5月19日の「都立小金井公園 江戸東京たてもの園 」の続きです。
中山道の歩き旅などへ出かけ、前編をアップしたままでした。
前編はこちら
センターゾーンから昔の下町の風情を楽しめる東ゾーンへと足を進めると
石橋を渡ります。
その石橋の手前右手にに、「皇居正門石橋飾電燈」があります。
解説によれば、
橋の欄干両側に男柱石j上に計6基設置されていた。
長年使われてきた6基の飾電燈は、昭和61年9月、鋳型を取って新しく鋳造された
ものと交換され、取り外されたもののうち1基です。
明治村などにも移設されてるそうです。
(現男柱石は、移設の際に復元)
石橋を渡ると右手に、万世橋交番(まんせいばしこうばん)。
正式名称は須田町派出所で明治後期造館。
神田の万世橋のたもとにあり、移築の時にはトレーラーでそっくり運んだそうです。
万世橋は中山道歩き旅の初日に見に行きましたが、その袂に有ったのですね。
交番の先、左手にあるのが、「上野消防署(旧下谷消防署)」の望楼上部
建築年 1925年(大正14年)
台東区上野5丁目に建っていたものです。
解説文
望楼は火の見櫓の近代版です。
ここに昇って周囲を見渡していたんですね。
故郷の町にも屋根付きの望楼があったのを思い出しました。
1970年(昭和45年)まで使用されました。
三脚四層式外廊型で、旧所在地では約23.6mの高さがありました。
展示しているのは丈夫、約7mの部分だそうです。
都電7500形
製造年 1962年(昭和37)
渋谷駅前を起終点とし、新橋・浜町中ノ橋・(神田)須田町まで走っていた車輌です。
交通量の急激な増加にともない、都電は荒川線を除いて1972年(昭和47年)
から順次廃止されました。
旧都電は学生時代は結構乗りました。
銀座も走っていて、まだ柳が健在だったと思いますね。
札幌勤務を経て東京勤務に戻ったころには、ほとんどが廃線になってましたね。
(そうそう、札幌も当時は足はバスか市電でした。今は市電もほんの一部だけ)
都電の左手に顔を向けると、3階建ての瀟洒な店舗が建ってます。
化粧品問屋を営んでいた「村上精華堂(むらかみせいかどう)」
建築年代は1928年(昭和3年)
台東区池之端二丁目に有ったそうです。
解説文
台東区池之端の不忍通りに面して建っていた小間物屋(化粧品屋)です。
昭和前期には、化粧用のクリーム・椿油や香水等を作って、卸売りや小売りを行っていました。正面は人造石洗い出しで、イオニア式の柱を持ち、当時としてはとてもモダンな造りとなっています。
少し進んで左手には、昔の商家・銭湯・居酒屋などが立ち並ぶ、
ふっとなにか懐かしさを覚えるレトロ感を持った街並みが、目に入ってきます。
手前右手の、正面が緑の建物は、丸二商店(荒物屋)(まるにしょうてん)
建築年代は昭和初期、千代田区神田神保町三丁目に有った由。
解説文
昭和初期に建てられた荒物屋です。
小さい銅板片を巧みに組み合わせて模様をかたち作り、
建物の正面を飾っているのが特徴です。
建物は、江戸期の街道の宿場街並みでよくみられる、間口は狭くとも奥行きがある
構造になってますね。
江戸期は間口幅にて課税されたようで、名残りでしょうか。
店舗の奥は2階建てで住居と、
2階建て棟割り長屋になってます。
小路を挟んで奥隣りに並ぶは三階建ては、
右から、
建築年代は1972年(昭和2年)千代田区神田淡路町一丁目に建っていた、
花市生花店(はないちせいかてん)。
解説
昭和初期に建てられた〈看板建築〉の花屋です。建物の前面は花屋らしくデザインされています。店内は昭和30年代の花屋を再現しています。
真ん中は、
千代田区神田須田町一丁目に建ってた建築年代197年(昭和2年)の
武居三省堂(文具店)(たけいさんしょうどう)
解説文
明治初期に創業した文具店です。当初は書道用品の卸をしていましたが、
後に小売店に変わりました。
建物は震災後に建てられた〈看板建築〉で前面がタイル貼りになっていて
屋根の形にも特徴があります。
何故か正面が斜った建物になってます。
