歩いて再び京の都へ 旧中山道69次夫婦歩き旅  第38回 1日目・前編 武佐宿を後に

2年間の中断で旅を続けることが危ぶまれた街道旅。

コロナ騒動も少し鎮静化したかと見て、よし、旅へ出よう。

バタバタと鉄道切符、宿の予約などを済ませたが、関西はちょいよ天気が怪しい。

それでも5日後、4月5日には、よし行こうの旅立ち。

そんな老々夫婦の歩き記録の綴りです。

 

*ひょいと歩き出した東海道五十三次
途中で、断念かの肝臓癌をなんとか乗り越えて、3年がかりで京の三条大橋へ到着。

歩き旅の楽しさを知ったカミさんの「次の旅はいつ?」に誘発され、

その秋9月には日本橋を旅立った中山道でしたが、またまた腹部大動脈瘤

心臓動脈硬化、そしておまけに腹部ヘルニア。
挫折しそうになりながらもカミさんの支えもあって、なんとか乗り越え
旅を続けてきた。そんな、じじばば道中ブログです*

(2016年9月17日 日本橋旅立ち)

てくてく足を進めて37回目、年号も令和と変わた
2019年11月には、江戸から66番目、123里25町(485.7km)、
近江の国・武佐 宿に到着足止め。
京の都へ、残すは11里半・47.1km、2回の旅。

近江国武佐宿、足止め)

傘寿を迎える2020年春の都到着を予定し、年を越したが、

思いがけないコロナ大騒動は、日がたつとともに大火になり、鎮静化、再び炎上の

繰り返し。
3回のワクチンも済ませ、ようやく落ち着きをとりもどしたこの春、

まだまだ予断は許されぬ中にも思い切って旅へ!(一大決心で)

