愛知川を渡り五個荘へ入りました。
(街にはこの案内板が要所要所に建てられてました)
2日目続き、
五個荘へ入ると左手に秋葉山常夜燈、さらに行くと左側に愛宕神社が祀られていました。
愛宕神社から約70m歩くと、臨済宗中興の祖と云われた東嶺禅師御誕生地碑が建っていました。
東嶺禅師碑から約140m歩くと、小畑地区へ入り、代々細居家が伝承してきた
「小幡でこ」と呼ばれる土人形の窯元の家がありました。
「小幡でこ」(案内板拡大)
東嶺禅師は享保6年(1721)近江小幡駅出町(滋賀県東近江市五個荘小幡町) に薬屋を営んでいた中村善左衛門の嫡子として生まれ、享保14年(1792)9歳のとき近江能登川大徳寺の亮山恵林につき出家した。その後、近世臨済禅中興の祖と言われる白隠慧鶴(1686-1769)の高足の一人となる。
(街造り協議会解説板)
小幡人形の家を過ぎ、電気店?お茶屋さん?で、約80m歩くと近江鉄道の
小幡踏切があり、茅葺被せ屋根の家の前で渡って進みました。
踏切を渡ると道標が立ち、左手は近江鉄道五箇荘駅、中山道はそのまま進み、
約210m歩くと、右側参道口に「聖徳太子御旧跡・法皇山善住寺」の石柱が建ち
奥に山門が見えました。
五個荘は中山道の街道沿い集落で宿場や立場ではないそうですが、
綺麗な用水の流れに風情ある板塀、いい街道街情緒ですね。
左手に、2階屋根に屋根を乗っけた変った造りの中沢酒造(創業は昭和23年)、
左手に木幡神社祭礼で神輿が休息する御旅所(写真下右)があり、
奥に山王神社が祀られてます。
(中澤酒店前を右折して国道8号線を越え、1km弱行くと、五個荘・近江商人屋敷群
がるそうで、時間が許せば是非のお勧め、と地元の方に教わりました)
善住寺から約60m歩くと追分道標が建あり、道標の左手を入り斜め右に進むのが
御代参街道と呼ばれ、道標には 「右京みち 左いせ ひの 八日市みち」と刻まれ、
八日市、日野、笹尾峠を経て東海道の土山宿まで続いている、との解説板が有ります。
正式名称は、「東海道脇街道・北国越安土道」と呼ばれ、寛永17年(1640年)
春日局が伊勢神宮から多賀大社参拝の折に整備され、江戸中期頃、京の公卿たちが
年3回伊勢神宮と多賀社へ代参の名代を派遣する習慣があり、この道を利用したことから御代参街道と呼ばれるようになったそうです。
まっ直ぐ行くと五個荘駅に出る由。
道標から約140m歩くとY字路となり、中央に旧中山道ポケットパークがあり、
街道は右に進んで行く。
ここには明治5年(1872)の大神宮常夜燈と東屋がある。
ポケットパークの向かい側の参道を入って行くと臨済宗の慈光山正眼寺がある。
正眼寺には、慶長17年(1612)に角倉了以の子である角倉貞順が安南(現在のベトナム)貿易に際して、安南に送った文書とそれに対する安南よりの修好文書とが所蔵されている、と街道書に有ります。
角倉 了以(すみのくら りょうい)戦国時代から江戸時代初期にかけての京都の豪商。
安南国貿易や諸国の河川開発事業にも活躍した人物です。
ポケットパークから100m位、大同川に架かる橋を渡ると道標があり左折、
左手の川向う岸は最近移設した東近江市支所、道の右手に五個荘郵便局。
進むと、大同川の向こう岸は、紅葉もいい感じの五個荘中央公園が広がり、
右手は東近江市五個荘支所跡で、支所移転後の昨年平成30に建てられた、
神崎郡役所跡・五個荘役場跡の石碑が立ち、その先には名残りの松が植生されて
いました。
どっしりと根を下ろした古木をみて、住宅街に入ると道は再び狭くなてきます。
ベンガラ塗んり塀の重厚な造りの旧家らいきお屋敷を見送くると。
右側に最近修復したような茅葺き屋根の家がありました。
茅葺き屋根の家から約60m歩くと、右側に地蔵堂が祀られていました。
地蔵堂から約20m進むと、左側にポケットパークがあり公園内には大きな五箇荘宿場図が設置されていました。
ポケットパークから約50m歩くと左側に、大きな鐘をデンと据えた、
西沢梵鍾鋳造所がありました。
西沢家は9代300年に渡り、代々梵鐘鋳造を家業としてきたとのことです。
西沢梵鐘鋳造所から茅葺屋根にかぶせ屋根の旧家や、廃屋らしい崩れかかった土塀。
左側の若宮神社を通り過ぎるなど約300m歩くと、左側に天保15年(1844年)に
建立されたといわれ、道標の役割もしていた常夜燈が建っていました。
常夜燈から五個荘北町屋町の街並みへ入り、被せ工法の家を見ながら、
約250m歩くと、左側の公園に隣接して明治天皇が休憩した跡碑が建っていて、
休所碑から斜め向かいに市田家があり、庭内に明治天皇聖蹟碑が建っていました。
先には、右側に市田庄兵衛家本宅が保存されていました。
庄兵衛家は江戸時代より呉服・繊維商として京都や大阪で活躍した近江商人だ
そうです。
家の板塀に「わがまち一番 京町屋風商家の保存」と記された看板が掲げられています
市田庄兵衛家本宅からの先には、右側に北町屋の鎮守・大郡神社(おおこうり)が
あります。
社殿は鳥居の奥、国道8号線を越えた5分ほど先に鎮座しているようです。
神社を中心とした東西南北400m程は、奈良平安時代に近江國に置かれた神崎郡役所(郡衙 ぐんが)の大郡遺跡と街道書に有ります。
参道口の先は県道209号に突き当たり、県道を横切った右側に茅葺屋根の民家があり、あれ、瓦葺屋根の上に茅葺屋根??
