歩いて再び京の都への前に 日光道中二十一次 街道散歩(第八歩)

東海道五十三次を3年半かけて完歩し、続いての中山道69次は

2019年11月24日 近江の国武佐宿到着にて旅は足止めし、
翌春の京都到着を桜の季節にとして冬ごもり。

そしていよいよ大詰め目前でのコロナ大騒動。

2020年春を迎えましたが、なんと日本中どころか世界中の大騒動に。

春が過ぎまもなく梅雨の季節。

ようやく全国的に鎮静化しつつあるものの、まだまだ完全開放とはなりません。

特に首都圏内はかなり自由になったとはいえ、

まだ全面的とは言えず、他県では「ご来県は遠慮ください」の地方もあり、

自由往来はもうしばらくは控えた方がよさそう。

それなら、中山道を歩き終えたら次は・・と予定していた「日光街道」へ

ひとまず一歩を踏み出すことに。動ける歩けるうちにで、

2016年6月16日、日本橋3度目の日光街道旅立ち。

 

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と旅立ったが、その後は残念ながらコロナは再炎上状態が続き、

マスク無しでは外歩きもままならず、なにせ今年の猛暑がすごくマスク装着の

街道歩きはお手上げで、再び小休止し秋風吹く秋までお預け。

秋風が吹き、コロナも少しは状況もよし、とは言え、まだまだ遠出までは・・

 その後台風や悪天候で、今年の秋は不安定な日々続き。

GOtoも始まり、まちかねた方が多く利用してる様子にわれわれも、

と思ったが、まずは手始めに街道の歩き旅だ。

コロナもまだまだ不安定ではあるが、三密は避けられると、

お天気の様子を伺い、思い切って10月14日、歩き旅の再開へ。

と、てくてく歩いて 2020年11月15日(日)、

利根川を越え常陸の国(茨城県)入りし、江戸より9番目の古河宿で足止め。

冬到来ではあったが、天気予報と睨めっこして好天日を選んで、年内にあと2度は

足を進めるつもりだったが、なんとコロナが再蔓延で厳しい状況。

ついに永~い一休みになってしまった。

 

2021年が明け夏が過ぎ、秋がきてよやくコロナも落ち着きをとり戻しつつあり、

来春に向けて中山道の最後の詰めが可能になりそう。

街道も秋から冬へ向かうが、訛った体ならしで「歩いてみるか日光街道」。

2021年11月8日、1年ぶりの街道旅へ。

朝の冷え込みは厳しくなったが、日中は日差しも強く、快適な歩き日和りになりそう。朝の家事をすませ、初めて自転車で駅へ向かい電車を乗り継いで、

前回足止めの茨城県古河へむかうも、うん??アッ乗換駅を乗り越した!!

なんてドジを踏みながら、ようやく古河駅へ降り立ち、

AM9:30、1年振りに旅の再開。

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駅前で再開ショットを1枚、街道へむかいます。

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途中、左手道へ入り、本町2丁目交差点へ出るところを直進して街道へ出てしまい。

街道へ出てから、高札場跡、本陣跡を探していったり来たり。

う~ん、やっぱり街道旅の感が鈍って来たな・・・

(カミさん、鈍ったんじゃなくて呆け・・それも有り)

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少し江戸方面へ戻った本町2丁目交差点角に、高札場(跡)の案内板、

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向い側へ道を渡って、右手へ行くと

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遺構は何もないが、「古河城下・本陣」跡の石碑が建っていた。

吉沢家が務め建坪が117坪だったという。

周辺が古河宿の中心で、付近に脇本陣問屋場が有ったようだが、

示すものは見当たらなかった。(見落とし?)

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本陣跡を横に見て日光方面に歩き始めると、

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道路より一段高い鞘堂に、文化11年(1814)に建立されたという「金比羅宮」

当時の社殿は焼失したが、幸福神として信仰されたよし。

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すぐ先の本町交差点で、街道は左折してゆくが、交差点北角に祠(常夜燈?)を

乗せた、

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文久元年(1861年)建立の「左 日光街道 →江戸道」と刻まれている、

