よれよれの甲州街道四十四次 13

甲州街道歩き旅 第13回目

足腰に不安をかかえながらも、短い距離であったが歩けた第12回目の甲州街道

先はアプダウンのきつい街道だが、短い距離なら歩けるだろうと、

11月4日 再び電車を乗り継ぎ 前回足止めのJR中央線 神奈川県、藤野駅へ。

AM9:15 13回の旅立ち。

目的は約4km弱の上野原宿、さらに歩ければその先約2km弱の鶴川宿まで。

駅前より坂を下り「藤野駅前交差点」で国道20号をを右折します。

交差点で国道左手へ渡り、すぐに国道と別れ 左側にある細い階段を下るのを

忘れてしまい 少し進んで左へ下る道で街道書にある道へ合流です。

 

 

800mほど行くと民家のところで車は行き止まりだが  細い草道が続いてます。

 

手書き看板 ユニークなイノシシ注意!

昔の旅人は夜でも歩いたかな?

先が明るく開けて登りになり 右手土手上はをJR中央本線の線路が通っています。

旧街道はここでJR中央本線の線路を横切るように延びていたが 今はJR中央本線

分断されているので、跨線橋を使って線路の反対側に出ます。

跨線橋を下りかぎ型に民家の庭先を回りこむと国道20号に合流し関野宿へ到着。

山側一段高いところには中央道が走ってます。

その国道20号線の細い歩道を進むとすぐ右手に案内板が建ち 

中村家が疎めたという関野本陣跡でした。

関野宿は天保14年(1843年)の記録によると、

家数130軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠3軒、総人口635人の小さな宿場で、

相模国最後の宿場町。

町並みは明治21年(1888年)とその後の2度の火災ですべて焼失してしまったといい

宿場としての面影を残すものはなにもありません。

すぐ先右手に山門の石段を上ると曹洞宗の寺院、増珠寺がある。

門前に文字が不鮮明が街道書にある 天明元年(1781年)に関野宿講中が建立した

庚申塔が建っている。

その庚申塔と並んで、力士追手風喜太郎と記された案内板。

街道書によると、

『追手風喜太郎は、寛政11年(1799年)甲州街道沿いの当地関野に生まれ、

同郷出身の力士で叔父にあたる「追手風小太郎」に入門弟子入り。

天保2年(1831年)春場所からは「追手風」と名乗り、その後、小結・関脇とすすみ

天保7年には西大関、同10年には土俵を引退し、年寄となり相撲会所の要職に着く

と共に、門下からは多くの名力士を出した。

また、佐藤家の墓地には、昭和46年建立された追手風喜太郎と弟子の横綱雲竜久吉の碑が建てられています、とある。

その生家は、現在もこの寺近くにあるという。
追手風喜太郎は横綱土俵入り「雲竜型」の第10代横綱・雲竜久吉の師匠だったという。

現在も年寄株として時津風一門の「追手風部屋」がありますね。、

おや、八重のシュウメイギク

側溝上の狭い歩道帯。 交通量も多い国道で注意しながら増珠寺を後に

国道を進みます。

甲府 64km、大月 23km、上野原3km」という道路標識が出てきました。

江戸の日本橋から甲府までのちょうど半分まできたようです。

この歩道橋のあたりが関野宿の諏訪方(西の出入口)のようですが、

示すもはありません。

すぐ先で「甲州古道  坂の上」と書かれた道標が立ち右手に分岐してる坂道が街道。

出迎えたのは廃車に乗ったウルトラマンがシュワ~の歓迎ポーズ?

