5中仙道へ戻り今尾医院の前を通り、100m先を現代道標を見ながら桝形に左折し
加納宿をめざします。10月6日(日)12:20
約300m歩くと、濃川に架かる濃川橋があり、橋を渡ると左側に石柱が建ち、
京方面側に「中山道間の宿 新か納宿」と彫られてます。
橋を渡った先には住宅が途切れ、かっては松並木が続いていたそうですが、
いまは片鱗も感じられず左手は田畑、右手は名鉄各務原線で赤い電車が通過して
行きました。
後ろから追いついてきた一人旅の男性とご挨拶。
「この先にお昼を摂れそうなところあるようですか?」と聞かれたが、自信無し!
「間の宿で何とかなると思ったんですが・・」と男性も我々とおんなじことを
期待していたんですね・・まあ、街道外れて探してみますわ!と去って行ったが・・
濃川橋を渡り、東海北陸自動車道の高架を過ぎて、700mほど歩いた境川に架かる
高田橋を渡るも店や食事処は全くなし。
(新境川の元はこんなに離れてたところを流れていたんですね。
別の資料にはこの川が美濃と尾張の国境とあったし、現代の地図でも各務原市と
岐阜市の市境になってます)
さらに30分ほど右に左にくねくね曲がる街道らしい道を行くと、左手からの道に
合わさり、大きな石造り鳥居が建ち、手前に小さな「左木曽路」の道標がありました。
鳥居は「手力雄神社(たじからおじんじゃ)」の入り口の鳥居でした。
「手力雄神社(たじからおじんじゃ)」は多くの旅人の記録に、風格あり神社と
記されていて、門前通りなら食事処も、と期待してて拝観へ。
(と行ったのですが、神社の写真が何故かブレブレ・・お腹が空いてたからかな~)
街道書には、
「貞観2年(860年)の創建で天岩戸を開いた手力雄命を祀り、織田信長の崇拝
篤く、ゆかりの「弓掛け桜」「的場桜」あり、雨乞い時の火祭りでしられる」と
あり、力強さを感じる風格のある社殿の神社でした。(’写真が・・ざんねん)
*手力雄神社は関東では千葉県館山市にも鎮座し、岐阜、奈良など6社あるようです。通ってきた各務原市那加にも、創建が少し古い社が地図に有り、こちらも信長所縁の
神社だとか*
神社前で地元の方に,、先きへ行けば浄慶寺の前に天ぷら屋があるよ、と教えて頂き
そくさと足を速めます。
切通地域は境川北岸に位置して、岩戸南方一帯の滞溜水を境川に落としていたこと
に由来していると言われます。
神社から約700mほど来ると、右手に立派な二脚門の浄慶寺がありました。
昔は天台宗でしたが、親鸞聖人に帰依し文明18年(1486年)浄土真宗に改宗したそうです。
浄慶寺の向いに、教えて頂いた天ぷら屋さんの屋号看板を掲げた店があり、
入ると、5,6人掛けのテーブルと小さな上がり座敷で、出前が主なのか
昔風の平木箱型の蓋付き岡持が沢山あり、昼時後の一休みか店主が新聞を読み
寛いでました。
「うどんならすぐできるよ」で頼んだのが天ぷらうどん、これがまた美味かった!
丼からはみ出す大きさの揚げたて熱々のエビ天2本。
天つゆを使うのか、透明感のある昆布だしのきいたつゆ。
そしてコシのあるうどん。
お腹が空いていたから、だけではなくカミさんも「おいしいわ~」で、
旅の思い出に残る美味しさでしたね。
「気をつけて~」の声に送られて再び街道へ。
食事処を探していたあの旅人は脇へ逸れたか、立ち寄った様子はなかった・・。
(写真写しとけばよかったな・・)
天ぷら店より200m強、右ての鍼灸院の前に案内板があり、小路へ入ると
加納藩主安藤信成が陸奥国磐城平(いわきたいら)藩に移封後、老中として活躍した
功により旧領のこの地を領した折、陣屋を設けたという「 切通陣屋跡」があります。
明治維新後も約65年間、現在の名鉄切通駅東100メートルの地点から中山道まで広い屋敷がありましたが、その屋敷は今や存在せず、ただ観音堂の片隅に碑が残るのみ
で、「 切通陣屋跡」碑、切通聖観音お堂、中山道碑、右きソみち道標や、
切通由来解説碑などがあり、この辺りは切通陣屋の惣門だったそうです。
「 切通の由来」碑記載解説
「切通は境川北岸に位置し地名の由来は岩戸南方一帯の滞溜水を境川に落としていたことによると言う。文治年間(1185)渋谷金王丸が長森庄の地頭に任ぜられこの地に長森城を築いた。延元二年(1337)美濃国守護二代土岐頼遠が土岐郡大富より長森に居を移し長森城を改修し美濃国を治め天下にその名を知らしめた。江戸時代に入るやこの地は加納藩領となり以後幕府領・大垣藩預り地と変わり享保三年(1802)盤城平藩の所領となるに及びこの地に陣屋が設けられ幕末までこの地を治めた。
切通は古来東西交通の要路にあたり江戸初期中山道が開通されるや手力雄神社前から浄慶寺付近までは立場(休憩所)として茶屋・菓子屋・履物屋等が設けられ旅人の通行で賑わいを見せ各地の文物が伝来し文化の向上に大きく寄与した。」
やあ、この鵜と鮎デザインマンホールは!
