歩いて再び京の都への前に 日光道中二十一次 街道散歩(第六歩)後編

時刻は正午、お腹も空いたと食事処の多い国道4号へ向かい、

またも入ったのが麺の店,、で 後半へ。

の続き。

今日の麺は「鳥湯麵」さっぱりとしながら、鶏がらベースのスープが

これまた当たり!

お腹を満たし街道へ復帰。

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 街道書を見るとこの先200mくらいの内国府間(うちごうま)交差点で、

国道4号と県道65号(街道)が合流なので、このまま国道を先へ進み街道へ合流。

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国道(街道)の右手を進むと、道の左手側に内国府間八幡神社の社標石柱が

建っていた。

小路参道を入た奥、右手が境内で社殿がある様子。

街道書では、

明和元年(1492年)創建で内国府間村の鎮守で、内陣には騎乗の八幡大明神と

香取大明神座像を安置している。明治40年に天神社と明治42年神明社を合祀して

いる。

他資料に平成19年、不審火により全焼、再建されたとあった。

像も焼失なのかな?4号は交通も激しく横断できないため、見送りで先へ進みます。

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内国府間交差点から10分ほど行くと権現堂桜堤交差点で、

右が県営権現堂公園4号公園があり、中川沿いの堤が散策コースになっている。

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堤防上は約1kmにわたって、約1000本のソメイヨシノの桜並木が続き

菜の花と合間って関東でも有名な権現堂桜堤としての名所となっている。

桜の時期は人人人の大賑わいといわれてるが、桜が終わった後の紫陽花も良く知られており、4年ほど前に紫陽花で訪れたことがあり、デジブックアルバムにしていた。

(写真は表紙だけ)

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  桜の時期は来たことが無く、免許返納前に来たいと予定してたが、コロナでね・・・
幸手市権現堂説明文から要約すると、

現在堤東側を流れてるのは中川。、昔の権現堂川は暴れ川で、権現堂堤は江戸を洪水から

守るために、寛永十八年(1641)に築堤された。

昭和になって利根川水系の大規模改修工事によって、権現堂川は締め切られ権現堂堤は

役目を終えた。大正9年(1920)に地域住民が立ち上がり、由緒ある権現堂堤を保存するため桜を植樹し始めた。

残念ながら太平洋戦争中や戦後に薪として伐採されてしまったが、現在、私たちが見ているのは、昭和24年(1949) から再び植樹された二代目の桜です。 

 「桜の季節が終わってからも四季折々に咲く花を」という思いから、ボランティアの

方たちを中心に、あじさいの花が植えられ、今では100種16,000株に増え、

6月の権現堂桜堤を色づかせます。

最近は春は水仙、秋は彼岸花が川側の堰堤に植えられている。

NPO法人幸手権現堂桜堤保存会の会員が一生懸命植え大切に育てました。

9月~10月にかけ、権現堂桜堤が真っ赤に染まり、素敵な花ロードになる。

 

 駐車場のトイレによって、堤上を歩いてそのまま街道へ出ることにし、ぶらぶら散策。

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権現堂堤が街道と交差するところに「明治天皇権現堂堤御野立所」と刻まれた碑が

立っている。

権現堂堤は明治9年(1876)に、明治天皇が巡幸のさいに立ち寄ったことから、

御幸堤や行幸堤(みゆき)とも呼ばれ、川は中川、橋は「行幸橋」、明治10年建立で

題字は岩倉具視だそうです。

行幸橋」を渡ります。

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中川は埼玉県羽生に源を発し、埼玉県、東京都を流れ利根川水系一級河川

末流は古利根川に合流し、越谷市付近で新方川と元荒川を合わせ、葛飾区内で

新中川を分ける。海から約8 kmのところで綾瀬川を合わせ、以後は荒川と接しながら

並流し。葛西海浜公園葛西臨海公園)の西なぎさの突端で東京湾に達している。

国土交通省河川事務所資料より)

左手上流側

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右手下流側 写真右側、権現堂堤、左奥に締め切られた旧権現川が権現湖としてある。

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橋を渡りきると左手へ下り国道の堤下側道を行くのが旧街道。

橋が架かるまでは対岸の橋の袂付近から通ってきてたのかな。

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少し先の左手空き地にポツンと置かれてるのは?

