49月14日 PM2:20、
江戸から55番目、美江寺宿を後にします。
墨俣分岐から右手に曲がり、美江寺宿を後に約10km二里8町の
次の宿場町、赤坂宿へと足を進めますがどの辺まで進めるかな?
午前中は風も有り日陰は涼しさを感じる歩きになっていたが、お昼を過ぎてから
ジリジリ気温も高くなり、予報通り30℃を越えて来た様子。
西へ向かう街道は日が真上からしだいに正面からの日差しとなってきて、
街道は日陰も少なくなってきた。
美江寺の京口からすこし歩くと右側に「美江寺千手観音堂」があり、その先が
先に記載していた、広重画・美江寺宿はこの付近を描いたといわれるようで、
解説板も有りました。
千手観音堂から犀川を新月橋で渡ると、田之上の集落に入り、その先で街道は
T字路になり左に曲がる。
突き当りに浄土宗千躰寺で、鎌倉後期に美江寺の地で没した遊行僧・自然居士作の
高さ12~23cmの檜一木造の阿弥陀如来立像千体が8段に並べられており、
(堂内は薄暗く覗いても良くは見えませんでした)
左折してしばらく歩くと、右側に旧新月村の鎮守神明神社が祀られています。
神社の80mほど先を左折して川を渡って行き、街道を外れ寄り道すれば、
江戸城大奥・春日の局の旦那稲葉正成の十七条城だった跡の出世熊野といわれた
熊野神社が街道書には記されてますが、パスし約300mほど進むと右側に
JAもとす巣南があり用水路脇に用水路のフェンスに隠れて、
大垣藩傍示石が建っていました。
美江寺宿は大垣藩預かりの幕府領でしたが、ここからは大垣藩領になっていた
ようです。
(うっかりすると見逃してしまいそう、フェンスの工夫してほしいような)
100mほど先で分岐を直角に右曲がり、すぐの県道156号のT字路を左折し
朱色の欄干の長護寺川に架かる長護寺橋を渡ります。
左手に巣南中学、右側に中山道大月多目的広場と名付けられた広大な広場のある
旧中山道は公園を左斜めに横切って続くようですが、
先の右手に見えた巣南交番の道路標識手前に自販機が見えたので、立ち寄らずに
そのまま進み、冷たいお茶をゲットし交番前の日陰をお借りして一休み。
交番の建物の表示は、最近よく見かける「KOBAN」だけで、〇〇交番などの
日本語無し。カミさんは「なんだかね~・・・」
交番前での一休みから道をチョピリ戻り、左折し左手の用水路に沿って少し歩くと
多目的広場を横切ってきた旧中山道と合流したところに、中山道左曲がり矢印の
標識があり、用水を渡って田圃の中を斜めに進む農道のような道へ入ります。
この道が旧中山道と記す標識が建っており、この辺りは江戸初期に植栽された
松並木があったそうですが、残念ながら土地改良等で消滅し日陰を作るものは
何も無し。
さらに約700m歩き、ゆるく右カーブすると、突き当りは揖斐川(いびがわ)の
土手で左折します。
付近は瑞穂市呂久の集落で、かっては突き当りの揖斐川(いびがわ)は無く、
まっ直ぐに呂久の集落の中を道は伸びて行き、その先で旧川を呂久の渡しで
渡っていた、と街道書に有ります。
左折して約200mくらい歩くと、右手の揖斐川(いびがわ)を鷺田橋(さぎたばし)
で渡るためのスロープ道で、左側に旧中山道の街道歩き案内標識が建っていました。
案内標識を確認、正面のガードは潜らず左へ折れて50mほどのガードをくぐり、
右手に折れて鷺田橋への側道歩道を上ります。
(写真右はスロープを登ってきた道を振り返り)
ここでPM3:20 出発の加納宿から約13km(3里強)。
ここから2日目予定の赤坂宿を経て垂井宿へは約13km。
当初はここを1日目の足止めとして、戻る形で街道を離れ県道を東へ向かい、
約1.5㎞先の樽見鉄道・十九条駅経由で出発地の岐阜駅へ向かう予定でした。
気温は30℃くらいのようだが、風が吹き出し意外とまだ歩けそう。
そこから大垣へ出て東海道線に乗り換えで岐阜駅戻れる。
となれば、明日は35℃の猛暑になりそう、今日の内に距離を縮めよう。
「足は大丈夫、まだ歩けそうなの?」とカミさん心配げだったが、
思い切って先へ足を進めることに。
揖斐川を約700mの鷺田橋((河口から45㌔地点)の瑞穂市呂久と書かれた
歩道橋で渡ります。
揖斐川は、岐阜県と三重県を流れる木曽川水系の一級河川。
揖斐川と長良川、木曽川とともに「木曽三川」と呼ばれ、揖斐川と長良川は河口
近くで合流して伊勢湾へ流れ込み、このために河口付近の旧東海道は宮から
現在は河口横断の木曽川大橋、揖斐川長良川大橋で尾張名古屋から三重へと
巨大な吊り橋で渡ってゆき、東海道歩きの時は何回も車で渡った懐かしい
思いでがありますね。
