甲州街道四十四次 3 

令和5年1月19日、大きく寄り道2か所をしながら甲州街道の江戸方(東方)の

入り口四谷大木戸を過ぎ、江戸から1番目の宿場、内藤新宿にはいり、

甲州街道、青梅街道との追分、新宿三丁目交差点で足止めをしていた街道旅。

冷え込みのきつい2月も最後の28日、4月下旬並みの暖かさの天気予報に、

重かった腰を上げて再び街道旅へ。

ゆくり家を出て、AM10:00、内藤新宿江戸の出口、甲州街道と青梅街道との

追分(現新宿3丁目交差点)。

少し手前にあるのが内藤新宿名物「追分だんご本舗」前から3回目の旅立ち。

江戸築城の太田道灌が好んだという、高井戸宿の柳茶屋・団子屋が、新た設けられた

内藤新宿の追分に移転し「追分だんご」として大いに繁盛したという。

すぐ先が追分・新宿3丁目交差点で歩道に「追分モニュメント」。

(ちょとわかりづらいが、真ん中左上の赤いポッチが追分)

交差点を左へ曲がって甲州街道、真っすぐ行くのは青梅街道。

青梅街道は脇街道で、当時は「成木街道(なりきかいどう)」と呼ばれていました。

途中には中野宿、田無宿、小川宿、箱根ヶ崎宿、青梅宿、氷川宿、丹波宿、塩山宿、

小原宿の9つの宿場が設けられ、大菩薩峠を経由し、甲府の東にある酒折村(現:甲府市酒折)で甲州街道と再び合流します。

距離で甲州街道より2里ほど短く、途中に関所が無いため、庶民の旅にも多く

利用されていたという。

この新宿の追分付近に日本橋を出てから2里目の一里塚があったといわれてるが、

その痕跡はどこにもありません。

追分(新宿三丁目交差点)を左折して100m程で新宿4丁目の交差点で、

以前四谷四丁目交差点で分岐した国道20号線(現在の甲州街道)に合流しますが、

 ここは少し真っ直ぐ進み左手に見える道を行へ入ります。

交差点を過ぎ100mほど左手に立派な門を構えてるのが、曹洞宗 護本山 天龍寺

扉には大きな徳川葵のご紋で、江戸城裏鬼門鎮護の役割を帯びてた寺です。
江戸城鬼門鎮護は皆さんご存じ上野寛永寺

こちらには内藤新宿に時刻を告げた「時の鐘」があります。
内藤新宿で夜通し遊興する人々を追い出す合図として通常より早く鐘を鳴らしたことから「追出しの鐘」と呼ばれたそうです。

 新宿4丁目交差点に戻ってこんどは国道20号(甲州街道)を右手に渡り、

JR山手線や中央線、小田急線等の複数の線路の上を超えへ、新宿駅南口に架かる

陸橋を渡って西へ向かいます。

新宿4丁目交差点あたりが内藤新宿の諏訪方(西方)の入り口だったところで、

昔は木戸が設置されていました。ここまでが内藤新宿でした。

江戸時代に江戸と呼ばれていたのは四谷までで、内藤新宿豊多摩郡で江戸の外側、

3回目の歩きで、ようやく江戸区域を出て一路甲街道を下諏訪宿へ目指します。

陸橋を上ると左手駅上には、昔は新宿界隈でバラバラだった発着所が一カ所に集約され、一日発着1500便以上、300都市を結ぶ高速バスターミナル(バスタ新宿)が整備されていまや景観は一変。

(かってはバスタ下には、新宿場外馬券売り場があったとおもうが・・・)  