日光街道古河宿道標」が建っている。

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本町から左折すると角は、大安3年開基の神宮寺。

1455年古河公方の始まりとなった足利成氏とともに鎌倉からこの城に移って来た、

由緒ある寺である。

その後元和6年(1620)にこの地に移されて神宮寺と改号し、元禄4年(1691)に

類焼し再建され、大正7年(1918)に大修理して現在に至っている。

この寺に安置されている室町時代の作である「十一面観世音菩薩」は茨城県

有形文化財に指定されている。

神宮寺駐車場には少し前まで「大田屋旅館」が建っていて、旧脇本陣だったが、

2005年に解体されてしまったという。

(ただし、高札場の説明文中では、二丁目に脇本陣が二軒並んでいたとあるが、

ここを入れると脇本陣は三軒になってしまう。

(また、天保十四年の記録では脇本陣は一軒だけの記録もあるようで、ちょいと不明)

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おっ、TVバラエティーで話題になった「ないものはないの金物屋

「なんでもあります」「無いものは、当然ないですよ」・・どっちにも取れるね。

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次の十字路を右手に行くと「よこまち柳どおり」で、

江戸時代は 「横山町通り」 と呼ばれ、古河宿の北玄関口として旅籠や茶店が並び、

ここには昔遊郭があったといい大変賑わっていたそうです。

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よこまち柳通りを入ってすぐ左手に「古河提灯傘竿もみ祭り発祥の地」の

大きな石標があった。

長い竹竿の先に提灯をつけ、大勢で激しく揉み合いながら提灯の火を消し合うという

奇祭のだそうです。

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向いに創業100年という川魚、鰻料理店、武蔵屋。

明治44年(1911)の創業で、建物は明治中期に建てられたもの。

登録有形文化財に指定されている。

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よまち柳通りには、古い商家が何軒か続き、往時の雰囲気を色濃く残している。

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武蔵屋の先を左手へ入ると、古河藩初代藩主土井利勝が古河城の鬼門除けとした、

真言宗豊山派龍見山舎那院徳星寺がある。

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徳星寺は、源頼政の家臣猪早太の曾孫である徳星丸が願主となって、古河城にある

龍崎に建立された。その後、古河城に移ってきた足利成氏ら歴代古河公方の祈願所と

なり、更に古河城鬼門除けなど、幾多の変遷を経て現在地に移設された。

入口には万治4年(1661)の千手観音堂、本堂前には八角形の大師堂がある。

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街道に戻って50~60m程進んだ左手の路地を入ると、

突当りに曹洞宗の麒翁山長時院正麟寺がある。
古河城主小笠原家により開基され、小笠原秀政が古河城主だった天正18年(1590)から慶長6年(1601)の創建と云われている。

本尊は釈迦如来像で、古河藩家老で、蘭学者でもあった鷹見泉石の墓所がある

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正麟寺の北側の道路を隔ててその先に赤い山門があり、

日蓮宗の長久山妙光院本成寺がある。
本成寺は、正和3年(1314)日印上人が鎌倉に開基したのち、天文年間(1532-55)に

下総国猿島郡伏木村に移転し、さらに慶長7年(1602)、古河城下北端の現在地に

移転したと云われる。

境内には瘡守稲荷神社・鬼子母神堂などがあった。

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街道に戻ると県道261号線に合流する逆Y字路中央に、古河宿と記された

行灯のモニュメントが建っていて、ここが古河宿の北、日光口であった。

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暫く街道を進むと左手に塩滑地蔵菩薩の標柱が建っており、その奥に地蔵堂がある。
この地蔵菩薩は、身体の具合が悪い所に塩を塗ればご利益があるという。

街道書では、かつては、御堂に安置されている地蔵尊に直接塩を塗りつけて

いたため、著しく磨耗して痩せ細っているというが、堂内が暗く良く見えなかった。

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200mほど進んだところに標識の裏側が見え、ひょいと振り返ると、

標識に「古河市」記されていたが、街道書でいう国境のようだ。

先は下総国茨城県)から下野国(栃木県)へと足を進めることになる。

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塩滑地蔵菩薩の先で下野国(栃木県)に入ると、国道4号に合流の野木交差点。

その手前左手に野木神社の社標と一の鳥居が建っている。

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ここから500m程の欅などの大木の参道を進むと、

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野木神社が鎮座している。

野木神社は、仁徳天皇の時代(313-99)の建立で、

社殿の説明板によると、

平安時代征夷大将軍坂上田村麻呂が、延暦21年(802)が参詣し、

蝦夷の反乱の戦勝を祈願、無事平定し、そのお礼に社殿を新築した。

鎌倉時代には、源頼朝社領を寄進しました。

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見事な大木は樹齢650年以上といわれる「大ケヤキ

 

 

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坂上田村麻呂が植えたという境内の大イチョウ(樹齢1,200年)
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この銀杏大木には野生のフクロウが住み着いてるそうで、

毎年5月頃に、子育て中のフクロウの親と雛の姿を観察することが出来るという。

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参道をショートカトして街道(国道4号)へ戻ると、おっ、日本橋から64km!

