歩いて再び京の都へ 旧中山道69次夫婦歩き旅  第35回 1日目 太田宿~ 鵜沼宿  後編

国宝・犬山城を眺めながら天王坂をとっとと下ります。

う~ん、電線がね~

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池から約10分程下ると右手に広場があり灯篭や鳥居が見え雰囲気の良い神社

が祀られていました。

街道書には、往時は天王社と称し、寛永12(1635年)年に遷座した赤坂神社と

あり、右に折れて立ち寄ります。

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主祭神 は、盞嗚命(すさのおのみこと)稲田姫命(いなだひめのみこと)

門前の常夜燈は寶暦6年(1756年)年の建立と言われるそうです。

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赤坂神社から下って約100mほで坂を下りきり、Y字路分岐に右手を示す

中山道道標が有り右折するとすぐに、

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鵜沼宿の江戸口に当たる東見附跡となり、赤坂地蔵堂が建っている。

すっかり風化してよく読み取れませんが、赤坂地蔵には、

「宝暦13年 女人十二講中」、「左ハ江戸并せんこうし道(善光寺道のこと)」

「右ハさいしょみち(在所道のこと)」と刻まれていて、道標の役割を兼ねていた。

と説明板に記されてます。

地蔵堂前で桝形の様に右手へ曲がり、昼12:50、鵜沼宿へと入って行きます。

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約50mほど歩くと、右側に東鵜沼町ふれあいセンターがあり、街道書にある

高札場跡の解説パネルがあるはずでしたが、改装中の天幕が周りを覆っていて

確認でず、右先に先ほどの赤坂神社への参道があり、宝暦6(1756)年に

建立されたという常夜燈が建ってます。

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さらに約200m行くと、左側からの道と併せ、角に江戸方面へ向かう旅人用か、

「ここは鵜沼宿 これよりうとう峠 左」の自然石道標が建っていました。

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自然石道標のすぐ先の十字路を渡ると道の舗装色が替わり、

渡った右手に常夜燈が建ち鵜沼宿の中心街へ入って行きます。

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鵜沼宿東山道の頃から宿駅があった所で、うとう峠経由の中山道

整備された時に現在地に宿場が開設されました。

各務原市各務原台地東端で、木曽川を挟んで愛知県犬山市と接する鵜沼地区は

名鉄各務原線鵜沼宿駅の北側にあります。

 

江戸の日本橋から数えて52番目の宿場。

日本橋より100里28町395・7Km1 太田宿より2里 約8km

天保14年(1843年)の中山道宿宿村大概帳によると、

家数68軒、本陣 1、脇本陣 1、旅籠25軒、宿内人口は246人。

宿のパンフレットには、

「宿内の全長は東西約840m。道路は幅員5mほどの舗装がされているものの、江戸時代にかかれた家並図に見られる地割はほぼ残っており、往時の面影を偲ぶことができる。

 また、ところどころ歩道に石張り舗装がしてあったり、大安寺川に架かる「大安寺大橋」には常夜灯や木製の欄干が整備してあって、当時の風情も楽しめる。木曽川の南には、国宝犬山城を望むことができる」 と記されてます。

現在は各務原市の鵜沼地域になります。
英泉画 鵜沼宿、対岸の犬山側から見た構図で、はるか遠方に、

かすむような小ささで鵜沼の宿場が見える構図になってます。

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常夜燈から約170m歩くと、国道21号坂祝バイパスとの交差点で、

名は「鵜沼中山道交差点」。

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交差点を渡る手前の右側に復元された高札場があり、

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左側に、明治時代以降に一時街道から移されて鵜沼中学校に建っていましたが、

中山道鵜沼宿再生整備に当たり市が中山道にもどした「是より東尾州領」傍示石が

建っていました。

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鵜沼中山道交差点を渡った左手に、Café「陣屋」があり、角の白壁塀前に
鵜沼宿問屋場跡の解説パネルと、移設された尾州領傍示石(西)が建っていました。

Café陣屋の地はかっての問屋場跡で、野口家が勤め東町庄屋を兼ね、
安政5年(1855年)以降は脇本陣も務めた、と街道書に記されてます。

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時刻もお昼を過ぎていて、すっかりお腹も空いた、と昼食を兼ねて冷房の効いた

陣屋で一休み。

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ゆっくり足を休め、元気回復!PM1:50旅の再開。

道路向い側に英泉描く鵜沼宿画のモニュメントを見て、宿中心部へと足を進めます。

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中心部へは大安寺川に架かる「大安寺橋」を渡りますが、橋の手前左側には、

