続きへと入ります。
無料休憩所から何本かの松の木がある道をゆくと、国道21号に合流する手前の
道祖神の先で、中山道はまた国道21号に、合流し、右方向に進みました。
合流してしばらく行くと関ヶ原東町交差点があり、
街道書には、その付近が関ヶ原宿江戸(東)口と記されていましたが、
印されるものは何もありませんでした。
交差点から約200mくらい歩くと、右側に若宮八幡神社が祀られていました。
関ヶ原の戦の際に破壊された後、江戸期に復興したとのこと。
(神社前が関ヶ原宿江戸口という説もあります)
AM11:30 江戸から58番目、関ヶ原宿到着です。
江戸日本橋から、112里24町 442.55Km
北国脇往還と伊勢街道への分岐点にあたり、大変賑わった宿場であったそうです。
天保14年(1843)に発行された宿村内大概帳によると、
人口:1389人 家数:269軒 本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠33軒
旗本、竹中氏の領地であった(1843年)
(広重画 関ヶ原宿)
解説文をお借りします。
広重は、敢えて、何処にでもある平凡な風景を描いています。
右手の茶屋の軒下に下がる提灯には、「名ぶつさとうもち」
(名物 砂糖餅)の文字が見えます。
また、茶店の看板には、「そばぎり」「うんどん」と書かれて
います。
茶店の前の縁台の旅人は、名物の砂糖餅に箸をつけようと
しています。
そして、お盆にお茶を乗せてきた老婆が、もう一人の旅人の
注文を聞いています。
その左手は、馬を引いた馬子、そして、更にその左奥には
2頭の馬を引く女が描かれています。
宿内へ足を進めます。
ガソリンスタンドの裏側にあると記された興市宮(よいちのみや)へ立ち寄り、
街道へ戻って直ぐ右手の民家の庭に石碑が建ってます。
アップで確認すると「関ヶ原興市之邸跡」とありました。
(関ヶ原観光WEBの説明文)
関ケ原与市(本名:藤原基清)は平安時代の貴族で、用水の乏しかった関ケ原へ揖斐郡粕川上流から水を引こうと計画します。粕川は関ケ原からいくつかの山を越えた向こうにあり、工事は困難を極めました。権力者であった与市はこの地を通行する者は、何人といえども1日はこの工事に参加しなければ通さないようにし、使役したのです。この努力の結果が現在の関ケ原の基盤となっているといえるでしょう。子孫の方が作った与市宮は今も手入れが行き届き、関ケ原開拓の祖であるといわれる与市への尊敬がうかがえます。
右側に十九女池に棲む竜女が美女に化け、民家に借りた椀を返しにきたら生臭かった
という十九女池の竜女伝説に登場する「椀」が保管されている、と街道書に記された
法忍寺を見送り、
街道書にも位置不明と記された、日本橋から113番目の「関ヶ原一里塚」跡らしき
形跡は、と探しますがまったく判りませんでした。
街中は歩きスタイルの方を、多く見かけるようになりました。
関ヶ原宿は、宝暦十年(1760)の大火の他何度も火事が発生し、古いものは
ほとんど残っていないそうです。
伊吹おろしの強風に加え、川らしい川がないため、火事が発生すると
大火事になることが多かったという。
そのうえ宿場町内を国道21号が通ったため、街道らしさも失われたようですが、
レトロの建物も有りすこしは風情を醸し出しています。
交差点の左側に明治32(1899)に創業した関ヶ原醸造がありました。
関ヶ原醸造の「たまり醤油」は宮内庁御用達だそうです。
(この付近に一里塚があったという説あり)
足を進めると関ヶ原駅前交差点に到着。
関ヶ原駅前には、新しく建てられた観 光案内所があり、資料を求めトイレを拝借で
向かいます。
関ヶ原戦場に出陣した武将の旗指物を思わせる幟が並び、駅前周りには、
諸将の家紋がずらりと掲げられてます。
駅前の観光案内所のコインロッカーも関ヶ原の戦いの東西の従軍した武将の氏名と
家紋、推定兵力がロッカーの表に描かれている。
関ヶ原主戦場が駅の裏手に広がるため、大勢の戦場巡りハイカーが通り過ぎて行きます。
駆け足で半日、ゆっくり全体をめぐると1日掛かりなんだとか。
戦場巡りはやめにして街道に戻り、西へ向かいます。
今は、中山道の宿場町というより、古戦場関ヶ原の町を町興しにの主体にされてる
ようすで、なにからなにまで古戦場関ヶ原ですね。
戦場巡りは人気があるようで、団体で、グループで、一人歩きで、とパンフ片手の
大勢の方々に出会いました。
先に有った無料お休みどころの木看板「ここは中山道」は、
宿場町だよ!戦場だけでは無いよ!かな?
