歩いて再び京の都への前に 日光道中二十一次 街道散歩(第五歩 編)

2020年10月24日

公園橋(西)交差点を左へ行くと東武スカイツリーライン東武野田線

春日部駅で、今日は足止めです。続く

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11月、今年もあと2ヶ月で新たな年を迎えます。

とうとうコロナは終息気配も見せていないが、

Gotoでは多くの方が利用し、3千万人と報道されてビックリ!

そんな中だが、3日(祝日)は週間天気では小雨予報だったが、晴れに変化。

それじゃ行くべ~・・夫婦は北風に吹かれながらてくてく歩きを楽しむことに。

AM7:30家を出、バス、電車を乗り継ぎ、乗換駅で朝のCaféタイムをとって

前回足止めの埼玉県西部の春日部駅到着。

旅立ちショットを撮って、AM9:30 出立。

今日の目標は約12.5km先の幸手宿。

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約300mほど駅前通りを東に向かい、公園橋西交差点で街道へ。

左手へ向かえば街道復帰、

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ですが、そのまま信号を渡り、右手に街道書で「敷地は大落古利根川まで続き、

豪壮な家屋と蔵を残している」と記されてる田村荒物店(写真左)を見ながら

その先の春日部市の中心を流れる、利根川の支流、大落古利根川に架かる

日本では珍しい橋長79mの上に広がる橋の上公園「古利根川公園橋」へ寄り道。

春日部市制30周年を記念して造られ、園内には、麦わら帽子の形をコンセプトにした

モニュメントがあり、日没後にはライトアップされて古利根川と公園の景色を彩る

そうです。

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 公園橋から再び街道(かすかべ大通り)へ戻り道中を始めます。

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すぐ右手に問屋場跡の案内板が有る。

文政9年(1826年)には、春日部宿の江戸口付近の三枚橋に移転した。

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 問屋場跡と並んで慶長年間(1596~1615年)創業の「永島庄兵衛商店」が

あり、屋根に鍾馗様が乗っている。

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すぐ先の新町場西交差点で街道は右折し粕壁宿を後にするが、

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右角地は佐渡屋跡で、戦前まで浜島家が米穀商を営んでおり、明治時代前期築の

重厚感溢れる黒い土蔵(国登録文化財)が残されている。

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そしてなんでかな??で、

交差点の道路を挟んで向かい角は、黒蔵と高札場跡についての標柱が建っていた。

 

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右折しての街道への前に、日光道中粕壁宿の突当りに粕壁宿近在の本寺といわれて

いた粕壁宿の古刹「最勝院」へ足を向けます。

辺りは寺町と呼ばれ、五つの寺院の屋からが並んでるそうです。

 

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真言宗智山派寺院の最勝院は、華林山慈恩寺と号します。

慈恩寺の僧奝尊が、慈恩寺を退いて永正元年(1504)当地に創建した。

足利尊氏との戦いに敗れて自刃した、春日部重行を葬った塚があることで、

春日部という地名の由来と云われている。

日光東照宮に移葬される三代将軍家光の亡骸が仮安置されたところでも有る由。 

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新町場西交差点へ戻り曲がると、大落(おおおとし)古利根川 に架かる新町橋で、

新町橋・上喜蔵河岸」の標柱が立っている。

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単に古利根川と呼んでいるが、大落古利根川が正式名称のようです。

(上流、下流新町橋

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春日部市資料より)

大落古利根川(おおおとしふるとねがわ)は、埼玉県を流れる一級河川

江戸時代以前は利根川本流がこの河道を流れ東京湾へ注いでいた。

久喜市杉戸町の境にある葛西橋から、松伏町下赤岩付近で中川に合流する

延長26.7km、の一級河川

その名の示す通り、古くは利根川の本流として、いくたびかの大洪水を引き起こし、

江戸時代の初期に、利根川が現在の流路に付けかえられたため、

この流れは大落古利根川として残されました。

 その後、この川は数回の改修を経て、今日の姿となり、中川流域の主要な河川として、また葛西用水の幹線として治水と利水の両面で重要な働きをしています。

なお、当川の「大落」とは農業排水を落とす幹線排水路の意味です。

国土交通省河川に関する資料より)

