂があった跡で、多くの石仏石塔が有ります。
中山道沿いの無縁の石仏などが集められた、と言い伝えられてるとか。
文政5年(1822年)建立の徳本名号碑「南無阿弥陀仏」(写真右)があり、
元禄7年(1694年)建立の庚申塔、地蔵尊、観音像等など等、
多くの石仏石塔がが祀られ、和英文の解説板も建ってます。
見事な高野槙の巨木も立ってます。
春の桜の季節に、通ってみたいところですね。
地蔵堂川を地蔵堂橋で渡り、一旦左に進み、一本目を右にヘアピン状に回り
込み上り坂を進みます。
この分岐点などにはには中山道案内があり、迷うことはないですね。
急坂を上り詰めると、街道は国道19号線に寸断され、右手にある中山道地下道で
国道を横断します。
中山道地下道を抜け地上に出ると、左側に中山道石碑と解説パネルが建ち、
先をカラー石材舗装に沿って右折し緩い坂を下ります。
足を進める集落は、寛政7年(1795年)には、石高67石余りの小村で、
家数18戸、人口85人と記録の有る里村らしい佇まいの上金村に入り、
単独行の若い外国女性がスタスタと追い抜いてゆきました。
旧上金村は立場で有ったそうです。
左側に自然石道標を見送り、先に進むと左手に文政6年(1823)建立の
秋葉大権現常夜燈があり、傍らに廿三夜塔が祀られています。
その先で上金の台地に出、水路脇に平成21年8月と記された「上金メダカの池」
の案内板と、男女双体道祖神がありました。
水草生い茂る小さな池は有りましたが、メダカはいたのかな?
東美濃地方にはメダカは生息していない、とかの説が有ったようですが、
関係があるのかな?? なにかの記念でしょうか。
ここにも、上り坂を進むと右手に尾州白木改番所跡(石柱)があります。
天明2年(1782)与坂から移設され、木曽から搬出される材木を厳しく
監視しましたが、番所は明治4年(1871)に廃止されました。
尾張藩の木曽材の重要視が良く判りますね。
側に、かなり枝打ちされた大木が有り、サザンカでは?とカミさんが言った通り、
後で調べると、ピンクの花を咲かせるサザンカでした。
冬の季節になると遠くからでもピンクの花が見れるそうです。
(写真では1本に見えますが、紅白2本のサザンカ、と記された旅記もあります)
隣りに平成17年建立の中山道碑がありました(左下)。
17年とは、馬籠の越県合併と関係あるのかな?
中山道碑から茶屋坂と呼ばれる上り坂を100m程進むと、坂の頂で左手には
中北自然遊歩道の大きな案内板が建ち、旭ケ丘公園があります。
赤い鳥居が建ち伏見稲荷が祀られてます。
公園への正門は別のところなのか、公園の案内板などは見ませんでしたね。
後で見た資料では天満宮なども祀られてるそうです。
公園道沿いに安永八年(1779)建立の経王書写塔(きょうおうしょしゃとう)
があります。
台石の下に法華経の経文を一字づつ一寸(約3cm)の丸い小石三百六十個に墨で
書いたものが納めてあるようで、文盲の者や旅人が祈願したと街道書にありました。
公園から右手に茶屋坂と呼ばれる坂を下ると、ガードレールの切れ目から
Uターンで左手に石畳の細い急坂が下ってます。
曲がりに安永二年(1772)建立の芭蕉句碑(すみれ塚)があります。
「山路来て 何や羅遊(らゆ)かし 寿み連(すみれ)草」
芭蕉の八十回忌記念に建碑されたもので、碑の傍らには三面六臂馬頭観音像、
芭蕉句碑前から石畳道を下ると、折り返しに右へ曲る所に間元矩(はざまもとのり)碑があります。解説パネルによると、中津川の初代町長を勤めた方の顕彰碑です。
碑からもさらに右手に、Uターン状に石畳の急坂を下ると車道に突当り、
またヘアピン状に左折しさらに下り、旭ケ丘歩道橋で旧国道のバス通りを横断します。
歩道橋には旭ヶ丘公園から市街地へ入る、中山道案内板があります。
歩道橋を渡りUターン状に右手へ坂をくだり、左手に同じ標識の有る石階段を
下ると茶屋坂は終わりです。
逆の京方面からの東下りだと、かなりの上り急坂だったでしょうね。
石段を下ったところには、文化3年(1806年)の中山道中津川宿絵図や
中津川宿解説パネルが建ち、復元された高札場(跡)があり、中津川宿の