関ヶ原駅前交差点から約100m歩くと、「関ヶ 原宿脇本陣跡」の案内板のある
門がある。相川家が勤めていた脇本陣跡で、江戸初期の高僧・至 道無難禅師の
生誕の地でもあるようです。
(無難禅師寛は、寛文2年(1661年)創業の江戸日本橋の白木屋元祖木村彦太郎とは
従兄弟の間柄という説がありました)
脇本陣から十六銀行関ヶ原支店の手前を右折する道は北国街道の脇往還だそうで、
右折付近に本陣があったといわれ、約60m進むと八幡神社があり、八幡神社の
境内のスダジイの木が、本陣の庭木だったと街道書に記されてます。(移植した?)
八幡神社は天正16年(1588年)ころの領主竹中重門が創建し、関ヶ原の合戦で
焼失し家康が再建したといわれる。
神社の左手の道を北に向かった先に、関ヶ原の首実験をしたという東首塚があると
街道書に記されてます。
街道に戻り八幡神社入口から約100m歩くと、関ヶ原西交差点で、
右手に圓龍寺参道入口がありました。
寄りませんでしたが、境内手前右側に明治天皇御善水碑、左側に勤王志士三上藤川
誕生地碑が建っているそうです。
時刻もちょうど昼の12時。
交差点を左へ少し行くと、街道紀行などにも良く登場する食事処「レストラン伊吹」
があり一休みで入りましたが、これが当たりで、美味しかったです。
(あんかけそば,シャーシューめん)
店を出るころに入り口付近は、待ち人が列を作ってました。
お腹を満たし、足休めも終えて再び旅は続きます。
関ヶ原西町交差点から約150m進むと、左側に大神宮常夜燈が建っており、
この辺りが関ヶ原宿の京(西)口だったそうです。
(こちらの京口標識は無いんですね)
おや、ビニール袋にしめ縄を入れて、飾りつけてる?
常夜燈から約80m歩くと梨の木川に架かる梨の木川橋があり、橋を渡った右側に
関ヶ原に参戦した武将の家紋をあしらった幟が並び、奥に二つの堂があり、
国 史跡・関ヶ原古戦場西首塚が有ります。
関ヶ原合戦死者数千をの首級を葬った塚で、塚の上に江戸時代になって
十一面千手観世音や馬頭観世音の堂が建てられ祀られたそうです。
塚の大木の裏には胴塚もあるそうで、巨木の向こう前の古い石碑には
「柴ノ内 關ケ原合戰戰死者胴塚」とあるそうです。
寄りませんでしたが「東首塚」もあり、戦死者の多さがうかがえます。
西首塚から50mくらい先で街道を逸れて、陣跡を見に寄ります。
関ヶ原中学方向へ左折して行くと、中学校グランド右手に藤堂高虎、京極高友陣跡があります。
街道へ戻る途中から左手へ向かう細道があり、戦場巡りの沢山の案内板に導かれて
行くと、
春日神社が祀られており、この場所は南宮山の頂きに出る月見の名所だったそうで、
境内の大杉は月見宮大杉と呼ばれ樹齢は約800年だそうです。
春日神社の道を挟んだ左側は東軍の武将・福島正則の陣所跡があった処で、
跡碑が建っていました。
陣跡から西へ50mほど行くと変則十字路で、角に井上神社の大きな石社標が建ち、
左手南へ300mほどの東海道新幹線を越えたあたりに、壬申の乱の縁から、
さらに南へたどると、関ヶ原合戦の最終とどめを刺した、小早川秀明が陣跡の
松尾山に至るようです。
陣所跡から右手にとって、一旦街道へ出てすこし戻ると不破関跡の東城門跡があり
ました。
写真左上は東城門ががあったところだそうで、城門は日の出と共に開門、
日の入りと共に閉門したといわれます。
来た道を少し戻り右折して行くと、大海人皇子の兜掛石・沓脱石の案内標識があり
ましたが、民家の庭先へ入るようなので、カミさんが通り越していってしまい寄り
ませんでした。
今は畑になった中に兜掛石・沓脱石があり、不破関の中心部になっているそうです。
案内板に導かれて進むと「県 史跡・不破関跡」に至りました。
美濃不破関は、東海道・伊勢鈴鹿関、北陸道・越前愛発関と並ぶ東山道の関。