常夜灯と「太田町二里八丁」とほられた道標が置かれ、橋を渡った右にも常夜燈と

足元に「岐阜市ヘ四里十丁」の道標が立っていて、電柱が地下化された宿場町の

雰囲気をかもしだす風情ある街並みへと入って行きます。

明治24年の濃尾地震で殆どの建物が倒壊してしまったので、
明治期以降の町並みになりますが、それでも100年近い歴史があります

 鵜沼村の村域は東西・南北約1里10町程で、宝暦年間(1751~63)の戸数661・人数2,815。村内北寄りに中山道が通っている。慶安4年(1651)には西町・東町に鵜沼宿が設けられた。
中山道の古道の道筋は現在の鵜沼古市場町から鵜沼南町を経て鵜沼渡で木曽川を越えていたが、慶安4年(1651)に中山道の道筋付け替えがあって宿は北部に移動し、以後は木曽川北岸のルートになった。
寛政3年(1791)の鵜沼村絵図や分間延絵図などによると、宿内は西町と東町に分かれ、西町には東から本陣・問屋場脇本陣が並んで建っている。大安寺川を境に東町には108戸・540人、このうち宿内に50戸(上旅籠屋7・中旅籠屋18・百姓家25)、西町には88戸・360人、このうち宿内に29戸(上旅籠屋7・中旅籠家8・百姓家14)とある。
西町の本陣は桜井家が問屋と兼ねて勤め、南町から移って来たという。脇本陣の坂井家も西町に住したが、天保期以降は東町の野口家が問屋を兼ねて勤めた。

大安寺川の大安寺橋渡る手前左に常夜燈、橋の先に続く街並み。

散策が楽しみな家並みが続いてますね。

 

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端を渡った右手に大きな緑あふれる柳一本、垂れ下がる枝に隠れるように

常夜燈、そして隣は食事処の宇留摩庵、その隣の風情ある家屋は、

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旧武藤家住宅の現在は「中山道鵜沼宿町屋館」。

手前の板塀に鵜沼宿図は掲示されてます。

旅籠屋の絹屋だった場所で、
昭和39(1964)年までは郵便局として利用されていました。

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中山道鵜沼宿町屋館」(旧武藤家住宅)は、菊川酒造を営んでいた武藤家の

 分家だったそうで、

「当館は、江戸時代に「絹屋」という屋号で旅籠を、明冶の初めから昭和三十年代

 まで郵便局を営んでいた。
 平成十八年、各務原市が建物の寄付を受けて公開しています。
 敷地は972.76m2。屋敷は中庭を囲むように、主屋、東側の付属屋、西側の離れの

 三棟からなり、3つの建物は登録有形文化財各務原市景観重要建造物に

 指定されている。 
 主屋は、明冶二十四年の濃尾震災で倒壊し、その後、再築されたもので、

 江戸時代の旅籠の形式を残しています。
 付属屋は、大正から昭和初期に建築されたものと見られ、太田宿から移築された

 ものと伝えられています」

 (案内板)

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中山道鵜沼宿町屋館」の奥隣民家の角に、桜井本陣跡があり解説パネルだけが

建っていました。本陣の跡は既に分譲されているため看板が残るのみです。

パネルによれば、「鵜沼宿の本陣は、江戸時代を通じて本陣・問屋・庄屋の三役を
兼ねて 桜井家が務めていました・・・」などと記されています。

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町屋館の向かいには、鉄板で作られた「旧大垣城鉄門」が立っている。
「由来・当門は、大垣城本丸の表口に建てられていた鉄門で、明冶九年に払い下げ

 られた後、安積家の自邸の門として維持されてきたことから、「安積門」と呼ば

 れています。各務原市へ寄付され、平成二十一年に当地へ移築されました。
 主に城門として用いられ、当門のもう一つの特徴は、正面の木部を全て鉄板で覆い、

 軒下を白漆喰で塗籠めている点で、これらは火矢による攻撃から門を守るためと

 考えられます。
 当門と同様に高麗門に鉄板を張った遺構は、名古屋城表二之門、大坂城大手門)

 の二例が現存しています。」(説明版抜粋)

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すぐ隣は、明治4(1871)年創業の銘酒「美濃地酒蓑火」の蔵元,菊川酒造が

あり、本蔵、豆蔵、倉庫群などは国登録有形文化財の指定を受けてます。

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菊川酒造の向い、本陣跡の先隣りには南無妙法蓮華経碑があり、

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そのすぐ先が「脇本陣・坂井家」で、

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脇本陣の処に「芭蕉句碑」三つ並んでいます。

説明版に記によると、

「貞享二年(1685)、「野ざらし紀行」途中の松尾芭蕉は、鵜沼を訪れ

 脇本陣坂に滞在したと伝えられています。
 その後、貞享五年(1688)七月頃、芭蕉は再び脇本陣坂井家を訪れ、
 汲溜の水泡たつや蝉の声、 の句を読み、さらに同年八月頃、再度訪れた