その昔、利根川東京湾に流れ込んでいました。

徳川幕府は江戸時代の初期に、将軍のお膝下(おひざもと)である関東の生産基盤づくりのため利根川や荒川の乱流整理を行いました。その工事は、利根川の本流を鬼怒川の支流につなぎ太平洋に放流させるもので、約50年の歳月を要しました。

 銚子から太平洋への流れは人工的に作られたものだったんですね。

 ( 江戸川に関する資料もあったので記載)

また、その昔、江戸川という川はありませんでした。
江戸時代、江戸の町(現在の東京都)を洪水から守り、銚子から江戸までの交通路を開き、さらに田や畑を広げるために、利根川の流れを東に変えるという大工事が行なわれました。これが「利根川東遷(とねがわとうせん)」です。徳川家康の命により、文禄3年(1594年)に始まり、60年の月日が費やされました。
利根川東遷より前、今の江戸川は太日川(ふといがわ)と呼ばれていました。
利根川東遷により、渡良瀬川利根川に流れ込むようになりました。一方、関宿から

金杉までの間を掘って新しい川を作り、利根川と太日川をつなぎました。こうして誕生したのが江戸川です。

 

荒川と墨田川など、 江戸時代からの河川の改修工事は近代的動力の無い時代。

主に人力での仕事、いまさらながらすごいことをやって来たんだ、

と驚くばかりですね。

 

橋を渡り切ると左折し県道319号をゆき、すぐに「八坂香取稲荷合社」がある。

元旦の歳旦祭は千貫神輿の渡御が行われるそうで、

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ユニークな狛犬と、文政10年(1827年)建立と刻まれた御神燈があります。

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隣の仲蔵院境内から大きく伸びて、稲荷神社境内で木枠に支えられてる大木の老松。

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隣の永禄元年(1558年)創建の「仲蔵院」。

境内には寛政4年(1792年)建立の青面金剛庚申塔が置かれている。 

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10分ばかり先に「史跡小渕一里塚跡」の碑が置かれている。

江戸・日本橋から九里目)の一里塚で、傍らに天保三年(1832年)建立の

庚申塔が立っている。 

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すぐ先には、関宿往還との立つ追分道標が置かれ、街道書によると

左の大きな道標は、宝暦四年(1754)建立で「青面金剛、左日光道」、

右の小さな道標は宝永六年(1709)建立で、「右方せきやど道、左方あうしう道」と

刻まれているそうです。

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先の小淵の交差点で再び国道4号線に合流し、合流地点で東西に横切るは国道16号

バイパス。

国道16号は「東京環状」とも呼ばれ、横浜市相模原市、八王子市、埼玉西部、

さいたま市千葉市など首都30~40km圏の主要な都市を結び、千葉の君津からは海上で、浦賀水道の対岸、横須賀市走水へ指定区間として続く延長約330kmの重要な

道路。我が家からも近く良く利用する国道でした。

この付近も何回か横切っていたことがあった。

行く先方向板に栃木の町名が出てきた。

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しばらく行って左手に、市の有形文化財に指定されているという、

立派な山門、桜門(仁王門)の建つ「小渕観音院」があった。

迫力ある顔している山門の仁王様は、残念ながら少々痛ましい姿だね~。

本尊の聖観音は、「こぶとり観音」とも呼ばれイボ、コブ、アザにご利益があると

いわれているそうな。

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境内には「毛のいえば(ものいえば)唇寒し秋の風」と刻まれた芭蕉の句碑が置かれている。奥の細道紀行で芭蕉はこの寺に宿泊したという説があるそうです。

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北春日部駅入り口、江戸時代幕府から寺領十石の御朱印状を拝領したという

曹洞宗不二山浄春院の寺標を左手に見て進むと、

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すぐ先は春日部市から杉戸町 へ入り、歩道上に北緯36度を示す地球儀の

モニュメントが置かれている。
同じ緯度上に、チンタオ、ラスベガス、地中海などがあるそうだ。

 

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約500mほど単調な国道を歩き交差点を右へ入ると香取神社で、