2022年(令和4年)4月5日、一番バスにて駅へ向かい、電車、地下鉄と乗り継い東京駅へ。

新幹線は米原停車のAM7:33発、ひかり。

快晴の車窓からの見送りは富士の山。

神奈川・国府津付近

静岡/富士吉田付近

浜名湖

出迎えてくれた伊吹山

米原で乗換へ近江八幡駅へ。

手荷物をロッカーに預け、近江鉄道で一駅の武佐駅へ降り立ったのは、

午前11時でした。

今回の私たちの中山道の歩き旅は、近江の国中山道起点、東海道との合流地点で、

江戸より68番、草津宿東口到着を持って、中山道旅の締めとします。
本来なれば、東海道中山道をたどり、69番、大津宿を経て京の都三条大橋

達するのが正式な中山道完歩となるが、草津京都三条大橋間は東海道五十三次

歩き済みなので、敢えて中山道起点草津宿到着を持って、中山道の旅を締め括りとし、

京の三条大橋では、歩いたつもりの「大〆セレモニー」とします。

武佐宿から草津宿までは守山宿を挟んで約5里・21km強。

足腰に不安はあるが、カミさんが笑う「ペンギン歩き」よぼよぼ歩きでも、

一歩一歩足を運べば前へ進み、旅は出来る。

2022年(令和4年)4月5日 AM11:15

武佐駅前で旅立ちショット、第37回目の始まりです。

近江鉄道武佐駅前は街道の桝形、で少し先で左折して踏切を渡り旧西宿村へ

入って行きます。

快晴にめぐまれ、今はまさに春の街道歩き。

150mほど右手に寛弘8年(1011)創建の「若宮神社」がありました。

深い社叢に囲まれた「本殿」は一間社流造り、

御伽草子(おとぎぞうし)』の一寸法師などの『小さ子(ちいさご)』のルーツとされている小さな神様「少彦名命スクナビコナ)」を祭神としている珍しい神社です。

隣の「いばECO広場」の看板が建っているところは「伊庭貞剛翁邸宅跡」で、 
伊庭家は近江守護佐々木源氏の流れを汲む名家で、明治元年(1868)22歳で上京、

京都御所警備・大坂上等裁判所判事を経て同12年住友家に入社し、

後年は住友家総理事に就任したという。

約170m進むと、右側に火防の愛宕信仰になっている鎮火霊璽が祭られていました。

「鎮火霊璽」と彫られた石に、お札を張るところでしょうか、フタがあって、

しめ縄で護られている。

鎮火霊璽から約170m歩くと街道は右カーブし、西宿町交差点で国道8号に合流し、左折して歩道帯の無い国道をしばし進みます。

歩道のない国道を約700m歩くと六枚橋交差点があり、ここで国道と別れて左折し

て行くのが何故か勘違いをし国道を直進。

地域町名は昔、千人の僧で悪疫退散の祈祷をここなったことから千憎供町。

約400m歩くと湖東地方を流れ琵琶湖に注ぐ白鳥川に架かる千憎供橋を渡り

馬淵町(旧馬淵村)へ入ります。

橋を渡ると左側に妙感寺道標、側面には、「具足山妙感寺 従是七丁」とあって、

今、渡った道を直進すると、日蓮宗の古寺・妙感寺に至る。

数十m先に近江守護職佐々木氏頼の子、満高が子宝に恵まれづず、

この観音も毎夜一心に祈願したところ世継ぎが授かったといわれる、

高野世継観音道標が建っていました。

世継観音とは、東近江市永源寺高野町の紅葉でも知られた永源寺のことでした。

千憎供橋から約400m、Y字路分岐の馬渕町交差点があり、右の細い方か中山道

右手に立派な鳥居の神社の八 幡社が有ります。

参道口には往時高札場があり、鳥居左に「馬淵村高札場跡碑」があります。

社伝によると、奥州に出陣する源義家応神天皇の霊を勧請し武運長久を祈願したのが始まりとされる。

「本殿」は元亀2年(1571)焼失、文禄5年(1596)再建され、

檜皮葺の屋根三間社流造・一間向拝・建物は総丹塗で桃山時代を代表する華麗な

造りで、国 指定重要文化財になっている。

街道は旅をしてるな~の趣のある街並みをしばらく進むと、

右側に茅葺き屋根「奥野家」が建っていて、屋根にある白い置物は大きな貝殻が二個、なんの貝でしょう。???

以前、アワビの貝殻を乗せた茅葺屋根を目にしたことが有り、カラス対策という説と、貝は海のものから、防火の呪(まじない)と言うのを聞いたことが有った。

カラス対策には数が少ないので、火の守りかもしれませんね。

真向かいの家と家の間に地蔵堂が祀られていて、脇には道祖神地蔵尊も。

地蔵堂を過ぎて馬淵集落を抜けると一面の水田地帯。

東横関町交差点を渡り進むと横関集落が近づいてきます。

この辺り右手に江戸より125遍目の東横関一里塚が有ったそうですが、

今は消滅してるようです。

「東横関」集落に入ります。

往時、旧東横関村は立場で日野川(横関川)の渡しを控え賑わいました。

室町時代にはこの辺りに関所があり地名の由来になっている。

集落をしばらく進むと川の土手に突き当たり、街道は消滅しています。

日野川(「横関川」とも呼ばれていた)の右岸の土手上で、日野川渡し跡があり、

広重の「木曽街道六十九次」の武佐宿はこの舟渡を描いたといわれます。

日野川(旧横関川)は近江、伊勢の国境に連なる鈴鹿山系の綿向山に源を発し、

琵琶湖に注いています。

往時はここから渡しで対岸に渡ったといわれます、現在は450mほど土手を歩いて

上流の国道8号の「横関橋」まで行くが、工事個所が有り迂回して土手下道を歩き

横関橋へでました。

橋を渡ると蒲生郡竜王町

車両進入禁止になっている日野川左岸の土手を下流へ歩いて行くと土手脇に

小さな案内板があり「横関川渡し跡」とあり、渡しの川岸付近まで微かな踏み跡が

みられた。

文化3年(1806)「中山道分間延絵図」では「平城渡シ場、小水之節ハ舟ニ艘ツナギ合セ舟橋トナシ往来ヲ通ス」から、平常は舟渡り、水量が減ると川に杭を打ち止めた

二艘舟の舟の上に板を渡した舟橋を渡っていました。
ここには明治8年(1875)橋が架けられ、同19年(1886)無賃通行になり、

同26年には再架橋されていた。しかし道は中山道から国道8号となり、新道として

上流に昭和12年(1937)横関橋が架橋、渡し場に架けられた旧橋は2年後に

撤去されてたという。

橋を渡ると、蒲生郡竜王町旧西横関村で、右奥に西横関村の鎮守「若宮神社」が

あります。
創立年代は不詳ですが、履中天皇の御代との伝えから約1500年前と推測されて

いるそうです。

西横関村を行くと小さな川が有り、橋の右斜めに地蔵が並んで祀られていました。

西横関交差点で国道8号と合流、鏡に入ります。

横断した向い左角に「是よりいせみち」「ミなくち道」と刻まれた道標が建っていた。国道477号を南下すると水口・伊勢に通じる水口道になるそうです。

中山道は国道を西進して進むと、国道8号からいったん離れ左へ中山道は入り、

わずか400m間ほどだが,間の宿だった「鏡の宿」の集落の旧道に入ります。

「鏡」鎌倉時代の宿駅で,旧義経街道といわれた「東山道」(とうさんどう)