 脇本陣坂井家で菊花酒のもてなしを受けた折には、主人の求めに応じて、

 楠の化石に即興の句を彫ったと伝えられています。
 ふく志るも喰へは喰せよきく之酒
 その後、木曽路を通って信濃へ更科紀行に旅立つ芭蕉は、美濃を離れる際に、
 おくられつ送りつ果ハ木曾の秋、と詠み、美濃の俳人たちと別れを惜しんだと

 いわれます」

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管理人の方によると、脇本陣は宿駅制度が廃止された後もその姿をとどめていたが

明治24年(1891)の濃尾震災で倒壊した。

復元は2010年今から9年前の平成になって、江戸時代末期の鵜沼宿各家の間取りを

描いた「鵜沼宿家並絵図」に平面図ではありましたがこの建物に関しては見取り図が

残っていたため、間取りはそのままに再建することが可能だったそうです。
ただし外観はわからなかったので、隣の太田宿にある林家に習い復元されました。

2億5000万円をかけて復活した脇本陣だそうです。

「由緒・鵜沼宿脇本陣は、坂井家が代々これを勤め、安政年間に至って坂井家に

代わり野口家が勤めました。坂井家の由緒は古く、貞享ニ~五年(1685~88)に

松尾芭蕉が当家に休泊し句を詠んだと伝えられています」(案内板)

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脇本陣・坂井家」の西隣は、古墳の石室の上に鎮座する、村社のニノ宮神社です。

常夜燈を兼ねた灯篭が建ち、鳥井をくぐり石段を上がると広い境内へ出、目の前に

古墳玄室の入り口が有ります。

さらに注連縄鳥居から石段を上がると、古墳の上に社殿があります。

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正面の本殿石垣のしめ縄鳥井脇に、ぽっかりと古墳の横穴式石室が口をあけています。

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境内からは木曽川越しに犬山城が見えてます。

木曽川の源流、鳥居峠からほどんど川沿いを歩いてきた眺めも、この付近で見納め。

木曽川は南下し伊勢湾に注ぎ、中山道は西へ西へと続きます。

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二宮神社の向い側には「国登録有形文化財」に指定されている古民家が4軒

が軒を連ねている。
鵜沼は、1891年(明治24年)の濃尾地震によって壊滅的な打撃を受け、

1軒の旅籠を残して全壊し、現在の町並みはその後再建された明治・大正期の

 ものです。

写真は、奥から菊川酒造、豆蔵、再建された坂本屋、

その手前全容が写ってませんが、濃尾地震で崩れ落ちなかった唯一の建物、

江戸時代に建てられた旅籠・茗荷屋梅田家(本家)。

織田信長の宿老林佐渡守通勝は、天正八年(1580)改易をうけた。
 その子総兵衛は津島の大橋家にお預けになった。
 林家では改易の実態を整えるため、大橋家の領地「埋め田」にちなんで氏を梅田とし、家紋は大橋家の家紋「丸に抱き茗荷」を使って屋号を茗荷屋とした。
 ここは江戸時代の建物で、鵜沼宿では現存しているのはここだけである。

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左ては梅田家、奥が安田家などの明治期建築。

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大安寺川から水を引いて用水が通り、町屋の間には常夜燈、秋葉神社が祀られ

いい雰囲気の街並みでした。

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その先右手にには、鵜沼西町交流館(町会会館?)があり、

塀前の「鵜沼宿 東・坂祝町 西・加納宿」の道標を見送り、ゆるく左へ下ると

交差点があり、左手に鵜沼宿案内パネルと道筋標が有り、交差点を渡った

左手に「鵜沼宿」碑が建ってます。

交差点を右手へ曲がり約100㍍進んだところに、昔の鵜沼石の切出し場で

山腹に「石亀神社」があるようですが寄らずに先へ進みます。

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交差点からのこの付近からは、かっては道路の北側(右側)にのみ家があり、

ここを片町といったそうです。

少し進むと右て台地傾斜地に灯篭、狛犬を持つ小社が祀られ、祠の横に「氏神」と

彫られた石碑が建ってますが、周辺のか隣接するお宅の家神かなんでしょうね。

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小社から100mほど歩いた右手に石仏石塔群台地があり階段で台地上へ上がれるようになってます。上には農業用水池があるそうです。

そしてここが鵜沼宿西見附京口)になり、案内板が有りました。

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西見附から約150mほとの左手には、八木山弘法堂があり、文化四年(1807)

