利根川を渡り、中田宿へと入ります。
江戸時代までは下総の国(千葉)であったが、明治8年に下総の内の利根川の
北側地域が茨城県に編入されたので、日光街道は茨城県の西のはずれを、掠るように
北進する真直な一本道となっている。
この茨城県の宿場は、中田宿と次の古河宿の2つで、街道は現在県道228号。
中田宿北の入口と推定される利根川堤交差点に火の見櫓が立っていて宿の案内板も
建っていた。
続き、
第8宿 中田宿 江戸より8番目
栗橋宿より18町 約1.6km 江戸より約59.8km 14里34町
本陣1、脇本陣1、旅籠6軒 家数69軒、宿内人口403人
古河資料によると、
「中田宿は、房川の渡しを控え元和10年(1624年)に創設された宿場町で、
栗橋宿とは合宿で、隣の古河宿や杉戸宿への継ぎ立て問屋業務は、半月交代で務めた。
江戸時代の中田宿は利根川に面して、現在は河川敷となってしまっている場所に
あった。再三の移転を経て、現在のような中田町の町並となったのは、
大正時代から昭和時代にかけての利根川の改修工事によってである。
本陣・問屋や旅籠・茶店などの商家が、水辺から北へ、船戸、山の内、仲宿(中町)、上宿(上町)と、途中で西へ曲の手に折れながら現在の堤防下まで、延長530mほど続いて軒を並べていたが、ほとんどは農家との兼業であった」
現在は、移転を繰り返し近年の再構築された街だそうで、往時の面影は全くない。
歩道帯の無い通りを行くと、大きな神社の看板が右手に、
奥に神社がと思ったが、通りの左手に「鶴峰八幡宮」があった。
源頼朝によって、養和元年(1181)、相模国鶴岡八幡宮より分霊を勧請し創建
この時、鶴岡八幡宮の守護神ともされる丸山稲荷も勧請する。
その後、奥州藤原氏討伐の際も頼朝はこちらで戦勝を祈願したとされる。
天福2年(1234)、下総国香取神宮より分霊を勧請し合殿となる
永禄11年(1568)、所領五千石・社地五百石を寄与される
元々は現在の利根川河川敷付近にあった上伊坂村に鎮座して、
江戸初期に日光街道の中田宿が開宿された時、宿場の東にあった古墳上に遷座
境内には「日光街道・旅の神」と「「水神社」「八坂神社」「浅間神社」「道祖神社」「琴平神社」が祀られており、 江戸期には日光街道鎮守ともされた神社でした。
日光街道を歩く旅人は、旅の安全を祈る5柱を祀る末社殿の前で足踏みをして安全を
祈願したとされ、現在も旅の安全や足腰の健康を祈願する方がいる。
昔は武蔵国高柳村(埼玉県栗橋町)にあって、高柳寺といい、弘仁年間(810~823)に弘法大師が創立したと伝えられている
ここは静御前を葬ったという栗橋の「高柳寺(光了寺)」が、利根川改修工事などに
より移転したもので、山門脇には石柱が立っている。
光了寺には、静御前が京都で雨乞いの舞を舞ったときに使用した
舞衣、守本尊、義経から拝領した懐剣、鎧が保管されています静御前が後鳥羽上皇から賜ったという「蛙蜊龍(あまりりゅう)の舞衣」、義経肩身の懐剣・鐙(あぶみ)等が保存されている、という。
(予約をすれば拝観ができる、との記述があった)
境内には芭蕉の句碑が置かれている。
- いかめしき音や霰の檜木笠 -
秋の街道だな~・・・
この付近には日本橋から15遍目、中田の一里塚があったようだが、
示すものは全くなし。
「光了寺」からすぐ先、2分ほどの左手に広い駐車場奥に山門が見える。
本尊が阿弥陀如来という円光寺で、街道書では見事な庭園ありと記されてる。
さらに3分ほど行くと右手には浄土宗本願寺があり、
境内に文化年間(1804~8年)に発掘された板碑がある。
我が家の宗派なのでお参りをする。
さらに3分ほど先の左手に真宗・顕正寺の大きな石柱寺標が立ち、奥に伽藍が見えた。
会津若松公の庇護をうけた、と街道書にある。
時刻も昼を回り、街道から右手に折れて平行して通る国道4号へと出で、
右手に、わが街発祥のうどんチェーン店の店舗があり、ほかに店もないので
昼食へ。
40分ほど足休めもして再び街道の県道228号原中田線へ。
踏切を渡るとほぼ直線の街道が延々と続き、両側に松の木が植えられ、広い道ではあるが街道らしい風情を演出している。
あっ、うどん店があった。
500mほど行くと「中田の松原」と書かれた説明版が立っていた。
日光街道の踏切辺りから原町入り口にかけて古河藩二代藩主永井信濃守が植栽した
松並木があった。
街道は幅5間(9m)と地は広く両側を一段と高くして松が植えられた。
と説明板にあはあった。
「東海道にもこれほどきれいな松並木はない。」と言われたほどであったという。
ご多分に漏れず、戦時中の油採種のため伐採され、植え替えられた松並木ではあるが、
なにか、江戸時代の街道を歩いてる感が湧いてきますね。
付近の地名は茶屋新田で、街道書では右手奥に香取神社があり、付近は「立場茶屋」があった、と記されているが、示すものは無く不確定。(写真左・ここかな?)