古代三関は壬申の乱後に設けられたもので、美濃から近江に攻めいった天武天皇が
逆に美濃の出口に関を設けたことになる。
往時の関は、北面460.5m、東面432.1m、南面120mの土塁が巡り、西は藤古川で
画された巨大なものであった。(不破関案内より)
街道はこの先でY字路分岐となり、右方向に進むと不破関資料館などがあり、
分岐の左手は不破関守跡で、碑が建っています。
今は関守の末裔(まつえい)である三輪家が所有する庭園「関月亭」が
その一部として公開されています。
「西暦672年に起きた日本古代の最大の天皇家の内乱である「壬申の乱」の翌年、
天武天皇はこの関ケ原の地に「不破関」をおき、天下の変乱に備えるとともに
通行人たちを調べたのだ。
ちなみに、この不破関を境に関東、関西の呼称が使われるようになったのだ」
歴史授業で習ったはずですが、初めて知ったかのようです。
改めて学習しました。
藤古川へと下りる途中に「戸 佐々神社」を案内する石碑があり、
不破関西城門があったという案内板が立ってます。
戸佐々神社入口から約40m歩くと、藤古川に架かる藤下橋がありました。
藤古川は、壬申の乱の時、両軍がこの川を挟んで対峙したそうです。
藤下橋を渡り約20m進むと、左側に若宮八幡神社の社標が建っていました。
社標から急坂を上るなど約100m歩くと、Y字路分岐となり右方向に進みました。
分岐点に大谷吉隆の墓道標があり、約20m先の左側に箭先地蔵堂が祀られており、
地蔵堂の先隣りに壬申の乱の際に大友皇子軍の兵士が矢尻で掘ったといわれる
矢尻の池跡がありました。
「從是西不破郡山中村地内」の石碑を見ながら進むと、
国道21号にぶつかり、米原まで18km。
国道21号に合流し、すぐ左手で東海自然道歩道橋を渡り、下ってY字路を右方向に
進み、山中集落へ入って行きます。
右側に山中立場跡があり解説標板が建っていました。
立場跡から約60m歩くと、若宮八幡神社参道入口があり、脇に社標が建ち、
宮上大谷吉継陣の石柱、陣、墓、松尾山展望地の案内標識が立っています。
若宮八幡神社は藤古川の西側とあって、壬申の乱で敗れた弘文天皇を祀っている。
参道の階段を登った上に東海道本線が走り、さらに登ったころに神社がある。
神社のさらに上に「大 谷吉継陣跡」があり、小早川秀秋の陣を監視したした
「松尾山眺望地」もあるらしい。
大谷吉継の墓は、さらに山の奥になるそうです。
若宮八幡神社入口から約200m歩くと、右側に標柱が建つ山中・間の宿跡があり、
山中村は、関ヶ原宿と今須宿の間の宿であり、立場茶屋が設けられていた。
また、この場所は高札場が設置されていました。
山中・間の宿跡から約60m歩くと、壬申の乱の時、流血で川底の岩石が黒く染まったと云われる黒血川が流れていました。
黒血川から約90m歩くと、小さな祠が三つ並ぶ。
右側に鶯瀧地蔵、黒血川地蔵が安置されている三地蔵が祀られていました。
一番右は?社は新しいもののようでしたが。
三地蔵の真向かいには、黒血川の源流が、ここで数mの落差をつけて流れ落ちていて、高さは5m.の「鶯の滝」がありました。
この滝はかつて、今須峠を上り下りする旅人の心を癒してくれる格好の場所だそうで、
水量は豊富で、夏は冷気が立ち込め、年中ウグイスが鳴くことからこの名が付い
たとされています。
平坦地の滝は珍しく、江戸時代になってから街道脇の名所となっていました。
鶯の滝の先で、鶯の滝の上、もう一つの黒血川を渡ると、正面には東海道新幹線の
ガード手前でY字路となり、右方向に進んでゆきます。
150mほど行くと右側に「常磐御前の墓」の大きな標識がみえ、角に地蔵堂が
祀られ、地元の老夫人がお花を供えたり手入れをされてました。
右手へ入ると東海道線の土手下が小さな広場になっています。