建立の六十六部廻国碑をはじめ江戸時代末の石造物が並んでいます。
 六十六部は六部とも言われ、法華経を背負って全国六十六ケ所を回る修行者です。 

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弘法堂から50mほど進むと北側には衣裳塚古墳があります。
「衣裳塚古墳は、各務原台地の北東辺部に位置する県下最大の円墳です。墳丘の大きさは直径が52m、高さが7mあり、周囲は開墾のためやや削平を受けていますが、北側はよく原形をとどめています。また、墳丘表面には葺石や埴輪は認められません。
衣裳塚古墳は、円墳としては県下最大規模の古墳ですが、ここより南西約300mのところに、県下第2位の規模を有する前方後円墳の坊の塚古墳が所在することや、本古墳の墳丘西側がやや突出する形態を示していることから、本古墳も本来前方後円墳であったものが、後世に前方部が削平されて、後円部が円墳状に残された可能性もあります 。
衣裳塚古墳の築造年代については、本古墳の埋葬施設や年代が推定できる出土遺物が知られていないため、正確な判定は出来ませんが、おおよそ古墳時代の前期から中期にかけて(4世紀末から5世紀前半)の時期に坊の塚古墳に先行して築かれたと推定されます。(各務原市教育委員会説明版)

左手を見ればすれば犬山城が遠くに見えてました。

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前方後円の衣裳塚古墳の西側が、堂々たる門構えの空安寺で、寺の境内の部分は

衣裳塚古墳の墳丘の後円部分であったがため、古墳は削られて円墳となってしまった

と、古墳の説明にありましたね。

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歩道帯の狭い街道を車に注意しながらしばらく進みます。

途中、左手に逸れて7,80m入ると県指定史跡前方後円墳の「坊の塚古墳」が

あるようですが、調査中のようなので寄らづに先へ進みます。

(前回の加納宿から垂井宿への途中でも。古墳に立ち寄ってたし・・)

台地上を歩んでいたと思ってましたが、知らず知らずのうちに平地歩いていた

ようです。

各務原というように、もともと原野(平)地ですよね。

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衣裳塚古墳から10分程歩くと羽場(はば)の交差点で、先の右手に「島津神社」が

あります。鳥居を入った拝殿で村芝居が上演され、説明板によると、

回り舞台を持った「皆楽座」と称し(写真上白壁の建物)、

「客席を持たない舞台のみの農村舞台ながら、廻り舞台、奈落、セリ、太夫座などを

 備える。公演時は舞台前面にむしろを敷いて見物席とし、花道は仮設で設けられ  

 た。」そうです。(登録有形文化財指定)

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津島神社を過ぎると道幅が広くなってきて、左右に家屋も立て込んできます。

約400mほど行くとしばらく離れていた国道21号へ、鵜沼羽場交差点で合流です。

「あら、向うの消防署前の石物はお地蔵さんでは?」とカミさんの指す方を

デジカメズームで見ると、確かに地蔵尊が西方向へ顔を向けてます。

事故の慰霊尊なのでしょうか。

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轟音の四車線国道を200mほど行くとおがせ町交差点で、左手にしっかり

木の祠で守られた馬頭観音像がありました。

明治39年(1906)に建立されたそうで、最近修理改修されたようすです。

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おがせ町交差点から約300m弱歩くと山の前町交差点があり、その少し先で

国道はJR高山線を越える弧線橋の上り坂のとなるが、街道書の通り左側側道へ入り、

100mほど先の階段で弧線橋へ上がります。

街道書には、このあたりに「播流上人碑」があり、そこが江戸から101番目、

「山の前の一里塚「各務原一里塚)」と記されてるが、カミさんと探してみましたが

見つけられず、弧線橋の階段を上りました。

(帰宅後調べてみたら、側道へ入って分岐から約80mほどの建物と建物の間へ

 入るようでした) 

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JR高山本線を越える跨線橋は300mほどで下り、

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さらに100mほど歩むと各務原町交差点。

各務原」は「かかみがはら」と読み難読地名の一つだそうですね。

各務原市濃尾平野の北部に位置し、中山道の宿場町(鵜沼宿)として栄え、

近年は自衛隊岐阜基地などに関連する工業都市として、また岐阜市名古屋市

ベッドタウンとして発展を遂げた人口約15万人で岐阜県第3の都市です。

横に長い市で、JR鉄道で4駅、名鉄線では12駅もあるようです。

 

右に高山本線各務ケ原駅で、左に入って行くと名鉄名電各務原駅です。

10月5日(土)PM3:40

太田宿旅立ちから加納宿までの約27kの中間へ到着で、

約13kmを歩いて1日目の足止め。

 

(写真右は各務ヶ原駅、岐阜市加納宿)へ延びる線路をこ線橋から)

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地名は各務原市(かがみがはらし)なんですが、駅の名は「各務ヶ原市」なのね。

とカミさんの珍発見。

名鉄の表記は「各務原駅」なんだそうです。

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JR各務ヶ原駅は、なんと無人駅でトイレも無し。
市の名の駅名から大きな駅と勝手に思い込んでいたが⁉

2日目へと続きます。