甲州街道四十四次 8

5月6日、再び街道歩き旅へ。

電車を乗り継ぎJR中央線日野駅へ。

改札前の駅構内。

日野駅

南口に出て駅舎沿いに右手に100m行くと左手に宝泉寺が見える。

浄土宗宝泉寺には、日野下本陣佐藤彦五郎と妻、のぶの墓があり、のぶは土方歳三

実姉である、と街道書にあった。

さらに街道書では、

本来の旧甲州街道は、宝泉寺の前のやや上り坂を200m弱ほど行く道で、

枡形が設けられていたが、現在はJR中央本線で遮断され通行はできない。

枡形は日野宿の諏訪方(西の口)で坂下地蔵堂があり、江戸口の東の地蔵にたいし、

西の地蔵とも呼ばれる、

正徳3年(1713年)造立の銅像地蔵尊坐像が安置されている、とあった。

往復するか迷ったが、「すぐ先は坂道のぼり、無理しないで先へね」のカミさんの

一言で、右手の中央線ガードをくぐり北側へ。

枡形の坂下地蔵堂(日野資料拝借写真)

東の地蔵

JR線ガードをくぐり、すぐ線路に沿って左折し坂道を上ります。

ゆるそうですが、けっこうな登り坂。

全回、前々回と歩きに不調がでて、旅をストップしたが、

今回の甲州街道歩きで初めて登山用のステッキを持参、ゆっくり上ります。

線路に沿った上り坂は大坂上通りと呼ばれ、坂道を上った先の曲がり付近が、

今日は歩かなかった宝泉寺前を経て来た、旧甲州街道が上がってきたところ

だったようです。

上った曲がり角右手に、3基の庚申塚と高幡山八十八個所の道標が並んで立っていた。街道書によれば、庚申塔は古いもので元禄7年(194年)、宝暦7年(1757年)などと記されてる。

