時刻はPM3:30。
目的の幸手宿中心までは約2km強ほどだが、幸手市には到着した。
今日の街道散歩はここで足止め。
今年は秋バラを見に行けなかったが、思いがけなくバラの家へ立ち寄って、
沢山のバラを楽しむことができた。
さあて、次回は次の日曜日が体が空いてるが、・・・。
11月3日 第5回、終了。
お天気良し、歩けるうちに歩けるときに。
行楽お出かけは控えて、街道歩きに専念中、でもないが
続いて11月8日(日)再び日光道中へ。
いつものようにバス、電車を乗り継ぎ、東武日光線・杉戸高野台駅から
(ありゃ、もちょいと前に置けばよかったな・・)
10分ほど進むと、上高野小入口の信号でY字路となり、国道から別れ左手街道を
進みます。
東武日光線の踏切を渡り、300mほど行く幸手市南公民館の玄関先に
「上高野村道路元標」が置かれている。
街道書によると、元は御成街道沿いにあったが、平成に入って旧日光街道の
この場所に移転したとのこと。 (移設して意味があるのかな??)
道路元票から200mくらい先で高速園央道をくぐります。
圏央道は、南は東名高速、中央高速、中ほどで関越道、少し西側で東北道、
東で常磐道、東端で京葉道などを繋ぐ環状道で、良く利用していた高速道でした。
おっ、マンホール蓋に農水の文字が。かっては周辺は田園が広がっていただろうな。
そして幸手と言えば権現堂桜並木で、マンホール蓋も桜デザイン。
過ぎて15分ぐらい歩くとT字路になり、合流する道は日光御成道。
街道書には、
中山道(江戸の)本郷追分から分岐し、川口・鳩ケ谷・岩槻を抜けて日光道中の
幸手に至る。
家光の時代に整備され、徳川家康を祀る東照宮に参詣する代々の将軍が通行した。
江戸の本郷追分は、現在の東京大学農学部前で中山道と分岐しており、中山道の旅で
4年前に通っていて、追分一里塚跡碑が建ってました。
あそこで別れた道がここで合流したわけです。
案内板には、
地元で羽生道と呼ばれている道も合流しており、ここを多くの旅人が行きかったと
(江戸、追分一里塚跡)
日光御成道は中山道本郷追分から川口、鳩ケ谷、岩槻を経て日光道中の幸手宿に至ります、日光御成道は家光の代に整備され、以降歴代将軍の日光社参道となりました。
日光社参の将軍は諸大名のように各宿場の本陣に宿泊する訳にはゆきません。譜代大名が守備する居城を宿城としました、日光道中には古河城まで宿城がありません、そこで岩槻街道を経由して岩槻城を宿城とする道筋が御成道となりました。
(中山道解説文より)
すぐ先の一角は古そうな墓地で、塀際には地蔵尊(頭部無し)、無縁塔(下右)、
天保2年(1831年)建立の馬頭観音(下中)等石仏や石塔が集められている。
街道書には、明治11年(1878年)お堂を仮校舎として上高野小学校が開校したと
記されているが、お堂は立て直した?