国道は車の往来が激しいが、歩道帯確保されてるのが有りがたい。

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その先道角の馬頭観音は、昭和6年(1931年)の建立と街道書。

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その向かい角塀に「木戸跡」の標識看板で、

江戸から10番目、野木宿の入り口(江戸口)だった。f:id:hansui:20211110131555j:plain

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民家の塀脇に、日光道中野木宿の解説があった。
野木村の成立は、野木神社の周りに住居したのが始まりで、

文禄年中(1592-95)に街道筋へ出て、馬継が開始され、新野木村が成立した。

天保14年(1843)の宿の規模は、

本陣1軒、脇本陣1軒、問屋場4か所、旅籠25軒、人口527人であった。

と記されている。

この看板の後ろ一帯が、野木宿熊倉本陣跡だった。

問屋を兼ねて熊倉家が務め、建坪は157坪あったという。

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大きな実はカリンのようだが、小枝に突き刺したのかな??

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道を挟んだ向かいに脇本陣があったと街道書にあるが、

どうしても見つけられないままに、足を進ることに。

本陣跡を過ぎると、左手に真言宗豊山派の萬徳山満願寺がある。

江戸時代までは野木神社の別当寺だった。満願寺の創建年代は元和2年(1616)と

云われ、山門脇に元治元年(1864)の十九夜塔がある。

栃木県には、女性の守り神の十九夜塔が多く、街道筋にいくつも

見かける。「十九夜さま」と呼ばれて信仰が厚かったようだ。

境内には御影堂、観音堂も建っていた。

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満願寺の先の信号十字路左角の民家の生垣の前に、
江戸日本橋から数えて17里目の、野木の一里塚跡がある。

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野木一里塚の直ぐ先左手に、浄土宗の清光山浄明寺がある。
浄明寺の創建年代等は不詳であるが、山門前に嘉永5年(1852)の十九夜塔・

宝暦10年(1760)の庚申塔などがあり、境内には江戸後期から明治初期にかけて

活躍した川島弥九朗の句碑がある。

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返り咲きのタカサゴユリ

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八重咲梅か?? 桃か??

落下しなかった実が焦げたような色合いで沢山残ってるし、

この木、この花なんの樹なのか??。

(いまだに不明)

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浄明寺から300m程先の左路地角に、風化の進んだ道標が建っている。
道標には、「是より大平山道」 と刻まれていると街道書にあり、

大平山神社への参詣道を示している。

道標の傍らには 「野木宿道標」と記された解説が建っている。

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道標の先で街道が緩やかに右カーブする左手に観音堂がある。
観音堂の創建年代等は不詳で、堂内内には3基の厨子があった。

境内には、文化12年(1815)の普門品供養塔・宝篋印塔・馬頭観音

嘉永3年(1850)の十九夜塔などの石造物が建っている。

普門品 とは お経のことで、 念仏供養塔。宝篋印塔は、墓塔・供養塔などに使われる

仏塔の一種。

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先左手に猿田彦大明神

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日本橋から国道で66km。1kmごとに建ってるね。

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街道を進むと、左手の売地の看板の建っている空き地に馬頭観音が建っている。

街道書では大正8年(1919)の建立だそうな。

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20分ほど淡々と行くと、左手に立派な長屋門の旧家があった。

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野木の街中を進む右手遠くの山は、平野のまっただ中に浮かぶ筑波山

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長屋門から20分ほど進むと、野木駅入り口交差点。

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時間は午後2時を回ったばかりだが、再開街道旅は此処までとして、野木駅へ。

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野木町の花は「ひまわり」で、木は「槐(えんじゅ)」なんですね。

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古河駅から約6,7km約4時間半。

あちこち寄り道で1年振りの街道歩きだたが、もう少し足腰慣れさせなけらね~

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電車を乗り継ぎ、月と金星の大接近夜空を見上げながらPM5:10帰宅フィナーレ。

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