宿場時代雰囲気を残した工夫保存をされ、街道宿場町の風情を維持する柏原でした。
江戸から60番目、柏原宿を後に、西へ西へと足を進めてゆきます。
広重画 柏原宿
続きに入ります。
江戸から武州、上州、信州、木曽路、美濃路とたどってきた中山道は、関ヶ原から
今須、柏原宿(米原市)に入り、ここから近江路となります。滋賀県の中山道宿場は、東海道と交わる草津宿まで九宿があり、今も往古の名残を町並みや道しるべに見ることができます。
そして彦根には2つの中山道宿場街「鳥居本宿」「高宮宿」があり
西見附跡から約30m歩くと、右側の段上に六地蔵が祀られていました。
六地蔵から約20m歩くと、左側に東山道と九里半街道の解説標板が建っていました。
〈九里半街道〉説明文
「 中山道関ヶ原宿と番場宿の間は、九里半街道とも呼ばれた。
木曽・長良・揖斐三川の水運荷物は、牧田川養老三湊に陸揚げされ、関ヶ原から
中山道に入り番場宿で、船積みの米原湊道へ進む。
牧田から米原湊までの行程は九里半あった。関が原・今須・柏原・醒ヶ井・番場の
五宿は。この積荷で六、七軒と問屋が多かった」
右側に、ここから400mほど山の中に入った所に国史跡・北畠具行卿墓の墓が
あるそうで看板が建ってましたが寄りませんでした。
東山道と九里半街道碑から約40m歩くとY字路があり、右方向に進み、200m位
歩くと、右側に鶯が原の解説標板が建っていました。
太田道灌が一句詠んだと記されてます。
鶯が原標板から約300m歩くと、 貴人の通行に備えて整備清掃する区間を
定めたのを「掃除丁場」の説明板があります。
あわせて「並び松」との解説の説明文も記されてます。
「街道並び松 中山道宿駅制定400年記念植樹平成十四年十二月柏原学区史跡保存会」の標柱が立ち、2002年に植栽された若い松が右側に植生されていました。
奥手川に架かる橋を渡り旧長沢村集落へ入ると、左手への分岐があり角に柏原宿外れ
にもあった「従是明星山薬師道」の道標が建ってます。
道標の右手向かいに、応永13年(1406年)創建といわれる白山神社への
参道があり、鳥居が建っていました。
白山神社参道入口から5分ほど行くと二股が有り、真ん中に小川関跡の標石、解説板、
後左手に菖蒲ケ池跡の標石と解説板が建っていました。
手前には「歴史街道・加沢原宿枝郷 長沢 左←、中山道 右→、旧中山道」の
案内板も有ります。
小川の関は不破関以前に開設された関だそうです。
分岐から草道を入ってみましたが、約80m歩くと獣害防止金網フェンスが設置されており鍵を開けて中に入るようで、踏み跡程度の道は草に埋もれていたため、
戻って左手の道を進みました。
街道書によると、十善寺跡の標石、小黒谷遺跡の標石などがあるそうです。
森の中の旧中山道と並行したように進むと旧中山道は右手から合流し、
角に「歴史街道・江戸後期・旗本西郷氏領 梓河内村 東地先」石柱が建っていて、
旧梓河内村へ入るようです。合併して柏原村、そして現在は米原市内地区となってる。
近畿地方で最初の縄文時代中期末(約4000年前)の竪穴式住居跡と多数の土器・
石器などが発見されたという、番の面集落跡碑が建っていました。
合流地から2分ほどの右側に、沢山の地蔵尊が並んだ地蔵堂が祀られていました。
地蔵堂から1分ほど歩くき、国道21と並行した左側に、墓跡黒谷遺跡標石と
中仙道自然石道標が建っていました。
墓跡黒谷遺跡標石から約10m歩くと分岐の手前左角に、
石碑には(← 東山道横河駅跡 梓 柏原宿 江戸後期大和郡山領 →)刻まれ、
左手の石板には、「街道並び松 梓12本 柏原6本」と彫られています。
松並木のことをこの地方では「並び松」と呼ぶそうです。
松は・・・?