角にに天保8(1837)年に建立された常夜燈が残されていました。
側の五個荘まちづくり委員会の解説板には金毘羅大権現常夜燈とありました。
常夜燈の100mほど先にも、茅葺屋根の古民家があり、こちらは
片山家が勤め「ういろう」が名物だった茶屋本陣跡で、ここにも
五個荘まちづくり委員会の案内板が立ち、瓦葺屋根に茅葺屋根の混在造りになって
ます。
先は五個荘石塚に入り、右側に小祠のある路地の角に鳥居はありませんが、灯篭が立ち若宮神社が祀られ、約10m先の右側路地角に観音正寺道標が建ち、上の祠には
観音像が祀られてっていました。
観音正寺は西国32番札所で、聖徳太子が建立したと伝わる古刹で万事吉祥縁結びの道場で、この路地を進んだ蒲生郡安土町の繖山(標高433m)の山頂近くに
鎮座しているそうです。
道標から5分ほどのアパートの前に、最近整備されたと思われる石標と鋼板製の
案内プレートがあり、日本橋から123番目の「石塚一里塚」跡有りました。
(街道書では標石なし、になってました)
一里塚跡の先には、元は松並木だったのでしょうか、数本の松が残されていている
右手にあった食事処で生パスタの昼食を済ませ、さらに行くと、
国道8号に合流角に「てんびんの里」碑があり、道中合羽を着て天秤棒を担ぐ
近江商人像が乗っています。
五個荘は近江商人の発祥といわれ、てんびん棒一本から豪商にまで立身出世した
立志伝がたくさん残されているようです。
左方向へ150mほどの交差点で右手に渡り、騒音の国道から右手に分岐した
静かな里道へに進みます。山裾に大きな伽藍が見えてましたが・・
左折して行くと五個荘清水鼻集落で、右側に湖東3名水の一つと云われた清水鼻の名水があり、石碑が建っていました。他の二つは醒井宿の居醒の清水、そして彦根の
十王水だどうです。
脇の石段を上ると日枝権現を祀る日枝神社と、街道書に記され、清水鼻村は立場で、「焼米はぜ(爆米)」が名物でした、ともあります。
山裾の紅葉を眺め、天文5年(1536年)の開基で、本尊は阿弥陀如来の浄慶寺の
寺標、山門を見送り進むと市境。
信長の安土城は琵琶湖の側と思いますが、この付近も安土なんですね。
市境の先で近江八幡に通じている八風街道と呼ばれる八幡道が右手に分岐し、
先には大神宮と彫られた大きな常夜燈が建ち、左手の細くなった里道を進みます。
5分ほど先で、歩道帯が右側だけの国道8号に合流し、国道左手の新幹線高架と
並行して5分ほどゆくと、国道は新幹線の高架下を潜り抜けて続きます。
信長の街旧安土町のマンホールが有りました。
永楽通宝が三つ並んでいて、織田信長が刀に付けて愛用した「まけずの鍔(つば)」のデザインのもの。「sewerage」は英語の下水設備、「ANZUCCI」は安土のポルトガル語表記なんだそうです。
こんどは右手に新幹線と並行に行くと、左手に大きな教林寺の紅葉案内板が立ち、
看板に右→があり、400m歩くと十字路の右手から、観光バスが2台出て来たので、
右手の新幹線の向こう側にお寺があるようです。
中山道は、次の十字路を左手へ曲がるようになってますが、交通量の多い国道を
渡る信号が有りません。
一旦、十字路を右へ曲がり、新幹線の高架下をくぐってその先から、戻るように
地下横断で国道を渡ってゆきます。
国道左側を歩いてくるとそのまま左折できますが、左側には歩道帯が無いため
止む得ませんね。
高架をくぐりぬけると、
左手に五個荘石塚にもあった「観音正寺」道標が立ち、道の先には
国道に合流してから右手に見えていた、山頂近くに観音正寺のある
繖山(きぬがさやま)があり、山頂近くに幟のようなものが見えてます。
デジカメズームしてみると「観音寺城・・」と文字が見え、観音正寺ではなさそう??
(帰宅後調べると、繖山(きぬがさやま)は別名観音寺山で、幟のあった付近は
室町幕府の近江守護職 佐々木六角定頼の居城で、後に織田信長上洛の際に
地下道を抜けると直ぐの左側に「中山道東老蘇 武佐宿へ一里」の道標が建ち、
安土町東老蘇へ入ります。
続きます。