歩いて再び京の都への前に 日光道中二十一次 (第十歩)

日光街道第九歩は、11月18日、PM4:40夕暮れの小山駅で足止めに。

師走にはいり、世間は気忙しさが増してくる時候が、明日はいい天気になりそう、

て再び日光街道歩きへ。

12月5日(日)前回足止めの栃木県小山市へ早めの電車を乗り継ぎ到着。

AM9:30 小山駅から旅立ち。

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駅前より、小山宿江戸口にあたる駅から南西へ約1,2kmの天満宮へ向かいます。

駅の西すぐ近くにあるのが、鎌倉時代創建という造土宗・常光寺。

1889年(明治22)からの20年間、小山町役場が置かれていたそうな。

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山門を入ると正面に二十三夜堂、本堂はその左手にあった。

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山門を入って右手に、六地蔵

街道書には、

小山市教育委員会指定文化財になっている阿弥陀如来坐像がある」記され、

寺の説明パネルも建てられていたが、有るのはその台座だったらしい石組台のみ。

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常光寺の説明板によると、
(この青銅の阿弥陀如来坐像は、寛延元年(1748)の作であるが、
慶応四年の戊辰戦争小山の戦いで、幕府軍の流弾が台座後部に命中し、
今もその傷跡をとどめている歴史資料で、境内にある。)とある。
修理、もしくはどこかの博物館か美術館に出張されていたか?

(調べてみても不明のまま)

常光寺を後に街道(県道265)を西へ十数分、小公園の一角に

享和3年(1803年)建立という天満宮と掲げた石鳥居が建ち、

天満宮・稲荷神社・雷電神社三社が合祀され天満宮が祀られてます。

門前通り辺りに土塁や矢来柵がり、小山宿の江戸口(南)であったという。

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お堂脇には嘉永3年(1850年)建立の十九夜塔(左)、宝篋印塔(右)がある。

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日光街道小山宿は、元和3年(1617年)以降に宿駅に指定されたと考えられ、
江戸・日本橋から数えて12番目の宿場。

天保14年(1843年)日光道中宿村大概帳によれば、

家数423軒、本陣は1軒、脇本陣は2軒、旅籠が74軒、宿内人数 1392人

小山宿は「五街道追分の地」とも呼ばれ、日光街道日光道中)、壬生通り

結城道、佐野道、栃木道が交差する交通の要所であった。

江戸からの距離、20里2町20間(約79km)、「天下分け目の関ヶ原合戦」の

プロローグとなった地でもある。

天満宮前から改めて、小山宿へと入ります。

おっ、日光は近いね~

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宿内を15分ほど行き、街道書の通り左手に折れると、右手に鐘楼山門の待宝寺。

享保13年(1728年)、八代将軍徳川吉宗が日光社参時に休息所としたという。

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山門に掲げた木札には「弓削道鏡根本開基寺」とある。

道鏡の開基となると、奈良時代の開基の古刹ということだ。

弓削道鏡は、奈良時代の僧で、河内(大阪府)弓削郡(現・八尾市弓削)に生まれ、東大寺写経所の請経使から身を起こし、宮中の看病禅師となり、聖武天皇の娘・孝謙天皇(女帝・後の称徳天皇)の病気を呪法を用いて平癒させた。そのことから天皇の寵愛を受け、太政大臣禅師(人臣としての最高位)に任ぜられ、翌年には法王となり、天皇位をうかがうまでになった。
 しかし、称徳天皇が病死すると皇位を狙う陰謀の罪で下野国薬師寺別当として

流され、そこで没したとされる。龍興寺(下野市)境内に道鏡の墓と伝えられる塚がある

という。

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梵鐘は、寛政4年(1792)に鋳造された、と街道書にあり、鐘楼門の鐘と思ったら、

境内の祠に安置されていた。

銘文に天皇の名有ったため、第2次世界大戦中の供出を逃れ、戦前に作成された

梵鐘としては、市内で唯一の鐘。

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街道へ戻りすぐ先、道を挟んで右手に??マークだった記念館。