その先には上高野神社が祀られ、境内の八坂神社は慶長5年(1600年)の創建という。
明治42年、上高野村の十一社が八坂神社を中心に合祀され翌年に上高野神社と改称
合祀されている八坂神社は慶長五年(1600)の創建で、境内社として天満宮、
浅間社、第六天社、稲荷大明神、などが祀られ、何故か境内周りには
文化元年(1800年代)の文字が刻まれた馬頭観音等々、無数の石仏石塔が並び、
十二社合祀のさい、各社周りにあったものを移設したのかも、とカミさん。
街道に戻って、その先に左手を入ると浄土宗鷹尾山誓願院・神宮寺がある。
源頼朝が奥州征伐の折に、この地で鷹狩りを行い、戦勝を本尊の薬師如来に祈って
開基したとも伝えられ、この故事から鷹尾山誓願院の名が付けられたといわれます。
ここも山道わきにも、時代物の石塔石仏墓石などが両側に整然と並んでいた。
200mほど先で東武日光線踏切を越え、400mほど行くと
バイパス4号を分けた国道4号が、志手橋交差点で枡形に合流し、倉松川を渡ると
旧右馬之助町へ入ります。
合流地は幸手宿の江戸口にあたり、信号の先には高札場があったそうだが、
今はその跡も示すものも見受けられない。
幸手宿、
日本橋から12里12町(48.4Km)、鉢石へ23里27町(93.3Km)
幸手宿の長さ9町45間、道幅6間、家数962軒、人数3,937人、本陣1軒、旅籠27軒と
あり、城下町に併設された宿を除くと、千住宿、越ヶ谷宿に次ぐ日光道3番目の
規模を誇った。
また幸手市資料では、宿駅としての幸手宿は、南から右馬之助町、久喜町、仲町、荒宿の4ヶ町より構成されており、開宿当初は久喜町、仲町の2町が宿の中心で、荒宿、右馬之助町が宿に組み込まれたと考えられている、とある。
右手に神明神社が鎮座し、鳥居の脇に「螺(たにし)不動」と彫られた石碑が
ありました
神明神社は宝暦5年(1755年)伊勢神宮の分霊を祀って創建され、
右馬之助町の鎮守。
町名はこの地を開発した新井右馬之助に因んでいう由。
境内には成田不動と、境内の左側にあるのが、「たにし不動」と呼ばれる
「菅谷(すがたに)不動尊」が祀られ、眼病などの時に田螺を食べるのを絶って
治癒を願い、二つの田螺を描いた絵馬を奉納し祈願すると霊験あらたかという。
田螺(たにし)ではなく螺(つぶ)と書いてタニシ?
絵馬は残されてないのかな・・・
境内には水神宮や安永三年(1774)建立の庚申塔等があり、
狛犬が抱えていたのは田螺?、ではなくて牡丹の花のようです。
すぐ先は幸手駅入り口交差点で、左手へ行けば東武日光線幸手駅があり、
電柱の地下化ですっきりとした街並みが続いてます。
駅入り口交差点左手に小公園があり、2基の明治大帝行在所御跡碑が建っている。
案内板によると、天皇が行幸でお泊りの場所が「行在所」で、立寄るだけでは
行在所とは言わないとか。
こちらは1881年(明治14年)と1896年(明治29年)の2度明治天皇の行在所となった
中村家があった場所とのこと。
幸手駅入口交差点のそばに旧岸本家住宅主屋があります。
土蔵造り二階建て(一階木造平屋建て)で、江戸時代末期に建てられ、
国の登録有形文化財にも登録されている。
かっては醤油醸造業をいちなんでいたが、現在は主屋だけが残っていて、
カフェとして活用されているそうです。
(写真はなぜかピンボケで、パンフ拝借フォット)
駅方面へ足を向けしばらく行くと、左手に一色稲荷神社が祀られてます。
江戸時代初期まで幸手を支配した一色氏の陣屋跡で、稲荷は一色氏の守護神で
陣屋稲荷と呼ばれた。
幸手市の広報のよると、
「幸手駅附近一帯に、城山又は陣屋という地名が残っているが、ここは古河公方