岐阜市に入ってることを知らせてるね。
前回33回目の旅は今歩いてる間を飛ばして、加納宿(岐阜市)から足を進めていて、
なんどか見かけたデザインなんです。
さらに10分ほど進むと伊豆神社があり、街道に面した祠に馬頭観音が祀られている。
そのすぐ横には石柱に「右」の文字があり、街道書では「右 江戸ミチ、左 京ミチ」
中山道道標と記されてます。
解説板の由来書によれば、
創立年代は不詳であるが、御祭神は健康長壽をつかさどる神の大山祇神の
娘石長姫命で、手力雄神社の御祭神が男の荒神であり、この神をおいさめするため
往時の長森細畑字石長あたりに鎮坐されていたのを水害等のため当地に遷された
と伝えられている。
(石長姫命は石が長い間存在するのと同じように、永遠の命の象徴である神様で
すが、醜い容貌だったために受けた仕打ちから人の命を短くしてしまったとの
神話もあるそうす。御祭神が同じ静岡の伊豆神社からの分社したものでしょうか)
おや、屋根が?、おや、家のクレマチスと同じ花、秋咲きしてるね。家のはどうして
咲かないんだろう、なんてお喋りしながら4,5分ゆくと大きな通りと交差する切通4交差点を渡ります。
交差点をすぎて2,3分の右手に長篠の戦があった天正3年(1575年)に西宮から
勧請したという、ゑ比寿神社が鎮座。
中山道拡張改修のためか、参道が中山道と並行し、民家は参道を横切って道へ
出るんですね。
左に南へ向かう道があり、境川を渡る橋は恵比寿橋で欄干は赤く塗られていた。
ゑ比寿神社から50m先右手に大きな寺標が建った、真宗寺参道入口があり
奥に大きな伽藍が見え、200m強先右手奥には真宗本願寺派誓賢寺、右手の民家脇に咲くアメリカデイゴ、左手の塀から伸びてる秋の気配を見送り、さらに50m先の
左手、細畑のバス停の脇に、小さな「秋葉神社」が祀られてます。
さらに50mほど先に、岐阜から長良川をさかのぼり、郡上。白川郷から富山県の
高岡にまで至っている国道156号バイパスを長森細畑交差点で横断し、正面に
見える信号機下の細めの道へと足をすすめます。
バイパスを越えると、立派な蔵のある古い商家や板塀の続く屋敷など風情ある風景に
迎えられ、
その先には庵看板が掲げられた商家があり、看板は「明治水」と読めた。
登録商標の文字も見え江戸期のものではないが、明治水とは目薬との説があります。
先へ100mほど行くと、両塚が復元された「細畑の一里塚」は江戸から104番目。
南塚の奥には秋葉神社、稲荷神社が祀られてました。
(写真は南塚、神社側から)
細畑一里塚跡から約140m歩くと領下地区で、二股路分岐があり、右方向に
進みます。
左に進む道は境川沿いを進み、加納から南に進む御鮨街道と合流する。
分岐角には領下延命地蔵堂があり、左側に明治9(1876)年に建立された伊勢道追分の道標が建ち、道標の表面には「伊勢 名古屋ちかみち笠松兀一里」、右側面に「西 京道加納宿兀八丁」、左側面に「木曽路 上有知道」裏面に「明治九年一月建之」と彫られているそうです。
(御鮨街道とは加納宿の長良川鵜飼の鮎鮨を尾張家や将軍家へ俊足で運んだ道でした)
すぐに、左手に八幡神社があるが、正面参道は地蔵尊が祀られた二股追分の伊勢街道
に面していた。石垣上に風格ある立派なご神殿が祀られてます。
神社からほんの少し先領下往還南交差点を渡ると、続ていた普通の街並みから一転
風情が替わり、立派な長屋門や正門を備えた屋敷が現れ、両側に街道らしい時代を
感じる街並みになります。一軒の100年を超えると書かれた古民家は、懐石料理店
でした。
さらに500mほど街を進むと、右手にモダンな街灯をもった和洋折衷?の
秋葉神社が祀られていて、その先で東海道線が初めて登場しガードをくぐります。