古くは木曽川・長良川・揖斐川の木曽三川は網目状に繋がって流れ、大正時代に
至るまで呂久地先(岐阜県瑞穂市)は、川幅が狭く湾曲もはなはだしく、
その上堤防もなかったため、洪水により広大な区域が浸水被害を被っていました。
これらの氾濫を防止するため、大正12年(1923)より始まった木曽川上流改修
(大正改修)により、特に湾曲の激しい平野井川合流点付近の呂久川を廃川とし、
新川1500mを開削することとしました。
この改修工事により、湾曲のはなはだしかった呂久川は直線化した揖斐川として
生まれ変わりました。
そんなことで江戸時代の街道は、先ほどの松並木があった道から現揖斐川を斜めに
通り、呂久の渡しで旧揖斐川を渡っており、当然鷺田橋はありませんでした。
(国土交通省中部地方整備局木曽川上流河川事務所の資料より抜粋)
大きな川幅を悠然と流れる揖斐川。
大正末期の付替工事までは川ではなく、呂久の集落で田畑や人々の暮らしがあり、
中山道が通っていたとは・・・不思議な感覚になります。
遠く山並みが見え、川は西美濃一体の水を集めて伊勢湾へと流れている。
渡り終えた左側に呂久歩道橋があり、左折して歩道橋を渡ります。
橋下へ下り車も通る土手下道を進み、川で分断されしまった神戸町の呂久地区へ
入ります。
土手下道をさらに約60m前進するとY字路分岐となり、揖斐川堤防下の道に沿って
建つ良縁寺に沿うように、街道はナナメに進む。
この斜め路が瑞穂市側の土手突き当りから斜めに通ていた街道に、
つながっていたようです。
良縁寺には、呂久の渡しで舟年寄りを勤めた馬渕善左衛門の墓標があるそうですが、
立ち寄ることなくには先へ歩みます。
良縁寺から約40m歩くと、白鳥神社の鳥居が建っており、鳥居の奥に祀られてる
本殿が遠く見えてました。
白 鳥神社は、白鳥になって天に昇ったとされるヤマトタケルが祀られてるよし。
白鳥神社参道入口の鳥居から約100m歩くと、道なりに右に曲がり、
約20m進むと左側に即心院があり、参道口に地蔵堂(写真はボケボケで無し)が
祀られ斜め前には蓮生寺があります。
蓮生寺から90m歩くと、右側に呂久の渡しの舟年寄りを勤めた馬渕家の
長屋門があり、門の右手脇の石碑は、明治天皇御小休所跡の標石です。
馬淵家は1610年(慶長15年)ごろに呂久の渡しに13あった船頭屋敷の船年寄を
務めており、船頭8人、助務7人が置かれていたとされる。
馬渕家長屋門の前が街道の分岐で、左折して枡形状の呂久旧道を進みました。
呂久旧道は分岐を約60m進むと右折し、ゆるやかに左に曲がったところに、
「瑞 穂市指定史跡・小簾紅園」が現れます。
中山道を降嫁する和宮が、呂久の西を流れていた呂久川(旧揖斐川)を御座船で渡る際、
対岸の馬淵孫左衛門の庭の紅葉に目を留め、簾越しに眺めつつ歌を詠んだとの記録から、昭和4年になって整備された小簾(おず)紅園があり、
皇女和宮の遺徳を偲ぶ歌碑や呂久渡船場跡(写真左下の池が跡)がある。
御座船で渡る和宮は、対岸の馬渕家の庭に紅葉しているもみじを目にとめ、
「落ちて行く 身と知りながら もみじばの 人なつかしく こがれこそすれ」と
和歌を詠まれたという。
小簾紅園の西側の入り口に、「揖斐川呂久渡船場跡」の碑がある。
呂久の渡しは天正8年(1580年)に織田信長の長男信忠によって開設され、
江戸時代に入り中山道の渡しとして引き継がれた、との説もあります。
小簾紅園は、当時の呂久川沿いにあったようで、案内図によれば
大正14年の「揖斐川新川付替 工事」により、図の真ん中の大きな流れの旧揖斐川は
廃川となり、図の右側に描かれている現在の流れに代わったとあります。
小簾紅園を後に街道に戻り約20m歩くと、小川のような流れが豊後川で、
旧揖斐川(旧呂久川)であったそうですが、右手の門付民家に気をとられたとみえて、
カメラを向けるのを失念、写真なし。
豊後川から約350m歩くと、左側に地蔵堂が祀られていました。
地蔵堂すぐ先の平野井川に架かる新橋を渡ります。
新橋を渡ると約20mでT字路分岐となり、右折して進みます。
平野井川を渡る川の向こうに横たわる高い土手が見えるが、
街道書によれば、「大きな河川が多い濃尾平野の家や田畑を、洪水から守るために
築かれ、「輪中」と呼ばれる大垣輪中の一つで、大島堤と呼ばれている。
大島堤の手前は瑞穂市で、堤が境となって向こうは大垣市である」とあります。
渡った突き当りはT字路で、右折して約300mほど坂道を行き、大島堤上の道に
合流する左手前に「左 木曽路 右 すのまた宿道」と彫られた墨俣追分道標が
建っていました。(京方面から来た旅人へかな?)
