歩いて再び京の都への前に 日光道中二十一次 街道散歩(第九歩)の2

日光道中第九歩、続きを歩きます。

時刻はPM1:20,間々田駅入り口交差点だが、間々田宿中心部はもう少し先。

間々田j宿中心部を抜けて、約7km先の小山宿を目指すことにし足を進めます。

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こんにちは、単独行の旅人がすたすた追い越して行く。

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おつ、黒板塀に見越しの松、門を構えた大きな屋敷があた。

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道路を隔てた東側に大きな蔵を構えた家は、主

屋・米蔵・肥料蔵・土蔵・表門の5棟が、国登録有形文化財に登録されている

小川家住宅。

江戸期は乙女河岸において肥料問屋「車屋」を営んでいたが、明治末期に

日光街道国道4号線)沿いに移転し、大半は当時の建屋だが、

一部は乙女河岸から移築したと考えられ、表門以外は、建築時期や棟梁を確認でき

る貴重な近代和風建築としての価値も高い建物だそうです。

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蔵の屋根瓦、乗せ方が変わってるね、蔵二つの屋根瓦をつないだか?f:id:hansui:20211202065338j:plain

100m程先道の東側に琴平神社

すこし手前に、日光街道中間点にあたる,「逢いの榎」が有ったようだが

見渡せど見つけられないな~・・

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慶安4年(1651年)徳川家光公の亡骸が日光へ向かう折り、

安置所が授けられたという龍昌寺。

江戸時代に住職が、疫病退散と雨ごいを願い、間々田の蛇祭を発案したという

伝承がるという。

(間々田の蛇祭りとは、毎年5月5日に藁で作った長さ20m近くの蛇体を子供たちが 「蛇がまいた(ジャガマイタ)、蛇が巻いた、4月8日の蛇が巻いた」と囃しながら

 練り歩き、 各町内の蛇が間々田八幡宮に集合し、神事や蛇の水のみ行事を行い

 各町内に散会する伝統行事、と間々田案内文にありました)

山門は「赤門」、境内に「寝起不動尊」があるそうですが、立ち寄らずに。

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龍昌寺を過ぎて100m程、ここから電柱が無い、すっきりした街並みになりました。

示すものは何も無かったいが、間々田宿の江戸口だたのか?

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すぐ左手の金網フェンスに囲われた空き地に、間々田宿問屋場の解説板が建っていた。

上原家が務め名主を兼ねていたという。

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解説板による間々田宿案内には、

天保14年(1843年)の「日光道中宿村大概帳」によれば、

間々田宿 江戸から11番目の宿場町 江戸と日光との中間の位置にあり、

家数 175軒 人口 957人 旅籠 50軒 本陣 1 脇本陣 1」とあった。

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問屋場跡の先左手にも解説板が建ち、青木家が務めた間々田宿本陣跡。

建坪は157坪で、明治天皇ご巡幸の折り休息所を務めたそうな。

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本陣跡に付近に脇本陣が有ったようだが、それらしき痕跡、案内板などは

見当たらない。

5分ほど先に間々田八幡宮の社標、

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地元の方が、今紅葉が綺麗だよ、と教えていただき左折。

二基の燈籠、一の鳥居をくぐって間々田八幡宮へ長い参道が伸びて行く。

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ゆるく右手に大きく弧を描いて参道が続き、

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参道を10分ほど行くと木立の森と二の鳥居で境内へ。

鳥居右脇の松は源頼朝が戦勝祈願をして植えた松と伝わる松。

ただし現在は三代目。

自然豊かな境内はに2万坪にも及び、一部が『間々田八幡公園』として

開放されている。

神社紹介文によると

「境内には八幡古墳群とよばれる大小様々な墳丘が点在し、古くからこの地が思川流域に発展した文化圏の一拠点であったことが窺えます」とあった。

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振り返り二の鳥居

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石畳のゆるい下り山道を奥へ進すむと、一旦石段を下って境内へ。

周辺の紅葉が見頃で、美しい。

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石段を下ったところは小川と弁天池とがあるそうだが、何やら工事中で空堀に。

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おっ、最近TVバラエティで放映されてた「無事帰るちゃん」だね。

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空堀になった弁天池側に祀られてるのは、厳島神社の分社。

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ご本殿は石段を登てお参り。

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石段を上がると御神殿。江戸時代に焼失し社殿は1851年に再建されたという。