東海道本線は岐阜から中山道近くのルートを取ったので、これから東海道新幹線も
含め頻繁に登場することになります。
ガードから約150mほど右手には県指定都市景観重要建築物の重厚な森邸屋敷が
あり、屋根には煙だし小屋根が有りました。
森邸のすぐ先に、名鉄名古屋本線茶処踏切で、左側に名鉄茶所駅があり、踏切を
渡った岐阜方面への駅入り口に「中山道加納宿碑」がでんと控えてました。
かっては地名の上川手駅だったそうですが、茶所の駅名に変わったのは??です。
30mほどで南へ分かれる路が御鮨街道で、右手に石柱道標がありました。
以前に記しましたが。尾張家や江戸将軍家に長良川の鮎鮨を献上した道で、
岐阜町から加納、笠松、一宮を経て、熱田からは東海道で鮎鮓を運んだ。
江戸に着くころに食べごろとなるよう、岐阜から江戸まで5日間で運んだとされる。
(街道書に、御鮨街道へ曲がり20mほどに、素行の悪さを改心し、等身大の
木像・ぶたれ坊を造り旅人に叩いて貰い罪滅ぼしをしたいう、加納所縁の相撲取り
鏡岩にまつわる碑と、道標「東海道いせ路(御鮨街道)」が記されてましたが、
寄らずに来てしまいました)
道標のすぐ先の団子やさんの角は桝形で「中山道 加納宿」碑があり、
中山道、御鮨街道は右に曲がります。
加納宿は城下町で左手方向に加納城が有ったので、城下町独特の城を遠回りの桝形
だといわれてる。
約50m歩くと荒田川を渡る加納大橋があり、右側に加納宿案内標識が建って
いました。橋の欄干には、参勤交代行列図が彫られた胴板があります。
荒田川は境川の分流で、加納大橋を過ぎるとすぐ南に流れを変え、加納城の東の外堀になっていたそうです。
「加納宿は、関ヶ原合戦時に岐阜城にあって西軍に組した織田秀信(かつての三法師)が追放された後に、慶長6年(1601)、徳川家康の娘婿である奥平信昌が加納の地に入り、破却された岐阜城の建材で加納城を築城したことに始まる。
豊臣氏やその恩顧の大名への監視をするとともに、織豊から徳川への時代の移り変わりをわかりやすく示したのだろう。
その後、寛永11年(1634)に加納宿は中山道の宿場に定められるが、中山道に沿って21の町が並ぶ細長い町だったという。」(案内板)
あの戦災で焼き尽くされ、宿場遺構は残されていないそうです。
左手川岸に立派な蔵造りが並んでますね。
加納大橋を渡り約70m歩くと右側に薬局本店があり、その先は左桝形で
石柱道標と明治18(1885)年に建立された「右 岐阜 谷汲路、左 西京路」と
彫られた谷汲道標があり左折します。
「右 岐阜 谷汲路」となってる直進の道は、明治時代に造られた道だそうです。
左折して約70m歩くと秋葉神社が祀られていて、約100m歩くと二股になり
左手へ進みます。
少し歩くと、右手の広い通りへ出る手前の右側に、「中山道加納宿の東番所跡」碑が
あり、加納宿東入口に到着です。
加納宿は、
「江戸から53番目、日本橋より105里4町8町、約412.8キロ。
鵜沼宿より4里10町 16.8キロ
天保14年(1843)で人口2,728名、総家数805、本陣1、脇本陣1、
旅籠屋35、の加納藩の城下町であった。
加納城下町の建設は、関ヶ原の合戦から半年後の慶長六年(1601)三月、
十万石の領地を与えられた奥平信昌が地元の有力者たちを指揮し、整備した
ことから始まります。
その後、寛永十一年(1634)には中山道の宿場に定められました。
城下町であり宿場町でもある加納宿は、二十一の町からできており、中山道に
沿って軒が並ぶ細長い町でした。
宿場の中心部では、岐阜町から名古屋の熱田へ続く御鮨街道(岐阜街道・尾張街)
と交わっており、交通の要となっていました。
(通って来た加納大橋案内板より)
広重画 加納宿、
左手へ入ると正面に大きな伽藍の「浄土真宗本願寺派 法性山善徳寺」がある。
