日光道中二十一次 (第11歩) 旅の再開へ

4月7日に中山道を歩き終え、しばらくぼ~と足休め。

さあ、そろそろ日光街道を再開するか、と思えどもなかなか天気が安定しない。

ようやく一日中晴れの予報が5月19日(木)にでて、日光街道旅の再開へ。

前回の足止めは栃木県、下野市小金井。

久々に通勤混雑の電車に乗って小金井駅へ。

AM9:15 駅前で旅立ちショット。

朝は爽やかな風があり、歩き旅にはいい気候だが、気温はどんどん上がりそう。

まだ暑さ慣れしていない体にマスク、予報では日中は夏日になるという。

 

日光街道は、江戸から日光鉢石(はついし)宿まで36里余、約142kmの道のり。

宇都宮までの旧道は、現在の国道4号線と重なったりちょっと離れたりしながら

続いていている。

15分ほど歩いて、国道4号へ出てる。

日光街道は国道を横断した少し先を通ているが、右折して国道沿いを進みます。

5分ほど行くと、左手に大きな木の茂みがのが 見えてきたのは、

日本橋から22里22番目、原型に近い形で左右両塚が残っていて、国指定史跡に

なっている「小金井一里塚」。

手前、南塚 奥,北塚

国道から少し離れて通っていた街道は、この両塚の間を通り、

現国道の街道へ続いていており、江戸時代の道幅は9.4mあったという。

国道に合流してすぐの辺りからかつての小金井宿で、平成の大合併下野市小金井。

小金井宿、日本橋から14番目の宿場で人口767人。

本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠は43軒あったというが、今はその面影は全く見られない。

小金井宿は元和年、西方の金井村から移転し始め、延宝9年(1811年)より

宿駅の数に入ったという。

一里塚より10分ほど行くと左手に門柱が建ち、奥に慈眼寺の山門。

参道右手で、にこやかに迎える石仏。

大きなおなか、袋は担いでないが布袋様?

