よれよれの甲州街道四十四次 13

甲州街道歩き旅 第13回目

足腰に不安をかかえながらも、短い距離であったが歩けた第12回目の甲州街道

先はアプダウンのきつい街道だが、短い距離なら歩けるだろうと、

11月4日 再び電車を乗り継ぎ 前回足止めのJR中央線 神奈川県、藤野駅へ。

AM9:15 13回の旅立ち。

目的は約4km弱の上野原宿、さらに歩ければその先約2km弱の鶴川宿まで。

駅前より坂を下り「藤野駅前交差点」で国道20号をを右折します。

交差点で国道左手へ渡り、すぐに国道と別れ 左側にある細い階段を下るのを

忘れてしまい 少し進んで左へ下る道で街道書にある道へ合流です。

 

 

800mほど行くと民家のところで車は行き止まりだが  細い草道が続いてます。

 

手書き看板 ユニークなイノシシ注意!

昔の旅人は夜でも歩いたかな?

先が明るく開けて登りになり 右手土手上はをJR中央本線の線路が通っています。

旧街道はここでJR中央本線の線路を横切るように延びていたが 今はJR中央本線

分断されているので、跨線橋を使って線路の反対側に出ます。

跨線橋を下りかぎ型に民家の庭先を回りこむと国道20号に合流し関野宿へ到着。

山側一段高いところには中央道が走ってます。

その国道20号線の細い歩道を進むとすぐ右手に案内板が建ち 

中村家が疎めたという関野本陣跡でした。

関野宿は天保14年(1843年)の記録によると、

家数130軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠3軒、総人口635人の小さな宿場で、

相模国最後の宿場町。

町並みは明治21年(1888年)とその後の2度の火災ですべて焼失してしまったといい

宿場としての面影を残すものはなにもありません。

すぐ先右手に山門の石段を上ると曹洞宗の寺院、増珠寺がある。

門前に文字が不鮮明が街道書にある 天明元年(1781年)に関野宿講中が建立した

庚申塔が建っている。

その庚申塔と並んで、力士追手風喜太郎と記された案内板。

街道書によると、

『追手風喜太郎は、寛政11年(1799年)甲州街道沿いの当地関野に生まれ、

同郷出身の力士で叔父にあたる「追手風小太郎」に入門弟子入り。

天保2年(1831年)春場所からは「追手風」と名乗り、その後、小結・関脇とすすみ

天保7年には西大関、同10年には土俵を引退し、年寄となり相撲会所の要職に着く

と共に、門下からは多くの名力士を出した。

また、佐藤家の墓地には、昭和46年建立された追手風喜太郎と弟子の横綱雲竜久吉の碑が建てられています、とある。

その生家は、現在もこの寺近くにあるという。
追手風喜太郎は横綱土俵入り「雲竜型」の第10代横綱・雲竜久吉の師匠だったという。

現在も年寄株として時津風一門の「追手風部屋」がありますね。、

おや、八重のシュウメイギク

側溝上の狭い歩道帯。 交通量も多い国道で注意しながら増珠寺を後に

国道を進みます。

甲府 64km、大月 23km、上野原3km」という道路標識が出てきました。

江戸の日本橋から甲府までのちょうど半分まできたようです。

この歩道橋のあたりが関野宿の諏訪方(西の出入口)のようですが、

示すもはありません。

すぐ先で「甲州古道  坂の上」と書かれた道標が立ち右手に分岐してる坂道が街道。

出迎えたのは廃車に乗ったウルトラマンがシュワ~の歓迎ポーズ?