200m程先左手に少し入った畑地一角に石仏石塔群が並んでいた。
文政(1800年代)の文字も刻まれていてるが、説明板らしきものなく、
詳細は不明。なぜここに祀られてるの!て話しかけてた。
木に登ったカボチャ
こんもりとした林の中に、断固反対!
ズームで見ると茶園の看板が見えた。周辺は区画整理計画があるのかな。
我が家周りも現在開発調整指定が解除され、大規模再開発事業が始まっている。
まだまだ続くまっすぐな街道。
利根川河川の花火かな?、と、たんたんと石仏石塔群から30分ほど進み
国道354の原交差点を越えると地域は原町へ入り、右手屋根付き小屋下に十九夜塔
があった。
街道書では、原町女人講中31人建立し、台石に「関宿境道」と刻まれ道標を兼ねた、
とあった。
(関宿とは下総の関宿藩ということ?)
(マンホール蓋デザインは、国道354号線の三国橋周辺の川岸で行われる花火大会の
風景のデザインだった)
道路を挟んだ古河第二高等学校の校庭に「原町の一里塚」の西塚が復元されている、
と街道書にある。
江戸・日本橋から十六番目(十六里目)の一里塚だったが、陽が当たり影が出来て
よく判別できない。
ネット越しに覗くと、盛り土の上に塚木の榎が繁り、白い棒杭が立っている様に
見えたた。
高校を過ぎると道には歩道がなくなり、道幅も狭く車の往来もはげしい。
道端を注意しながらキョロキョロ進みます。
街道書では50m程先の民家の門脇に道標があり、「左にっこう 右みちのく」と
刻まれてる、とありカミさんと注意しながら歩いたが、見つけられなかった。
祭禮道は古賀の産土神・雀神社祭禮の際に旅人の迂回路になったのだそうだ。
またここが「原町口木戸跡」と言われ、古河城下の江戸口(南口)で、
土塁が築かれ番所があった、と街道書にある。
街道沿いには小型の常夜灯風道案内が現れてきて、道も少し広くなった。
道の左右に大きな樹が見えてきて、左手は真宗大谷派浄善寺で、本尊は阿弥陀如来。
大木は銀杏の樹だった。
50m程先で、左手からの公方通りと合っした台町三叉路が、古河宿の江戸口。
街道は枡形になるかな右手に折れて古河宿に入って行く。
角口には大きな常夜灯型モニュメントが建っていた。
古河宿 江戸から9番目
中田宿から1里20町 5.6Km、江戸日本橋から16里4町 約65.6km、
江戸時代の全期を通じて、古河藩管理の古河三宿(中田・古河・野木)の一宿。
本陣・脇本陣は各1軒、旅籠が31軒で、宿内の家数は1,105軒、人口は3,865人。
古河城は岩槻城・宇都宮城と並び、将軍の宿城とされており、日光街道における
主要な宿場の一つであった。
左手に稲荷神社があり、参道口には安政2年(1855年)建立の如意輪観音像、
十九夜塔などがある。
隣に長谷観世音寺標が建っている。
古河城の鬼門除けとして明応2年(1493年)、古河公方足利成氏が鎌倉の長谷寺より勧請したもので、累代古河城主が祈願をこめたところとされています。
背丈2メートルあまりの十一面観世音菩薩立像が安置されています。
日本三大長谷のひとつだそうです。
(次回に立ち寄ることとし、足を進めます)
50m程先に古河城御茶屋口門跡の石碑が建っている。
古河城お茶屋口は、古河藩主 土井利勝が三代将軍家光の参詣の際もてなすための
茶屋を置いたことにはじまるといわれています。
将軍の日光参詣の宿泊・休憩は、岩槻・古河・宇都宮の三城を原則としていました。
参勤交代や日光参詣で通行する格式の高い大名もここで迎え、相手も挨拶をしていくきまりでした。
相手がそれ以下の場合は肴町の御馳走番所で挨拶を受けたのです。
御茶屋口門から少し戻った右手奥に鳥居がチラと見えていた、八幡神社に寄る。
初代古河公方足利成氏が鶴岡八幡宮を勧請、寛永19年(1642)に藩主土井利勝が古河城の鬼門よけとしてこの地に移したものという。
時刻はPM2:50 帰宅の最寄駅からのバス時刻を考慮し、
古河宿は次回にゆっくり散策することにして、今日はここで足止め。
小路を北側へ向かえば、古河駅前通りへ出て、帰路へ。
PM6:20帰宅、第七歩の終了。
秋晴れが続きそう・・次回は・・