(加納宿の成立とともに現在地に移されたそうで、東番所と連動した加納城の出城の
ような役割をはたしていたとの説がありました)
正面のお寺前で道標に従って右折(4回目の桝形かな)し西へ進みます。
右折して約50m歩くと幅広い道路にで道標があり、街道は広い道を斜めに
突っ切った二股道の左手へ続きますが、一旦広い道を横断、10mほど左へ進み
二股道の左手へ斜めに入って行きます。分岐手前にも道標が建ってました。
広い道を渡った正面のマンションの脇に「柳町秋葉三尺坊」が祀れていていました。
二股の左を70mほど行くと、
左手に浄 土真宗大谷派 大会山専福寺があります。
専福寺は織田信長と豊臣秀吉の朱印状、池田輝政の制札状などあり、
(駐車場確保のために塀の一角を取り払たんですね、もったいない)
専福寺から約100m歩くと、右側に秋葉神社が祀られていました
秋葉神社から100mほどで桝形で、右手奥に秋葉神社が祀られ、街道は左手へ曲がり、角の薬局前に道標や中山道説明板がありました。
(あれ?街道書には、桝形の手前に秋葉神社との間に、献上鮎鮨の継立をした問屋場が
記されてるが、どこに有ったのかな??見落としたようです)
(あとで調べると問屋場跡の案内板が、建物の軒下に小さく有ったようです)
左折して歩くと清水川に架かる広井橋があり、橋の手前を右折すると右側に水薬師寺
が沢山の幟を立ててありました。
「臨済宗妙心寺派,本尊薬師如来.
慶長17年6月21日の夏に伊三郎という若者が清水川にて遊泳中、足に触れた異物を拾い上げたら黄金の薬師像で、
これを光国寺に奉納しました.
藩主奥平忠政と亀姫はこれを慶び清水川に川中に二間四方の浮見堂を建て安置しました。以来水薬師または乳薬師と呼ばれ,
乳がよくでる仏として親しまれています.7月20,21日には清水川の灯籠流しが盛大に行われています」(加納宿資料)
清水川に架かる橋を渡った所に「加納宿高札場跡」の立て札、街地図が立っている。
「加納宿では、加納城大手門前の清水川沿いのこの場所が高札場で宿御高札場と呼ばれていました。この高札場は加納藩の中でも最も大きく、石積みの上に高さ約三・五メートル、幅六・五メートル、横ニ・二メートルもあるものでした。正徳元年(1711)に「親子兄弟の札」が掲げられて以後、明治時代になるまで、何枚も高札が掲げられました。平成十ニ年三月 岐阜市教育委員会」(説明版)
高札場跡から約100m歩くと、加納大手町交差点の手前に歩道橋があり、
歩道橋の処に「中山道加納宿 右 河渡宿」の道標と「加納城大手門跡」碑が建ち、
街道がお城の門の側を通ってるのは珍しいのでは。
ここも桝形で街道はお城に近づくことなしに十字路の手前への道を右手へ続いて
いきます。
右折してすぐ左手に広い更地になっており、解説パネルが掲げられていました。
広い空き地には大正15年建築の登録有形文化財・旧加納町役場庁舎がつい最近までは
建っていたそうですが、老朽化により解体された跡地だそうです。
100m強ほど先左手には、元和6(1620)年に創業した旧旅籠の二文字屋跡
(現在は「うなぎ・二文字屋」)がありました。
二文字屋には左甚五郎作「月夜に河原で餅をつくウサギ」の欄間があるそうで、
入口右手に欄間をモチーフにした蹲のモニュメントがあり、道標もあって時代を
演出してました。
そのすぐ80mほど先に宮田家が本陣を勤めた「当分本陣跡」の碑が立っていました。
ごく最近までは塀をめぐらしたお屋敷が有ったようですが、周辺は駐車場が
広がっていて、碑の後ろは管理事務所のような家屋がありました。
当分本陣とは、幕末に参勤交代が緩和され通行増大に伴い当分の間、本陣を勤めた
ことから当分本陣と呼ばれたようです。