足利氏の家臣一色氏が館を構えた跡といわれている。一色直朝(なおとも)は天文年中(1532~55)に足利晴氏、義氏にしたがい、田宮庄(幸手庄)に住したという。後、徳川家康に仕え、幸手庄のうちにおいて五一六〇石余の領地を与えられている。
現在は昔をしのぶ土塁跡などは見ることが出来ない。」とあった。
駅入り口交差点へ戻り、そのまま直進すると国道4号。
その道沿いにパネルが並んでいる。
調べてみたら、「幸手」にちなんでの「ハッピーハンドレリーフ」だそで、
その年その年の一番幸せだと思われる男女1名を選んで、その手形を展示してる
そうで、一番手前は、 シンクロナイズドスイミングの小谷 実可子さんでした。
たしかオリンピックで日本選手団の旗手を務めてたね。
幸手市商工観光課パンフより
幸手の始まり
幸手の地名は諸説あり、アイヌ語で「乾いている」を表す「さッ」あるいは水が涸れた流れを表す「さッテク」を語源とするアイヌ語説、また倭健命(ヤマトタケルノミコト)が東国下向のおり訪れた島が「薩天ヶ島(さってがしま)」と言われるようになった説など諸説ある。幸手は古くは下総の国に属し、後に大半は武蔵国に編入された。
幸手宿のなりたち
日光道が整備される以前より、幸手は利根川水系による河川舟運と鎌倉街道中道の人の往来で、交通の要衝として栄えていたとされる。特に中世では、古河公方の重臣・幸手一色氏との縁が深く、政治的・軍事的にも重要な場所であったことが伺われる。江戸時代になり日光道が整備されると、1616(元和2)年に幕府より人馬継立を命ぜられ幸手宿となった。幸手宿は日光街道のみならず、将軍家による日光社参の道である日光御成道との結節点でもあり、重要な地だったと考えられる。現在もその当時の道幅のままで約1km続いています。江戸時代、幸手は天領でした。そのことからも幕府が幸手を重要な土地と捉えていたことがわかります。
「NPO日光街道幸手を感じる会」というのが活動しているそうで、一文に
「幸手の街は予算が潤沢でない為、旅行者のみなさんに親切な標識とか、観光地として充分に整備を行うというところまで手が回らないんですよ。市民レベルでできることは取り組んでいるんですがそれもなかなか思い通りにはいきません。でも私はそんな風に思う一方で「幸手はこのままでもいいんじゃないか」とも思ってるんですよ。幸手の街は今から400年前の道がそのままの道幅で残っていたりするんですよ。そんな街を歩くとやはり感じてくるものがあります。宿場町でもあり、城下町でもあった幸手という土地は歴史の宝庫なんです。春にはこの街で有名な「権現堂堤の桜並木」をご覧いただいた帰りに、日光街道の辺りをブラブラと歩いてみてください。それだけで歴史を感じられることでしょう。
お金をかけて飾りつけた観光施設を建てたり、広告費をじゃぶじゃぶ使ったりしなくったってその街の良さを伝えることは出来る、次の時代へ引き継いでいくことはできる。」とありました。
日常暮らしながら歴史を維持してゆくということは、住民にとっては大変なことで
しょうね。
はい、心得しながら楽しませていただきます。
昔は「朝萬」と表記してたという、今に歴史を伝える老舗旅館「あさよろず」。
幸手商工会資料によると、
文政二年(1819年)に旅館業として創業し、180年を経て現在に至る。
先祖は、武州大沢(越谷市)出身の「萬屋久兵衛」氏。幸手に移り息子達が独立し、
それぞれ当時流行のネーミング「○萬」を名乗り、次男「萬屋久兵衛」が営む。
江戸時代は日光街道を通る旅人のための宿として、明治にはいると行商人の宿や利根川で軍事演習の際の軍人や要人が滞在。その後、幸手の発展と共に営業を続け現在に至ります。
また館内には『宿札』が残り、明治9年と14年に明治天皇が行幸したときに同行した宮様や随行員の方々、明治末の利根川大演習で滞在した要人のものがあります。