調べてみると、「2003年に亡くなった小野塚イツ子さんは、江戸から続く商家で

醤油を造っていた老舗の当主で、所有していた土地・建物・預貯金・有価証券な

どの5億円相当を遺言で小山市に寄贈され、その一部を歴史遺産として保存をして

いる」との資料があった。紛らわしい「蛇」は関係ないそうな。

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50m程先に赤い燈籠の並ぶ須賀神社参道と案内板が建ち、

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欅や銀杏並木、百基の朱塗り灯籠が並んでいる須賀神社への長い参道が続いてます。

一の鳥居。二の鳥居

 

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参道をたどると、国道4号を越えた北側に須賀神社が鎮座しています。

社伝によれば「平将門の乱」を平定した小山氏の祖、藤原秀郷が天慶三年(940)に

京都・八坂神社を勧請し、小山城の鎮守とした。

元は小山城内にあったとされ、江戸時代の初期に小山藩主・本田正純によりこの地に

移された。

三の鳥居。

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かっては牛頭天王あるいは祇園社と呼ばれた神社で、なかなかの大社である。
 神社の由緒によれば、上野国の横領使・藤原秀郷天慶の乱に際し、

日夜素戔鳴尊(すさのおのみこと)に戦勝を祈願し、これが成就したことにより、

天慶3年(940)4月、素戔鳴尊を祭神とする京都の八坂神社(祇園社)から分霊を

勧請し、北山の地(現小山市中久喜)に祀ったのが始まりとされる。

神門手前右手の藤原秀郷公碑

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平治年間(1159-60年)に小山城を築いた小山政光は、城の鎮守とし、以後小山氏累代の崇敬社となり、小山66郷の総社として厚く信仰された。

神門、奥正面に拝殿、本殿。

神門には平成26年 奉斉の神像が祀られている。

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徳川家康は、慶長5年(1600)7月24日、上杉征伐のため会津に向かう途上、下野国小山に着陣した。その時、石田三成挙兵の報が入り、翌25日、急遽家康は本陣に諸将を招集して軍議を開き、三成打倒で評議は一決し、大返しとなった。これが世に言う「小山評定」である。

市観光パンフによれば、

軍議は、豊臣秀吉子飼いの福島正則の「内府殿にお見方致す。」の一声で決まった。

会議は、常に声の大きなものに支配される。福島正則の一声で三成打倒の評議が一決したのである。また、堀尾忠氏のアイデアを盗んで自身の居城である遠江掛川城を家康に差し出すと言明した山内一豊がその後出世の一途を辿ることになる。

小山評定は小山城内の須賀神社の境内で行われ、現在の須賀神社の境内には「徳川家康公・小山評定之碑」が置かれている。

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須賀神社の東には天台宗妙建寺。

本堂は享保年代再建だそうだが、補修工事中の様子。

格天井には百人一首が描かれてるという。

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この先国道沿いに、北へ200m程行くと小山市役所があり、

慶長5年(1600)会津上杉氏攻撃のため小山に滞在していた徳川家康が、

伏見城鳥居元忠からの知らせで石田三成挙兵の報に接し、

大返しを行った小山評定場所は、現小山市役所の場と言われ、

その跡を示す標柱が市役所前の植え込みの中に立てられている.