境内に寛政6年(1794年)建立という、青面金剛庚申塔等がおかれていた。

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さらに15分ほど行き、街道は国道4号から左に分岐するが、信号、横断歩道がなく、

すこし先の歩道橋を渡って街道へ入る。 

右手に大きな門構えの家があった。

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街道書によると、高野家が茶屋を営んだとされる「堤根立場跡」のようです。

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街道書図によると、街道は国道4号と左手奥に流れる大落古利根川の間を通っている。

入ってすぐ左手に曹洞宗 九品寺があり本尊は阿弥陀如来

境内には道標を兼ねた庚申塔には、正面は「青面金剛」、左右に「左日光」「右江戸」と刻まれていて、横に馬頭観音が祀られてる。

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 脇に「日光街道の道しるべ」の説明版があった。

「この道しるべ は、天明四年(一七八四)堤根付の農民四十二人が協力して、新川村(春日部市)の石工・星野常久に作らせ、江戸と日光方面を知らせた。また、この道路の向い側の高野家が、立場を営み、馬で荷物を運ぶ人・駕籠をかつぐ人・旅人・馬などが休む場所となっていたので、この道しるべを多くの人々が見ながら旅を続けたと思われる。
この石塔は、庚申の夜、人間の身体にあって人を短命にするという三尸を除いて、青面金剛 に疫病の予防治療と長生きができるように祈る庚申信仰 を表すものであり、道しるべを兼ねたものである。
なお、見ざる・聞かざる・言わざるは、三尸 になぞらえ、眼や耳や口をふさいで悪事を天の神に報告させないという意味がある。」 杉戸町教育委員会

 

 

過ぎて少し先左手に小社があり、街道書では大六天を祀ると」書かれている。

並びにも立派な門構えの屋敷があった。

(同じ敷地内とも見えるので、家神かな?)

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国道と合流手前の道を国道側へ入った角に、ラーメン店での看板を見つけ、

ちょっと昼前だが、お腹も空いたと足を向けた。

久しぶりに湯麵にしたが、これが大当たりで旨かったですね。

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暫しの足休めし、すぐ先が街道との合流交差点なのでそのまま国道を進みます。

合流交差点手前に道の駅の案内板「アグリパーク・ゆめすぎと」があった。

かって何度も利用したことがあった道の駅だった。

一番最近は5年くらい前かな・・

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先で街道も合流し、交差点のすぐ右てに慶安2年(1649年)中興という

真言宗「馬頭院」で、本尊は伝教大師策作の馬頭観世音菩薩像。

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境内には文永7年(1270年)建立と言われる板石塔婆、

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元文5年(1740年)建立の青面金剛庚申塔等等がある。

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「馬の事悪と厄とを食い尽くす 旅おも守馬頭観音」と刻まれた碑が置かれている

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明治初には学校も開かれた。

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馬頭院から300mほど歩むと左手に「バラの家」看板が、あれあの店は!!

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何年か前に長野・軽井沢のバラ園へ行ったときに見たバラのことを、係の方に

紹介して頂いたバラ専門栽培育成店で、以前来たときはマイカーだったのです。

カミさんが庭にバラを何本か植え始めたころで、お目当てのバラや肥料を買った店で、歩いてきての出合いにビックリ。

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招待イベントをやっていましたが、係の方に了解を頂き、いくつもの栽培ハウスを

1時間以上も楽しんで後にしました。

堤根の交差点から国道と左手へ別れて、街道は杉戸宿へ向かいます。

 

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うっかりすると見落としてしまうそうな、右手の民家の生け垣の中に、

「三本木の一里塚」の説明版が立っている。

江戸日本橋から十里目(10番目)の一里塚である。

このあたりが宿場町の入口になるかな。

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第5宿 杉戸宿

 日本橋から10里23町(41.8Km)粕壁宿より1里21町(約6.6km)

 宿内人口:1,663人、総戸数: 365軒(本陣1・脇本陣2・旅籠46)

日光街道奥州街道、関宿往還の交通の要衝として栄えたそうだ。 

天保十四年(1843)日光道中宿村大概帳による)