そしてずらりと並んだ庚申塔等の石仏石塔。

現国道整備の折りに移設されたものであろうか。

建久7(1196)年に鎌倉時代の豪族、新田義兼の開基で新田一族の祈願所として

建立された真言宗の古刹。

境内には御成御殿があり、徳川将軍の日光社参の時に休憩所として利用された寺の

一つという。

観音堂は江戸時代の建物で、堂内には弘法大師作といわれる

千手観音菩薩延命地蔵菩薩・毘沙門天が安置されている。

明治初年の火災で観音堂・鐘楼堂を残し堂宇はすべて焼失しているという。

境内に大きなカルミアの木が有り花盛りで、金平糖のような蕾が可愛らしい。

一度国道に戻ってすぐ隣に注連縄の掛かる鳥居の「金井神社」。

祭神は国土開拓の祖神である根裂命で、金井村字余又の地にあったが、

宝暦4年(1754年)に現在地に遷座し、小金井宿の鎮守となった。

社殿は平成の建物だが、ご本殿は江戸末期(1800年代)の築で、

壁面には壮麗な彫刻が施されているようだが、覆屋の中に鎮座し見ることは

出来なかった。

5分ほど先左手に真新しい木札を掲げた立派な門は、大塚家小金井宿本陣跡の四脚門。

門以外の遺構は残されていない様子。

本陣跡の道を隔てた対面に、街道書では2軒の江戸末期建築と言われる蔵造り商店が

有ったといされてるが、1軒は整地されもう1軒は旧呉服屋だそうだが廃業して

荒れ放題になていた。

鉄パイプに網がかけられ、危険防止のための措置であろうか。

国道4号をさらに10分ほど進むと、道を隔てた右側に薬師堂があった。

本尊は行基作と言われる木造薬師如来像だったそうだが、現在は先ほどの慈眼寺にて

保管されてる由。

境内の十九夜塔は天保10年(1839年)建立と軌道書にある。

左手に田園の広がる国道を10分ほど行くと、

街道書に点々で引かれた街道らしき左折道が見えてきた。

珍しく「どんな道なのか行ってみよう」とカミさんが言うので思い切って左折。

道なりに進んでしまったが、手前電柱脇の畑の中を通っている農道へ曲がるのが

点々道の旧日光道だったようだ。

しばらく行くと右手少し離れて、下野市役所らしい建物がある。

街道書では市役所裏手の駐車場内を道が通てるとあるので、道を間違えたことに

気づいた。

右手へ行く道に交差したら右折することにして進むと、十字路になり、

左手にお堂が現れる。

街道書を見ると、国道から結構西北へ進んだところに笹原子育地蔵尊とあり、

国道や旧街道からかなり離れてしまったようだ。

お堂前の道を国道方向(南東)10分ほど戻ると、街道書に笹原旧道(街道)として

記された道へ戻ることが出きた。

すぐ左手に大きな蔵のある屋敷が有り、街道書には小金井宿の本陣と同じ

大塚家とある。

通り掛った方にお聞きしたら、付近には何軒かの大塚家があるそうで、

この地は大塚家一族が栄えた地で有った様子。

ここから車も人も通らない、静かな舗装された直線道路が約30分ほど続く。

右手には東北新幹線の高架や国道沿いなのか松林が続いている。

この松林はかつての農林省試験所のあった場所だそうで、街道書では現在は

自治医大の広大なキャンパスなっている。

やがて旧道は林に突き当り、街道書では右折して国道4号へ出ることになっているが、

突き当り林の中に標識を見つけた。

標識には日光街道と記されており、木々の間に草道が奥へと続いているが、

奥で寸断されてる様子。

一部の旅人記では下石橋一里塚があったが跡形なし、とあたのを思い出した。

左に建つ看板には「これより赤道です。通行は自己責任でお願いします」

とあり、下野市一里塚保存会名で立てられていた。

国土交通省の文では、

赤道は「せきどう」ではなく、「あかみち」で、

もともとは道であった里道(りどう)のことを指し、現在は道として使われて

いなくても、かつての公図には赤い線が引かれ赤道と呼ばれている。

里道のうち、現在でも道路として機能しているものについては公道となり、

長い年月が経過した間に、現在では道として使われなくなった里道は、国の土地として

みなされ、「法定外公共物」として現在では財務省が管理している。

一里塚は跡形も無しと聞いてるので、草道へは入らず右手に折れて、

再び国道へ戻ります。

国道へ出た角にレストランがあり、朝も早かったので昼食を兼ねて1時間ほど足休め。

ゆっくり足休めをし再び国道を東北へ。

すぐ先左手に空き缶に建てた木標。

そこには下石橋一里塚と記されていた。

左手奥に先ほどの赤道・旧日光街道の林が見えるので、その付近に23番目の

一里塚が有ったようだ。

約10分ほど行くと地域は下石橋となり、石橋が近づいてきた。

左手工場内に黒い大きな像が建っている。

この付近は「祇園原」と呼ばれ下石橋の工場団地の一角の関東丸大食品関東工場で、

その正門脇に建てるのは、高さ(台座込み)10m位の真っ黒な観音像だった。

さらに奥にも像が有り、デジカメズームで覗くと、おや、今度はキリスト像

なにか謂れがあるのかな?

丸大食品工場を後に騒音包まれた国道4号を進むと、この付近道路左手は、

すぐそばに墓地が続いている。

江戸時代には墓地の北側を街道が通ていたと思われる。

10分ほど行くと右手国道越しに、大きな長屋門があった。

昔は豪農のの館でもあったのだろうか。

隣に食事処があった。

歩道のマンホールに「グリムの里 いしばし」とあった。

しばらく行くと国道352号線の高架が近づき、国道4号は高架下を通って行く。

高架手前左手に、国道4号に背を向けるようにして立つ石仏群があった。
石仏群が国道に背を向けているのは、旧日光街道は赤道表示の有った雑木林の道が、

一里塚や「丸大食品」工場内等を通り、国道の少し北西側を通っていたということ。

街道書では石仏石塔群は1700年代の建立とあり、地蔵菩薩立像や十九夜塔、

庚申塔などが残されていた。

石仏石塔群の隣に神社社標が建ち、道を左折して行くと宝治2年(1248年)創建と言われる、星宮神社の社標が鎮座してるそうだが、かなり奥くなので寄り道はパス。

高架下を通りすぐ左手に板塀を回し門の構えた大きな建屋があった。

今も使われてるのかな?

たんたんと国道を30分ほど行くと、

左手に街道書では、「石橋宿の入口(南口)にあたる」と記された、愛宕神社

鳥居があった。

愛宕神社は創建が天平宝字(759年)といい、元は下石橋愛宕塚古墳上に鎮座していたが、大正2年(1913年)遍座したと、街道書には記されていた。

天平宝字? あまり聞かない年号だが・・愛宕神社といへば火伏りの神だった。

境内の覆屋に弘化4年(1847年)の建立という二十三夜塔などが、

掃除道具と一緒に収められていた。

愛宕神社を後に国道左手を石橋宿へ入って行きますが、宿場も今は国道4号で、

宿らしい雰囲気、建屋類は全く残されていない。

石橋宿は、江戸より第15番目の宿。

本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠330軒、人口414人。

石橋は幕府領で代官の支配を受けた。

街道書では国道右手に伊沢写真館(伊沢脇本陣跡)、つづいて伊沢茶舗(伊沢本陣跡)が記されてるが、それらしきものは見つけられない。

国道4号東京より93kmの道標、先の交差点を右手に取ればJR宇都宮線石橋駅

カミさんの歩き方が遅いと思い、聞くと少し右足に違和感があるという。

丁度、JR駅入り口。無理はしないで足止めにすることにし、

ふっと左手の真新しいアパート脇を見ると、なんと「石橋本陣跡」と記された新しそうな標識が建っている。

街道書や一連の道中記などでは国道右手なのだが???

石橋信号を右手に向かうと、石橋町グリム童話の町を宣言しているのだそうで、

駅ロータリーには童話モチーフ風の造りになっていた。

駅の塔はカラクリ時計になってる様子。

短い街道歩きだったが、PM1:50 END。

帰宅後「グリムの里いしばし」についてちょっと調べてみた。

 
「旧石橋町(現下野市)を南北に貫く国道4号(日光街道)から西に500メートル

 ほど入ると、住宅街の中に2・4ヘクタールの雑木林が現れる。

 七人の小人の広場」や「黄金のがちょうの泉」などでグリム童話の世界を表現した

 「グリムの森」だ。グリムの森「グリムの館」は、グリム兄弟出生の地、ドイツを

 イメージした多目的施設という。

 誕生のきっかけは1966年、グリム兄弟が生まれたドイツ・ヘッセン州にある

 町と石橋町の児童が、絵画や習字などの作品交換を始め、その町の名は、ドイツ語で

 「石橋」を意味するシュタインブリュッケン。

 両町の縁を取り持ったのは、独協医大の初代学長を務めた石橋長英氏。

 両町は75年に姉妹都市となり、96年には町の「グリムの里づくり」事業の

 拠点施設としてグリムの森が完成した。

 日独双方とも、現在は合併で町名が変わったが、最近は、欧州風のロケーション

 が好評で、アニメファンなどがコスプレ姿で撮影する姿も目立つという」