この追分も右手へは一夜城で知られる墨俣に向かう道なのです。
(写真、堤左下は歩んできた中山道、道標右手の道を左方向が墨俣方面)
大島堤道に合流し左に曲がる平野井川を遠巻きにするように進みます。
堤上道はバス通りでもあり、地域のコミュニティーバスが通て行きました。
右下を平野井川を見下ろしながら足を進めると、右手平野井川向うに神社の幟が
見えてきます。
街道書を見ると、神明宮が祀られその前に日本橋から109番目の「柳原の一里塚」
跡があり、標柱が建っているとあります。
持参の街道書や他の解説でも、一里塚へは「寄り道」場所的に記載されてたが、
「むかしの平野井川は神社の裏手を流れていたといわれ、一里塚が有った当時の
旧中山道は平野井川に沿っていて神社前を通た」との説があります。
神明宮へは、大島堤上道から右手へ下る道が分岐しており、平野井川を柳瀬橋で渡る
とありますが、堤上から眺めて先へ足を進めます。
神社を見下ろしたすぐ先で、左手に下る道が分岐しており、標識を確認しないまま
下ってしまいました。
途中で気が付きましたがそのまま下ると、右手から下ってきた標識がある道と
合流し、その先で中山道標識に従って右折し堤下道を進むと、Y字路となり、
再び中山道標識に従って直進の堤下道へ入ります。
約200mくらい先の、県道高架下を潜り200mほど行くと分岐があり、
直進は再び大島堤に合流する道で、街道は左に曲がります。
曲がり角で振り返ると、京に向かって三つの曲がりと僅かな曲がりが一つあることを
知らせる「中山道三廻り半」の石碑が建ってました。
(向きが変ですね)
左折して約180m歩くと、2つ目の曲がりとなり、左角に祇園信仰の神社である
素盛鳴(すさのう)社が祀られていました。
1888年(明治21年)の大垣輪中瀬古堤決 壊時に、曽根赤花一帯が汚泥海と化した時に
神府が漂着し、スサノオと鑑定されたことから小さな祠を設置し、1913年に
現在地に遷座した、との案内板がありました。
さらに左曲がって、三津屋の集落に入ってゆきます。
右側は排水路の水門、左側は桜並木になっている曽根排水路の境橋を渡り、
しばらく歩くと三回り半の最後の僅かな曲がりがあり、さらに約200先の
東の川橋を渡って進むと三津屋町3交差点へでます。
交差点を右折してゆくと、弘法大師が爪で彫った薬師如来が安置されている
薬師堂があるそうですが、立ち寄らず先へ進みます。
三津屋町3交差点から約50m歩くと、左側に三津屋町の鎮守秋葉神社が祀られて
いて、さらに約100mほどに右側に浄土真宗大谷派の長徳寺がありました。
長徳寺前から約200mくらい歩くと十字路分岐右角に、聖観世音菩薩が祀られ、
「右ぜんこうじ道、左谷汲山ごうど いび近道」と刻まれています。
右折した道は、西国三十三ケ所札止めの谷汲山華厳寺に通じる谷汲山道だそうです。
三津屋の集落を抜けたところの、建設中の高架道路手前の曲がり角に
「七回り半道標」(黄丸)の石碑が建っていた。
確かに、ここから街道は、右左と曲がりながら西に進んでいくようです。
一説には、「長い大名行列が幾度にも折れ曲がったて通っていた様子」とも有り、
見通しが良さそうなこの地形では、単に曲がりが多いより、曲がりくねる
大名行列の方が絵になりますね・・
曲がりながら建設中の高架道路の下を潜るなど約120m歩くと、加納排水路があり
西浦橋が架かっていました。
西浦橋から約100mくらに、二車線道を横断しすぐ先民家の角を右折。
約100m歩くと中沢交差点横のT字路(県道230号)に突き当たり左折し、
この道は大垣市と神戸町の市町界道になってます。
合流した県道230号を約200m歩き右カーブしてゆきます。
右折して約90m歩くと、左折する右角に地蔵堂が祀られ「北かのうむらやくし」と
彫られた石柱が建ってました。
左折すると遠く2~300m先くらい先の、踏切標識が小さく見えてます。
デジカメをズームして覗くと、今日の目的地養老線の北大垣第9踏切。
足が早まり、PM5:00 養老線の北大垣第9踏切到着!
到着写真を撮る間もなく、カンカンカンの踏切警報音が鳴りだし電車到着。
乗車10分ほどで大垣駅。すでに入線していた東海道線・豊橋行きへスムーズに
乗り換え、岐阜市出発地で車を回収、途中買い物をしてPM6:30、
約18kmを歩いた一日目の旅を終えました。
いや~、4か月ぶりの長距離歩きでしたが「歩けた!!」「あるけたわね~!」
街道旅は二日目と続きます。