緩いとはいえ登り坂、一歩一歩のろりのろりと上って行きました。

右手山側に廃校になった旧小渕小学校の校舎を見送り200mに

甲州古道  岡留坂」と書かれた道標が立ちY字分岐。

今度は左手に下り坂に転じます。

木々の生い茂る結構急の下り道、岡留坂を5分ほど掛けて下ると

甲州古道」の道標が立つ国道20号線と合流します。

ここからも国道は歩道帯がなく道路壁面にへばりつくように注意して足を進めます。

130mほど行くと大きく左カーブした所に「緑区小渕 えのき坂」という道標。

緩やかな坂「えのき坂」を下っていきます。

えのき坂は左手に歩道帯があり、車を注意しながら小走りに左手へ横断。

さらに下って300mほどの名倉入口の信号で国道20号線から別れ左側の道へ。

そこに「甲州古道  下小渕下」と書かれた道標が立っています。

街道書を見ると、今までの街道は河岸段丘の高い道を歩いて来たが、

ここからは一気に河岸段丘の谷底へ下る様子。

街道書に、いったん河岸段丘の急坂を屈曲しながら下って、

下ったら今度は河岸段丘の急坂を屈曲しながら登るとある。

結構急な下り坂で木々が生い茂る中を下っていきます。

下りの方が弱った足腰に負担がかかりますね。

急坂に入ってから足の運びに不具合が出はじめ、体が右手に強く傾き歩きになって

きた。

休み休みゆっくり持参スッテキで体を支えながら足を運ぶ状態に。

名倉信号から250mくらい、坂道を下りきったところにあるのが境沢橋へようやく

たどり着いた感じ。

下を流れる境沢(川)は文字通り相模国甲斐国の国境を流れる沢で、

この境沢橋を渡るといよいよ相模の国(神奈川県)から甲斐国山梨県)入り。

橋を渡ったところでしばし足休め。カミさんが心配顔で「大丈夫?」

境沢橋はかつて長さ9mほどの土橋だったそうですが、2019年秋に大雨によって

橋が崩壊し、しばらく通行止めでしたが新しい橋にかけ替えられられたという。

一歩一歩傾きを意識しながらさらに100m強下ると方向標識が建ち、

左手に白いアーチ橋が見え、アーチ橋は境川橋で川は相模川

道は神奈川県道、右手は山梨県道520号吉野上野原停車場線。

橋の右手が甲斐の国になるようです。

この境川橋を境にして、下流(神奈川県)川は相模川(写真)、上流方(山梨県)は

桂川と呼んでいるそうです。

境川橋は渡たらずに、橋のたもとのT字を折り返すように右折し、

つづら折りになった急坂道が見えました。

この坂を乙女坂というそうだが、今のわしには鬼の坂だ!!

坂を上り始めたところから甲斐の国上野原市

エッチラオッチラ10歩登って一休み。

振り返った坂道。

ありゃ、写真では平坦??(すごい傾斜坂ですよ)

一歩一歩我慢の歩み、眼下に相模湖(川)が見え一休み。

上り始めてから40分、ようやく幾分か傾斜が和らいだ右側の石垣上に

「諏訪関跡」の石碑が立っています。

正式名称は相模国甲斐国の境界を流れる境川から「境川の関所」。

この先の諏訪村にある諏訪神社に近いので、俗に「諏訪の番所」と呼ばれていた

という。

説明書きには、諏訪の関所(境川の関所)では通行手形改めは江戸に入る女性以外は

不要とあり、通っていた駒木野にあった小仏関所で江戸に入る男女の手形改めを

していたことで簡略化されたという。

諏訪の関所の先は自動車教習所になってゆるく坂道は続きます。

とうとうと水の流れる大きな用水路、ここは高台だが水はどこから引いてるのかな?

ようやく上野原の河岸段丘の台地上に出て400mほど、

右手奥まったところの曹洞宗の寺院、慈眼寺への山道が伸びてます。

慶長7年(1602年)に開山された寺院で、街道書には境内に『愚痴聞地蔵』がありと

ありますが100mほど奥の様で足の状態からパスです。

その隣にあるのが日蓮宗・上原山 船守寺。

境内に「船守弥三郎の碑」が建てられています。

街道書によれば

船守弥三郎は伊豆の国伊東で漁師をしていた折り、

法難を受けた日蓮聖人を伊豆川奈でかくまったことから、昭和になって遺骨を

川奈から分骨し祀った、とある。

さらに上野原は船守り弥三郎の出生地で、その時に日蓮聖人から賜った上原上野介の

名前が上野原の地名になったと言われる とある。

境内いある大きな石碑は?街道書にも記載なく不明。

すぐ隣は訪神社です。

街道書には、

康治年間(112‐1143)、武州横山党・横山三郎忠重が当地古郡の郷に派遣され、

土着して古郡忠重と名乗り、久安年間(1145‐1150)に一族の氏神として諏訪神社

勧請し古郡神社を創建したとされる。

その後戦火によて喪失し、慶長9年(1604年)に本殿が修復され、その後幾度も改修改築され、現在の社殿は寛文10年(1671年)及び享保21年(1737年)に修復されたものが元になっている、ともある古い歴史を有する神社であるようです。

また 境内には芭蕉句碑がある、とあったがこれかな?

文字が掠れて判別できなかった。

神社真向かいにベンチの置かれた自販機コーナーがあり、足休めを兼ねて

持参栄養補助食品でお昼に。

タバコ自販機に・・でも禁煙は大事ですよ。

付近の民家は旧街道らしく由緒ありそうな民家が建ち並んでいます。

この家の表札には「油屋」の文字が…。屋号でしょうか?

この先左手に馬頭観音があり(写し忘れ)、更に少し先右手に

「旧甲州街道 あいさつをかわす思いやりの道、昔をしのぶ思いでの道」と

刻まれた街道碑があった。

諏訪神社から400mほど、中央自動車道の上を諏訪橋で渡ります。

渡ってすぐの右手に疱瘡神社という珍しい名称の神社があります。

街道書や由緒書きによれば、

江戸時代の初め、疱瘡神と縁のある越前国福井県)湯尾峠生まれのあばた顔の老婆が、諸国遍歴の途中、この地で倒れ、村人の手厚い看護に感謝して「この地を疫病から護る疱瘡の神を祀れ」と言い残して亡くなった。そこで村人は、湯尾峠から疱瘡の神を勧請して、萬治4年(1661)疱瘡神社を建立した。