江戸口に到着です。
中津川宿は江戸より85里9町334.8km、45番目の宿場町。
元の高札場の位置は、ここより約10m程坂を上った北側にあり、
街道に面して建てられていました。
街道書によれば、
「中津川宿は、北に苗木(なえぎ)城下、東に木曽の宿並を控え、物資の集散地
とし て栄え、三と八の付く日に六斎市が立ち、東濃の中心地として大いに賑
わいました。宿長は十町七間(約1.0km)で、宿並は江戸方より淀川町、
新町、本町、 横町、下町で構成され、宿場機能は本町に集中していました。
天保14年(1843)の中山道宿村大概帳によれば、中津川宿の宿内家数は
228軒、うち本陣1、脇本陣1、旅籠29軒で、宿内人口は928人でした」
と記載されてます。
高札場の並びに常夜燈、文化2年(1805年)建立の庚申塔、
天保6年(1835年)建立の二十三夜搭が並んでいます。
高札場跡から 淀川町を進み中津川宿の中心街へ入ります。
中津川市史には、
「道は淀川町で小淀川と淀川を越すが、駅前通りの改修で川の流れも見え橋も
あった 淀川は道の中へ埋められてしまった。新町通りと緑町線と交わるす
ぐ東に淀川に掛かる橋があったが今はない」 とあります。
写真左下、貸店舗の札の下った蔵造りは、以前は肥料などの商店だったそうです。
いまはあまり見かけなくなった、下見板張りになってますね。
街道らしい細めの一方通行道を、向かってくる車に注意しながら300m程行くと
街道は交差点を渡り、一方通行出口になるところから新町で、宿場の中心部へ
入ります。
左手に「すや」があります。
元禄年間(1688~1703)創業の元は酢屋でした。
7代目から御菓子屋、8代目が栗きんとんを始めたという栗きんとんの老舗です。
中津川は栗きんとん発祥の地といわれています。
中津川の「すや」紹介文を長いですが記します。
美濃中津川、町の中を旧中山道が通っている。
木曽路の入口にあたる古い宿場町である。
中津川の町は、町のどこを歩いても恵那山が見える。2191mのこの秀麗な山は、
美濃と信濃とを分ける分水嶺だ。
この山の上に、刷毛で刷いたような雲が流れると、美濃路のはてに秋がはじまる。
幾筋も波打つように横たわる丘陵には、野萩が紅い花をつけ、やわらかな芒の穂が
風にそよぐ。
そして広大な恵那山麓のいたるところに栗の毬が笑みほころびはじめ、
中津川新町の古い菓舗“すや”に、一年のうちでもっとも忙しい季節がめぐってくる
のである。
良寛の書から拾ったという「すや」の二文字、その木曽けやきの大看板を掲げる
この店は、中津川でも、一、二の旧家として知られる家だ。
栗きんとんの箱に貼られている版画風の絵は、わらぶきの茶店を描いているが、
建物はそんな姿で江戸後期の宝暦頃から、中山道に面して立っていた。
創業は元禄年間。
江戸から下ってきた赤井九蔵という武士が、この宿場町に住みつき、「十八屋」の
屋号で酢の店を開いた。その人が“すや”の初代である。
中津川宿の酢は、中山道でも有名だったらしく、享和二年(1802)に、
中山道を大阪から江戸へ下っていった大田南畝は、この宿場に酢をひさぐ「
十八屋」があることを、『壬戌紀行(じんじゅうきこう)』の中に書き留めている。
“すや”の現在の建物は、南畝が通ったときすでに建っていたわけだが、
彼も、この酢屋が百年後に菓子屋に変わろうとは思ってもみなかったことだろう。
中津川宿の名物「栗きんとん」は、栗の季節ものですが、
おせちに出てくる「栗きんとん」とは少し違いますね。
説明文によれば、
「栗きんとんは、蒸した栗をタテ割りにして、
竹べらで実をほじくり出す。
それをつぶして少量の砂糖を加えながら煮る。
煮あがったのを、茶巾渋りにする。
名物に美味い物・・・あった!のいい味でした。
栗赤飯も江戸時代の名物だったことが書かれた資料もありました。
向いの愛知銀行前に、近代日本画壇の重鎮で、法隆寺壁画修復や高松塚古墳壁画
の模写等を手懸けた、当地出身の前田青邨画伯誕生之地碑が有る、と街道書に
ありますが通り過ぎてしまったようですので、パンフより拝借。
向かい側に有ったこのオブジェはなにかな??