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先ほどの須賀神社に大返しを行った際には、必勝を祈願して西に向かった、

の碑が須賀神社に有りました。

更にその先に小山城跡の一部をしめる城山公園があるそうですが、

街道へ戻ります。

 

街道に戻り、この先は駅前交差点前までが小山宿の中心であったようで、

本陣や問屋などがあったとされるが、現在は商店やマンションなどの

ビルが林立し、当時の面影などほどんととどめてはいない。

街道へ戻ってすぐ左手に「明治天皇行在所」の碑、その奥に唐破風の玄関を残している家があるが、ここが若松脇本陣跡であった。

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奥の塀前に石碑らしきものが三個あり、何やら文字らしきもの見えるが、

すっかり風化し判読はできなかった。

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道路を挟んだ向かい側の「きもの・あまのや」辺りが控え本陣(本陣、脇本陣の控え)跡である。

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すぐ先の「常陽銀行」辺りが問屋場跡であったという。

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駅前上町交差点を過ぎて、右手奥の寺院らしき屋根が見え、向かうと

永仁5年(1297)創建と伝わる時宗の寺光照寺

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光照寺」の墓所には新政府軍が小山宿で戦った戊辰戦争で戦死した、

新政府軍笠間藩士の墓があった。

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小山での3度に渡る幕府軍と新政府軍の戦いは幕府軍優位のうちに終わり、
次の戦いを宇都宮へと移すことになる。

街道へ戻った付近に先ほどの須賀神社が鎮座していたとい元須賀神社が、

街道書にあるが、見当たらない。 過ぎてしまったかな?

須賀神社付近が日光街道の小山日光口(北口)で有ったようで、

小山宿を後にしたことになる。

100m程先右手に、嘉祥2年(894年)に建立という天台宗興法寺。

小山氏代々の祈願所として城内に置かれたが、江戸時代に移転したという。 f:id:hansui:20211207071444j:plain

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 境内に建つ十三層塔は、かつて数百年間、浅草の浅草寺山内に安置されていたが、

古河市須藤家の大庭園に移されえいたのを寄進され、境内に安置されましたという。

なぜ須藤家に移されたのか???不明。

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境内にある地蔵尊には戊辰戦争「小山の戦い」の被弾跡があるそうでしたが。

写し忘れてしまった。

興法寺の先、すぐ右手が貞応2年(1223年)、小山城主の小山朝政が

鬼門守護のため京都の愛宕神社より勧請して創建されたという愛宕神社

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風化が進み丸みを持った狛犬天明5年(1785年)に奉納されたという。

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神社のすぐ先にイタリアンレストランがり、時刻もまもなく正午で早めの立寄り。

ランチセットで1時間ほど足休めもかねて過ごし再び街道へ。

20分ほど足を進め「第一奥州街道踏切」と銘打った両毛線踏切を渡り、

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踏切を渡ると旧喜沢村地域に入り、1kほど歩くと街道書に、道を挟んだ右手

に薬師堂と記されたお堂があり、境内に道標を兼ねた念仏供養地蔵尊があると

記されてるが、参道が見つけられず通り過ぎてしまったようだ。

さらに100m程先左手に日枝神社の社標があり、車の行き来を見計らい、

それっと国道を渡って参道へ。

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参道には欅の大木が何本かあり、樹齢400年以上という。

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参道を7,8分行くと参道は国道4号で分断され、神社境内は国道の先あった。

国道4号は旧奥州街道であった、との説があります。

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日枝神社は旧喜沢村の鎮守で、創建年代は不詳という。

この社殿のある場所は、小山城の出城の喜沢砦で小山城廃城後の砦の跡地に、

社殿が建てられたそうで、社殿の背後の鬱蒼とした森には土塁が残っているという。

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神社を後にし街道へもどり200mほど行くとを二股の「喜沢の追分」に着く。

喜沢追分の分岐点には、男體山と大きく刻まれた道標や、明治建立の馬頭観世音、

日清日露日支出征馬碑などがある。

この道標は、一時期日枝神社に移設されていたが、平成31年に百数年ぶりに

元の位置に復元されたといい、「右奥州」「左日光」と表示されている。

街道書には日枝神社にあることになっていたが、神社では見つけられなかったわけだ。

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街道書を見ると、左日光とは、北西に斜めに進む壬生道(県道18号線)で、