とある。

また街道書では神社裏手の民間地の小高い塚が「塚場一里塚」跡とある。

江戸日本橋から18番目にあたり、甲斐国(山梨県)に入って最初の一里塚。

塚の上にカヤの木が植えられていたが、今は塚だけが残りこっている。
この塚は、古墳時代に築かれた塚場古墳群の一部とも言われている、ともある。

社殿の裏手へまわてみたが民有地内で柵でさえぎられ、立ち入りはでいませんでした。

おや、塚脇のしだれ桜の梢に・・・

ズームで見たらモズだった。女の子だね。

神社のベンチでしばし足休め。

この先到着目的まであと1.5kmくらいだが、いまの歩きの状態ではかなりの不安。

さらに目的地から最寄り駅の上野原駅まで約2km弱か・・・

「今日はここで打ち止めにしましょう」とカミさんが言う。

バス便はあるが、今日は祭日で便数は少ない。

なんとかもう少し頑張りたいが・・・・無理だろうな・・・

カミさんがスマホでタクシー検索し始めたが

地図で調べておいた道に、渡って来た中央道の橋の袂から 中央道沿いに北へ行くと

駅に近道とあったのを思い出し、上野原の駅は段丘の底近くだが、

歩いてなんとか駅までたどり着こうと足を進めることに・・・

としばし体を休めて歩きだしたが 歩きはますます一歩一歩。

しばらく先で中央道の上を渡りかえすと、現れたのがなんとも超急傾斜のつづら折りの

下り坂(と感じた)。

意地を張ってしばらく下って行ったが、下りはやっはり足腰にきついく

左傾斜がますます強くなり足が前に出ない。

無理そうね、とカミさんがスマホでタクシーを検索しようとしていたら、
「どうされました」と下って来た車からの声、「駅までならなら送ってあげますよ」

いや、なんとも有難かったですね。

言葉に甘えて送っていただき、駅でしばし休んで電車を乗り継ぎ、無事帰宅。

後でカミさんが、「たしかあの車は上って行った車だったと思う。

私たちを見て、わざわざ戻ってくれたんだと思うわ」て。

有難かったです。

本当にありがとうございました。

挫折したわずか3km強の街道歩きでしたが、最後は嬉しい歩きでもありました。

翌日は医大での経過診察。

症状はまだ難病発症したの確認診断は出来ないので、経過診察を続けることに。

日常の足腰運動は過激にならない程度に続けるよう、とのこと。

歩き旅、大ピンチ、でももう気力だけでは残念ながら無理ですね。

          「終わり」

 

 

 

 

甲州街道四十四次 12

すっかりライフワークの街道歩き旅だが、年と共に足腰の衰えは如何ともしがたく

歩き旅続けられるかな・・・と思いながらも

「前にさえ足を出せれば、よたよたでも旅は続けられる。 旅立ってしまえば、

なんとかなるさ」と、気合いいをいれて令和5年1月4日(水)に

歩きはじめた甲州街道歩き旅。

今年6月にはふらふら左右にぶなれながらも 駒野木宿を経て 

甲斐国武蔵国相模国を結ぶ小仏峠(標高約550m)の山斜面にへばりつく

急登手前で峠越えは 今の足腰では無理と判断 残念ながら足止め。

歩きは疲れてくると不調になると2年ほど前から感じていて 

初夏には定期通院の医大で紹介されて脳神経内科を受診。

結果は 確定は出来ないが運動能力に障害がでる難病を発症する

可能性あり で当面経過観察通院となった。

可能な限り日常では体を動かし ライフワークとなって旧街道の歩き旅も 

無理のないよう注意しつつも続けてくださいとのことたったが

こりゃ大難題!!

 

猛暑の夏 さすがに街道歩きご無沙汰でしたが 早朝散歩に切り替えて

少しは足腰の訓練?

 

ようやく秋風も立「そろそろいかが」とカミさんの声に押されて

 令和6年10月15日(火) やってみるかと甲州街道歩きへ腰を上げました。

すこし早めに家を出て電車を乗り継ぎ 中央線で県堺は小仏トンネルで越えて

甲州(山梨)入りし駅相模湖駅へ到着。

駅前よりバスにゆられて国道20号を東京(江戸)方面へ2km10分ほど戻り

底沢バス停へ下車。

下車した国道20号(現甲州街道)バス停の直ぐ先に 左手山側から小仏峠

越えてきた旧甲州街道が合流するので 峠越えをしたつもりで出発。

今日は少しは助けになるかとステッキ使用。

相変わらず左右に揺れ おぼつかない足取りだが ゆくり国道20号北へ。

底沢橋を渡ると、「大月へ31km、相模湖へ1km」の道路標識があり 

先に国道20号で東京より63kmの表示。 

まだまだ先は長いね・・・

甲州街道小原宿 これより2町半」と書かれた木製の標柱があるそうですが

  どこ?

