歩いて再び京の都へ 中山道69次、夫婦歩き旅 第38回 2日目 中編

2日目 中編へ。

江戸から67宿目、守山宿へ入ります。

 守山宿・宿内家数 415軒、 宿内人数 1700人

    本陣2、脇本陣1、旅籠30

「京発ち守山泊り」と言われた守山宿は、中山道東下りの旅人が最初に泊まった宿場。
旅籠が軒をつらね大変な賑わいだったようだ。守山という地名は街道沿いに今も残る
比叡山延暦寺の鬼門にあたる東方を守るため東門院が創建され、守山寺お言われたことが守山の語源になたという。

守山は古来東山道の宿駅として栄え、江戸時代に東山道中山道に改められ江戸時代の初期寛永十九年(1642)に徳川幕府により正式に中山道の宿駅として制札が下された。中山道は板橋宿から守山宿までの六十七次で守山は最終宿駅であった。守山の地名は比叡山延暦寺の東の関門として東門院が創建されたことに由来する。江戸時代、旅人の一日の行程は八里(約31キロ)から十里(約39キロ)であった。京・三条から守山宿までが八里六町(約32キロ)でこの行程にあたり「京立ち、守山泊り」といわれ東下りの最初の宿泊地として大いに賑わった。後に東の吉見、西の今宿が加宿され更に繫栄した。