よく見てみると、下は兎(卯)と龍(辰)で笠の上は子丑寅と、十支で合わせて

十ニ支が彫られた灯篭だった。 なんでかな~??といっていたら、

カミさんが、こっち側に石屋さんみたいのがあるよ、て。

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しばらく行くと上部に地蔵像が彫られた「筑波道追分道標」が置かれている。

安政4年(1775年)の建立で、道標には「左・日光道」「右・つくば道」

「東・かわつま前ばやし」と刻まれている。

「かわつま」は現在の茨城県五霞(ごか)村字川妻、「前ばやし」は茨城県総和町前林の事である。

幸手市教育委員会の説明版より)

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左手に田園広がる旧街道らしい道幅の道を行くと、

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おや、ポツンと建ってるレトロな商店は、現役の吉羽屋酒店だった。

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100mくらい先左手に、創建は不詳だが内国府間村の鎮守である「雷電社湯殿社」

があった。 平成13年に不審火で全焼し再建したそうだ。

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境内には馬頭観音青面金剛庚申塔如意輪観音崎像十九夜塔等が置かれている。

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一旦国道沿いへ上がるがすぐに土手下側道へと街道は続く。

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ここから先は、頭上から騒音が降りかかる国道4号線の土手下側道を進み、

幸手市久喜市の境である小さな円形のトンネルをくぐることになる。

抜けると外国府間集落から、この地を開拓した人名に因んだ小右衛門集落に入る。

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トンネルを抜けて小右衛門町(旧村)で、江戸時代は幕府領栗橋宿の助郷だったとか。

旧家らしい蔵を残した屋敷塀と国道土手に挟まれた道が続き。

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しばらく行くと左手に真光寺があり、街道書では、境内には青面金剛庚申塔

文政8年(1825年)建立の如意観音像、十九夜供養塔等が建っている、とあるが

わからなかった。

(後で調べると墓地の隅にあったようだ)

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その先隣に、一里塚の説明版が立っている。

江戸・日本橋から13番目(十三里目)の「小右衛門の一里塚」の西塚がある。

現在塚上には権現堂川から移設した弁財天堂があり、お堂は最近建て替えてたとある。 

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一里塚跡から200mほどの国道4号脇に標識が建ち、国道4号から左手の南栗橋駅への道のトンネルとなり、抜けると左への道で駅方面へ行ける。

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抜けて国道側道を5分ほど行くと、大きな門構や白い蔵が見えてくる。

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街道書には「旧家」とだけ記されてるが、がっちりとした屋敷門や二連の多大きな蔵を残してる屋敷であった。

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東北新幹線の高架をくぐり、約700mほど行くと、側道(街道)は国道と合流し

200mほどの小演芸場の手前から、再び左手へ国道を分けて下ってゆく。

(演芸場には再開との幟や看板、花輪などが飾られ、浅草〇〇・・とあった)。

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下った左手は川通神社で鳥居には「香取宮八幡宮」と刻まれている。

境内に文化十一年(1814)の建立の常夜灯があるそうだが、どこにあったのか?

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騒音の国道4号から離れ、静かな街道にほっとする。

この赤と薄黄の実はなにかな? 秋ナスの花がいっぱい咲いてる、まだ実のるのかな?

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十字路脇の電柱下に「→北広島地蔵 ←会津見送り地蔵」と記された木道標が建っていた。街道書では北広島地蔵は金剛院(廃寺)地蔵堂厨子に中に安置されていた、

とだけある。

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300mほど先で道は二股になりここにも木道標が建てられ、右手の民家の敷地内の

ようなところ赤い鳥居があり、「会津見送り稲荷」があった。

街道書によると、この稲荷神社は狐に乗る茶吉尼天を埼信とした稲荷社だで、

「江戸時代、会津藩主の参勤交代による江戸参向に先立ち、藩士が江戸へ書面を届けるためにこの街道を先遣隊として進んでいました。ところが、栗橋宿下河原まで来ると地水のために通行できず、街道がどこかさえも分からなくなってしまいました。大変困っているところへ突然、白髪の老人が現われ、道案内をしてくれたといいます。そのお陰で、藩士は無事に江戸へ着き、大事な役目をはたせたといいます」とある。

