近江鉄道・踏切を渡り、高宮宿へ入ります。
続きです。
高宮宿は江戸より第64番目。119里7町 468Km
京へ16里6町(約64km)、鳥居本宿から約6キロメートル。
高宮宿は多賀大社の門前町として、また近江上布(麻布)の集散地として
大変栄えた宿場で、
天保14年(1843)の宿村大概帳によると、
戸数835、本陣 1、脇本陣 2、旅籠 23、人口3560人余
宿長 7町16間(約800m)。
とあり、中山道では本庄宿に次ぐ大きな宿場であった。
高宮宿は、高宮布(麻織物)と多賀大社の鳥居ということで、
多賀=高、大社=宮で、 門前町であった高宮の名の由来になった。
近江鉄道踏切を渡り200m位進むと高宮町大北交差点で、渡った右角に、
「北国街道木之本宿の浄信寺にある、眼病に御利益のある地蔵菩薩の分身で、
めずらしい木彫りのお地蔵様」との、解説パネルが側に立ってます。
(木彫りとは珍しい、と覗かせて頂きましが、薄暗く見えませんでした)
地蔵堂から先の街中は、また急に道幅が狭くなり、車のすれ違いもぎりぎりの
幅になってきます。まあ、街道らしい道幅と言えるんですが・・・
お~い、後ろから車だよ~・・右側、歩いた方がいいよ~。
緩く右に左に曲がりならの街並みが続きます。
地蔵堂から約300mほど、左手は近江鉄道高宮駅への道があり、高宮駅からは
多賀大社への鉄道線が分岐しています。
駅入り口を過ぎて、相変わらず交通量の多い、歩道帯無しの道が続き、
家軒下ぎりぎりを歩くことが多くなってきました。
車がすれ違うたびに通行が停滞して、お互い譲り合いのタイミングが難しそうで、
怒号が飛び交う場面もありました。
150mほど行くと、右手は高宮神社の参道が伸び鳥居が建っています。
高宮宿の氏神様で、正徳3年(1713)と思われる古い石燈籠があり、鎌倉末期の
創祀とされ、本殿は嘉永3年(1850年)の建立と、街道書に記されてます。
鳥居をくぐり参道を行くと大きな山門、嘉永二年(1849)建立といわれる随身門を
入ると、境内はけっこう広く、
ゆっくりご本殿も拝観。
左手に、門にしめ縄を掛けた建屋が有り、塀には大祭のパネルが
何枚も飾られてる。神社関連の建屋なのか?
パネルの様子から、見てみたい祭りとは思いましたが・・う~ん、無いだろうな~、
そして右手南側には、大きな蔵を持ち複雑な屋根組の旧家らしい建屋は、
高宮村の庄屋を務めるなど村の有力者で、地域を代表する近江商人であった馬場家で、江戸後期の天保4年頃の建築と推定される建物は、彦根市の文化財に指定、との説明板が建ってます。
参道を戻り鳥居正面の「宿駅 座・楽庵蔵」の大きな看板を掲げてるのは、
築200年を越え、かっては倉が7棟もあったという高宮布の問屋の布惣跡でした。
現在は喫茶店「おとくら」とギャラリーになっている。
高宮布は室町時代から貴族や上流階級の贈答品として珍重され、江戸時代になってからも高宮は麻布の集散地として栄えた。
この主屋は三つの蔵とともに、国登録有形文化財に登録されている。
左側の高宮郵便局の前に、祭り提灯などが飾れた、なにか懐かしい提灯店があり、
馬場提灯店の先隣りに昔ながらの酒店がありました。
時代を感じる荒壁の建屋など、いい味を醸している町家が続きます。
酒店の直ぐ先は高宮鳥居前交差点で、左側に高さ11メートル、滋賀県指定有形文化財
多賀神社の大きな鳥居が建っています。
その右傍らには、「是より多賀みち」の道しるべと、多賀みちを照らしていた
高さ6mという大きな常夜燈が並んで立っています。
これより約4キロメートルの先には、延命長寿と縁結びの神として崇められる
多賀大社があります。
「多賀大社は、現滋賀県犬上郡多賀町多賀に所在し、
お 伊勢七たび熊野へ三度 お多賀さまへは月まいり j、と唄われ、
伊勢神宮の祭神天照大御神の親神様を祭る神社として古くから信仰 を集めてきた。
特に江戸時代以降、庶民が容易に神社 仏閣を巡る旅に出られるようになると
伊勢神宮や讃岐 の金毘羅宮、西富三十三所観音霊場などと共に全国か ら参詣者が
訪れるようになった。」(滋賀文化財資料より)
(多賀大社へは、今回の旅の帰りに寄り道参拝しました。)
ブログ・多賀大社
右手に芭蕉が泊まった小林家があり、ここが芭蕉紙子塚で、石碑と解説パネルが
有ります。
「貞享元年(1684年)冬、円照寺の住職の紹介で町家に世話になった芭蕉が、
寒さに耐えて横になる自分の姿を、『たのむぞよ 寝酒なき夜の 古紙子』と
詠み住職に送ります。(紙子とは紙で作った衣服のことです)
「単なる客人」だと思っていた町家の主人が、その客人が芭蕉だったと知ると、
非礼への償いとして新しい紙子羽織を贈り、古い紙子は庭に埋めて「紙子塚」
とし、代々敬った」(解説パネル)