宿泊者には明治の元勲、伊藤博文、板垣退助、大久保利通などそうそうたる方々が
名を連ねるという。
建物はリニューアルされて現代的な造りになりましたが、かつては木造三階建て
時代もあったとか。
過ぎて左手の道へ入ると、 1615年元和年代(1600年~)創建という古刹、
現代は地域最安値で永代供養ができる、と謳ってるだそうで、
スパー同士のコマーシャルみたい。お寺も維持運営は大変ですね。
街道に戻り10mほど、 中1丁目(南)の交差点右手にポケットパークがあり、
「日光街道・幸手宿」の説明版と「問屋場跡」の説明版があり、奥は勤労福祉会館で
公衆トイレがあった。
この場所は幸手宿の問屋場跡だそうで、問屋場は宿並に面し、間口六間一尺、
奥行三十三間半、百六十八坪で、問屋場、人足溜、馬小屋などの建物がありました。
問屋場は人足二十五人と馬二十五疋を常備し、問屋四人(久喜町・仲町・荒宿・
右馬之助町で一日交替であったという)、年寄八人、帖付四人、馬指四人、見習一人、月行事四人の総勢二十五人が詰め問屋業務をこなしました。
古くは田宮町とも呼ばれた幸手の中心部は、江戸幕府による街道整備の結果、日光道中6番目の宿場である幸手宿として発展した。徳川将軍が日光社参で通る日光御成道が上高野村で合流、また宿内で日光社参の迂回路である日光御廻り道、更に外国府村で筑波道が分岐し、陸上交通の要衝として大いに栄えた。
説明板には大正、昭和初期の幸手の写真があった。
隣にある裏手に奥深い敷地に蔵が並んだ旧家は街道書に記載なく、周辺にも説明板などはなかったが、帰宅後調べてみると幸手市商工会の資料に、建屋は大正11年の
建築で、かっては味噌醸造業を営んでいた平井家、とあった。
問屋場跡少し先向「うなぎ屋」は「本陣・知久(ちく)家跡」でした。
知久家は本陣(大名宿)・問屋・名主の三役を兼ね、幸手宿で最も重要な役割を
果たした家柄で、初代帯刀(たてわき)は長野県伊奈郡の豪族の出で、同郷の関東郡代伊奈熊蔵より幸手宿の久喜町開拓を命ぜられ、諸役を務め、明治三年(1870)に
本陣が廃止されるまで、代々幸手宿の繁栄に尽くしました。 明治六年、知久家の書院で小学校が開設され、明治九年、明治天皇が東北巡幸の折に宿泊されています。
屋敷は、間口約39m・奥行約80mで、約千坪ありました。
あれれ・・営業中の札が掛ってるが暖簾が???
本陣跡の少し先を左手に入ってゆくと、 満福寺。
一色氏の開基、本尊の如意観音菩薩は安産子育てにご利益がある由。
解説板が・・・
満福寺入り口を街道に戻らず左手へ行くと、街道書図では雷電神社が記載されて
いたが、幸宮神社が鎮座してました。
案内板によると、かっては八幡香取神社といってたが、明治の神社合祀のより
幸手の総鎮守となり幸宮神社となった。
境内に祀られてる八坂神社は、創建から400年を越える由緒ある神社、
と記されてました。
時期の七五三で境内はにぎわってました。
街道書には幸宮神社の記載がなく、幸手宿の総鎮守として、ご神体は幸手城主一色氏
が奉納した雷神という雷電神社が記されてるが、案内表示なども見つけられず、
不明のままに花や実を愛でながら北へ進むとT字路へで、先の小路を入った先が、
聖福寺の裏手側に出て、境内の幼稚園入り口でした。
(帰宅後調べてみると、雷電神社は道をもう一本西寄りの道側で、幸宮神社とは背を
合わせたような感じで祀られていたようです)
菩提山東皐院・聖福寺は、応永年間(1394~1428)の創建といわれ、
御朱印十石を拝領しました600年続く浄土宗のお寺。
本尊は阿弥陀如来です、観音像は運慶作と伝えられています。
その「聖福寺」の参道に入ってみると、直ぐの右手に、下の写真の真新しい
「芭蕉句碑」がありました。
