甲州街道四十四次 2 後編

まさに絢爛豪華、その中に和の美を取り入れた西洋宮殿。

ゆっくり過ごした良い寄り道でした。

街道旅は後編へ。

四つの谷から四ツ谷と呼ばたの説が有りますが、新宿通り(旧甲州街道)左手は

谷へ下るような坂道が迷路のように入り組んでました。

200mほど歩いた左手を下ると、服部半蔵の墓のある「西念寺」と街道書に記されて

いて、細い坂道へ入ります。

5分ほど下ると寺院らしい塀に当たり、左手に回り込むと西念寺入り口でした。

ここ若葉町一帯は、もと伊賀町と呼ばれ、伊賀衆の組屋敷があった所で 

西念寺は、組頭服部半蔵正成の菩提寺として記されている。

街道書や門前の案内板には、

浄土宗・西念寺

忍者の頭領、槍の半蔵として有名な服部半蔵正成によって、松平信康徳川家康嫡男)の供養の為に開創された。

服部正成自身は武士として徳川家康公に仕え、伊賀・甲賀の忍者を率いて、

また槍の名手として「鬼半蔵」の異名をとり数々の武功を重ね、家康公より槍を拝領しました。この槍は当寺寺宝として伝わりている、とあります。

西念寺の由来書抜粋)

徳川家康の嫡男徳川信康は、武勇に優れ将来を嘱望されたが、徳川家と同盟関係あった織田信長の理不尽な要求で切腹を命ぜられ、切腹介錯を任ぜられたのが半蔵正成。
しかし「鬼半蔵」の異名をとった正成は、いかに命令とはいえ、仕えていた主君に刃を向けることはできず、遂にこの役目を果たすことができませんでした。
このことから世の無常を感じ、信康公の冥福を祈る為、仏門に入りました。

天正18年(1590)、家康公は江戸に入国し、江戸城を築き本拠を置きました。
半蔵正成も江戸に入国しましたが、信康公の御霊を弔うために剃髪出家し、

名を「西念」と号し、麹町清水谷に庵を設け、遠州以来奉持していた信康公の遺髪を

ここに埋めて、専称念仏の日々を送りました。
文禄2年(1593)には、信康公の御霊と徳川家忠魂の冥福を祈り、一宇を建立するよう内命を受けたとも記録されていますが、寺院建立を果たせず、

文禄4年(1595)没し、法名は「専称院殿安譽西念大禅定門」。
その後、同所に一宇の建立がなり、山号院号・寺号は、この法名からとり

「専称山安養院西念寺」となり半蔵の墓が建てられた。

寛永11年(1634)江戸城外廊拡張に伴う外濠新設の為、濠の外の現地にに移転した。

残念ながら、戦災により全ての建物は焼失し、昭和36年(1961)本堂再建がなり

ました。

境内の案内図のようなものや経路標識もなく、時代を感じる墓地内などを探して

「判らないね、どこにあるんだろう」としばしうろうろ。

本堂

 