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5分ほど道なりに行くと、国道125号をトンネルで、抜けた道用水路脇に

会津見送り稲荷 焙烙地蔵」を指している木道標があった。

さらに50m程先の道角にも木道標があり(写真上)、

ここが栗橋宿の江戸口との説があるのようだ。

第7宿:栗橋宿には日光街道で7番目の宿場町。

江戸から14里14町(56.5km)・幸手宿から2里22町(10.3km)、

本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠25軒、人口約1700人。 

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10m程先、右手にお堂があり焙烙焙烙地蔵が安置され、焙烙が沢山奉納され、

今年春に建てられたという説明板によると、

「関所破りが火炙りの刑に処せられた刑場跡、云々」とある。

宿外れの利根川の関所破りで捕まった人々が、火あぶりの刑に処され、村人が

その供養のために祀ったという。

線香の灰が「えぼ」に効くことから「えぼ地蔵」とも呼ばれるそうな。

焙烙地蔵は、中山道江戸府内にも「八百屋お七」にまつわる地蔵がありました。

あの地蔵は焙烙を被っていたね。

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100m程先右手が顕正寺

栗橋宿を開き、本陣職を務めた池田鴨之助の墓があるとのこと。

説明文では、開基は常陸の国(現・茨城県小美玉市)幡谷城の城主・幡谷次郎信勝で、

 信勝は亡妻を弔うため天台宗の僧となり光念寺を建立した。

下がって天正十八年(1590)戦国大名佐竹氏の急襲を受け幡谷城は落城、

光念寺も兵火により焼失してしまった。 

難を逃れ下総国中田(現・古河市中田)で幡谷山破邪院顕正寺を建てたが、

十六代善了のとき、栗橋町の開発者である池田鴨之介の招請により、

慶長十四年(1614)この地に移し法義を継承した、とある。

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 解説板(栗橋町教育委員会)によると、

 池田鴨之介(鴨之助)は、新編武蔵風土記稿によれば、並木五郎兵衛と共に、

幕府に願い出て、慶長年間(1596~1614)に、下総国栗橋村(元栗橋)より、村民を引き連れ、後の栗橋宿となる上河辺新田を開墾しました。

 池田家は、代々栗橋宿の本陣役を務めました。

 子孫、鴨平は明治二十二年に私立淑徳女学館を設立し早くから女子教育に力を入れ、その子義郎は、旧栗橋町の第三代町長として町政のためにつくしました、とある。

     

向かいには浄土宗無量山帰命院浄信寺。

街道書には、

本尊は阿弥陀如来

墓地に梅澤太郎右衛門の墓がありる。徳川二代将軍秀忠が日光社参の際に、

暴風雨の中、太郎右衛門は増水した利根川に飛び込み舟橋を守りました、

この功により貞宗の名刀と軍扇を賜り名字帯刀が許され、名主に任じられた、

とあった。

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少し先で木道標の立つ角を左手へ入ると深廣寺

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境内には高さ3.5mの「南無阿弥陀仏」の名号が刻まれてた、六角名号塔というのが

21基並んでいる。

説明板によると、

 この塔は、当山二代住職単信上人が伊豆大島より大石を船で持ち帰り、

承応三年~明暦二年(1654~1657)の間に千人供養塔を二十基建立、

その後明和三年(1766)に九代住職法信上人が三千人供養塔を一基建立した、

とあった。 

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境内一角には、石仏石塔古墓などが整然と集められ安置されていた。 

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軌道書では 築地塀と家門とだけ記されてるが・・・築地塀は京都などに多い塀だった。

隣には時代を感じる奥行きのある民家もあった。

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PM3:15、今日は先の栗橋駅入り口交差点で足止めとし、左折して栗橋駅へ。

(一説では、ここが宿江戸口ともいわれるそうだ)

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途中に真言宗、福寿院があった。

境内には入らなかったが、街道書では正保4年(1647年)創建で、

本尊は不動明王。墓地前に江戸末期に造立されたという福寿塩地蔵尊が安置され、

イボとり地蔵とも呼ばれる子育て地蔵といい、脇に栗橋七福神・福禄寿があった。

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JR宇都宮線で帰宅。

おや、マンホール蓋デザインに「鯉」が・・

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