”松杉を はさみ揃(そろ)ゆる 寺の門” (曽良)
芭蕉の句に上の句が無いのは謎らしいですが、下の曽良の句との連歌になっているという説もあるそうです。
また、曽良の句の中の”門”は、この聖福寺の勅使門を指すそうです。
平成13年、日光街道四百年を迎えたおり山門の改修工事も成り、併せてこの句碑を
建立したという。
奥の細道の旅を終えた芭蕉は4年後の元禄六年九月十三日に江戸・深川の芭蕉庵で句会を催したときにみちのくの旅を想い曽良と共に詠んだ句だということである。
(幸手市建築経済部商工観光課発行マップより引用)
徳川三代将軍家光が日光社参の折、御殿所(将軍の休憩所)として使用し、例幣使や
歴代将軍が十八回にわたり休憩所しました。
本堂の「将軍の間」の彫刻は日光東照宮のあの「眠り猫」を作った左甚五郎と伝わる。その他、運慶作と言われる阿弥陀如来がある。
山門は唐破風の四脚門で勅使門と呼ばれ将軍の通行のみ許された。勅使門は幸手市の指定文化財となっている。
さて、街道に戻ったすぐ先で街道は右手へ枡形に曲り角に「幸手の一里塚跡」の
説明版が立っている。江戸・日本橋から12番目(十二里目)の一里塚である。
一里塚跡の道路向こうが「正福寺」(しょうふくじ)です。
境内には、移設されたという大きな日光街道の道標(写真右)があり、
中央面に馬頭観世音供養 寛成12年、左側面に日光道中、刻まれていて、
右側面には権現堂河岸とありました。
(道路改修などで移設は止む得なかったのか)
日光街道の道標の奥には、義賑窮餓(ぎしんきゅうが)の碑(写真左上)があります。
その説明板によると、1783年の浅間山の大噴火の際、関東一円には灰が
降り、冷害も重なって大飢饉なりました。
この時、幸手町の有志が金品を出し合って、難民の救援に当りました。
この善行を知った関東郡代の伊那忠尊が、この顕彰碑を建てさせたのだそうです。
無縁仏となった石仏石塔供養塔なども、小山のようにが積み上げてありました。
正福寺をを出て街道(県道65号)を行くと緩く左手へ曲がった右手に、
街道書に記された、創業文久年間(1861年~江戸時代)の銘菓「名物塩がま」の
老舗石太菓子店があった。(どんな菓子なのかな?)
(商工会解説分より抜粋)
石太菓子店は、名前の由来になった初代中村石太郎氏によって創業し現在に至ってる。
数ある和菓子の中でも、創業時からそのまま受け継がれている伝統の和菓子が、
『塩がま』です。
「塩がま「」の起源は江戸時代(文政年間)に幸手市内国府間で菓子製造を営んでいた、
『大阪屋』の樋口清左衛門氏によって作られたといわれている。
もち米・砂糖・塩等材料を用いて、型に押し固めて作るので、押し物菓子の一種に
なります。口に入れたときに、「ほっこり~」とする食感で、お茶と一緒に頂くのが
一般的です。
明治天皇東北御巡幸の際に、『塩がま』を献上致しました。
(現在は何店かで製造されてるようです)
すぐ先が変則十字路で街道(県道65)は左手へ行くが、直進すると国道4号へでる。
向かい左角(空き地)付近に先ほどの正福寺にあった道標が置かれていたところで、
直進して4号を横切って進む道が権現堂河岸への道になるようだ。
権現堂河岸は、幸手宿の東北14町30間の権現堂村の権現堂川沿いに設置された
河岸場で、幸手宿に集散する物資や年貢米の移出入港の機能を果していた。
江戸時代前期、伊奈氏を中心とした利根川東遷事業が行われ、権現堂川、江戸川が
整備された。新田開発による米作の増大と相まって、これらの川を利用した江戸との
間を結ぶ舟運が発展した。(幸手市観光課)
右手電柱の脇には木道標が建てられていた。
(熊野神社はどこかな・・)
時刻は正午、お腹も空いたと食事処の多い国道4号へ向かい、
またも入ったのが麺の店。
後半へ。