ようやくたどり着いた部半蔵の墓

服部半蔵の槍は本堂内にっ保管されてますが、写真はガラス戸越しで写ってなかった。

服部半蔵がが建てたという徳川信康供養塔は本堂裏手脇にありました。

介錯を命じられた半蔵は「三代相恩の主に刃は向けられない」と介錯だ出来なかったといい、家康は「鬼と言われた半蔵でも主君を手にかけることはできなかったか」と

正成をねぎらったとか。三河武士の典型「大久保彦左衛門」が書いた三河物語に残されている逸話だそうです。

西念寺を後にし、街道書にある愛染院へ向かいますが方向がつかめず、塀沿いに回り込んできた道を少し登り返し、広めの道を西へ5分ほど行くと、東福院坂と名された

急坂道へ出ました。

このあたりは、かっては四谷区寺町、南寺町と言われた通りお寺が大変多く、

辺りの寺院はこのような急坂の途中に作られていることが多い。

道も狭く、住宅、アパート、ビルが密集し、窮屈な格好で建てられている。

急坂を少し下ると左手に愛染院、右手に坂の名の真言宗・東福院があった。

東福院入り口に「豆腐地蔵」との掲示が有ったので街道書には記されてないが寄り道。

東福院の入り口の右手に「豆腐地蔵」が立って、豆腐が二丁供えられてました。

由来案内板などはないため、後に新宿観光資料などで調べた豆腐地蔵の名の由来は、

「昔この付近に、よこしまな心をもった豆腐屋がいました。

毎晩豆腐を買いにくる坊さんがいたが、豆腐屋が代金を竹筒に入れておくと、

翌朝これがシキミの葉になっています。さては、狐か狸が坊さんに化けていたずらを

しているのであろうと考え、こらしめに手を切ってしまいました。

豆腐屋が血痕を追ってみると、東福院の門内に入って、この地蔵のところまで続いて

います。豆腐屋は坊さんの正体が地蔵であると知って後悔し、それからは心を

入れ替えて正直な商売をしたということです」めでたしめでたしかな・・・

豆腐は石膏造りでした。

東福院の向かいに愛染院が有ります。

街道書と入り口案内板には

墓地には、元禄11年に甲州街道の宿場を新設した内藤新宿開発人で、

正徳三年に没した「高松喜六の墓」と、群書類従の編者として名高い盲人国学者

塙保己一の墓があると記されてるが・・・・

こんな看板が・・

(お寺は多く、ちょいと覗いたりしましたが、こんな警告が結構立ってましたね)

東福寺坂をさらに下ると谷底状になり、突き当りにの急な石段上に須賀神社

街道書には「四ツ谷18町の鎮守で、須賀町の名前の由来の元になった神社です。

毎年6月の祭礼は、江戸五大祭りの一つ、天王祭り」とあった。

アニメ映画『君の名は。』舞台モデルともなったそうで、ファンが連日訪れている

スポットとなっているんだとか。

その頂上から振り返った時の景色が重要なシーンで使われ、チラシや公式ページの

メイン画像などにも使われたこともあり、実際の景色は描かれたものと全く同じでは

ありませんが、ファンには絶対撮影したいポイントとなっているという。

階段付近で何組かの若いグループに出会いましたが、フアンなのかもしれません。

街道書によると、

須賀神社は江戸初期より四谷の地に鎮座する、四谷十八ヵ町の鎮守様です。
 毎年六月に行われる御祭礼は、古くは四谷の「天王祭り」といわれ、

 江戸の五大祭りの一つとして有名でありました。

 四谷見附外に祭ってあったのを、寛永11年(1634)の外堀の開堀のために、

 現在地に、移転したもので、明治維新須賀神社と呼ばれるようになった。

 須賀神社須佐之男命(須賀大神)と宇迦能御魂命(稲荷大神)を主祭神とする。

 もともとは稲荷神社であったので、境内の左奥には稲荷神社のお社もあります。

 須賀大神は諸難・疫病除けや悪霊退散、稲荷大神は開運招福や商売繁盛の神様」

 とある。

本殿左手回り込むとに天白稲荷神社、隣の祠には大黒天(大国主命)。

脇から神社を後に少し下ると左手に曹洞宗勝興寺。

街道書には七代目山田浅右衛門の墓、とあるので境内へ入ります。
寺由来記によれば、

天正10年(1582)創建、江戸城外堀建造の拡張の際に伴い、

寛永11年(1634)当地へ移転し現在に至る。

また、死罪執行の打ち首役の「首切り浅右衛門(山田朝右衛門)」を代々務めた、

6代目と7代目のお墓があります。

当主は「首切り浅右衛門」と呼ばれ、山田浅右衛門家は代々、将軍家の刀の新刀鑑定

試し切りを代々勤める家でした。

維新後も新政府の指揮下に入り、家業を続けていました。

7代目山田朝右衛門吉利は、安政の大獄の際に、吉田松陰橋本左内頼三樹三郎

首を斬った人として名が知られています。

7代目の墓

(ここも場所を案内の標識などは無く、時代を感じる墓地内をあちこち

 歩き回りました)

参道右手に正面を向いた「首の」落ちなかったためそう言われる「首の繋がる地蔵」があります。東日本大震災の際にお地蔵さんの首が落ちそうになりましたが、ギリギリ落ちなかっためそう言われるようになりました。

参道右手奥に、「乳母様」が居ります。子供を育てる神様と言われる中で、逆に子供を連れて行ってしまう神様とも言われており、そのため昔は一生懸命にお祈りをし、子供がお利口さんになるよう祈ったと言われています。

勝興寺を後に、来た道を少し戻って円通寺坂と呼ばれる坂を新宿通り近くまで行くと、

右手に細い石段参道があり、奥が街道書には、伊賀衆の菩提寺臨済宗祥山寺。

文禄4年(1595)麹町付近に創建し寛永年間に当地へ移転。

伊賀組忍者供養の「忍者地蔵」がある、と記されてます。

案内板などは立ってないが、忍者地蔵(と思います)。

 続いてすこし西側に回り込んで女夫坂通りを下ってゆけば、街道書にある

お岩稲荷田村神社へたどり着くはずだが、これがなんと大迷い道。

坂を下たり小路へ行ったり、しばらく迷って、残念ながらパス。

街道書では「於岩稲荷は、東海道四谷怪談で御馴染みのお岩さんでは無く
実在の武家(田宮家)の娘於岩のこと。
家計の苦しい家を支える為に商家に働きに出て、田宮家を再興させたという。
その於岩が熱心に信仰していた社が評判になり、何時の頃か於岩稲荷と呼ばれるよう