岩山、滝?茅葺屋根の家、小川、橋、 題名はなかったよね・・
先の左手小路角に「桂小五郎隠れ家跡」への標識が有り、小路の奥に
隠家「料亭やけ山跡」があります。
「文久2年(1862)、幕吏に追われる長州藩士桂小五郎(木戸孝允)は
平田門人、間秀矩の手引きで料亭やけ山に身を隠し、京に向かう長州藩主毛利慶親
をここで待ち受け、藩主を説得し公武合体から尊皇攘夷に藩論を変更させ、
倒幕への道を突き進むこととなり、史料ではこれを中津川会議という」と
案内板にあります。
先に進むと左手の中津川郵便局の並びの奥に、「明治以降の近代的工法と従来の
土蔵造りが混在」しているという、「間家、大正の蔵」があります。
市の史料などの記載などによると、
大正6年(1917年)頃築の鉄筋コンクリート造りで、市有形文化財です。
江戸時代から東美濃随一の豪商と言われ、尾張徳川家御用商人を勤めた
間杢右衛門の屋敷跡である。
間家のもともとの祖先は、京極家に仕えた近江の武士の家系で、関が原の戦いでは
大津城にいたために落城して、兄矩久、弟矩定は母の縁で美濃に落ちのびた。
関が原後は、兄矩久は京極家に帰参し、弟矩定が武士を捨て中津川に落ち着き、
杢右衛門と名乗った。彼は醸造技術を持っていたので、清い水のある中津を選んだ
ともいわれる。
兄矩久の間家本家筋は、後に赤穂藩へ仕え、子孫の間善衛光延は息子二人と
ともに忠臣蔵四十七士に加わったため、間本家は途絶えた。
左のビルは郵便局で、かっては郵便局の敷地も含めた約1000坪ちかく有った由。
間杢右衛門の5代目に当たる方が、小説『夜明け前』の登場してるそうです。
前に顕彰碑の有った初代中津川町長も一族なんでしょうね。
次いで右手に江戸時代を模したミニチアセット造りの休憩所、往来庭があります。
恵那山に源を発し、流末は木曽川に落合う四ツ目川を、四ツ目川橋で渡り、
新町から本町へ入ります。
橋上には石灯篭が並び、街道感を演出しています。
振り返り、歩んできた日の丸の揚がった新町の街並み、今日は敬老の日ですね
渡りながら眺めた蔵のある家
橋を渡ると中津川宿の中心、本町に入ります。
NTTビルの一部を借用した 中山道歴史資料館(有料)があり、中津川市の重要な
古文書・公文書等を所蔵、展示しています。
資料館の左手に中津川宿脇本陣跡石柱があり、「脇本陣はここから右(西方)
約20mの所にありました」との張り紙があります。
資料館の南裏の脇本陣跡には、現在「脇本陣上段の間」が復元されていて、
脇本陣は、建坪128坪で代々森家が務めていた由。
街道に戻ると資料館の向いに、中津川宿本陣跡石柱が建っていて、今は駐車場に
なっている。
代々、市岡長右衛門が本陣を勤め問屋を兼ね、かって本陣の入口には五軒続きの
長屋が建ち、その中央の一軒分が 門となっていた。
門右手の一軒分は問屋場で、門をくぐると 裏庭があり、その奥に建坪283坪の
本陣があったそうです。
本陣跡の向かい角の「卯建(うだつ)」がある建物は、江戸時代は中津川村の
中津川村は七つに分かれ、それぞれの郷村には小庄屋がおかれ、それを総括する
大庄屋がありました。
肥田家は代々「九郎兵衛」と名乗り、屋号は田丸屋といい、島崎藤村の
「夜明け前」には小野三郎兵衛として登場しているそうです。
江戸後期からは旅籠を営み、一時期脇本陣を勤めたところから上段の間を今に
残しているそうです。
明治30年代になると曽我家がこの建物を譲り受け、中津川で最初に開業した医院と
なったそうです。
史料にある解説文。
【 旧肥田家住宅 】-肥田家の祖とされる肥田玄蕃は美濃の土豪であった明智家の家臣で、玄蕃の子供される肥田帯刀則家は織田信長に従った明智光秀の小姓などを歴任し、天王山となった山崎の戦にも従軍しています。その後の則家の消息は不詳ですが(討死?)、正室は嫡男三右衛門と共に中津川の地に土着、帰農し、江戸時代に入り中山道が開削され中津川宿が整備されると、実力者として宿場の上役を歴任しています。肥田家は屋号「田丸屋」を掲げ、旅籠を営む一方で江戸時代中期の享保3年(1718)から宿場制度が廃止となった明治5年(1872)まで中津川宿の庄屋を歴任しました。中津川宿の支配層として教養が高い当主を輩出し、特に10代当主肥田九印兵衛通光は俳諧や絵画を門人に教える一方で、平田篤胤の教えに傾倒し有力な門人の一人でもあります。