その左手一角に竹塀に囲まれた中に常磐御前が祀られた墓と、芭蕉句碑と化月坊が建っていました。
1159年、天皇家の跡継ぎをめぐる争い「平治の乱」で夫「源義朝」が敗北後、わが子「牛若丸」が鞍馬山を抜け出して東国へ走ったと聞き、常盤御前は、この地の山中まで、乳母の千草と後を追って来たが、この附近の土族に殺されてしまったのである。
源義経の母・常盤御前は、「いずれ義経が、この道を通って都に上るはず」と形見の品を託して当地で亡くなった。
これを哀れに思った里人がここに葬り墓をつり塚をつくった。
その後、義経が上洛した際、若宮八幡神社で勝利を祈願するとともに、常盤の墓やこの地蔵の前で、母の冥福を祈ったとされる。
(案内板)
宝篋印塔と五輪塔が並んで建ち、お花も新しく先ほどの方が手入れされた様子でした。
その右隣には芭蕉と弟子の化月坊の句碑が並んで建っていました。
芭蕉句碑には、
・ 義ともの心耳 似多里秋乃可世 者世越翁(はせおおうの変体かな)
(義朝の心に似たり秋の風 芭蕉翁)
とあり、もう一つの芭蕉の弟子の句碑には、
・その幹に牛も かくれて佐くら哉 七十六雙(おきな) 化月坊
(その幹に牛もかくれてさくらかな 化月坊)
とある。関が原町の説明では、
(化月坊は慶応四年(1868)には、
この塚の前に俳人接待のための「秋風庵」を開いた。
庵開きには十数人の俳人が参加し、盛大な句会が催されたという。
その後庵は日守の一里塚東隣(現垂井の一里塚東隣)に移築され、
茶所として旅人の休息所、
句会の場となって活用されることとなった。)とある。
街道へもどり100mほど左手に、道標を兼ねた山中大師石仏が建っていました。
石仏道標から約70m歩くと、右側畑の一角に小さな祠があり、案内板には、
「常盤地蔵」とある。
常磐地蔵から約300m緩やかな坂を上るとJR東海道本線の山中踏切がありました。 線路沿の街道の緩やかな上り坂を歩くと、次第に傾斜がきつくなり、いつのまにか
線路を見下ろすようになり、東海道本線のトンネルが見えてきました。
上り坂はトンネル入口を過ぎてしばらく歩いた所が頂上付近となり、右側に今須峠碑が建っていました。
今須峠の厳冬期は積雪が多く難所だったそうです。
峠を過ぎると下り坂となり、R21に合流し右方向に進みましたが、合流点の右側に中山道標柱が建っていました。
今 須峠を越える。「往時この付近には、茶店があり」とのこと。明治までは、もっと急勾配の坂道であったとされる。
脇の石碑には、「従是東不破郡山中村地内」とある。東西の境界に石碑を建てたんで
すね。
街道がゆるゆる下りる道に代わると、国道21号に当たり横断して左手を下ります。
(写真左下、国道へ出たところで横断します)
国道21号線は自動車がスピードを出して走るので、横断ははなはだ危険でしたが、
左右の見通しがいいので、それ!と渡ります。
国道の右下を、今須峠をトンネルで抜けた東海道線が通っています。
美濃路最後の宿場町である「今須宿」の街並みが見えてきました。
分岐から約50m歩くと左側に、日本橋から114番目の一里塚、今須一里塚跡が
有りました。
(現在の一里塚はR21号の敷設で撤去され、本来の位置より東側に復元されました)
東海道線の向こう側に、神社、お寺が見えているが・・
線路の向こう側というと、街道書には青坂神社が記されてるが?
街道は一里塚跡から約100m強下ると分岐があり、
「これより中山道今井宿・関ヶ原町」の碑が出てきて少し先の分岐を左手に下って
街並みへと入って行きます。
国道21号はバイパス道として東海道線に沿って今井宿内を通らづに抜けて行く
ようです。
(写真左下、今須宿画は判りますが、右手の石碑と石像は??)
その先で中挟川に架かる今須橋、標識はありませんが今須宿の東口(江戸口)
になるそうで、いよいよ美濃16宿の最後の宿場、今須宿へ入ります。
続きます。