緩いとはいえ登り坂、一歩一歩のろりのろりと上って行きました。

右手山側に廃校になった旧小渕小学校の校舎を見送り200mに

甲州古道  岡留坂」と書かれた道標が立ちY字分岐。

今度は左手に下り坂に転じます。

木々の生い茂る結構急の下り道、岡留坂を5分ほど掛けて下ると

甲州古道」の道標が立つ国道20号線と合流します。

ここからも国道は歩道帯がなく道路壁面にへばりつくように注意して足を進めます。

130mほど行くと大きく左カーブした所に「緑区小渕 えのき坂」という道標。

緩やかな坂「えのき坂」を下っていきます。

えのき坂は左手に歩道帯があり、車を注意しながら小走りに左手へ横断。

さらに下って300mほどの名倉入口の信号で国道20号線から別れ左側の道へ。

そこに「甲州古道  下小渕下」と書かれた道標が立っています。

街道書を見ると、今までの街道は河岸段丘の高い道を歩いて来たが、

ここからは一気に河岸段丘の谷底へ下る様子。

街道書に、いったん河岸段丘の急坂を屈曲しながら下って、

下ったら今度は河岸段丘の急坂を屈曲しながら登るとある。

結構急な下り坂で木々が生い茂る中を下っていきます。

下りの方が弱った足腰に負担がかかりますね。

急坂に入ってから足の運びに不具合が出はじめ、体が右手に強く傾き歩きになって

きた。

休み休みゆっくり持参スッテキで体を支えながら足を運ぶ状態に。

名倉信号から250mくらい、坂道を下りきったところにあるのが境沢橋へようやく

たどり着いた感じ。

下を流れる境沢(川)は文字通り相模国甲斐国の国境を流れる沢で、

この境沢橋を渡るといよいよ相模の国(神奈川県)から甲斐国山梨県)入り。

橋を渡ったところでしばし足休め。カミさんが心配顔で「大丈夫?」

境沢橋はかつて長さ9mほどの土橋だったそうですが、2019年秋に大雨によって

橋が崩壊し、しばらく通行止めでしたが新しい橋にかけ替えられられたという。

一歩一歩傾きを意識しながらさらに100m強下ると方向標識が建ち、

左手に白いアーチ橋が見え、アーチ橋は境川橋で川は相模川

道は神奈川県道、右手は山梨県道520号吉野上野原停車場線。

橋の右手が甲斐の国になるようです。

この境川橋を境にして、下流(神奈川県)川は相模川(写真)、上流方(山梨県)は

桂川と呼んでいるそうです。

境川橋は渡たらずに、橋のたもとのT字を折り返すように右折し、

つづら折りになった急坂道が見えました。

この坂を乙女坂というそうだが、今のわしには鬼の坂だ!!

坂を上り始めたところから甲斐の国上野原市

エッチラオッチラ10歩登って一休み。

振り返った坂道。

ありゃ、写真では平坦??(すごい傾斜坂ですよ)

一歩一歩我慢の歩み、眼下に相模湖(川)が見え一休み。

上り始めてから40分、ようやく幾分か傾斜が和らいだ右側の石垣上に

「諏訪関跡」の石碑が立っています。

正式名称は相模国甲斐国の境界を流れる境川から「境川の関所」。

この先の諏訪村にある諏訪神社に近いので、俗に「諏訪の番所」と呼ばれていた

という。

説明書きには、諏訪の関所(境川の関所)では通行手形改めは江戸に入る女性以外は

不要とあり、通っていた駒木野にあった小仏関所で江戸に入る男女の手形改めを

していたことで簡略化されたという。

諏訪の関所の先は自動車教習所になってゆるく坂道は続きます。

とうとうと水の流れる大きな用水路、ここは高台だが水はどこから引いてるのかな?

ようやく上野原の河岸段丘の台地上に出て400mほど、

右手奥まったところの曹洞宗の寺院、慈眼寺への山道が伸びてます。

慶長7年(1602年)に開山された寺院で、街道書には境内に『愚痴聞地蔵』がありと

ありますが100mほど奥の様で足の状態からパスです。

その隣にあるのが日蓮宗・上原山 船守寺。

境内に「船守弥三郎の碑」が建てられています。

街道書によれば

船守弥三郎は伊豆の国伊東で漁師をしていた折り、

法難を受けた日蓮聖人を伊豆川奈でかくまったことから、昭和になって遺骨を

川奈から分骨し祀った、とある。

さらに上野原は船守り弥三郎の出生地で、その時に日蓮聖人から賜った上原上野介の

名前が上野原の地名になったと言われる とある。

境内いある大きな石碑は?街道書にも記載なく不明。

すぐ隣は訪神社です。

街道書には、

康治年間(112‐1143)、武州横山党・横山三郎忠重が当地古郡の郷に派遣され、

土着して古郡忠重と名乗り、久安年間(1145‐1150)に一族の氏神として諏訪神社

勧請し古郡神社を創建したとされる。

その後戦火によて喪失し、慶長9年(1604年)に本殿が修復され、その後幾度も改修改築され、現在の社殿は寛文10年(1671年)及び享保21年(1737年)に修復されたものが元になっている、ともある古い歴史を有する神社であるようです。

また 境内には芭蕉句碑がある、とあったがこれかな?