陸橋を渡り終えてすぐに右手に折れて行くと新宿西口広場。

35年ほど前からの4年ほど、通勤で利用していたので懐かしく思いちょい寄り道。

周辺は高層ビルが林立し、かろうじて奥に新宿新都心開発で最初に立ち上がった

新宿住友の三角ビルが見えていた。

一帯は淀橋浄水場の後の再開発で、後に都庁が移転し新都心と呼ばれ、あっという間に高層ビルが立ち並んだエリア。

遠い昔し新宿駅から淀橋浄水場が見えていたな・・・・

甲州街道(国道20号)へもどる少し手前左手に飲食店が立ち並ぶ国際通りが、

短い距離ですが旧甲州街道

200m程で左折して甲州街道(国道20号)へ戻ってきました。

新宿新都心超高層ビル群を右手に見ながら、新宿の喧騒を背に甲州街道(国道20号線)を西に進みます。

現国道20号が今も昔も甲州街道

街道もすっかり拡幅され昔の面影は望むべくもない。

左手に高層建築が立ち並ぶ文化学園大学が見えてきます。

大学の建物の西側のビルの端に大きな銀杏に木のがあり、下に小さな社が祀られ、

社は旧角筈村、代々木村の村境に祀られた天満宮

脇の大銀杏の木は樹齢300年余と伝えられる大銀杏で、その形状から箒銀杏と

呼ばれていると案内板が立ってました。

その先へ進むと首都高速が右手から合流してきて、空を覆い、うっとうしくなってくる。 

 左手に寺院が二つ並んでいて、手前が境内に高層マンションを持つ真宗大谷派

寺院で、山号を聖徳山。

万治元年(1658年)に四谷に創建し、享保年間に新宿の初台近くに移転したという。

この諦聴寺には、渋谷区指定有形文化財の「木像聖徳太子立像」がある、と街道書に

記されてるがお堂は覗けない。

その先が浄土真宗東本願寺派正春寺。

慶長19年(1614年)創建といわれ、二代目将軍秀忠の乳母「初台の局」の

菩提寺で、付近の地名初台の由来となった、と街道書にはあるが、それらしき案内板もなく、普通ならす~と通り過ぎてしまいそう。

正春寺側の参道口交差点で国道右手に渡り、約10分ほどの初台交差点手前右手が

NTT東日本本社があり、交差点を渡った先右手は巨大な東京オペラシティ

新国立劇場などの建物群。

すぐ先を右手の小路へ入り、街道書にある八幡太郎義家縁の「旗洗池跡碑」を探したが、見つけられず街道へ戻ります。

国道20号に戻りさらに10分ほど行き、街道書では国道左手に記されてる子育地蔵尊

幡谷歩道橋で渡って向かいます。

歩道橋を降りたすぐ側にペンシルお堂があり、「貞享3年(1686年)造立の

子育地蔵尊が祀られている」と街道書にあった。

子育地蔵を後にし薄暗い高架下の街道を西へ進みます。

おっ、日本橋から11km、なんと三日目で・・・・

先はゆるい坂道になり、数分ほど行くと窪地の笹塚交差点。

交差点手前の左手ビル間に、数mほどの参道があって、その奥にモダンなデザインの

地蔵堂があり参道には案内板も立っている。

地域の方々が大事に管理されてる様子で、清掃も行き届き整理整頓がされてます。

この地はかて極悪人の刑場で、牛を使って最も残酷な牛裂きの刑がおこなわれ、

地形が窪地だったことから牛窪と呼ばれ、お堂に祀られているのは牛窪地蔵尊

 参道脇に庚申塔やら道供養碑などが並んでいる。

道供養とは道路自体を供養して報恩感謝の念を捧げることにより、交通安全を祈る

とする全国でも珍しい供養碑といわれ説明板も建ってます。

 笹塚交差点で甲州街道を右へ渡ってそのまま北へ200m程ゆくと右手に

浄土宗法界山清岸寺。

案内板によると、寛永17年(1640年)の開山。

参宮橋南側にあったが、当所が代々木練兵場の開設で、荒廃していた現在地に有った

法界寺と合併し、 参宮橋から当地へ移転し、 法界寺と清岸寺が合併したことから

法界山清岸寺と改称されたとある。

境内に宝永5年(1708年)造立という、酒にまつわる命を落としした男の

願いで立てられたという「酒呑地蔵尊」が祀られてます。

かつては、他所に祀られていたが、近年幡ヶ谷の清岸寺境内に遷されました。

境内の木の根を利用したベンチ、アリ喰いかな?