広重画 守山宿

江戸口より約100m先ほど、左手に慈眼寺社標石柱。

街道書によれば

最澄が唐の国で修行した帰り、海難に遭遇したが十一面観音に救われ  たことから海難で折れた帆柱で十一面観音を彫り、弘仁元年(810)、吉見の里に安置した」

とある。

寺院前まで行ってみたが、境内へは入れなかった。

街道へ戻り10分ほど行くと、吉見西の交差点左手に「すぐいしべ道」と彫られた

道標石柱が建っていて、側面には「高野郷新善光寺道」と彫られ、東海道の石部宿へと向かう道しるべで「すぐ・いしべ」だった。

吉見西の交差点を渡ると「ほたる通り商店街」。

すぐ先には「守山宿・町屋 うの屋」と書かれた立派な民家があり、

ここは「宇野本家酒造」で平成初期の短期元総理大臣・宇野宗佑の実家。

道向かい、宇野本家のすぐ先に天満宮があり、鳥居の前に守山宿説明板が建って

いる。

天満宮のすぐ先に、中山道・守山宿の案内と本陣跡と彫られた石碑などがあった。

説明板には、

「この場所は、本陣(小宮山九右衛門)があったと推定されている場所です。

江戸時代には、問屋、脇本陣、本陣などの役割を果たした。

文久元年(1861)十月二十二日、十四代将軍家茂に降嫁した皇女和宮親子内親王

御所から江戸城へ向かう旅程で、この本陣に宿泊した。」

本陣跡碑の一軒おいた隣に「中山道文化交流館」があり、館前の長椅子で一休み。

係の方と、しばし街道話で盛り上がり。

文化交流館道向うに三叉路手前に「道標」が立ち、ここは高札場跡とも街道書にある。

中山道側の側面には、「右 中山道 并(ならびに) 美濃路」、

その左側面には、「左 錦織寺四十五丁 こ乃者満ミち」と刻まれている。

「左 錦織寺四十五丁 こ乃者満ミち」は、左の道を行くと、真宗木部派本山である

錦織寺に至る道程で、「こ乃者満ミち」は、琵琶湖の津として賑わっていた

木浜港へも通じる道筋であることを示している。

背面に延享元年(1744年)霜月と彫られ石造遵標としては古く、また数少ないため、

守山市文化財に指定されいる、ともあった。

三叉路先には「東門院」がある。

守山の地名を生み出した「東門院」で、延暦7年(788)、最澄比叡山延暦寺

建立した際、四境に門を構えたが その東門として設けられたのが始まり。

後に桓武天皇比叡山東門院守山寺 と名号され地名も守山とされた。

院は朝鮮通信使の宿舎にもなったそうな。

境内の石造り五重塔鎌倉時代の作といわれ、国重要文化財だそうです。

東門院の先は守山銀座西交差点で、右手前には江戸時代後期の天保年間(1830-1843)にあった門前茶屋「堅田屋」を同じ場所、同じ建物で再び現代に甦らせた

「門前茶屋・かたたや」がある。

交差点を渡って少し行くと現れた欄干は境川に架かる橋で、街道書には

中山道の重要な橋として、瀬田の唐橋の古材を使って架け替えられた、公儀普請橋であった」とある。

街道書ではこの境川が守山宿の京(西)口と記されていた。

江戸期の宿場としては大きい宿場だったと思うが、当時を忍ばせることは少ない感じ。

土橋を渡り守山宿を後にし約20m歩くと、右側に延久2年(1071年1)

創建という樹下神社が建っています。

昔は日吉七社の一社・十禅師宮と称され、祭神「稲田姫命」を祀っています。

境内に高さ4.14mの石造常夜燈」(守山市有形文化財)があります。

川幅が広かった境川を往来する人々の安全を願い、天保2年(1831年)

今宿村の商人・伊勢屋佐七が願主となり集められた浄財で建立され、

正面「大神宮」・側面「金毘羅大権現」・台石には天下泰平・宿内安全

と刻まれている。

元は境川の土橋の袂辺りにありましたが、明治初期に境内に移さたという。

樹下神社から分ほど行くと、加宿であった今宿町へはります。

虫籠窓の家や花々を楽しみながら10分ほど行くと、

日本橋草津宿までの129ヶ所の内128番目にあたる、一里塚の南塚が残されて

います。

県内では唯一現存する一里塚で、初代の脇芽が成長した二代目の榎が生えてます。

平安初期の小野篁(おののたかむら)(平安時代文人・公卿)作の閻魔大王

祀る焔魔堂のある「十王寺」。

小野篁には井戸から地獄に降り、閻魔大王の元で裁判の補佐をしたという奇妙な

伝説などが残されているようです。

「閻魔堂町」の地名はこの閻魔堂に因みます。

 5分ほど先の用水路右に「古高俊太郎誕生地碑」があった。
幕末の元治元年(1864年)新選組の拷問で、京都・池田屋事件の謀議自白し、

新選組池田屋急襲“池田屋事件”が起きた。翌月脱走を恐れた獄史に殺害されている。

ぶらぶら10分ほど行くと守山市から栗東市へ。

市境標識から5分ほど行くと、左側に桜満開の大宝公園で、公園奥に大宝神社が祀られています。

満開の桜の下で、桜吹雪をながめながらのお昼と足休め。

公園内のは遊具や芭蕉の句碑などもありました。

一角に「この地は栗東市綣(へそ)という」、との綣・案内板が建ってました。

そでした、道の標識に有り、変わった地名だな~と話していたんです。

「綣」は、機織り機に装着する麻糸、糸をまるめるの意味で、麻織物関係の由来と

推定されているようだが、何故、「へそ」なのかは定かではない、

と書かれてましたね。

小一時間ほどお花見しながら足休をし、神社をお参りへ。

「大宝神社」は、大宝元年(701年)に追来神社境内に「大宝天王宮」として鎮座、と神社由来文にある。
だが、追来神社はもとおとの地主神でありながら大宝神社本殿が主祭神の為、

境内社に位置づけられていいる、というので、脇役が主役になったということで

しょうか。

大宝天王宮は明治維新により、大宝神社となったそうです。

「追来神社」は、地主の神・水の神「多々美彦命」を祭神とし、

て国文化財特別保護建造物となてるそうですが、「追来神社」は写してたつもり

だったが、映像ない・・・

神社の鳥居の真向かいは佛眼寺で、門前右脇に地蔵堂が祀られていて、綿を被った

地蔵尊が祀られている、と街道書に有り拝見したがお堂内は暗く良く見えなかった。

印象では何も被ってなかったような。

地蔵堂から綣交差点を通り過ぎな5分ほど行くと栗東駅西口交差点となり、

更に5分ほど行くと、左側に八幡宮が祀られ、神社の300m弱先が市境で、

いよいよ草津市へ入ります。

後編へ続きます。