日光道中二十一次 第15歩 完歩編 

平成4年10月30日、日光街道最後の歩き旅へ向かいました。

早朝の電車を乗り継ぎ、前回足止め地の第20宿今市へ。

 駅前旅立ちショット

天気予報は冬型だったが、予想より暖かく。ジャンパー類は腰に。

 駅より300m程行き、小倉町交差点で国道19号の日光街道へ復帰。

右手にはに追分地蔵見守る、日光街道と例幣使道との追分。

交差点を左折して、街道(国道119)を少し先の道を右手へ入ります。

100m程左手の二宮報徳神社に沿いながらさらに100mほど行った右手が、

浄土宗・如来寺の別院玄樹院(埋葬など墓地の為の別院のようです)。

入り口右手の如意輪観音像は寛延2年(1749年)の建立。

左手には弘治3年(1557年)造立の今市最古の地蔵尊像が祀られてます。

頭部は失われたと聞いていたが、最近新しく付け替えされたそうです。

同じ道を戻り、二宮尊徳を祀る報徳二宮神社へ。

鳥居前に建つモニュメント?

どちらも尊徳さんのようだが、良くわからない。

木の一本彫りのようだが・・

説明板には、

嘉永6年(1853年)徳川幕府の命を受け旧日光神領八十九カ村の復興に入村し、

農村復興指導中、安政3年(1856年)報徳役所にて70歳で逝去、とあり、

遺言通りの質素なお墓おはかです。

かっては学校には必ずありましたね。

神社を後に右手に行くと、左手に最近できた様子の道の駅があった。

あとで寄ることにし少し先へ足を進めると浄土宗如来寺がある。

街道書によると、

室町時代中期に創建で、江戸時代には東照宮御造営の際、徳川第三代将軍家光が

宿泊するために壮大な御殿が境内に建てられた。

1665年には御殿の建物が如来寺に下附されたが、1742年には火災で焼失し

御殿が再建されることはなかった。

また、安政3年(1856年)には二宮尊徳翁死去の際、葬儀が行われた寺、とある。

境内の観音堂

如来寺を出て開業7年目という道の駅へ寄り道。

朝が早かったので、ベンチをお借りして早めのお昼に。

うん、美味しかったです。

国道側向かいには創業天保13年(1842年)という銘酒「日光誉」の蔵元

渡邊佐平商店があった。

隣の信金場所が、天保14年(1843)焼失した今市高橋本陣跡。

今市も江戸時代の面影を残す建屋は全く残ていない様子。

街道は街灯のみで電柱無しの街並みです。

更に200m程行くと、右手の細い通りが旧会津西街道で会津若松まで

28里約112km。

100m程先春日町交差点が現会津西街道、越えて100m程先左手にある

「今市宿市緑ひろば」には明治天皇御小休之蹟碑。

街道書では脇本陣跡とあるが、別説では高橋本陣跡とは別の年代に運営されていた

岸本陣跡ともあり、幕末には〝天狗党〟の仮宿として使用された記録もあるという。

10mくらい先右手参道を入ると浄泉寺。

家光の日光山移葬のおり安置されたと街道書にはあった。

(立ち寄り無し)

すぐ先は左手に天応2年(782年)創建という古刹、今市の総鎮守瀧尾神社。

社宝は山岡鉄舟の大幟と正宗の太刀と街道書のある。

社前が今市宿の北木戸で、今市宿を後にし、街道は再び杉並木(中)となり日光山へ

向かいます。

鬱蒼とした3.5kmほどあるという杉並木。

杉並木の右手には杉並木公園が並行して続いています。

公園には水古民家や風車が回っています。

今市市は杉線香の生産日本一を誇っていて、かつては杉線香生産の動力として

水車が利用されていたという。

一角には「朝鮮通信使今市客館跡」を示す大きな石碑が

あった。使節は12回来日し、3回ここに宿泊して東照宮の参拝を行ったという。

杉並木にもちょいと分かれて、公園内を散策で進みます。

おや、この倒れた象はなんだろう?

杉並木街道へ戻ります。

杉の大木には個人名や企業名の札が付いた樹があり、調べてみると杉並木オーナー制度というもので、杉並木保護に賛同された人が、杉1本につき1000万でオーナーになる

という。は~自分的には無理だな・・・・

右手林の中にあるのは高龗神社(たかおじんじゃ)。

境内の石灯籠は嘉永7年(1854年)建立で、寒念仏供養塔などがあった。

車両通行止めではないので入って来た車があった。

そろそろ両塚を残す、と街道書にあり北塚は切株を残す「瀬川の一里塚」があるらしいが、良くわからない。

左手の竹藪がそうかな?