300mほど行く国道の右側 道を隔てて「相模原市 小原の郷」の看板、

その隣に甲州道中歴史案内板が建っている。

 この施設は資料館として小原宿や相模湖地区の歴史が知ることができる

諸々の展示がされていて、休憩所としても利用されていそうだが まだ開館前の様子で

立ち寄り無し。

この小原の郷のある場所は小原宿の東端の位置にあたり東口(江戸)という。

街道書によれば

相模湖町内には甲州街道が東西に通っていて、江戸より13遍目小原宿と

14番目の与瀬宿 2つの宿場が置かれていた。

江戸時代の小原宿は難所である小仏峠甲府側に位置するため、重要な宿場だった。

天保14年(1843年)の記録によると

人口275名、総家数61軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠屋7軒。

宿場の規模は小さいため、隣の与瀬宿と2つで1つという宿場だった。

この宿場を利用できるのは江戸方面から甲府方面に向かう旅人や荷物だけだった。

明治28年(1895年)の大火で家並みは灰塵の来した」

とある。

小原の郷会館から道路両側に 11月開催の「小原宿本陣祭り」の幟が連立して

ました。

民家の壁に掲示されてた祭りポスター

小原の郷から50mほど 国道右手に幟がはためき手入れされた生垣の

大きな屋敷が現れ

歩いてる国道左手歩道脇には案内板も。

向かいのお屋敷は 甲州街道に3ヶ所残っている本陣建物の一つで、

「小原宿本陣(旧清水家住宅) 」。

大きな屋敷門を構え「甲州街道 小原宿本陣」の大きな石碑が置かれてます。 

右手に建つのはこ高札場。

街道書によれば

「現在の本陣は、往時と変わりなく4層のカブト造りの入母屋風の建物。

資料によれば 「20年ほど前まで清水家の子孫が住んでいましたが、

かっての「ふるさと創生一億円事業」で町が買い取って保存することになった。

この小原宿本陣は、本陣特有の座敷構えを示すとともに、このあたりの津久井郡

典型的な大型養蚕民家の構造もしていて 平成8年に神奈川県の重要文化財

指定されている。」

(公開されてますが 開門前?今日は休館? 残念ながら立ち寄らず)

国道20沿いには 当時の建物はないが旧宿場らしい歴史を感じさせる建物が

残っていて 当時の屋号を記した札が掲げられてます。

 小原宿には旅籠が7軒あったという。

旅籠菊屋(跡) 

 

大きな建屋は小松屋(跡)。

街道書には 小松屋は「ひかえ宿小松勇右衛門」本陣 脇本陣の控えだった

とある。

足を進めて「甲州道中  小手沢」の木札標柱が立っているところで、

左側に下る坂道へ。(木札標柱は幟り左)ここまでが小原宿で甲州口。

下りたところはグラウンドで、そのグラウンドの周囲に沿ってがかつての

甲州街道という。

グラウンドを出ると右折して坂道を登ります。

坂道を登りきった平野という名の集落のところで国道20号線と交差し、

甲州街道国道20号線を突っ切るように伸びています。

ここには横断歩道がないので、先にある横断歩道を使って国道20号線を渡り

再び坂道を上ります。

坂の途中 ゆるいカーブのところに 街道書に目印として記されてる水道店があり

ました。

カーブを曲がりさらに坂道を登りきったところのイヌサフランが咲いている。

登り切ったところ 街道書では右手の段上に天明7年(1787)造立の地蔵尊と小社が

それぞれの祠に安置されているとあるが 花にひかれて見落としたようだ。

そのさきで道は二手別れ さてどっち?

ちょうど通りかかった方が 左手へ下る坂が街道書にある「えんどう坂」と

教えていただき やれやれようやく下り坂だ。

坂の途中 一段高いところに庚申塔等の石塔・石仏群が集められて祀られている と

街道書には記載があたのをまたも見逃してしまいました。

ゆっくり坂を下ると右側に「与瀬宿」と書かれた標識がある階段があり右へ下ります。

階段を下り終えた先もドンドン坂道を下っていきます。

(鉄路はJR中央線)

そのまま道なりに進み四つ辻にでると 左手フェンスの中に「与瀬下宿」の標識。

国道20号街道書には記載のない標識だが と街道書を確認すると

「少し進むと国道20号に突き当り右折 角に「甲州道中 与瀬宿」の標柱が立っていて 右折したあたりが与瀬宿の江戸方(東口)ならる。」とあった。

あっ もっと先だよ と声を出したが 勘違いしたカミさんがさっさと右折して

先え行ってしまった。

まあ いいかこれも愛嬌だね と後追いで線路沿いをゆくと すぐにJR相模湖駅

 バス停脇のトイレへ寄って 駅前をから20m程南下すると国道20号で

通りは甲州街道 14遍目 与瀬宿。

相模湖駅前交差点を右折します。ここからしばらく国道20号線与瀬宿を歩きます。

付近は「与瀬上宿」。

 街道書によれば

「与瀬宿は甲州街道の相州4ヶ宿 (小原宿、与瀬宿、吉野宿、関野宿) の1つ

日本橋から16里4町58間(63.4km)、

東西約750mほどの規模で、宿内家数は114軒、本陣1軒、脇本陣なし、問屋1軒、

旅籠6軒で、宿内人口は568人。

甲州街道の宿場は他の街道に比べて利用者が少ないことからどこも貧しく、

宿駅の決まりである人足、馬疋を1つの宿場で負担するのは困難のため

与瀬宿と東隣の小原宿は同じ与瀬村で互いに合宿を組んだ」 とある。 

しばらく行くと右手に石段 上った先に石の 門柱。その右側の門柱には『旧本陣』と

記され 屋敷跡らしいのが街道書にある「坂本本陣跡」で

坂本家は名主、問屋も兼務していたという。

かなり規模の大きな本陣だったようだが 本陣らしき建物は何一つ残されてない。

一段高くなった木立の中に「明治天皇小休所址碑」の碑が建っていた。

本陣跡横の右折坂道が旧甲州街道で 右折前に国道左手のコンビニで昼食の仕入れて

国道20号から右折し坂道を上ります。

50m程上ると突き当りは一段高くなった中央高速道 手前で道は変則3差路で

街道は左折します。

斜め上へ車道は高速道の山側へ抜ける道の様で 高速道土手下沿いに車両通行止めの

道は 相模湖駅への近道になってる様でした:

駅への近道分岐にお休みベンチがあり 足休めを兼ねてお昼タイム。

街道書には高速道を越えた山側に「高野山真言宗 金峰山 慈眼寺」と横には日本武尊を祭る「與瀬(与瀬)神社」が記載されてます。

お寺や神社は石段を登り さらに60段ほどの長い階段で中央自動車道を越えて

ゆくようです。

街道書によれば

慈眼寺は高野山真言宗 「虫封じの寺」として広く知られ

與瀬神社は創建時期は不明とのことですが、「与瀬の権現様」として

広く知られてた とある。

慈眼寺参道

高速道の向こう 慈眼寺 手前が階段橋。

與瀬神社参道 鳥居 さらに高速道越え階段。

中央高速道土手下に沿って10分ほど行くと 旧道はすぐに中央自動車道に行く手を 遮られ ガード下を国道20号が通ってます。

街道書では

「旧街道は少し階段を降り中央自動車道の高架の下を細い歩道で潜りぬけて

階段を登って旧甲州街道に戻り 中央自動車道の傍を縫うように林の中を進み

貝沢橋を渡る 」とあるが 道は未整備で危ないと多くの説にある。

 先程の休憩時にも「分かりにくく危ない」と地元の方に教えていtだいたので、

現状の体力では無理は禁物と高速道をいったん階段で国道へ下る迂回路を行きます。

階段を下り国道20号に沿って進み 国道は大きく左カーブし再び高速道を潜り返してます。

高速道ガードを越えたところで 右手に分岐する坂道へ進みます。

高速道に沿って緩い坂道をしばらく行き 再び高速道ガードを潜り 

右手山側へ道は上て行きます。

急坂を5分ほど 高度が上り高速道は左下 そしてさらに下方には相模湖が

見えてきました。

さらに上ると右手山側から歩くのを避けた甲州古道旧道が下ってきて合流。

先き右手に「甲州道中 横道」の標柱立っていてた。

ここは横道という地名の集落のようです。

左眼下に中央道 相模湖を見ながら 山裾の道をさらに上って行くと

右手斜面の畑地に鳥居が見えました。

鳥居は竹で作られた鳥居で街道書では秋葉神社とあった。

拝殿まではかなり上る様子で寄らずに足を進めます。

その秋葉神社の竹の鳥居の横に 可愛らしいお地蔵さんや二十三夜塔などの

石塔石仏群が集められて祀られています。

二十三夜塔は月待塔、庚申講と同じく民間信仰のひとつです。

すこし先の茂みの中にも石塔が。

左手のは首の欠けてしまった地蔵尊と街道書にはあった。

さらり上り左てへ曲がった右手に

廃寺となったお寺があったのだそうで 二十三夜塔など石塔石仏群が集められて

祀られています。

さらに左右に曲がるゆるい上り坂が続き 左手に久しぶりに馬頭観音

祀られてました。

馬頭観音から5分ほど 右手山へ分け入る石段道があり

「県立陣馬相模湖自然公園」との案内柱と、「甲州道中  橋沢」道標が立っています。

多くのハイカーが歩く 高尾山からの縦走路にもつながってようです。

右手山の林の中に石仏を見つけた。

街道書には記載がないが観音様にも見えるが馬頭観音

この辺から街道はようやく下り坂。

左手に曲がった先は三叉路で 街道は左手の道へ下って行く。

甲州古道  子の入」と書かれた道標が立っていて 付近は「子の入」という集落で

吉野宿の子宿といわれた天奈宿という様です。

坂道を200m下り中央自動車道を「天奈橋」という橋で渡って行きます。

さらに坂道は続き山間の中を下ってます。

200mほどで「甲州古道  赤坂」と書かれた道標が立っています。

街道書には  椚戸(くぐど)旧道江戸口とあるが?

(後で草道があったことがわかりました)

そのまま道なりに下ると右手に 街道書では左手にあるお寺の屋からが

見えてきて先で二股を右手にすると 街道書では左手のお寺観福寺前にでます。

高野山真言宗高野山派の寺院、御嶽山観福寺です。

千年以上といわれる極めて古い由緒のある寺院なのだそうですが

石柱 お堂などは建て替えらえて新しそうです。

さらに下って行くと左手木立の中から道が合流し

「 椚戸(くぐど)旧道諏訪口」と書かれた標柱も立ってます。

やはり前の「椚戸(くぐど)旧道江戸口」から分岐してる旧道があったようです。

街道書には線道で書かれていただけで ここも分岐を見逃したようです。 

さらに道は下り 左曲がりの山すそに石仏石塔群がありました。

街道書によれば 馬頭観音や二十三夜塔などだそうです。

さらに下った先はY字路で 左手へさらに下ってゆきます。

左手の下り道を500mほど下り 中央自動車道相模湖インターチェンジの導入路に

架かる歩道橋(を渡った少し先に「吉野宿  高札場」の跡を示す標柱が立っています。

このあたりが吉野宿の江戸方(東の出入り口)でした。

その横には涎掛けをした六地蔵が祀られています。

高札場のところをさらに下った先で国道20号線と合流し、右折し吉野宿へ。

吉野宿の郷土資料館です。この郷土資料館は旧ふじや旅館の建物を利用したもので、

明治10年頃の吉野宿の歴史 家並みを再現した模型、農機具、生活用品などが展示されているという。

残念ながら今日は閉館でしたね。

天保14年(1843年)の記録によると、

吉野宿は本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠3軒と小さな宿場でした。小規模な宿場でしたが、江戸日本橋甲府とのちょうど中間あたりに位置する宿場であったようです。