になったという。

おどろおどろした怪談話のお岩さんは、江戸時代の作者鶴屋南北が、この知名度

高い於岩の名前を借用した、と言われるそうです。

お岩稲荷をパスし、新宿通り(甲州街道)へ戻るとそこは四谷三丁目交差点。

何気なく交差点向こうのビルを見ると、

消防博物館開館30周年」の垂れ幕。

交差点を渡って建物を覗くと、ここは四谷消防署で、館内地下階と3~5階に

消防博物館があるといい。しかも拝観無料。

1階受付で聞いたら江戸時代からの消防活動の変遷がみられるという。

カミさんも「おもしろそう」でたまた大寄り道。

むろん下から見て行くのではなく、一旦エレベータ利用して最上階10回展望室へ。

さっそく見下ろす甲州街道、新宿方面新宿御苑の壮が見え、甲州街道内藤新宿

すぐ近く。

四ツ谷見附方面

北東にはスカイツリーも見られました。

エレベーターで5階へ下り「消防の夜明け・江戸の火消し」
「組織的な消防は江戸時代の火消しに始まります」

江戸時代を再現したジオラマで、粋でいなせな町火消や大名火消の活躍などを

紹介しています。

町火消

大名火消

 

4階は消防の変遷

馬牽き蒸気ポンプ

手引き蒸気ポンプ

出動服変遷

はしご車

3階は現代の装備

などなど小一時間ほど、大人も子供も楽しく学べる消防博物館でした。

まだまだ地階には消防自動車の変遷展示があるようでしたが、街道はもう少し先が

有るので惜しみながらも時間切れ・・・

機会が有ったら是非のお勧めですね。

博物館を後に西へ進むと新宿御苑の壮が見えてきました。

博物館から10分ほどで、新宿通り、現甲州街道(国道20号線新宿御苑トンネル)、

外苑西通りの交差する変則5差路の四谷四丁目交差点。

ここで国道20号線(現甲州街道)が左に分岐して新宿御苑トンネルに入っていきますが、旧甲州街道は右側の新宿通り・都道430号新宿停車場前線をそのまま進みます。

元和2(1616)年、江戸幕府により四谷の地に、甲州街道における江戸への

出入り口として大木戸が設けられており、交差点角に石碑がたってます。

木戸の両側には石垣を設け高札場もあった。

後に木戸が撤去されているが「四谷大木戸」の名は残った。

大木戸近くには、承応2(1653)年に完成した玉川上水の終点にあたる

四谷水番所が設けられ、ここから江戸市中へ配水していた。

元禄12(1699)年には大木戸の西に甲州街道最初の宿場となる内藤新宿

開設されている。

現在の交差点上が「四谷大木戸跡」として東京都指定旧跡となっている。

四谷大木戸にはかって玉川上水番所跡があり、交差点向い側に「水道碑記」の石碑が

建っています(東京都指定有形文化財)。

玉川上水は、かつて江戸市中へ飲料水を供溝渠給していて、江戸の六上水(神田上水

玉川上水本所上水青山上水三田上水千川上水)の一つです。

多摩の羽村(現在の東京都羽村市)にある羽村取水堰多摩川から取水し、武蔵野台地を東流し、この四谷大木戸に付設された「水番所」を経て市中へと分配されていました。水番所以下は木樋や石樋を用いた地下水道でしたが、羽村から四谷大木戸までの約43kmはすべて露天掘りの用水路でした。