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すっかり老いてきたかな、愛嬌のある狛犬

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案内の中に、

「5月5日に開催される祭り『間々田のじゃがまいた』(蛇まつり)は、平成31年

 国の重要無形民俗文化財に指定されました。

 15mを越える7匹の蛇が一堂に集う様は圧巻で、新緑香る神社の境内は毎年多くの

 見物客で賑わいます。」とある。

通ってきた龍昌寺の江戸時代に住職が、疫病退散と雨ごいを願い、間々田の蛇祭を

発案したという伝承がるというが、蛇祭は間々田八幡宮の祭りとして

伝わってるということなんでしょうね。

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境内の紅葉を愛でて、参道を戻らず街道へ方向へ向かうと、

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街道へ戻る手前右手に浄光院の案内版が有り、

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奥に鐘楼門の浄光院がある。

本堂は安永4年(1775)に再興されたもので、境内には観音堂や江戸時代の石造仏などがあるというが、立ち寄らずに足を進めます。

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街道へ戻ると道向う右手に行泉寺がり、このあたりが間々田宿日光口だったようだ。

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味気ない長い国道歩きが30分ほど続き、左手に「古墳のまち千駄塚」の看板で、

浅間神社への参道が奥へ続いている。

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参道脇には覆屋内に青面金剛庚申塔天保15年(1844年)建立という

馬頭観音像が祀られていた。

浅間神社は千駄塚古墳(円墳)の上に鎮座しているそうだが、先を急ぎ立ち寄らず。

古墳(円墳)は、県内有数の規模を誇る円墳で、高さは約10m、直径は約70mにもなる

という。

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10分ほど足を進めると立派な長屋門があった。

f:id:hansui:20211202072851j:plain5分程先左手一帯は西堀酒蔵。

「若盛」とか「門外不出」という銘柄を持ち、大正時代の建物が残り、

国の登録有形文化財に指定されている。

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銘酒「門外不出」か試飲ができるそうだが、う~ん、今日は我慢だな・・・

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300m先で国道4号は左手に分かれて、街道は直進で小山市街地へ入ってゆく。

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国道との分岐地点には信号、横断歩道が無いとの情報があり、横断歩道のあるところで

手を挙げて、国道右手へ渡る。

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国道を葉挟んで左手に安房神社の鳥居と参道が伸びていた。

PM3:30、日没までには小山駅へと先を急ぎ、立ち寄らずに行きます。

街道書によると、安房神社は千葉県館山市には安房国一之宮を祀る人々の一部の人々がこの地へと移り住み、神を祭ったのが始まりとも言い伝えられているそうです。

調べた社伝によると、

崇神天皇代の創建であり、仁徳天皇代に再建されたと言われる。

 『延喜式』には「阿房神社」として記されている。

 939年、藤原秀郷平将門討伐に際して戦勝を祈願し、社領を寄進したとも伝え

 られる。中世には粟宮と呼ばれ、小山氏・佐野氏・結城氏・古河公方などの崇敬を

 受けた。」とあった。

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安房神社のすぐ先で国道と分かれ、直進道は県道265線。

おっ、レース鳩の市場があるんだ。

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15分ほど歩むと白壁の之も堂々とした長屋門を構えた屋敷。

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更に15分ほど行き、国道50号と高架で交差し、小山市街地へ。

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市街地へ入り300m程行くと左手に天満宮が祀られてる。

この辺りが小山宿の江戸口(南)で、土塁や矢来柵などがあったそうです。

参道の鳥居は享和3年(1803年)の建立で、境内には嘉永3年(1850年)建立の十九夜塔んどがありと、街道書に有った。

時刻は夕暮れ迫る、午後の4時。

次回の街道旅は小山駅からここまで戻ってのスタートとし、境内にへは寄らずに

足を進めます。

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記念館があるが? 後で調べてみよう。 

隣の看板は「すっぽん、マムシ 蛇しま」??

蛇を扱う専門店のようだが、あの→からは、記念館敷地内にあるのかな?

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小山市内も電柱が無く、すっきりした街並みが続いてる。

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先に天慶3年(940年)京都八坂神社を勧誘したと街道書にある「須賀神社参道口

 

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次回の旅でゆっくり参拝。

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5分ほど先左手に唐破風玄関が見えるところは、街道書では若松脇本陣跡と

なっている。

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次の信号駅前上町交差点は、右折でJR宇都宮線小山駅

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PM4:40夕暮れの小山駅、間々田駅から約13k、今日お旅は足止めに。

次回の旅は、天満宮まえ戻り、小山宿はスタートをすることにし、

天気に恵まれた晩秋の街道旅を足止め。

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電車を乗り継いで帰宅へ。

電車ドアガラス越に富士の山のシルエトがくっきりと見えた。

栃木県からでも富士の山は見えるんですね、!!

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日光道中二十一次、第九回目はフィナーレ。