元和二年(1616)近郊の村を集めて宿場町を作った。五と十のつく日に六斎市が立ち

近郊の商業の中心地であったという。

宿案内文に、平成28年(2016年)に宿場開宿400周年を迎えたとある。

その先右手へ小路を入ると、正面には万福寺があり、六地蔵が祀られている。

明治期には本堂が清地学校の仮校舎となったそうな。

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裏手側に回り込むと八幡神社が祀られいる。

三本木の鎮守で、境内の手水石は文政2年(1819年)の作とあるが風化して判読不可能。

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宿の南東端、清池二丁目の信号の所に文政5年(1822年)創業の銘酒「杉戸宿」の蔵元である関口酒造がある。旧屋号は「豊島屋」。

家屋は築後約120年の時を刻み、現在の当主は6代目で、約200年間、伝統の製法で

日本酒を造っています。「豊泉」や「杉戸宿」などの銘柄は杉戸町の人々に愛され

続けています。

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おや垣根に咲く花は??

帰宅後調べてみると南米原産、ナス科のツルハナナスだった。

咲き始めは紫でしだいに白花になる。

蔓性で春から晩秋ころまで咲き続く結構強靭な蔓性植物だった。

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來迎院

本尊の不動明王像は運慶作と伝わり、奥州藤原氏三代の守護仏だったとか。

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街灯に伏見屋の看板が下がってるので、

寛延元年(1748年)創業と言われた造り酒屋「伏見屋久五郎」の跡と思われる。

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先に杉戸宿高札場跡があり高札が復元されていた。

宿資料によると、

もともとは杉戸宿と関宿道との分岐点にあったが、江戸後期・天保14年(1843年)に

日光街道沿いの様子を記した『日光道中宿村大概帳』の資料に基づき、

杉戸町日本工業大学が協力して、ほぼ原寸大で、この場所に復元されました。

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高札場の先に鳥居が建ち、奥の社殿は清地村の村社近津神社。

貞享元年(1684年)の創建で、古い社殿は2001年に残念ながら焼失という。

近津神社の狛犬は特異な姿勢で、顔を背けていることから「見返りの狛犬」と

造立は江戸末期・元治元年(1964年)で、狛犬は火災を免れましたという。

狛犬写真ボケボケのため拝借しました)

 

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左手の小路を入ると、元和9年(1623年)の創建と伝わる、東福寺

本尊は不動明王で、明治22年(1889年)杉戸町役場が置かれたという。

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f:id:hansui:20201105070813j:plain前の道が町境であったようで、石柱が置かれていた。

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街道へ戻った角は、街道書では扇屋という旧旅籠跡とあるが、今は扇屋の看板を掲げた

洋品生地店で、子孫の方が営業してるのかな。

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扇谷から先に見えていたが、先の交差点手前の銀行の前に、明治天皇御小休址碑が

建っていている。

街道書では、ここは元杉戸宿問屋場跡で、裏には伊奈稲荷神社が祀られていた。

明治9年(1876)東北巡幸に出向いた明治天皇が、当時、県区務所が置かれていたこの場所で、休憩をとったことを記す石碑です。

ちなみに明治天皇がこの場所で休憩した時間は5分程度だった、とある。

 

 

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交差点を渡ったところの「とらや薬局」は、江戸時代、杉戸宿の漢方医として名を

馳せた虎屋善蔵の診療所「虎屋」跡地。

街道書では、敷地には「虎屋の松」と呼ばれるりっぱな松が植えられている、と

あるが見つけられなかった。

現在、虎屋善蔵の子孫にある当主が「とらや薬局」を営んでいて「虎屋」の屋号を

今に伝えています。

宿資料に、とらや薬局の場所は、日光街道をはさんで虎屋の松の斜め前、とあったので

薬局の向かい側が「虎屋の松」のあったとこのようだった。

交差点は信号機に「本陣跡地前」の地名プレートが付いているが、

本陣跡はここから120m先になるようだ。

交差点を左手へ行くと、東武動物公園駅(旧杉戸駅)に向かう。 

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虎屋の先の埼玉県信用金庫のところは、杉戸宿最後の名主、鈴木小左衛門の宅跡。