中山道碑から約40m歩くと、名神高速道と並行した国道21に合流する梓河内交差点があり、国道の向こう側、高速道脇に石碑が2基あり、一基には河内とあるので、
旧梓河内村入口の道標と思われますが、街道書に記載がなく不明。
街道は合流せず高速道、国道と並行して、古代東山道の宿駅といわれる旧梓河内村内をそのまま真っ直ぐに進み、真宗大谷派慈圓寺、八王子神社を見送り、
鈴鹿山脈の北端を源流とする梓川を渡って700mほど行くと街道は左手へ
分岐します。先への道は松並木になってました。
左折すると高速道と並行する、関ヶ原の不破の関を出て以来の国道に21合流し、
右手を行くが歩道帯がなくなり、交通の隙間を縫って、エイと左手渡って進みます。
国道に合してして、大きな中山道碑をみて約15分ほど行くと、国道から斜め左手へに分かれ高速道脇の道へ進みます。
R21の分岐から約300m、5分ほど歩くと、右側に八幡神社が祀られています。
拝殿左側には珍しいですね、三猿の石像がありました。
樹齢五百余年と街道書に有る大杉は無かった様子、見落としたかな?
八幡神社から、街道らしい旧一色集落の道を150mほど行くと、
左側に日本橋から116番目の一色一里塚跡があり、高速道で失われたため、
跡地に標石が建てられていました。
さらに50mほどの右手に、横穴式石室の等倫寺古墳のあるお寺、等倫寺。
その先100mほど左側に、墓守かな?の地蔵堂が祀られていました。
振り返り東を見ると、伊吹山が右手後ろに見えていた。
地蔵堂から約50m進むと、右側に「佛心水は旅人の喉を潤し、御仏の慈悲のもとで道中の安全を祈願した」といわれる佛心水(井戸)が、建屋に囲まれてありました。
もう一度振り返り、伊吹山。
左手にすっかり風化した沢山の地蔵を安置した地蔵堂を見送り進むと、
桝形手前網フェンスに鶯ヶ端跡のパネルが取り付けられてます。
街道書には「西に京の空を望める名所」とありますが、展望は・・・
先は右に曲がり左手へ行く枡形道で、ここが江戸から61番目、醒井宿(さめがい)の
東の江戸口に当たる東見附跡で、フェンスに説明パネルが有ります。
右に曲がった枡形道は約25mで十字路となり、左折するのですが、
その手前の左側に醒ヶ井宿碑、宿場図が建っていました。
お江戸から、61番・醒井宿 115里24町 454.2Km
宿内家数138軒 本陣1軒 脇本陣1軒 問屋7軒 旅籠11軒 人口539人
大和郡山藩領
桝形の十字路から宿内へ足を入れる前にこの看板!
ベンガラ塗の家、街道風情の街並み、振り返ると伊吹山
宿独特の右に左に曲がり街並み
東見附跡から街道街並みを味わいながら5分ほど歩むと、左手の綺麗な流れを石橋で
渡った先に鳥居が現れ、石段石垣も高くに祀られてるのは加茂神社です。
このへんまで来ると、急に散策されてる方を目にするようになります。
加茂神社参道階段の先隣りに石燈籠が建っており、この辺りが醒ヶ井宿三名水の一つである「居醒(いさめ)の清水」で、岩間から滾々と湧き出る清水は、
街中を西へ流れる地蔵川の源流となり、地図を見るとこの先で天野川の合し流れは
琵琶湖へとそそぎます。
けっこう若いグループやカップルの方も多く、清流を覗き込んで、清らかな流れに
感嘆しています。
鳥居の左手から西方向を務渡すと、醒井の街並みが見えてます。
後ろは、さらに一段高く神域で拝殿とご神殿。
石段を下ると流れのふちに日本武尊の像が有ります。
伊吹山の大蛇を退治したが、猛毒で発熱し、この清水で体を冷やすと回復したと
伝えられ、「居醒(いさめ)の清水」と呼ばれたようです。。
つわぶきの花があちこちに咲いてます。
(ヤマトタケルと伊吹山の神の逸話は、醒井宿に入る手前にもあったね)
道路側からは石橋が架けられ、遊歩道があり、石垣沿いに進むと沢山の古石仏が
祀った一角が有ります。
街道の左側に「居醒の清水」が源の澄んだ水の地蔵川が流れており、
清流には梅花藻(バイカモ)が群生し、緑が清流の中で優雅に踊り、
小さな白い花が流れに揺れてる姿はなんとも美しい。
バイカモは、キンポウゲ科の水生多年草で、水温14度前後の清流に群生し、
梅に似た花を咲かせることからその名が付いた。
5月下旬~秋にかけて1センチほど可憐な花を咲かせ、夏の花の印象でしたが
11月の今も咲いてるとは珍しのでは。
街道旅では東海道五十三次の旅で、、三島宿を流れる富士の湧水が有名で、
源兵衛川に咲く花は「ミシマバイカモ」とよばれてましたね。
