歩いて再び京の都へ 中山道69次、夫婦歩き旅 第38回 2日目 前編

4月5日に再開した、中山道一日目の旅は近江武佐宿・京口から約4里12km、

なんとも超牛歩の旅人二人で野州須駅へ到着し足止め。

 

明けて6日は近江八幡から電車で野州駅へ。

令和4年4月6日

AM9:30 今日も快晴の春日和、広がる青空の下に二日目の旅を始めました。

駅前より東へ10分ほど道をたどり、昨日の新幹線のガードをくぐり街道は左手へ

出て、AM9:40,中山道へ復帰し、約4km強先の守山宿を目指します。

さらに約6k先、今回の街道旅の目的地・草津宿は、東海道から分岐する中山道

起着地で、私たちの中山道歩き旅の終着宿へ。

10分ほど行くと五差路へ出、横断歩道を渡ると野州小学校。

桜咲く学校正門わきでは、ピカピカの一年生数人グループが記念写真中。

野洲小学校正門傍に「中山道・外和木の標(しるべ)」碑と説明版があり、

説明板には概要で

「このあたりは中山道朝鮮人街道の追分に当たり、かつては「外和木」と呼ばれて

 いたため、この名が後世に残るようにと建てられました」云々と記されていた。

正門わきには中山道の行燈常夜燈を載せた野州道標碑も置かれていた。

小学校から5分ほど行くと、3差路に「朝鮮人街道」と記された道標がある。

朝鮮人街道は朝鮮通信使が通った道で、ここで中山道と分かれ近江八幡を経由し、

安土、彦根をへて鳥居本で再び中山道に合流する。

(写真右、左手が朝鮮人街道)

3差路からすぐ先の桜咲く用水路の奥には神亀元年(724年)勧請されたという

行事神社、

行事神社には見たことが無い珍しい注連縄が下がっていた。

調べた神社やしめ縄についての解説の中に、

滋賀県の湖東地方や湖南地方には独特の形の勧請縄が吊るされ、

その縄の中央にトリクグラズと呼ばれる象徴的なシンボルが吊るされることがある。
勧請縄は「道切り」とも呼ばれ、集落の入口や村境、神社の鳥居や参道に吊るされる

ことが多く、集落の中へ入ろうとする魔や疫病など悪いものの侵入を防ぐためのもの

とされます。

ある意味では「野神さん」や「道祖神」に近いものがある。

勧請縄やトリクグラズは集落によってそれぞれ独自の形が継承されており、

同じものは見られないようです。
勧請縄やトリクグラズは集落の入口や辻で村人を守る結界ともいえる。

全国的には「道切り」と言われているもで村に悪霊や疫病神などが入ぬよう、

縄を張り境を守る標(しるし)を村の境に置いたという。

それが発展して、五穀豊穣、村内安全などの願いが込められるようになった。

注連縄の中央の標は、地方により造りが異なっている」

という解説文があった。

その先には「背くらべ地蔵」と呼ばれる大小の地蔵尊が置かれている。

説明版によれば

「この背くらべ地蔵は鎌倉時代のもので、東山道を行く旅人の道中を守った地蔵で

 ある。また、子を持つ親たちが「我が子もこの背の低い地蔵さんくらいになれば

 一人前」と背くらべさせるようになり、いつしか背くらべ地蔵と呼ばれるように

 なった。」とある。

10分ほど先の十字路にある蓮照寺には、「右中山道 左八まんみち」と

彫られ、裏面には「享保四年」と彫られている朝鮮人街道追分にあった道標や、

淀藩領界石、北淀藩領境界石など3本が建っていた。

(八まんみちは朝鮮人街道のことをいう)

蓮照寺の斜め向かいには、茅葺屋根の原型をとどめた本堂の唯心寺があった。

すぐ先左手にお堂があり、街道書には『四ツ家八幡神社」とあるが神社らしくない

と思ったら、その裏手に神社があった。

街道書には、源頼義八幡宮を祀ったとあるが、詳しい謂れはわからなかった。

板塀にかこまれた境内には境内社もあるが、中に入ることは出来ないように

なっていた。

手前のお堂は観音堂か地蔵度にようだが、お堂内の厨子が閉じられていて分らなかた。

なにか不明ばかりの、お堂と神社だな・・・

地域は旧野州村で、八幡神社から4・5分ほど行くと左手に、街道に面して大書きの

酒名を記した門扉構の建物は宇野英明(うのひであき)酒造場。

道を挟んで斜め向かいにある宇野酒造の分家になるようです。

路の右手には数基の道祖神が置かれていた。

すぐ先で東海道線の高架をくぐるとすぐに、「十輪院」という小さなお堂がある。

お堂の裏には野州を詠った芭蕉の句碑が置かれている、と街道書にはあった。

明暦3年(1657年)開創と言われるそうな。

すぐ先が野洲川で、お堂前の常夜灯は日が暮れると旅人の為に灯が燈ったという。

道を挟んだ左手には石仏石塔群。

道路整備や、河川工事などの際集めらrたのかな?

すぐ先でという、野洲川(やすがわ)を渡ります。

野洲川鈴鹿山脈御在所岳に源を発し、琵琶湖へ注ぐ河川で近江(滋賀県

最大の川。昔は河口に八つの州があり八州川と呼ばれていた。

江戸期の通常は仮橋で、増水時は舟渡だったという。

橋上から近江富士と詠われる三上山がよく見えた、があれ?写真が無い・

野洲川橋を渡るとすぐ先で守山市にはいり、

しばらく行くと馬路石邊(うまじいそべ)神社の社標石柱があり、桜並木の参道が

奥へと続いてます。

神社は天武天皇の御代、白鳳3年(663年)に創祀されたいう古社で、

古事記日本書紀に登場する建速須佐之男命(たてはやすさのおのみこと)と

大国主命(おおくにぬしのみこと)が御祭神という。

境内までは行きませんでしたが、ちょいと桜散歩。

街道に戻り15分ほど行くと吉見小学校交差点左手に益須寺跡の解説板が建っていた。日本書紀にも著される日本最初の療養施設があった寺跡とのこと。

信号を渡った右手には吉見村高札場跡案内版があり、

ここは吉見加宿と守山宿の境で、江戸から127里30町 約502km、

第67宿目、守山宿へ到着。

第67宿 守山宿・宿内家数 415軒、 宿内人数 1700人

    本陣2、脇本陣1、旅籠30

守山宿解説文によれば、

「「京発ち守山泊り」と言われた守山宿は、中山道東下りの旅人が最初に泊まった

 宿場で、 旅籠が軒をつらね大変な賑わいだったようだ。

 守山という地名は街道沿いに今も残る
 比叡山延暦寺の鬼門にあたる東方を守るため東門院が創建され、守山寺お言われた

 ことが守山の語源になたという。

 守山は古来東山道の宿駅として栄え、江戸時代に東山道中山道に改められ

 江戸時代の初期寛永十九年(1642)に徳川幕府により正式に中山道の宿駅として

 制札が下された。中山道は板橋宿から守山宿までの六十七次で守山は最終宿駅で

 あった。守山の地名は比叡山延暦寺の東の関門として東門院が創建されたことに

 由来する。江戸時代、旅人の一日の行程は八里(約31キロ)から十里(約39キロ)

 であった。

 後に東の吉見、西の今宿が加宿され更に繫栄した。」とある。

中編へ続きます。