そして先隣は、

 

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街道書によれば、脇本陣・蔦屋権左衛門跡(現マツモト金物)で、

建坪九十四坪の屋敷があったが門構えは無かった、とある。 

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さらに先となりには本陣門と松の木を残す、長瀬本陣跡、

建坪約166坪半であったと 「宿村大概帳」 に記されている。

脇本陣は本陣を挟んで1軒ずつ建てられていたが、門構えはなかったという。

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さらに先隣には脇本陣・酒屋伝右衛門跡(現松本屋製パン所)が並んでいた。

 

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脇本陣のすぐ先の「愛宕神社前」の交差点を北に延びる道が「関宿道」で、

傍らには道標があり

「久喜方面」(関宿道)「幸手方面」(日光街道)と刻まれている。

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交差点を左手へ入ると杉戸宿の鎮守愛宕神社が祀られており、社殿わきには文政13年(1830年)建立の聖徳太子碑等がある。

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宿場町の面影を残す古民家や蔵が今も少しは残っていて、右手は渡辺金物店跡。

かすれて読みがたいが、

「平成になって金物店の看板は降ろしましたが、月に1回、クラブ茶屋という地域交流会の場として、活用されています・・・」の掲示板を掲げていた。

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右手に曲がる左角地に大正4年建立という道標が建ってます。

久喜方面、幸手方面、と刻まれている。

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宿場町の北西端は桝形に右手へ曲がり、曲がり角にに昔ながらの家屋と蔵を残した

小島定右衛門邸(角穀屋跡)がある。

角穀跡とは、角にある米穀問屋という意味で、江戸の商店と情報交換をしながら、

杉戸宿で米の取引を行っていました。

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左手には、永禄三年(1562)幸手城主・一色義直が開山した「宝性院」がある。

街道書には、本尊は胎蔵界大日如来で杉戸七福神毘沙門天も祀られている。

境内には「不動明王像」「青面金剛庚申塔」などが置かれており文化七年(1810)

建立の馬頭観音像があり「日光道中」と刻まれている。

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寺入り口わきに、杉戸宿の案内板があった、

江戸方面からの入り口付近にもあったのかな??

ただ、高札場の跡なと違うようだが・・高札場を移設する前に建てられたのかな?

ただその場所場所には、全く示す案内板などは杉戸宿は無かったので、街道書などを

持参して歩かないと、みんな見逃し素通りになってしまうね。

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 えっ、東京食堂??

後で調べたら仕出し食堂で、創業者が元鉄道員だったそうでる。 

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斜め向かいには、旧家・渡部勘左衛門邸がある。当時は多数の小作人を抱えていた

という。

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500m弱約15分ほどで再び旧道は国道4号線に合流し騒音に包まれながらの歩きです。交通事故があったのかな。

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30m弱行くと左手に大きなインテリア家具の店があり、トイレ拝借。

向かい道路越奥に鳥居と社殿が見え、街道書にある八幡神社らしいが、横断歩道や信号が全くなく、見送り。

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 綺麗に咲いてるわ~、欲しいわね~のカミさん。

ダリアかな?八重シュウメイギク

向かいに広大な駐車場があり、大きな蔵造り風?の建物は食事処のようだった。

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厳島神社

境内内に天満宮を祀り、文政5年(1822年)建立の庚申塔がある。

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10分ほど歩くと「山田うどん」の駐車場内に「荻島の一里塚跡」の説明版が

立っている。江戸・日本橋から十一里目(11番目)の一里塚である。

おっ、国道距離も44km、11里か・・・

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5分ばかり行くと「幸手団地入口」の交差点がある。このあたりが杉戸町幸手市

境だった。

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時刻はPM3:30。

目的の幸手宿中心までは約2km強ほどだが、幸手市には到着した。

今日の街道散歩はここで足止め。

今年は秋バラを見に行けなかったが、思いがけなくバラの家へ立ち寄って、

沢山のバラを楽しむことができた。

東武日光線杉戸高野台駅より家路へ。

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さあて、次回は次の日曜日が体が空いてるが、・・・。

第5回、終了。