芭蕉紙子塚から約90m歩くと、右側に塩谷家が勤め問屋を兼ねた脇本陣跡があり、
格子に解説パネルが掲げられていました。
こちらは高宮宿に2軒あった脇本陣のうちの1軒で、慶長13年(1608年)から
問屋場も兼ねたそうです。また、門前には高札場が設けられていた、と街道書に
有ります。
玄関前に綺麗に咲く秋の花々を楽しみながら、
脇本陣から約40m歩くと、左側に小林家が勤めた本陣跡があり、
往時は、間口約15間、建坪123坪の広さとされ、現在は表門が残されています。
本陣跡の斜め右手は円照寺があり、パネルには「元和元(1615)年大阪夏の陣に向う
徳川家康が腰掛けた家康腰掛石があり、明治天皇所縁の松がある」と記されてます。
円照寺から約180m歩くと、
高宮宿も家並みが途切れ、高宮川の無賃橋北詰交差点付近が江戸時代の高宮宿
西の京口で、交差点の右側に、「無賃橋碑」と「むちん橋地蔵尊」が安置されて
いました。
現在の橋は昭和7年(1932年)にコンクリート製の橋に架け替えられたもので、
昭和52年、むちん橋の改修工事の際、橋脚の下から2体の地蔵尊が発掘され、
天保三年(1832)の最初に架橋された礎の地蔵尊であろうとお堂を建てて祀った由。
無賃橋の由来は、彦根藩が近江商人藤野四郎兵衛に命じて募金により架橋した橋で、
渡り料を無賃にしたことで付けられたようです。
綺麗な秋空に、犬上川の源流の鈴鹿山系の山並みが望めました。
犬上川の流末は琵琶湖へ注ぎます。
広重画 高宮宿 (画解説文より)
高宮川は、宿場の西口(南)にあって、犬上川とも言われます。当作品は、川の南岸から高宮を見通す視点で、北岸に常夜燈、宿場、背景の山並を遠近法的に紹介する形式です。川中に橋桁を設置し増水時に板を渡して渡っていた。平時は渡渉であった。同スケッチ帖から判断して、広重は、水位が低くなって橋脚だけが残された景色に興味を持ったのかもしれません。これに歩行で川をジグザクに渡る旅人達を加えたのみならず、麻あるいは苧殻(おがら)を背負う2人の農婦を前景に描いたのは、宿中で織られた高宮布(上布)と関連付け、高宮宿の名産を紹介するためです。
両側に描かれた松は、多賀大社の鳥居に見立てたという説がある。
(増水時の渡り賃が無料だったのかな?)
高宮橋(無賃橋)を渡ると、旧法士(ほうぜ)村に入り、約250m歩くと、
四の井川に架かる新安田橋があり、渡った処の十字路先の左側に日本橋から
120番目の「法士(ほうぜ)の一里塚塚跡」標石が建っていたはずですが、
標石は無残にも壊れていました。
1年前に旅をされた方も「壊れていた」とあり、残念ながら放置されたままでしたね。
多賀道道標、八幡神社を過ぎると葛籠村となり、少しだけ松並木が残されてます。
旧つづら村は藤細工、葛籠、行李、団扇な名物の立場であった、と街道書に
記されてます。
しばらく足を進めると、右手に真言宗豊山派の寺院である月通寺があります。
本堂には行基彫造と伝えられる、蔵菩薩が安置され、別名「柏原地蔵」とも
呼ばれてるそうです
山門前に「不許酒肉五幸入門内」と刻まれた石標があるが、禅宗であった頃の名残を
伝え、山門は、左右に本柱と控柱をそれぞれ一組ずつ配し、屋根は切妻破風造りと
なって、医薬門の一種、と街道書に記されてます。
「許酒肉五辛入門内」とは、酒・肉・五辛など臭いの強いものを、
門内に持ち込むことは許されません、ということだそうで、
ここで言う五辛(ごじん)とは、にんにく・にら・ラッキョウ・ねぎ・
ひる(野蒜の異名)を指すそうです。
(全部、好物ばかり・・)
時刻も午後の1時、そういえばお腹も空いてきた、と境内のベンチをお借りして
持参の昼食一休み。
月通寺から100mくらい右手に、足利利尊氏の子義詮に纏わる事柄がある
産の宮井戸跡があり、「足利氏降誕の霊地」と彫られた手水鉢と井戸跡、
奥に進むと「産の宮」が祀られているそうですが、宮までは入りませんでした。
すぐ先左手に真宗大谷派甑谷山(そうやざん)還相寺があり、
向いには大正元年(1912)の開基の浄土宗摂取山了法寺があります。
次いで右手の高崎医院の並びに、堂の川地蔵尊が祀られています。
先の左小路に入ると鹿嶋神社が鎮座しています。
甕槌神(たけみかづち)を祭神とする神社で、武神であるところから武家の崇敬を
篤く受けた、と街道書に有ります。
葛籠の街並みが途切れると、街道は松並木になり田園風景が広がります。
左手に彦根市モニュメントがあり、三本の石柱の上に
「麻を背負った婦人、菅笠を被った旅人、そして近江商人」の像が乗っています。
彦根市から出る側には「またおいでやす」、入る側には「「おいでやす」彦根市と
刻まれています。
彦根市の東、鳥居本宿へ入るところにも、像は違いますがモニュメントが有りました。
旅は続いてゆきます。