(案内解説板などはみつけられなかった)
当分本陣跡の先は、交通量の多い加納中通りだが信号がないため、50mほど南の
信号のある交差点で渡りって、街道へ戻ります。
来た道を振り帰ると当分本陣跡の駐車場などが見えました。(写真下右端)
渡ってすぐのビル脇に、皇女和宮が宿泊した松波藤右衛門が勤めた加納宿本陣跡碑が
たってます。
本陣跡から約40m歩くと、右側に万治元年(1658)から松波清左衛門が勤めていた
西問屋場跡があり、跡地に標柱が建っていました。
約30m歩くと、右側に延享2(1745)年から森孫作が勤めていた脇本陣跡があり、
標石が建っていました。脇本陣跡から約15m進んだ十字路を右手を見ると正面に
加納城の守護神であった加納天満宮の大きな石碑、遠くには森を背負った神社が
見えてます。
もともとは加納城の前身にあたる沓井城の守護神として勧請されたものが、加納城
築城の際に現地に移転されたものだそうです。
街道書には、加納名産の加納傘は加納城主となった松平丹波守が播州明石から連れて
きた傘職人が始まり、とも記されてます。
子供のころは和傘、番傘が普通でしたが、和傘が加納の特産とは知りませんでした。
岐阜市の伝統ある和傘屋さんのホームページに有った一文です。
「城下町として栄えた加納は、和傘といえば加納といわれるほど、古くから名産地として知られています。生産が盛んだった昭和20年代頃までは、天気のいい日には加納の町のあちこちで和傘が天日干しされ、その風景は庭いちめんに色とりどりの花が咲き開くかのようでした。なお、岐阜和傘は平成4年、岐阜県郷土工芸品に指定されています。 材料となる良質な竹が木曽三川流域に豊富にあり、美濃和紙、柿渋、えごま油が身近にあり和傘づくりは、一つひとつの行程が複雑で、それぞれに専門的な職人技が不可欠な工芸品。熟練した数十人の職人の手を経て、数か月をかけて仕上げられます。
神社・仏閣の祭礼はじめ、歌舞伎・舞踊・野点のお茶席、婚礼用の差しかけ傘など、日本の伝統文化に欠かせない和傘は、これからも守らねばならない大切な文化です。入手しやすかったことが、地場産業までに成長した要因だったようです。」
天満宮参道口から60mほど右手の小ていな洒落た宅前に、小林家が勤めた
脇本陣跡標石が建っていて、
150mくらい歩むと、前回第33回先行旅立ちをした、岐阜駅南口通り到着で、
10月6日(日)PM4:15、第35回旅の足止めです。
これで中山道街道旅は一本線で継ぐことができました。
鵜沼から加納まで結構長丁場でしたが、旧道には街道の雰囲気も結構残っていて
楽しめた歩きでしたが、ただガードレール無しの歩道帯が多く、全般的に交通量も
多く、かなり気を使った歩きが多かった気がします。
そういえば、自転車で通る方もほとんど見かけなかったな~。
右折して岐阜駅へ出て、構内店で夕食の総菜などを手当てし、JR高山線で
美濃太田駅へ。
途中の停車無人駅ホーム外側に十月桜が咲いてました。
翌日7日(月)は修復工事中ですが、国宝・犬山城へ立ち寄りして、
名神、新東名、圏央道を走り、全く渋滞にもかからず夕5時帰宅。
次回35回は美濃を通過し近江の国へ。さあ~て、いつ日か・・・
「終わり」
(余談)
かの信長が築いた岐阜なのに、どうして加納宿なのだろ?
JR岐阜駅の南側に当たる岐阜市の中心部で、何故に「岐阜宿」ではないの?という
疑問が沸きますが、加納城は徳川家康の天下統一後に築かれた城で、斎藤道三や織田信長の居城で有名な岐阜城の城下町とは別の町になり、まさか「加納」という城や宿が、家康による織豊政権を象徴する「岐阜」を否定することで成立したとは思いもよりま
せんでした。さらに、徳川政権を否定した明治政府の意向なのか、「加納」は「岐阜」にのみ込まれてしまうという歴史の流れだった。