文字が掠れて判別できなかった。

神社真向かいにベンチの置かれた自販機コーナーがあり、足休めを兼ねて

持参栄養補助食品でお昼に。

タバコ自販機に・・でも禁煙は大事ですよ。

付近の民家は旧街道らしく由緒ありそうな民家が建ち並んでいます。

この家の表札には「油屋」の文字が…。屋号でしょうか?

この先左手に馬頭観音があり(写し忘れ)、更に少し先右手に

「旧甲州街道 あいさつをかわす思いやりの道、昔をしのぶ思いでの道」と

刻まれた街道碑があった。

諏訪神社から400mほど、中央自動車道の上を諏訪橋で渡ります。

渡ってすぐの右手に疱瘡神社という珍しい名称の神社があります。

街道書や由緒書きによれば、

江戸時代の初め、疱瘡神と縁のある越前国福井県)湯尾峠生まれのあばた顔の老婆が、諸国遍歴の途中、この地で倒れ、村人の手厚い看護に感謝して「この地を疫病から護る疱瘡の神を祀れ」と言い残して亡くなった。そこで村人は、湯尾峠から疱瘡の神を勧請して、萬治4年(1661)疱瘡神社を建立した。

とある。

また街道書では神社裏手の民間地の小高い塚が「塚場一里塚」跡とある。

江戸日本橋から18番目にあたり、甲斐国(山梨県)に入って最初の一里塚。

塚の上にカヤの木が植えられていたが、今は塚だけが残りこっている。
この塚は、古墳時代に築かれた塚場古墳群の一部とも言われている、ともある。

社殿の裏手へまわてみたが民有地内で柵でさえぎられ、立ち入りはでいませんでした。

おや、塚脇のしだれ桜の梢に・・・

ズームで見たらモズだった。女の子だね。

神社のベンチでしばし足休め。

この先到着目的まであと1.5kmくらいだが、いまの歩きの状態ではかなりの不安。

さらに目的地から最寄り駅の上野原駅まで約2km弱か・・・

「今日はここで打ち止めにしましょう」とカミさんが言う。

バス便はあるが、今日は祭日で便数は少ない。

なんとかもう少し頑張りたいが・・・・無理だろうな・・・

カミさんがスマホでタクシー検索し始めたが

地図で調べておいた道に、渡って来た中央道の橋の袂から 中央道沿いに北へ行くと

駅に近道とあったのを思い出し、上野原の駅は段丘の底近くだが、

歩いてなんとか駅までたどり着こうと足を進めることに・・・

としばし体を休めて歩きだしたが 歩きはますます一歩一歩。

しばらく先で中央道の上を渡りかえすと、現れたのがなんとも超急傾斜のつづら折りの

下り坂(と感じた)。

意地を張ってしばらく下って行ったが、下りはやっはり足腰にきついく

左傾斜がますます強くなり足が前に出ない。

無理そうね、とカミさんがスマホでタクシーを検索しようとしていたら、
「どうされました」と下って来た車からの声、「駅までならなら送ってあげますよ」

いや、なんとも有難かったですね。

言葉に甘えて送っていただき、駅でしばし休んで電車を乗り継ぎ、無事帰宅。

後でカミさんが、「たしかあの車は上って行った車だったと思う。

私たちを見て、わざわざ戻ってくれたんだと思うわ」て。

有難かったです。

本当にありがとうございました。

挫折したわずか3km強の街道歩きでしたが、最後は嬉しい歩きでもありました。

翌日は医大での経過診察。

症状はまだ難病発症したの確認診断は出来ないので、経過診察を続けることに。

日常の足腰運動は過激にならない程度に続けるよう、とのこと。

歩き旅、大ピンチ、でももう気力だけでは残念ながら無理ですね。

          「終わり」