歩いて再び京の都へ 中山道69次 夫婦歩き旅 第38回 1日目 後編

1日目後半へ入ります。

道の駅・竜王かがみの里で遅い昼食をとり、ゆっくりと足休めし時刻も午後3時。

道の駅近くには鉄道駅は無いが、宿の有る近江八幡へのバス便があるので、

足止めにするか進むかの迷い何処。

武佐宿からまだわずか6.4kしか歩いてないし、日も長くなったしあと3時間は

歩けるし、脚もまだOKてことで、6km先の鉄道駅の有る野州まで

進むことにする。

道の駅を出て右手、すぐの道向こう側に「源義経元服の池」鏡池があり石碑が

置かれている。

東下りの途中、当鏡の宿にて元服加冠の儀を行う。その時使いし水の池なり」

と街道書に記されてる。

平家の追手が稚児姿の牛若丸を探していると聞いて、元服を決意し、

池の石清水を使い、前髪を落とし己の姿を池の水に映したという。

由来、池は鏡池と呼ばれるようになった、と街道書に有った。

 裏山の湧き水がしみ出して出来た池で、水道が普及するまでは地元の飲料水として

使用されたという。

街道を行く旅人も喉を潤したそうな。

すぐ先の旅籠桃花屋跡を過ぎて先で

旧道は国道から左手へ入り、道端には道祖神がおかれ、左手奥には明治天皇休息の碑、そし愛宕大神が祀られていた。

旧道はすぐに国道8号に合流するが、右手の山並み山頂は重機が入り山肌が

露出してるのは砕石場なのかな?

その先に「平宗盛胴塚」と書かれた案内板が立っている。

草深い細道を入っていくと平宗盛卿終焉の地と彫られた碑と石仏が二体置かれている。

側に立つ解説板には、

≪平家終焉の地≫

「平家が滅亡した地は壇ノ浦ではなくここ野洲市である」と記され、

 平家最後の総大将平宗盛源義経に追われ、1185年3月壇ノ浦合戦で破れ、

平家一門はことごとく入水戦死した。

捕らえられた宗盛父子は源義経に連れられ鎌倉近くまでくだったが追いかえされ、

再び京都に向う途中、ここ篠原の地で義経は都に首を持ち帰るため、

平家最後の総大将宗盛とその子清宗を斬った。首級は京に送られ、

父子の胴は一つの穴に埋められ、宗盛親子の胴塚が建てられた」の趣旨が記されてた。

その横に「蛙不鳴池(かわずなかずいけ)及び首洗い池」の説明版があった。

「またあまりにも哀れで蛙が鳴かなくなったことから「蛙不鳴池」とも呼ばれている。」

とある。

先ほどは義経元服の池、そして11年後の義経の宿敵・平家の総大将平宗盛の生涯を

終えた池。 同じ池ながら明暗を分ける栄華盛衰・・・・・

地域はすでに野州へ入っていたようで、案内板などには野州市名になっていた。

平宗盛胴塚」を後に桜咲く国道の左手を進み、光善寺川を渡ります。

渡った地域は野州市大篠原地区。

国道の右手土手下に江戸から126里目の「成橋の一里塚」標識があると

記されてるが、右手には歩道帯が無く、交通量も多いため危なすぎるし・・でパス。

左手に「←500m、国宝大笹原神社」と彫られた大きな社標が建ている。

街道書では2,30分ほど入ると大笹原神社で、本殿は室町時代に建築され国宝です。この地域は、良質のもち米が穫れることから、鏡餅の元祖をまつった「餅の宮」が

境内に建てられています、とあったが、往復小一時間、残念ながらこれもパスで足を

進めます。

右手国道越に見えた祠は村境の寒神だそうだが、何村との境なのか??

その先左手に長い堤防が見えてくるのは、街道書によれば、「源平盛衰記」に記された「西池」の篠原堤と呼ばれる堤。(逆光なので堤フォトが振り返り)

西池は「大篠原最大の用水池で、雄略天皇の頃(413年~)近江国に造られた

四十八個の池の一つと言われている。

堤下を歩き10分ほど行くと野州市小堤集落。

先の小堤の信号で国道を右手に渡り、すぐ先で右手の旧道に入り、騒音の国道に

ようやく解放された街道となりました。

旧道へ入って20分ほどいくと右手に寛政6年(1794年)建立の金毘羅大権現常夜燈、山灯篭と愛宕山大神が祀られ、その先で家棟川を渡ります。

家棟川(やのむねがわ)は、平成19年度の河川切下げ工事竣工までは天井川

「家棟隧道」で川の下を潜っていたという。

橋を渡ってすぐ右手に篠原神社の参道が続き、街道書には

社伝によると創建は村上天皇の御代、平将門平定の軍功によって、藤原秀郷の次男、

田原次郎千時が、栗太、野洲二郡の地を賜り、社殿を建立した、とある。 

ご本殿前まで進んでお参りが出来、何故かカミさんが何かを祈っていた。

篠原神社を後にし旧辻村を歩んでゆきます。

辻村はこの地が野州群から甲賀郡へ出る辻で有ったことに由来してるそうです。

いい雰囲気の旧辻村を行くと左手に愛宕大神が祀られ、

右手には、平安末期(12世紀)造立の「子安地蔵堂」がある。

街道書では、お堂には極彩色等身大の地蔵菩薩像が祀られ、安産祈願の子安地蔵として、近隣の信仰が篤いとあった。

(お堂内を拝見したが薄暗く、残念ながら地蔵尊は拝めなかった)

地蔵堂から5分ほど行った左手には「丸山・甲山古墳群」があり

「桜生(さくらばさま)史跡公園」になっている。

用水路の桜並木を愛でながら5分ほど進み、左側の「桜生公民館」屋根に銅鐸モニュメントが置かれてる街道書に有ったが、見つけられなかった。

先で川岸にさくら並木の小さな中の池川を渡ると、左手から国道から分岐した

市道が合わさり、

5分ほど行くと右手お屋敷は、先代は人間国宝藍染の殿っと卯技法を今に伝える、 

 「本藍染紺九」だった。

2,3分先左手に立派な鳥居が建ち、参道を入ると国道8号に面して、

稲荷神社が祀られている。

創建は不詳で、街道書によれば壬申の乱野州河原での戦死者を供養する

福林寺(廃寺)の守護神として948年(天暦二年)、伏見稲荷大明神を勧請した、

記されてる。福林寺は廃寺になったそうだが、稲荷神社は当地の氏神として存続して

いるという。

(境内に国重文の境内社の古宮神社本殿があったが、何故か写し忘れた様です)

稲荷神社鳥居から更に5分程歩くと小篠原公民館前に小篠原村庄屋苗村邸跡の

石碑が置かれていた。

更に5分ほど行くと右手に茅葺屋根の民家が見えてくる。

茅葺屋根の家は慶長元年(1596年)創業という、銘酒{暁}蔵元の「曙酒造」で

した。

曙酒造の先で新幹線のガードをくぐりると街道は左手へと続くが、

時刻もPM5:30過ぎ。

中山道、一日目の旅は此処までとしとし、そのまま直進して10分ほど先の

野州駅へ向かい旅の足止め。

近江武佐京口から約4里12km、7時間。寄り道小径は有ったとはいえ

なんとも超牛歩の旅人二人。無地に電車に乗れる駅へ到着です。

PM6:00、電車に乗り近江八幡の宿(ホテル)へ戻り、

汗ばむくらいの春の街道歩き一日目を終えました。  

2日目へ続きます。