先で日光例弊使道に合流し、今市を経て日光に至るという。

奥の細道松尾芭蕉は左手壬生道へ入っていったそうです。

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分岐右の道はすぐ先で国道4号に合流し、街道は20m程先でさらに右手へ分岐する

細い道に入ってゆきます。

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いかにも街道らしい、一車線くらいの細い道。

街道は次第に東北線東北新幹線の高架に沿って進むようになってゆく。

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細い街道に入り12,3分行くと、左手雑木林の中に塚のようなものがあり、

街道書では「喜沢の一里塚の西塚」とあったが、説明、案内板など何も無し。

江戸から21番目の一里塚で、塚の木は榎だったそうです。

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右手の空き地にも盛り土があったが、東塚の名残かもしれません。

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小山喜沢から小山羽川地域に入り、しばらく先で右手を見ると、お城造りの家?

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追分から鉄道沿いを30分ほど、新幹線通過の轟音を聞きながら足を進めると、

街道は小さい公園の少し先の二股を、左の細い道に入り国道4号に合流して、

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合流より先が江戸から13番目の新田宿(しんでんじゅく)江戸口(南口)の様で、

新田と書かれた行灯型標識があり、電柱の無いすっきりした国道が続いていた。

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新田宿は、江戸・日本橋から数えて13番目の宿場。

宿駅の管理は、当初は小山藩、元和5年(1619)以降は宇都宮藩、

元和8年(1622)以降は古河藩、貞享2年(1685)以降は幕府が担った。
 天保14年(1843)の『日光道中宿村大概帳』によれば、本陣 1軒、脇本陣 1軒

 旅籠 11軒で、宿内の家数は59軒、人口は244人であった。

10分ほど行くと左手に四脚門を構えた屋敷は、青木本陣跡で、

現在も青木家の方がお住まいの様子。

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本陣と書かれた木札が掛っていた。

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街道沿いの家には往時の屋号を掲げる家々があり、広い敷地を構えている。

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この先で幕府代官屋敷跡の表示板が建っていて、左手に入ると

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左手奥には、安政4年(1857)建立の羽川薬師如来堂があり、

南側にこの地域の天領を支配した幕府代官陣屋があったそうな。

薬師如来様は、厨子に祀られ春秋の彼岸の中日に拝顔できる、と説明板にあった。

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堂前に十九夜塔、雨引観音塔はともに女性の守り神と仏。

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墓地の一角に大きな墓苑は本陣家一族かな?

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街道に戻り100m程先の国道右手に、鳥居と赤い燈籠も立ち並ぶ

橿原(かしはら)神社参道が奥へ伸びている。

国道は車往来が激しく、信号や横断歩道帯もないため見送ったが、

江戸時代までの新田宿の氏神は星宮神社であり、明治5年、九州の宮崎神宮より

勧請して橿原神社となった、と街道書にはあった。

火災により焼失、社殿は大正3年に再建されたとのこと。

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5分程先銅市金属工業の角を左折して、すぐ右の細い道が旧街道だそうで、

この辺が新田宿の日光口(北口)で、旧日光道中の羽川石仏群がある

寛政12年(1800年)の道標を兼ねた馬頭観世音には「左おざく道」
宝暦2年(1752年)の供養塔には「左おざく・こくふんじ」と刻まれている
おざくは現在の鹿沼市石裂(おざく)のこと、と街道書にあった。

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 暫く一車線ぎりぎりの細い道を行くと県営羽川住宅にあたり,旧街道は消滅で

右折して再び国道4号へ。

100m程先で再び左折すると旧街道となるようだが、

街道書を見ると、しばらくは単純な歩きの道のようなので、時刻も夕暮れ4時少し前。

国道をこのまま進み、

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小山市と分かれて、日光道中の14番目の宿場・小金井宿のある下野市へ入り、

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 600mほ進んで駅入り口で右折し、今日の街道歩き旅は小金井駅でフィナーレへ。

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電車を乗り継ぎ、とっぷり日の暮れたPM6:30帰宅。