「水道碑記」の石碑の脇の解説板の後ろにも「四ツ谷木戸跡碑」が立ってました。

四ツ谷木戸跡から先は宿場、内藤新宿です。

150m程左手奥に新宿御苑の大木戸門が見えます。

この新宿御苑になっているところには、江戸時代、信濃国高遠藩3万3千石 内藤家の

広大な下屋敷がありました。

内藤家と新宿については、内藤家が一帯に広大な敷地を家康から拝領した逸話として、小説等などにもに書かれた“駿馬伝説”がある。

1590年、徳川家康が関東へ入府したとき、内藤家2代・内藤清成も江戸に入りました。

家康が今の新宿あたりで鷹狩りをした折、随行していた内藤清成に

「この一帯を馬で一息に駆けて、駆けまわってきた土地はぜんぶお前にやろう」と

言ったそうです。

清成は愛馬にまたがり、四谷、千駄ケ谷、代々木、大久保とまわって、駆け抜けた

広大な土地を拝領し、地名も内藤と呼ばれるようになった。

 家康から拝領した土地は20万坪(東京ドーム14個分)ほどあったといわれ、

その屋敷の一部が幕府に返納されて新たに宿場町が設けられ「内藤の新しい宿」、

内藤新宿」と呼ばれるようになり、現在は新宿としての地名になった。

宿場解説文では、

内藤新宿は、江戸時代に設けられた甲州街道の、江戸日本橋から数えて最初の宿場で

あり、宿場内の新宿追分から甲州街道と分岐している青梅街道の起点でもありました。

内藤新宿は、玉川上水の水番所があった四谷大木戸から、新宿追分(現在の新宿三丁目

交差点付近)までの東西約1kmに広がり、西から上町・仲町・下町に分けられていま

した。

享保3年(1718年)には、宿場内に旅籠屋が52軒という記録が残っていますが、

享保3年(1718年)、内藤新宿は幕府によって宿場開設より20年足らずで廃止されてしまいました。このため、高井戸宿が再び甲州街道最初の宿場となりました。

宿場としてより岡場所として賑わっていた内藤新宿は、その改革に伴う風紀取締りの一環として廃止されたといわれる。

廃止から50数年が過ぎた明和9年(1772年)、却下され続けた再開が認められました。

宿場の再開により町は賑わいを取り戻し、文化5年(1808年)には旅籠屋が50軒、

引手茶屋80軒との記録が残っています。

江戸四宿の中でも品川宿に次ぐ賑わいを見せ、その繁栄は明治維新まで続きました。

現在では内藤新宿という地名は残っていませんが、新宿の地名として残っています。」

 

少し先右手にビルに挟まれて防火の神秋葉神社が祀られてます。

なんと隣は消防署で、二重の防火対策。

すぐ先が新宿一丁目西交差点で、東京メトロ丸ノ内線新宿御苑前駅があり、

このあたりに内藤新宿の橋本本陣があったそうなのですが、今はその痕跡も残って

いません。

新宿一丁目西交差点を右折し、すぐに左折して、一本奥の道を進みます

内藤新宿の中央付近、仲町のすぐ北にある浄土宗の寺院・霞関山太宗寺です。

寺伝によれば、慶長元年(1596年)頃に僧の太宗が開いた草庵「太宗庵」が前身とされ、寛永6年(1629年)、2代目内藤清成の3男当時安房国勝山藩主であった内藤正勝の葬儀を行ったことを契機に内藤氏との縁が深まり寺地の寄進を受け創建され、以後内藤家の

菩提寺となった、という。

 

境内には江戸に入る6本の街道の入り口 (旧東海道品川寺奥州街道東禅寺

中山道巣鴨の真性寺、水戸街道の霊厳寺、千葉街道の永代寺、甲州街道太宗寺)

に安置された青銅製地蔵菩薩像(江戸六地蔵)の第三番があります。

六地蔵の内、四地蔵尊と出会ったことになりました。

旧東海道品川寺 平成25年(2013年)3月3日

中山道巣鴨の真性寺 平成28年(2016年)9月27日

日光街道、旧奥州街道東禅寺 令和2年(2020年)6月1日

内藤氏はその後信濃国高遠藩へ移封されたのですが、太宗寺はその後も高遠藩内藤氏の菩提寺として、歴代藩主や一族の墓地が置かれました。

内藤氏の墓地は約300坪の広大なものであったのですが、昭和27年(1952年)からの

区画整理で縮小され、現在は5代目藩主正勝など3基の墓石が現存するのみになった。

境内のお堂には内部が暗く撮影は出来ませんでしたが、都内最大の閻魔像や、

飯盛女たちの信仰を集めた奪衣婆像などが安置されており、

他にも新宿山ノ手七福神の一つである布袋尊像が安置されてます。

また境内のお堂には、真っ白に塩を被った姿が特徴の「塩かけ地蔵」がありました。

都内に幾つかの塩地蔵があるそうで、説明板はありませんが、おできにご利益がある

といわれるお地蔵さん。
お願いする時は、お地蔵さまに願をかけて塩を少し頂いて帰り、願いが叶ったら

塩を倍にしてお返しするという。

舐めたらしょっぱい そうで、白いのは全部塩らしい。

太宗寺から新宿通り(甲州街道)に戻り、さらに10分ほど行くと新宿三丁目交差点。
街道は左折して南方向へ続きますが、時刻も夕4時近くで我々の2回目の街道旅は

ここで足止めです。

四谷見附から進んだ距離は、街道だけだと旅とは言えない僅か約3kmのみですが、

よろよろ亀足ペンギン歩き、おまけに楽しい寄り道「街道歩き」。

次はいつの日か??