そして奥となり、提灯を掲げたは、たべもの処「蔵」(2階にあります)
道を挟む対面に二店舗があり、左手にちょっと目を魅かれる3階建ての
「植村邸(うえむらてい)」があります。
建築年代 1927年(昭和2) 中央区新富二丁目にて建っていた由。
解説
建物の前面を銅版で覆ったその姿は、〈看板建築〉の特徴をよくあらわしています。
外観は、全体的に洋風にまとまっていますが、2階部分は和風のつくりとなっています。
植村邸の裏手へ回ってみました。全体が正面の銅板色に合わせて緑色で、
今でも珍しい塗装ではないかな。
隣は前面は木造3階建、大和屋本店(乾物屋)(やまとやほんてん)
建築年代 1928年(昭和3) 港区白金台4丁目に建っていたそうです。
解説
港区白金台に1928年(昭和3)に建てられた木造3階建ての商店です。
3階の軒下を伝統的な〈出桁造り〉にする一方、間口に対して背が非常に高く、
看板建築のようなプロポーションを持ったユニークな建物です。
いまでいえば、ペンシルビルというところでしょうか。
戦前の乾物屋の様子を再現しています。
奥行きも有り、奥は木造2階屋の住居になってます。
通りに戻り、蔵隣の空き地を挟んでさらに北側奥には、
万徳旅館(まんとくりょかん)
江戸時代末期~明治時代初期の建造物で、青梅市西分町に有りました。
解説文
青梅市西分町の青梅街道沿いにあった旅館です。建物は創建当初に近い姿に、室内は旅館として営業していた1950年(昭和25)頃の様子を復元しています。
父親の実家本家は、田舎で唐破風屋根の玄関をもった旅館を営んでいました。
通り面の構造は少し違いますが、家内の雰囲気はまったく同じですね。
街道旅でもよく目にした旅籠風の旅館ですね。
その向かい側、写真の左端の建物のは、川野商店(和傘問屋)。
建築年代は1926年(大正15) 江戸川区南小岩八丁目に建てられていたそうです。
解説
傘づくりが盛んであった江戸川区小岩に建てられた和傘問屋の建物です。内部は1930年(昭和5)頃の和傘問屋の店先の様子を再現しています。
そして向きを変えた写真右手、蔵を従えたどっしりとした商店は、
建築年代 1933年(昭和8) 港区白金五丁目に建てられていた、
小寺醤油店(こでらしょうゆてん)
解説
大正期から、現在の港区白金で営業していた店です。味噌や醤油、酒類を売っていました。
庇の下の腕木とその上の桁が特徴の〈出桁造り(だしげたづくり)〉がこの建物のみどころです。
そして通りの正面、突き当りは、
東京の銭湯を代表する建物、「子宝の湯」です。
1929年(昭和4)建築で、足立区千住元町で営業されていた。
神社仏閣を思わせる大型の唐破風(からはふ)や、玄関上の七福神の彫刻、
脱衣所の折上格天井など贅(ぜい)をつくした造りとなっています。
(中へは入りませんでした)
街中の銭湯でこれだけ間口の大きな銭湯は、あまり見る機会はないですね。
ふつうは奥に長い建物が多いと思うのですが。
子宝の湯の右手には、
1897年(明治12年)文京区向丘一丁目に建てられていた、
出桁造りの町家、仕立屋(したてや)です。
そして左手は、
台東区下谷の言問通りにあった居酒屋、鍵屋(かぎや)です。
震災・戦災をまぬがれた鍵屋は、1865年(安政3年)に建てられたと
伝えられています。
安政2年に江戸大地震が有ったそうで、震災後に復興されたと言うことでしょうね。
鍵屋の前を西へ足を進めると、木立の中に藁ぶき屋根の大きな平屋が、
豪農・天明家(てんみょうけ)です。
建築年代は、江戸時代後期で、大田区鵜ノ木一丁目に建てられていた。
解説
江戸時代、鵜(う)ノ木村(現在の大田区内)で名主役を勤めた旧家です。
正面に千鳥破風(ちどりはふ)をもつ主屋・長屋門・枯山水庭園などに高い格式が
うかがえます。
がっちりとした長屋門。
長屋門を通り、正面は千鳥破風(ちどりはふ)をもつどっしりとした主屋。
左だりてから一周してみます。
最後は表へもどり長屋門の全景。
天明家を後に、右手に樹林帯を見ながら、西ゾーンへと向かいます。
西ゾーンへ、続きます。