郷土資料館の前が吉野宿の本陣跡です。

街道書によれば

「吉野宿の本陣は名主の吉野家が務めていました。吉野家の由緒は鎌倉時代頃まで遡る

といい、幕末頃の本陣は木造五階建ての当時としては珍しい巨大な高層建築物で

あった」

明治天皇行幸で立ち寄られたことを示す「聖蹟」と刻まれた大きな石碑が建てられています。

宿場のほとんどの建物が明治29年(1896年)の大火で消失してしまったという。

 

吉野宿は小規模の宿場で、この「吉野」のバス停の先あたりが諏訪方(西の出入り口)

という。

国道20号線を数分歩いた先の吉野橋のたもとに二十三夜塔などと並んます。

吉野橋を渡ると国道20号線から右に分岐し、また坂道を登っていきます。

 

おや 馬頭観音さん。

あら 白枇杷では?とカミさん。

枇杷は濃いオレンジ色をしているが、白びわは白がほんのり混じったような

淡いオレンジ色をしていて 美味しいの」て。

カミさんの生まれた伊豆土肥地方で栽培されてることが多いそうですが さて?

 

藤野中学校の横を通ったところで再び国道20号線と合流します。

しばらく国道20号線を歩きます。

 

江戸の日本橋を出てから18里目の「藤野の一里塚」跡があります。

道路端に大きな岩 何という字が刻まれているのでしょうか?  

ところどころ歩道ができてますが 国道沿いは歩道が少なく交通量も多いため 

道端ぎりぎり注意しながら歩きます。

 

藤野総合事務所前交差点で右手上方から下ってきた道路552と合流します。

この道は通ってきた八王子から分岐してる甲州裏街道とも呼ばれてる 

と街道書にあった。

すこし先で右折したところにあるのがJR藤野駅

PM2:30 藤野駅 旅は足止め。

街道で約8km弱かな?
けっこうアップダウンの多かった街道だが 

5時間ほどかけてなんとか目的駅へ着くことができた。

いまの歩き方から まあ 歩いた歩けたことに満足満足。

さて 次も歩けるか・・・が~んばろ~を~ ・・・

 

 

 

 

 