八十六の駅(うまや)のひとつ「鏡の宿」に位置し、古来より,京都を出立して

最初の宿でもあり、多くの旅人たちの休、泊の宿場でありました、と街道書にある。

江戸期は中山道制定によって「武佐」と「守山」の宿駅が置かれて宿場から

外されてしまったが,武佐宿と守山宿間がが約16kmと長かったため,

規模の大きな「立場」、「間の宿」として賑わい,特別に「鏡宿」と呼ばれることも

あったと云う。
又、武佐宿・守山宿・石部宿(東海道)の助郷としての役目もあったと街道書に

記されていた。
右側に「旅籠京屋跡」、すぐ先の石仏石塔群があり双体道祖神も見え、花が手向け

られ大事にされているようだ。

約50m歩くと鏡口交差点で国道8号に合流し、右側に愛宕山常夜燈が建って

いました。

交差点を渡って国道沿いに進むと右側に、旅籠・吉田屋跡があり、

70m歩くと、右側に旅籠・枡屋跡、さらに進むと、延宝3年(1675年)再建された

天台宗真盛派真照寺がある。

右側に中央にお札の貼られた愛宕大神石碑も建ってます。

愛宕大神から約20m歩くと、左側の空き地に、明治期に開校された徳化学校跡の標識が建っていました。
明治8年(1875)大願寺徳化学校が開かれ、鏡村・横関村の子供達が教育を受けられるようになり、同11年(1878)鏡神社東に校舎が完成し移転したと記されている。

東山道であり、かつ中山道だった街道は,国道8号線へと変貌してしまい、町並みに

往時の面影は残っていなく、緩い上りこう配の国道両側には看板だけの旧跡が続く。

道路際の広場奥に建てられていたのは「源義経宿泊の館跡碑」。

鞍馬で一途に平家滅亡を誓い剣術に励んでいた牛若(義経)は、承安4年(1174)

兄頼朝を尋ねる為、金売り商人吉次に頼み込み奥州の藤原秀衡の元に下向。
その夜のうちに鏡宿に入り、時の長者で駅長うまやのおさとも呼ばれる「沢弥傳」の

屋敷「白木屋」で投宿。
間もなく鞍馬から追って来た平家の侍達が、稚児姿の牛若を探していると聞き、

急ぎ髪を切り源氏の象徴である左折れ烏帽子を作り、ここで元服し源九郎義経

名乗ったという。
元服の際使用した盥(たらい)は、鏡神社宮司林氏が保管されていると街道書にある。

進行左側には、ブロック塀際に白井弥惣兵衛脇本陣跡があり、跡地に標板が建っていたようだが、写真は写してなかった。
隣は「元祖 林惣右衛門則之也」の添え書きのある江戸時代の「本陣跡」と

明治の「駐在所跡」の案内板が並び、その先には旅籠加賀屋跡が並ぶ。
林惣右衛門則之は、源義家の弟・新羅三郎義光の 末裔とされる。
駐在所は、明治14年に個人宅に設置されたものが、明治18年に当地に新築されたとのこと。

鏡は間の宿だったが、本陣・脇本陣も置かれ、特に紀州候(紀伊徳川家)の定宿であり皇族・将軍家名代・お茶壺道中等が宿泊、皇女和宮も本陣で休息されている。
右側に鏡神社の参道口があり、石段を登ったところに、左下の写真の

源義経 烏帽子掛け の松」という元服した源義経が烏帽子を掛けた松の幹がある。
明治6年(1873)の台風で折損したとされ、幹上2.7mを残し仮屋根をして保存されています。

さらに坂を上ると、左奥に室町時代に建立された鏡神社がありま

鏡神社参道口から約110m歩くと、左側に道の駅・竜王かがみの里があり、

ようやく昼食にありつけました。

ご多分にもれず中山道街道筋には。適当な食事所はほとんど見当たりません。

良く利用するコンビニのイートインもコロナで閉鎖中。

なんとかなるだろう、ちょいと通用しませんね。

私たちは、そなえて健康補助食品やチョコレート類を持参して、

歩きながら小腹を満たしてます。 

一日目の旅は後半へ。