平田篤胤の教えは天皇を強く意識させるものだった事から、必然的に倒幕思想が芽生え、幕府から追われた倒幕の活動家を密かに支援をしていました。中津川宿の本陣職を担った市岡殷政や、豪商と知られる間秀矩なども同様に平田派の教養人だった事から、元治元年(1864)に水戸天狗党が中津川宿を通過した際にも、宿場を挙げて歓待したと伝えられています。現在の主屋は江戸中期の建物で、木造2階建、切妻、桟瓦葺(下屋庇:鉄板葺)、平入、2階正面は1階から構造材を持ち出し外壁を支える出桁造り、2階正面両側には本ウダツ、外壁は真壁造り黒漆喰仕上げ(外壁側面は下見板張り縦押縁押え)、当時の大型町屋建築の遺構として貴重な事から中津川市指定文化財に指定されています。
街道は正面で左手に曲がる枡形で、横町に入ります。
この横町は火災から免れた為に、往時の面影を色濃く残しています。
右手に川上屋があります、元治元年(1864)創業の栗菓子の老舗で、店前には
右木曽路道標があります。
栗きんとんでも名店ですが、珍しい干し柿を使った「柿きんとん」が数限定品です
が有名なんです、と後で教えていただきました。
パンフの写真、栗きんとんを干し柿で包んだお菓子なんですね。
向かいに十八屋があります。
江戸中期の建物で、上がり框(かまち)や天井の梁は当時のままといいます。
十八屋は東美濃の豪商といわれた間杢右衛門家の親戚筋で、中津川宿の旅籠を
営んでいました。
皇女和宮の通行の際には、宮廷方の供の者がここに宿泊しました。
十八屋の隣は卯建をあげた白木屋跡(横井家)です。
当家の先祖宮大工横井弥左衛門が天保十三年(1842)に建てたもので、
150年以上を経過しています。
四畳ほどの中二階の隠し部屋が今も残されているそうです。
ここへ梯子を懸け、中二階に登ると梯子を取り外し、収納すると外からは部屋の
あることが全く分からない仕組みになっているとか。
十八屋の真向かいは江戸後期に建てられたという天満屋(吉井家)がありました
が、連子格子が有ったのがガラス戸になり、なにやらリホーム中?
その先隣は旧中川家(杉本屋)
中津川村や子野村の庄屋であった中川萬兵衛野屋敷の一部だそうです。
昭和30年代の初めま頃までは江戸時代の面影を残す帳場があり、
これを舞台に映画「青い山脈」のロケが行われたことは有名だそうです。
屋根部分など、最近元の姿に改修したようです。
突き当り枡形で、宿並は右折します。
ここを直進する細道は延喜式内社恵那神社への川上道(かおれ道)です。
ここには慶応元年(1865)建立の式内恵奈山上道と刻まれた道標が有ります。
枡形を右折すると下町に入ります、
左手に卯建をあげ、酒林を吊り下げた「はざま酒造」があります。
街道書には、慶長6年(1601)創業の銘酒恵那山の老舗蔵元とあり、
前述の「京極家に仕えた武士の家系で、室町時代に美濃の国に移り住んだ」
間家の創業のようです。
慶長5年の関ケ原戦の直後からの400年以上、すごいわね~て、カミさん!!
建物は中津川市景観重要建造物指定です。
はざま酒造からすぐ先の細い道とのY字路分岐は、高札場があった跡で、
中津川宿の西方(京方)になるそうです。
右手の細い分岐道が旧中山道の本道でしたが、中津川に遮られて通行はできません。
先に進み大正13年(1924年)架橋の中央橋を渡ります、
橋下の細道は、かっては川の流れていた所であるが、尾鳩にある旧本州製紙の
原料・製品を運ぶための軽便鉄道が敷設された。創業当時は軽便軌道を馬力で
トロッコを曳かせていた。その後ガソリン、ディーゼル・蒸気機関を使用し、
現在はトラック輸送に切り替えられて昭和44(1969)年に廃線となり、
遊歩道として再生された道になった由。
先へ約50mほど歩くと中津川に架かる中津川橋です。
川の名前としての中津川は、江戸時代は川上(かおれ)川、又は河上川と呼び、
宿・村の名として中津川を使っていたのだそうです。
9月17日、PM4:15
約128kmと言われる、美濃国十六宿の第一歩はここで足止めとします。
次回は当初から予定していた、23、24日にお天気が良ければ足を進めます。
元気なうちに、歩ける内に、
広重画 中津川宿 「晴れの中津川」と言われます。
広重の中津川宿画はもう一枚あり、世界には十数枚しか現存していないそうです。
某TV局の鑑定番組で1500万という鑑定結果があったそうですが、
それがこの「雨の中津川宿」だそうです。
第29回 完