鉄道や道路改修工事などで移設されたと思われます。

右手に曲がってすぐに、中央自動車道の高架を潜り、道路名は「大坂上通り」と

標記されていた。大阪は大きい坂という意味だった。

のちに調べた資料では、この大坂は約600メートルの距離で標高差約30メートルと

いうことでした。

 大坂上三丁目交差点でその登り勾配も終わりました。

さらに10分ほどで日野大坂上の交差点で、現甲州街道都道256と合流。

このあたりは甲州街道が日野の渡しに変更された頃から、新田開発が行われ耕作地と

なりましたが、それ以前は一面の原野で、よく夜盗が出没した物騒な場所だったのだ

そうです。
道幅が広くなり交通量も多く、 右手は日野自動車の本社工場が、この先1km弱

続きます。

工場入口。

 街道書には、その日野自動車の工場の敷地内に市の史跡である「上人塚」がある、

と記されている。

立ち入りはしなかったが、

この上人塚は、美濃から移住し、甲州街道の前身ともいわれる街道の建設に尽力し日野用水を開削。日野が宿場に指定された時に日野宿の問屋兼名主となった

佐藤隼人正信を称え、その業績をしたためた連署を上人塚に納めた…ともあった。

佐藤隼人正信は、日野本陣を務めた佐藤家の祖先のようです。

だだっ広い日野自動車の敷地がやっと途切れたところに、

江戸の日本橋を出てから10里目の「日野台一里塚跡」の説明板が建っている、

と街道書あったがが、生垣が大きく茂り説明板をは隠されていたようで、見つけられ

なかかった。

200mほど先日野台信号で道の左手へ渡ると、生垣と植木続くのが

コニカミノルタ」の工場で、甲州街道沿いに約400メートルほど続いている。

街道書には、

コニカミノルタの工場敷地の中には「富士塚」という名所がある。

富士塚」は

富士山の見える高台に築かれた富士山の形をした塚で、この塚に登れば富士山に

登ったことと同じとされ、富士山に登れなかったかたがたの信仰を集めました。

とあったが構内へ入れづパスしました。

富士塚は古墳であった、という説もあるようです。

道路向かいの看板、痛そうだね~

(すぐ隣のには整形外科があったけど・・・

コニカミノルタ工場を過ぎてすぐに八王子市に入り高倉町。

八王子市は、銀杏並木の印象が強かったが、バッサリ枝を切られた銀杏並木が続き

日影が全くありません。

街道沿いには銅葺きや瓦屋根の門構え旧家や、蔵のある旧家が幾つか並んでいる。

右手に建つ鳥居は、高倉稲荷神社と街道書にあり、享保3年(1718年)創建で、

高倉新田の総鎮守ともある。 

すぐさきは高倉町交差点。

右手に「高倉町珈琲」があり、すこ早いが足休めと昼食タイム。

聞くと「高倉町珈琲」はファミリーレストランチェーンの「すかいらーく」の創業者の一人の方が、「すかいらーく」の社長退任後に展開した喫茶店チェーンの創業店、

という。

珈琲の名があるが、パスタなどもある雰囲気のよい、寛げた飲食店でした。

何故か写真忘れたね。

300m程先、高倉町西交差点で左からの日野バイパス(国道20号)が合流し、

甲州街道は再び国道20号にかわり、旧甲州街道もしばらく国道20号線を歩きます。

おや、八王子市マンホール蓋。

江戸時代末期より八王子市に伝承されている人形劇「車人形」のデザインという。

カラー版もあるようなので、出会えるか楽しみ。

400m弱先でJR八高線跨線橋で渡ります。

八高線は東京都下八王子市と群馬県高崎市を結ぶ92.0kmのJR東日本鉄道路線

八高線を過ぎ大和田町に入り、しばらくして坂道となり、国道20号日本橋より

43kの表示。

その先右手に鳥居があった。

街道書では、

神社の創建は不詳だが、慶安2年、第3将軍徳川家光より受けた社領5石の御朱印状が

残されている。八王子宿の入口にある山王様として、江戸時代より参詣者の多い

神社、とある。

参道はすぐ急石段が続き、上がるのやめて鳥居前で頭を下げ礼拝。

すぐ先の道を右手に入ると、真言宗東光寺。

一角に年代不詳だが、馬頭観音庚申塔が建っていた。

台座が新しそうで、移設さてたのかな。

200m程先、大和田4丁目交差点で国道16号八王子バイパスと交差し、甲州街道

高架下を直進。

イカー時代、何度も通ったことがあった。

100m程先で左へ入る道が旧甲州街道

400m足らずの弓状の旧道で、当時の面影は残っていない。

途中一角に馬頭観音道祖神など石仏石塔を集めたところがあり、と街道書にあたが

見つけられなかった。

(あとで調べたが、すこし奥に入る様子)

旧道を出た所がちょうど浅川で和田橋北詰。

資料では、大和田橋は昭和の時代に入った昭和16年(1941年)に架橋された橋ですが、

その4年後の昭和20年(1945年)、第二次世界大戦終結間近の8月初旬に八王子市は

アメリカ軍のB29爆撃機による爆撃を受け、八王子も甚大な被害を蒙りました。

爆撃の焼夷弾跡が多数あり残されているとの碑も建っていた。

碑には

焼夷弾・弾痕の保存について
 八王子市は太平洋戦争終結の13日前、昭和20年8月2日未明に、米空軍の

 B29爆撃機180機の空襲を受け、約450名が死没、2000余名が負傷し、

 旧市街の約80%の家屋が消失する被害を受けました。そのとき多くの市民が

 大和田橋の下に避難し、尊い命が助かりました。

大和田橋の歩道上には、この空襲の時投下された焼夷弾の跡が17箇所残っています。車道の部分は過去の補修により、弾痕は残っていませんが、現在歩道上に残っている

弾痕の数から推測すると橋全体では約50個以上の焼夷弾が投下されたと思われます。建設省相武国道工事事務所では、この大和田橋の補修j工事にあたり焼夷弾の弾痕を保存し太平洋戦争の痕跡を永く後世に伝えるものです。

とあった。

本当に戦争、世界中でなくなることを願いたいですね。

大和田橋を渡ります。

街道書には、

浅川は江戸期は4~9月は徒歩渡り、10~3月は架橋された。

かっては鮎が名物で将軍家へも献上され、流末は多摩川へそそぐ、とある。

 大和田橋を渡ると20号と別れ大和田橋南詰交差点を右折し、北大通りに入ります。ここが旧甲州街道で、八王子宿へ向かって行きます。 

通りは北大通り、町は明神町

300m強は変則五差路で、街道は左手の細い方の道、町は新町。

すぐ左手の塀に葉を茂らせる真っ青の花、カンパニラ・アルペンブルーだね。

ちょっと日影が残念だけど、生垣のように大きく咲いてるのは珍しい。

隣の鉢植えの黄色い花は多肉植物の花は?