甲州街道四十四次 11

令和6年6月12日(水) 夏日で暑くなりなりそうだが雨は大丈夫。

前回、バス終点の小仏バス停で足止めしたが、峠越えはできなくとも。

もうすこし先まで歩いてみたい、と再び電車バスを乗り継いで、

甲州街道の続き歩きへ。

途中、JR中央線が人身事故で大幅な遅れ。

小仏バス停へ降り立ったのは11時少し前の時刻。

平日ではあったが、人気の高尾山系ハイキングコースがあるで、バスはほぼ満員。

ただし、平日のためバスは1時間に1本、午後は2,3時台には2本。

水を凍らせたペットボトルは1本持参したが、予備でもう一本買おうと思っていたら、

バス停にはトイレ設備はあるが、自販機の設置はなかった。

イカーの方にお聞きすると、先に1ヶ所だけ自販機があると教えていただき一安心。

大勢のハイカーはスタスタと皆さんアツという間に姿を消し、先はトイレはないので

済ませて11時10分、ゆっくりと歩き始まました。

すこし風もあり、あちこちから鶯の声も聞こえ、日影を選んで歩けば爽やかな

山道のハイキング。

左手は渓流を挟んで裏高尾の山並みが迫る車道を10分程登ると、

左手に鉄製の錆びた小橋が見え、山奥へと山道が登ってゆく。

街道書には、境内内の池が浅川の水源の一つで、水の神として崇拝される浅川神社と

あるが、示すものも鳥居も見えず、かなり登った上の方らしいので寄らずにさきへ。

すぐ先左手に、小仏山 寶珠山の大きな案内板と石橋を渡って石標と参道。

街道書によれば、

臨済宗南禅寺派小佛山」

参道口に弘化4年(1847年)建立の馬頭観音がある。

小仏宿旅籠・三度屋青木家の菩提樹で、境内には三度飛脚達が奉納した常夜燈と、

東京都天然記念物の「カゴノキ」がある、とあった。

大きな馬頭観音

境内へと石段を上ると左手に地蔵尊庚申塔などの石仏が数体。

カゴノキの場所の小さな案内板

少し先の左手、石仏脇の石段上に「カゴノキ」の古木があった。

カゴノキはクスノキ科に属し、暖地性の樹木でこのカゴノキっは関東地方では

稀な大木という。

主幹は枯れていますが、その周囲を枝幹が取り巻いて1株になってるように見えて

いた。

街道へ戻り、教えていただいた最後の自販機でお茶をゲット。

早くもすたすた下るハイカーひとり。

おや、なんとも優しい紫陽花ね、とのカミさの声、

左手沢の木陰に咲く紫陽花。

アジサイかな?赤紫と淡いピンクが縁取るアジサイ

丸みを持った大きな装飾花、いい色合いだね~

街道は山に挟まれた谷合いを結構な傾斜で登て行きます。

左手に沢、右手には山裾を中央線とさらに一段高く中央高速道で騒音も頭上から。

次第に登りは傾斜を増し、江戸期は直登という九十九折れの登りが続き、

ふと気が付くと今まで右手から聞こえていた車の騒音が途絶え、ときおり聞こえるのは

ウグイスの鳴き声だけ。

振り返ると高速道は小仏トンネルとなって山の中へ入ていていた。

大きくカーブした右手に道標が現れ、右手の山へ急な登山道が登ってゆく。

街道書には、

周辺の山々は都心からのアクセスもよい高尾山、陣馬山

城山に景信山(かげのぶやま)などへのハイキングや縦走コースが幾筋かあり、

ここは東京都と神奈川県の境界にある景信山(727m)への直登登山口。

景信山は、山頂には広大な広場と茶屋があるので、縦走の休憩ポイントとしても

人気の山、とある。

過ぎて沢の流れも谷底となり、山間の緑も美しいさわやかな山道が続きます。

前方にあまり樹々の茂ってない小高い小山が見えてきました。

足を進めると左手にフェンス囲いの入り口があり、フェンスには沢山の案内板が

ありました。

帰宅後調べてみると、

NPO法人 国際ふるさとの森づくり協会が主催した植樹地で、

中央自動車道小仏トンネルの工事の残土の盛り土場は50年以上が経過してた

荒廃地だった。2017年植樹による森づくりが始まり、それ以来、植樹祭が毎年行われ、「高尾小仏植樹祭2023」として7回目が開かれた。

植樹は今回が最後で苗木は2300本。

植えた苗木は合計2万2000本になった」とあった。

蘇れ、緑の山々ですね。

先へ少し進んだ山間で車止めになり、手前に数台の駐車スペースの広場があった。

ここで舗装道路も終わり、いよいよ小仏峠への山道が始まります。

この駐車場あたりに江戸より14番目の一里塚があったともいわれるようです。

甲州街道もマイカーが入れるのはここまでで、街道書には「この先は土道」とある。

バス停から普通のハイカーや街道歩き旅人なら15分から20分というが、

我々は1時間と超マイペース。

左手の新しそうな石段を拝借足休め昼食タイム。

石段は、なにやら神道系の宗教団体の新しい施設のようだった。

30分程の昼食を兼ねた足休みをし午後1時。

さてどうするか?

まだ、時間は早い、行けるとこまで登ってみましょう!とカミさんから発破を

かけられ歩きだす。

左手に沢の流れに小滝もあり、一段高いところから一筋の水の流れ落ちていて、

水垢離場になってる様子。

先ほどの石段上の施設と関係があるのかな??

車止めを越えるとすぐ道標があるが、方向だけで距離は無し。

道は小石ゴロゴロの急坂道だが、軽トラなどの作業車は入っている様子。

10分程登ると沢の流れの水場があり、靴泥おとしか束子もおいてあった。

九十九折れ傾斜がますますきつくなり、杖を頼りにもう少しもう少しと進みます、

木漏れ日のスポットライトに山アジサイ、いいね~

登り始めて30分、道は急激に細くなり山斜面にへばりつく、人のすれ違いができる

程度の急登で、たしかこの先は登山道同様の道。

此処を登れば峠は近い足はまだ動くぞ、だが、「無理せずここで足止めね」の

カミさんが一言。

老いては従え、はい、ここで小仏峠越えは・・・今日はギブアップ!

下ってきたハイカーが写真どりを待ってくれました、ありがとうさん。

下りの方が足を足を取られやすい、ゆっくり小石避けて下ります。

もう無理かな~と思った山道へも入れたし、峠越えはいつの日か(来るかな??)

と思いながら、旅とは言えない甲州街道11回目を終えました。

おや、君は誰だい??

 

甲州街道四十四次 10

予報は曇りだが、雨は大丈夫、行ちゃいましょう、で5月26日(日)、

先週に続いて甲州街道へ。

電車を乗り継ぎ前回足止めした中央線高尾駅

AM10:30 甲州街道10回目の旅立ち。

JR高尾駅

この駅舎は新宿御苑に造られた大葬用仮停車場の用材を使用し、現位置に建てられたと言われていて、文化財的価値のある建築

(デジカメが不具合が起き、明るさなどの調整が機能しなくなってしまった。

ISOなど調整しながらなんとか撮影なので見苦しいです。)

 