笹塚交差点に戻り、西へ300m程進んだ右手交番隣に、笹塚跡という看板が立ち、

「街道の両側には直径1mほどの笹に覆われた塚があり、「笹塚」という地名の由来になったという。また、この塚に一里塚の印を記している古図もある」と記されてます。

ようやく12km

その先、笹塚郵便局手前の右に路地に入ってすぐ右側にお堂が建ち、

庚申塔青面金剛像が安置されています。元々は街道に面してあったという。

ここも綺麗に大事に守られてる様子です。

国道20号の戻って国道をの左手に渡り、10分ほど行くと環状7号線(通称環7)と交わる大原交差点。

すこし手前付近が豊島郡(渋谷区)多摩郡(杉並区)荏原郡(世田谷区)の三郡境で、

渋谷区が終わり、先は国道20号の右手が杉並区、左手が世田谷区になる。

かっては川が流れていて橋が架かり三郡橋と呼ばれていた、と街道書にあったが、

示すものは何もありません。

(大原交差点)

大原交差点から5分ほど行くと、左手に暗渠から流れ出てる川が有りますが、

ここは国道20号を玉川上水が斜めに貫き、代田橋という石橋が架けられていたと

いう。今はもちろん橋は無いが、京王線代田橋という駅名に残るのみ。


代田橋跡のすぐ先の小路を左手に行くと京王線代田橋橋駅で、手前線路沿いを右手に

行くと大原稲荷神社へ着きます。

街道書には、この地の鎮守で、境内で世田谷で唯一「酉の市」が開かれる。

参道入り口に祀られてるのは北向子育地蔵尊、ともあった。

だけど、お稲荷さんとあるが、らしくない・・・・

と思ったら、何故か境内の脇の方にお稲荷さんがこじんまりと祀られてましたね。

これで大原稲荷神社なのかな・・

大原稲荷から小路を斜めにたどり5分ほど行き国道20号(甲州街道)へ戻り

松原交差点手前で歩道橋で右手へ渡ります。

松原交差点を過ぎてすぐ右手の小路を入り、突き当りの祠に青面金剛、邪鬼、三猿の

図柄の庚申塔

街道書によれば 下部に「當村願主 鈴木久右衛門他の7名の願主銘がある」とあった。

当村というのは和泉村であったようだ。

国道に戻りすぐ先が京王井の頭線で、越えると右手は明治大学和泉キャンパス。

街道書を見ると「その先隣に築地本願寺和田堀廟所があり、これらの広大な敷地は

江戸幕府焔硝蔵の跡で、大正の末期に廃止となった」とある。
後に旧陸軍省火薬庫となり、空襲で一帯は焦土と化した、ともあった。

明大門塀に掲示された解説板

京王線明大前駅の名は開業時は「火薬庫前」で、松原駅と改称され、

昭和10年(1935年)に今の明大前駅に改称した。)

明大のキャンパスを過ぎるとこちらも広大な築地本願寺和田堀廟所。

街道書には「樋口一葉墓所」とあり立ち寄ってみましたが、海音寺潮五郎服部良一古賀政男横綱吉葉山、などなど有名著名人のお墓が多くあるそうです。

そうそう、今年秋の朝ドラ、ブギの女王笠置シズ子さんのお墓もありました。

和田堀廟所沿いに5分ほど行き、松原二丁目から右の小路に入ると、

街道書では明暦の大火、関東大震災、などなど何らかの理由で移って来た寺院が

8寺院ならんでる、と記されて小路へ入ります。

浄土真宗・真教寺。親鸞自作の座像は本堂に安置、とあるが門は閉じたまま。

真宗大谷派、託法寺、寛永11年(1634年)創建も扉は閉じている。

浄土真宗本願寺派、善照寺

浄土真宗本願寺派、浄見寺

浄土真宗本願寺派、法照寺。

初代市川団蔵の墓があるそうです。

浄土宗、栖岸院。老中阿部対馬守重信の開基。

住職が将軍に拝謁できる「独礼の寺格」を有した、と街道書にある。

河津桜が満開

曹洞宗永昌寺。門前に江戸期に造立された4基の庚申塔等があった。

曹洞宗龍泉寺

境内の「北向き地蔵尊」は子供の熱封じにご利益がある、と街道書に有った。

龍泉寺を後に国道20号(甲州街道)へ戻り、信号を左手に渡ると、京王線高井戸駅入り口への小路へ入れます。

やっと下高井戸宿が近づいてきましたが、時刻も午後3時半。

今日の街道歩きも短い距離ですが、我々の旅はここで、左手小路へ入りました。

江戸から2番目の宿場まちはへはまたいつの日かの旅へ。

(咲き始めるか寒緋桜)