低温の清流にしか棲まないハリヨが生息している。ハリヨはトゲウオ目・トゲウオ科に属している淡水魚で、自然分布は滋賀県北東部、岐阜県の南西部
環境省のレッドリストに絶滅危惧種・IA類として指定され、保護活動が行われている。
「居醒の清水」から約20m歩くと、左側に延命地蔵堂があり、堂の右脇に、
「醒井のパワースポット」と案内板に記された「石地蔵菩薩」が祀られています。
地蔵は総高270cmの半跏像(はんかぞう)で、大形の丸彫り地蔵尊で
全国的にも珍しく、鎌倉時代後半の作と云われます。
当初は水中に安置されていたことから「尻冷し地蔵」とも称されるていそうです。
(半跏像とは片方の足をもういっぽの足の太もも上にのせるように足組をした姿で
お堂を覗かせてもらいましたが、上半身しか拝見はできませんでした)
ごみ収集場所にありました。「
旧街道に沿って、たくさんの呼びかけが並んでいます。
観光地として、米原市でも色々と手を打ってるのが良くわかりますね。
柏原もいい街でした。足を伸ばしてもらいたいな、と思いましたね。
ハリヨ生息地標。
後ろは醒井彫刻美術館です。
地蔵川に沿って少し進むと、本陣 樋口山という料理店があり、屋号板、本陣と
書かれた暖簾が下げられています。
江龍家が勤めた本陣跡で、今も当時の関札が残っているそうである。
本陣跡から約20m歩くと、左側に堂々たる和風三階建ての民家(大林家)が
違和感なくありました。
川沿いに立つパネル
左側に川口家が勤めた問屋場跡があり、江戸時代前期築木造平屋建で、
問屋場跡から約25m歩くと、右側に明治39(1906)年に創業したヤマキ醤油店が
あり、店前に大きなたらいのバイカモを咲いてました。
水は毎日変えてるのでしょうか?
「しょうゆソフトクリーム」に「しょうゆプリン」、ソフトは食べたことがあった。
人気があるようで、けっこう大勢の方が来ていました。
ヤマキ醤油店から約60m歩くと、右側に旧旅籠の多々美屋があり、現在は料理旅館を営んでいました。
旧旅籠多々美屋跡から約30m進むと、右側に問屋や庄屋を勤めた江龍家の立派な
門があり、門脇に明治天皇駐輦所碑が建っていました。
江龍家は本陣並みの規模があったそうです。
江龍家の塀に沿って北側へ入ると、彦根城の城門から移築されたという山門の法善寺
がありのました。彦根城のどこの門だったのかな?
法善寺から街道に戻り約90m歩くと、右側に了徳寺参道入口があり、境内に国の天然記念物で葉の上に実を付ける御葉附銀杏が生育されており、了徳寺参道入口に標石が建っていました。
了徳寺から街道へ戻り約40m歩くとY字路となり、地蔵川の醒ヶ井大橋の手前
左側に、醒ヶ井三名水の一つである十王水があり、地蔵川に石燈籠、川沿いに
解説標板が建っていました。
先で地蔵川を醒ヶ井大橋で渡りその先分岐は、街道は左手へ行きます。
お~い、街道はそっちじゃないよ・・
カミさんが渡ろうとした居醒橋で、もう一度地蔵川を渡り行くと、大正時代に
建てられた、木造2階建ての擬洋風建築館があり、現在は醒井宿資料館があり、
現在は国重要文化財になってるそうです。昭和48年までは醒井郵便局として
使われていたとか。
その先にはJR醒ヶ井駅もあり、街道書を見ていたカミさんが、
「駅名だけヶを付けた醒ヶ井駅なのは何故?」
いや~実は調べたんだけどはっきりした理由はわからなかったんです。
駅を誘致し駅名をつけたときに「地名・醒井(さめがい)」を見た目でも
さめい、ではなくさめがい、と読み易いようにした、というのが有力でしたね。
分岐を左手へ行き約70mほど歩くと、右側は祭りのときに演じられる
子供狂言上演場跡があり、解説標板が建っていました。
さき5,60m左手には西行水、泡子塚がありました。
岩の上のくぼみに前垂れを掛けた五輪塔が見えましたが、これが泡子塚だそうで、
説明板が建ってました。
水琴窟があったのでカミさんが水をかけてみたら、やわらかな琴音が聞こえましたね。
西行水から2,3分の右側に醒ヶ井宿標石が建っており、番場宿へ1里と刻まれおり、ここが醒ヶ井宿の京口だった西見附跡でした。
京口から約150m、県道17号線と交差する十字路の先すぐ右側が、
亨保9年(1724年)に大和郡山藩領の境に建てられた六軒茶屋跡で、
赤い屋根の家が、往時六軒あった茶屋の内、唯一現存する一軒だそうで、
広重画 醒井宿はこの六軒茶屋を描いてるそうです。
旅は続きます・・