いや~ドクダミの八重咲だね。

花を楽しみながら200m程行くと、右手の小さな公園は竹の花公園。

一画に市史跡の日本橋から12里目の「竹の鼻の一里塚跡」の石碑が立っています。

ここは新町といって、八王子宿の東端になるという。

街道書には、

八王子宿は、江戸から数えて10番目(別の数え方もあります)の宿場町で、

八王子横山十五宿とも呼ばれたように、江戸側から)新町、横山宿、八日市宿、本宿、

八幡宿、八木宿、子安宿、馬乗宿、小門宿、本郷宿、上野宿、横町、寺町、久保宿、

嶋坊宿の15宿で構成されていた。

横山宿が一番大きかったので正式には「横山宿」と呼ばれる。

江戸時代になって以降、大久保長安により開発された宿場町です。

天保14年(1843年)の記録によると人口6026名、総家数1548軒、本陣2軒、

脇本陣3軒、飯盛旅籠も含め34軒の旅籠屋があった。

とある。

公園の隣はこの地の鎮守・永福稲荷神社がりました。

毎年9月に行われる例大祭、しょうが祭り等で地元では知られた神社という。

案内板には、

永福稲荷神社は創建は定かではないが、宝暦6年(1756年)、八王子出身の

力士・八光山権五郎が再建したもので、落慶の日に八光山権五郎が相撲を奉納したと

伝わっている、とあった。

社殿の前には、八光山権五郎の大きな石像が立ってる。

社殿の右側に芭蕉の句碑や、

享保8年(1723年)建立という青面金剛像があった、

神社のすぐ先は枡形で左手へ行きます。

街道書には、木戸があり刑場も付近にあたが、痕跡などはなし、とある。

南に向かう右手は一番大きかったという、横山町になった。

枡形を左折したあたりから、八王子宿の家々が街道の両側に軒を接して建ち並んでいたと、街道書にあった。
約300m弱行くと、国道20号(現、旧甲州街道)の八王子駅入口東交差点。

街道は20号を右手に折れてゆくが、時刻も丁度午後2時を回ったところ。

そのまま信号を渡り八王子駅方面へ。

渡って100mを左手に行けば子安神社と街道書にあり、曲がって少し行けば神社。

神社の案内板、

「今からおよそ1250年前、天皇陛下の皇后さまがご懐妊され、その安産祈願のために子安神社は創建されました。
  ご祭神は古事記の神話において、安産・育児・子授けの女神として有名な木花開耶姫命コノハナサクヤヒメノミコト)。
  一千年以上の長き歴史の中で八王子を見守り、崇敬を集めてきました。」
 

神社御由緒には、

当社は八王子市最古の歴史を持つ。
およそ1250年前、759(天平宝字3)年、第47代淳仁天皇の皇后・粟田諸姉(あわたのもろえ)の御安産を祈願すべく、勅命を受けた橘右京少輔が草創したと伝えられる。
以後多西郡(多摩川の西側)の総鎮守、安産の神として近郷より崇敬され、子安明神と称された。

安産の女神として有名な木花開耶姫命コノハナサクヤヒメノミコト)。

女性の神として、安産・子授け・育児のご利益を授けて、八王子を見守りてきました。

とあった。

古来より安産のため「底抜けひしゃく」を奉納するという、

木花開耶姫命コノハナサクヤヒメノミコト)

水子供養葦舟者

などなそ、安産、子育てにまつわる10社以上の末社を祭る神社でしたね。

けっこう大勢の安産祈願や子育て祈願方がお参りされていた。

神社を後にJR八王子駅へ。

電車を3本乗り継ぎ、旅は終わりました。

初めてスッテキ使用の歩き、足の状態はいい塩梅のようで、

これから先も頼ります。

終わり。