あとで調べると南塚は国道側へ出ないとわからないらしい。

杉並木がいったん切れ、集落の中を抜けて行きます。

民家の庭には十月桜が咲いていた。

再び杉並木になる左手細い道入り口に、大日如来堂の標識が有った。

境内には十九夜などの石仏石塔があるというが、立寄らずに先へ。

杉並木道は再び特別保存地域の杉並木となり、左手の古そうな杉の大きな切り株は

街道書に七本杉の切株とある、七本の杉が密着して生えていた株跡と思うが。

(ここも示すものは何もなし)

別資料によれば、

7本の杉が1つになった巨大な杉で、2本は強風によって倒れ、本は老朽化による

倒木の恐れがあるということで、1968年に伐採されてしまった、とあった。

街道には側溝があり、きれいな水が音を立って流れて行きます。

すぐ先で再び杉並木が途切れ2,3軒の民家が現れ。

内1軒は日光彫工芸店作品が何点か展示されていた、

再び杉並木へ入ります。

10分ほど行くと右手に砲弾打込杉との案内板があった。

戊辰戦役の激戦地で、杉の幹に官軍が放った砲弾が当たって破裂した痕跡が残る、

とある。

後の杉のこれかな?

10分ほど杉並木をゆくと右手草むらに石碑が見えた。

街道書にある神道系の「代々馬力神」だった。

すぐ先右手の木々の中に石柱が建っている。

旧幕府軍の陣地後で、旧幕府軍と官軍との日光を戦場とすることで、

日光寺院の要請により官軍参謀の板垣退助が停戦を決断した、などの経緯が

あるそうです。

杉並木を15分ほど行くと、廃屋現われ、5分程先に何軒かの民家が有りました。

5分ほど先右手に街道脇に釣鐘が置かれたお堂は元龍蔵寺跡の野口薬師堂で、

境内には如意輪観音像等多数の石仏が残されていた。
道端の釣鐘は明和5年の造立だが重みで龍頭が壊れて以来放置状態というが、

よく見るとなんと石造りの梵鐘でビックリ。

普通は青銅製まれに鉄製と言われてるが・・・

”ゴーン”と鳴り響いたでしょうか???

なぜ石造りなのか、詳しいことは判らないままです。

5分程先で街道はY字路形になり、右手に分岐道は日光古道だそうだが、

先は洪水で失われたと街道書にある。

左手に回り込むように街道は続き、左手には石仏石塔群があった。

先で杉並木は途切れ、右手を併行すtる国道とに挟まれた集落内の道となり、

街道は今風石畳道になっている。

200mほど程行くと国道119(日光街道)と合流。

合流国道左手に、寛政3年(1791年)建立という常夜燈が建っている。

この常夜燈は近くの日枝神社のもので〝日光型〟と呼ばれている少し形の変わった

角型の常夜燈です。

合流した国道は杉並木は途切れ、左右に民家が数軒立ち並び、スピードを出す

車の行きかう国道119号。

周辺は七里村と呼ばれていたようだ。

おや、ホトトギスが咲き残ってるね。

その先は杉並木に成ったり途切れたいの国道だ続きます。
歩くのは路肩ぎりぎりの白線内でかなり注意が必要。

5分ほど行くと右手に墓地が現れ、街道書には「元泉光寺後で、戊辰戦争宇都宮

の戦いで戦死した隊士の墓がある」とある。

小さいが白い木柱付近の墓石だろうか。

集落のある付近は、少しは歩き幅もあって有難い。

かわいいオブジェ。

左手に現れたのは、七里村の鎮守・生岡(いきおか)神社への道標。

草道らしきものもなかったが、かっては参道があったのかな。

再び杉並木道が始まり、歩道帯は極わづか。

ビュンビュウン行き交う車にびくびく歩く。

並木太郎」とか「銀杏杉」と名の付いた大きな杉があるようだが、ゆっくり探しながら歩く余裕がない、

並木太郎、これかな? 銀杏杉は根元が似てるけど?

