歩いて再び京の都への前に 日光道中二十一次 街道散歩(第九歩)の1

2021年が明け夏が過ぎ、秋がきてよやくコロナも落ち着きをとり戻しつつあり、

来春に向けて中山道の最後の詰めが可能になりそう。

街道も秋から冬へ向かうが、訛った体ならしで「歩いてみるか日光街道」。

2021年11月8日、1年ぶりの街道旅へは、

野木宿を過ぎて友沼地区に入りJR野木駅にて足止め。

11月18日、日光道中は野木駅から旅の再開。

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駅より1km弱北へ歩き、AM10:30 街道(国道4号)をスタート。

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無風、快晴 東へ10分ほど行くと、道左角に微かに南無妙・・と読める「題目碑」は

慶応2年(1866年)建立と街道書に有った。

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道を隔てた北側には、デジカメ拡大で写してみると「馬頭観音」があた。

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題目碑の脇を入って左手、塚の上に祀られたは、塞ノ神、火防の神の愛宕神社

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東隣の小道を入ると、左手に観音堂境内でお堂が建ち、境内の国道に面したところに

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文政2年(1819年)の爾廿三夜塔、嘉永元年(1848年)の十九夜塔、

友沼村女人三十五人と刻まれた観音塔は女人講が建てたものか。

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街道(国道4号)を50m程、右手に冬桜咲く立派な長屋門を構えた屋敷がある。



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4,5分程先街道に北側角に、デジカメ拡大で確認できた

友沼村の馬持ちが建立したという馬頭観音があった。

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更に300m程先、国道北側にガラス張りの仁王門を構える真言宗法音寺。

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仁王像の彩色は緑色で、境内内側には持国天や廣目天像が祀られている。

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仁王門を入ると山門が有り奥正面に本堂、右手長屋門は庫裏へと続いている。

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山門左手前に、奥の細道松尾芭蕉が間々田に宿泊したという、

安永9年(1780年)建立の、「道ばたのムクゲは馬に喰われけり」の

句碑があった。

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法音寺一帯はかっての法音寺城跡だたとの記述もあった。

法音寺前の交差点、向かい角には友沼八幡神社(正八幡宮)があり、

日光参拝の将軍が古河を出て、最初に休憩する場所で御休所跡と街道書にある。
筑波山が正面に見える景勝地であったという。

本殿横に樹齢550年とい大欅があった。

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の途

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次、こ

f:id:hansui:20211129155815j:plain周辺はかっては筑波山が見える景勝地で、数軒の茶屋があり立場であったというが、

面影は全く見られない国道沿いの住宅地。たったったと街道旅人が追い越していった。

f:id:hansui:20211129160529j:plain東京から68.7k、野木町から小山市間々田乙女地区に入る。

f:id:hansui:20211129160743j:plain乙女地区へ入って5.、6分、大きな榎の根元に鳥居、石灯籠、

祠が祀られたところは、江戸から18番目になる「乙女の一里塚跡。

f:id:hansui:20211129161405j:plain先左手には、若宮八幡宮

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参道を入ると、境内覆屋の中にに銅製の大日如来坐像が鎮座する。

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露座の石仏で「濡れ仏」と呼ばれ親しまれていた。

「覆屋建立記念碑」によると、
「宝永6年(1709年)、江戸湯島の渡邊九兵衛が父母の供養のため鋳造し
その生国に安置したと伝えられている

神社のものでは無く、神社の東側にある満福寺の寺宝」とあったが、

満福寺とは、若宮八幡神社別当寺で廃寺でにでもなってるのかな?

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街道へ戻ってすぐ右手にパスタレストランがあり、早めのランチ

(サラダ、スープ、ドリンクセットで美味しかった、御馳走様)

f:id:hansui:20211129170043j:plain2分程先左手に明治22年建立の如意観音像の十九夜塔

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車往来の激しい国道を行き。東京から70km距離表を過ぎて、しばらく行くと

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右手に門前に新たに建立された様子の仁王像を据えた佛光寺

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境内に文久元年(1861年)の十九夜供養塔、

十一面観音像を安置した観音堂(観音像は厨子の中)がある。

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佛光寺の向かい、国道北側に村社八幡宮の大きな社標と、

1703(元禄16)年に建立された、市内で5番目に古い神明鳥居型式石造鳥居鳥居。

伸びる参道は「乙女八幡宮」参道。

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八幡宮は、創建は鎌倉時代と伝わる神社。

近くを流れる思川は、徳川家康関ケ原の合戦の為船で江戸へ向かったといい。

思川には江戸時代には乙女河岸が設けられ、日光東照宮の資材などが陸揚げされ、

商人たちからの信仰も厚かったという。

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20m程東へ進むと、間々田駅入り口交差点だが、

まだ間々田宿中心部はもう少し先。

時刻はPM1:20,時間は早い。

先へ進み、間々田j宿中心部を抜けて、約7km先の小山宿を目指します。

f:id:hansui:20211129182447j:plain続きます・・


に大境内に大日如来坐像(3枚目写真)がある
戸外に安置されていたため濡れ仏と呼ばれていたが今は屋根が出来ている

宝永6年(1709年)、江戸湯島の渡邊九兵衛が父母の供養のため鋳造し
その生国に安置したと伝えられている

神社のものでは無く、神社の東側にある満福寺の所有となっている日如来坐像(3枚目写真)がある

戸外に安置されていたため濡れ仏と呼ばれていたが今は屋根が出来ている

宝永6年(1709年)、江戸湯島の渡邊九兵衛が父母の供養のため鋳造し
その生国に安置したと伝えられている

神社のものでは無く、神社の東側にある満福寺の所有となっている

東京
こで将軍が休憩したところである

将軍家御休所跡と書かれた説明板があった

古河を出た一行が最初に休憩する場所で
筑波山が正面に見える景勝地であった様