歩道帯の無い杉並木道を20分ほど行くと左手に明治天皇七里御小休所の碑が有った。

少し歩きやすい幅になった歩道帯を、10分ほど行くと右手にレトロは洋館が見えた。

全11室という人気の宿泊施設という。

更に200m程行くと宝殿交差点で二股となり、街道は右手へ入ります。

交差点付近に、江戸日本橋より35番目の最後の七里の一里塚が有ったそうですが、

現在は一不明と街道書にある。

更に200mほど狭い歩道帯を行くと、二股で左手に車のほとんど入らない

旧道杉並木を歩きます。

旧道を50m 進むと左側に椅子のような石があり『異人石』と呼ばれるいうそうです。
明治初期に来日し、東大医学部の前身である東京医学校で長年教鞭をとり、

『日本近代医学の父』と称されるドイツ人医師『エルヴィン・フォン・ベルツ』が、

日光杉並木を大変気に入り、いつまでも座って眺められるよう職人に頼んで

加工してもらった石、という。

200m程で杉並木は抜け、東武日光線のガードを潜り、すぐに右手の細い草道へ

登るのが旧街道。

杉並木道は特別保護地域として120mほど続いてます。

国道へ合流出口には、数基の石塔があり、街道書には馬力神、馬頭観音、勝善神等が

祀られてる、とあった。

国道から一旦普通地域になるがすぐに杉並保護地域に。

最後の杉並木道をゆっくり200m程歩くと相生町交差点で、

左手に史跡・日光並木街道普及並木寄進碑と、

特別史跡特別天然記念物日光卯木並木街道碑とが建ってます。

相生交差点を街道(国道)から折れて右手へ回ると、JR日光駅

すぐ先には東武日光駅があり途中に享和2年(1802年)男体山出羽山講中

建立したという日光常夜燈が建っている。

その先すぐに東武日光駅の駅舎で、すぐ先が街道(国道)で、日光山へと続きます。

街道(国葬119)へ出ると左手が杉並木最後の出口で、

日光街道最後にの宿場・21宿目の鉢石宿の入り口木戸があったと街道書にある。

鉢石宿は日本橋から21番目、日光街道最後の宿場である。

宿場町鉢石宿は1843年時には、本陣 2 脇本陣 1 旅籠 19 人口 985人。

徳川家康東照宮に祀られると、日光街道のゴールである神橋までの間は、日光東照宮門前町として栄えた。

電柱は地下化され道幅も広くなり、かっての宿場町としての面影は全く見られない。

木戸口跡から10分ほど右手に天台宗・龍蔵寺。

源頼朝の忠臣、畠山重忠の息、重慶が健保元年(1213年)創建と街道書にある。

畠山重忠は〝坂東武士の鑑〟と称された武将でしたが、頼朝死後の実権を掌握したい

北条氏の謀略により【畠山重忠の乱】を誘発され嫡子と共に討れしまい、

難を逃れていた重慶も、8年後に3代将軍源実朝の命で鵜tれていまったという。

境内には重慶供養碑や、戊辰戦役で戦死した芸州藩士の墓があった。

裏手には西行に謂れある西行戻石があるという稲荷神社がありますが、

立ち寄りはなし。

300mほど右手の蕎麦屋は入江家本陣跡。
往時は本陣を兼ねて菓子屋を営み、日光御宮御用達を務めた、と街道書にある。

向い左手には創業天明7年(1787年)創業、羊羹の老舗「綿半」があります。
日光山輪王寺御用で、寺門章「鎹山(かすがいやま)」を看板に使用してます。

5分ほどの右手現「さんフィールド」は高野本陣跡で、日光山の僧が建屋た松尾芭蕉

句碑が庭に有ったと、街道書には記されていた。

若いお二人さん、いいですね~

高野本陣跡から10分ほど、左手の瀟洒な建物は旧日光市役所庁舎。
大正時代、訪日外国人旅行者を対象として建築されたが、実際にはホテルとして

営業したことはなかったという。登録有形文化財、近代化産業遺産、

周辺は公園として整備され、今年の春に開園したそうです。

道路向かいの建物左手脇の坂を下れば、宿場地名の由来のなった

「鉢を伏せたような石」があると街道書に有り、明日寄るつもりでいて

立ち寄りを忘れてしまった。

5分ほど行くと、左手に観音寺の大きな石寺標。

弘仁11年(820年)弘法大師の開基。

急坂を登るため、立ち寄りは翌日31日でした。

急坂の参道脇に咲く大文字草、隣はなんでしょう?

山門を入った正面に千手観音を祀る観音堂

山門右手の崖階段道は観音道あとあり、多くの観音石仏が見守てます。

宿入り口から、ず~と緩い上り坂。
いよいよ夕暮れ迫る、日光山の二荒山神橋、日光街道の終点が近づいてきたようです。

左手に現れた建物は「国重要文化財」の金谷ベーカリー。

建物前の植え込みの中に建つ像は官軍総督府参謀・板垣退助像。

旧幕府軍と官軍との戦いに日光を戦場とすることで、日光寺院の要請により

官軍参謀の板垣退助が停戦を決断し、日光を戦火から守った由来によって

建てられたという。

右手に日光山に向かって、日光山の貫主となった天海大僧正銅像

令和4年10月30日(2022年) PM3:50

日光街道終点へ到着です。

(神橋周辺は日曜ともあって大混雑で、到着記念ショットは、翌日改めてお互いに

 写し合い)

思えば、2013年2月に東海道五十三次日本橋を旅立し、

(二人とも若いね~)


東海道53次    約127里   約496km
中山道69次  約136里 約526 km            
日光街道21次 約 36里 約144km
江戸期、徳川幕府が制定整備した5街道の3街道。
計293里・1178kmを、9年余ヵ月で歩いたことになりました。
う~ん、我ながら夫婦二人で、よく物好きに歩いたもんだな~と・・・・

さあ、このあと夕暮れの日光山輪王寺へ山を登り庭園、「逍遥園」の夜間拝観へ

向かいます。

お付き合いありがとうございました。

日光街道二十一次、旅を終えます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

鉢石宿の街並み
「鉢石宿」。 東照宮に向けてゆるく連続する坂道の両側には、日光名物の湯葉や羊羹の老舗が並ぶ

 

地名の由来となった「鉢石」が残る。 地表に露出した岩盤で、鉢を伏せたような形をしていることから「鉢石」と称された。

 

金谷ホテル入口には板垣退助の像が立つ。 戊辰戦争の時、幕府方の大鳥圭介と官軍の板垣退助が話し合い、日光を戦火から守った功績により像が立てられた。