駅前を下ってすぐに国道20号(現旧甲州街道

右手銀杏並木は八王子からの来し道。

旅は左手、小仏方面へ。

通り道の生垣、斑入り葉の柘植の生垣。

花が真っ盛りで、小さなかわいい桜型。

日本橋から51km、まだまだ先は長い。

路肩に咲く大きな赤い花は、もうタチアオイだね、

早い開花のような気がずるが、咲き上がりてっぺんまで咲くと梅雨が明けると

いわれてる。

梅雨入りも近いんだ。

駅前から15分ほど、南浅川を両界橋で渡り、中央線高架下をくぐります。

川は高架下を通り抜けて右から高架向側の左手へ流れています。

この両界橋は南浅川に架かる橋で、江戸時代から橋が架けられていたという。

この両界橋のすぐ上流で、高尾山の北側を流れてきた小仏川と南側を流れてきた

案内川が合流して南浅川となるので、両界橋と名付けられた、と街道書にあった。

ガード下に石仏。

付近の工事などで移転されたのかな、街道書には石地蔵とだけあった。

おつ、強いね~

5分ほど行き、西浅川交差点から国道20号線と分かれ右折して行くのが

東京都道・神奈川県道となる都県道516号・浅川相模湖線で旧甲州街道

この道は神奈川県相模原市緑区の底沢橋付近の国道20号線に至る。

都県境の小仏峠を挟んだ前後の区間は山道になっていて、自動車の通行はできません。

ここからは左に小仏川、右にJR中央本線に挟まれた緩い登りの道となり、旧街道らしい雰囲気の漂う道に変わります。道路の両側には住宅が建ち並んでいるが、

いよいよ本格的な甲州街道歩きの区間に入ったようです。

前回同様杖は持参、一歩一歩行っくりと足を進めます。

「八王子市 高尾駒木野庭園」の文字が書かれた幟が立っています。

この高尾駒木野庭園は、隣にある駒木野病院の前身である小林病院の住居兼医院としての利用されていたもので、その後市に寄贈され平成24年4月に開園したという。

敷地面積2,900平方メートル(約880坪)の庭園は、池泉回遊式庭園と枯山水庭園、

露地(茶庭)から構成されている。

トイレ拝借を兼ねてちょいと一回り、ゆっくり腰を落ちtけて眺めたい庭園でした。

 

駒木野という文字が出てきましたが、このあたりが駒木野宿の江戸方(東口)と、

街道書に書かれていた。

庭園を後に、右手に続く駒木野病院の緩い上り道を前を10分ほど行くと

左手に新旧の地蔵尊

道路を改修する時に、このあたりの旧甲州街道沿いに立っていたお地蔵さんを集めて

祀ったものではないかと思われる。

 

右端の石仏は庚申さんかな。

すぐ右手の更地に街道書には記載のない、令和4年に建てられた

『旧小仏関所番 川村家住居跡」の案内板があった。

川村家はこの地に関所が移転した当初、一人で関番を務め、その後も代々関番を務めた

と・・・とある。

駒木野橋を渡ります。

左手に橋の架け替えで旧橋が無くなったため、橋に嵌め込まれていた

橋の名前の表札が、記念に石碑に埋め込まれて保存されていました。

通りを挟んで向かい側は小仏関所の跡で、国史跡「小仏関跡」です。
甲州道中でもっとも堅固と言われた関所です。徳川幕府甲州街道で重要視した

関所だったといわれるそうです。

小仏関所は武蔵国相模国の国境、高尾山の小仏峠周辺に設けられ、

東海道の箱根関所、中山道の碓氷関所とともに「関東の三関所」とも言われました。

北条氏滅亡後の天正18年(1590年)に関東の地に入った徳川家康によって、

元和2年(1616年)現在地に移設され整備されたといわれています。

旅人は通行手形を「手形石」に並べ手付き石」に手を置いて待つ、という。

手形石、手付き石

敷地内に「甲州街道駒木野宿」と刻まれた大きな石碑のが立っていた。

天保14年宿村大概要によれば、

家数73軒、人口355人、本陣1.脇本陣1,問屋場3、旅籠12軒。

小仏宿と合宿で問屋業務を務めた、とあり、小仏関所の移転により併設された宿場で

あったようだ。

上宿・中宿・下宿に分かれ、甲州街道に沿って約10町(約1.1km)に渡って続いていた。

来る途中に通って来た小名路あたりが下宿、関所周辺が中宿で、これから通る

摺指(するさし)が上宿。本陣は関所の東隣にあり、脇本陣もその隣にあった、

ともある。

先の大戦における八王子大空襲より宿場はあらかた消失してしまい、

今は跡を示す案内板なども全くありません。

わずかに旧宿場の面影を残すのみになっています。

遠くに圏央道の陸橋が見えてきます。

道はますます細くなりますが、今日は日曜とあって、小仏峠行のバスや車の往来が

頻繁にあり、要注意です。

バスなどはすれ違いが困難なところが多く、時間を合わせてところどころで待機すれ違いをしてるようです。

緩い坂道を5分ほどの左手に地蔵尊青面金剛像などの石仏石塔などが並んでます。

小さな地蔵尊の側の石碑には、甲州街道念珠坂と彫られてます。

昔、鬼が住んでいて人々を襲っていたが、あるとき襲った老婆に持っていた念珠の

紐が切れ念珠が飛び散った。飛び散った念珠に鬼は足を取られ、坂下転げて大穴に

落ちてしまい、再び鬼は現れなくなった。と街道書にはあったが、大きな穴はどこだ?

さらに5分程行くと、右手の石垣の上はみどり幼児園(誤字ではありません)で、
元は小学校の分校があった、と街道書にある。

すぐ先街道左脇には小仏川の清流が流れていて川端の一角の祠に、付近から集められたかのように、石仏石塔が収められてます。

一番左手は青面金剛像(庚申塔)で、宝永3年(1706年)建立と街道書にあった。

緩い上り坂道が続き、

先ほど遠目に見えていた圏央道が近づいてきました。

付近は中央道と圏央道が交差する八王子ジャンクションでしょう。

イカー時代は何度も利用していたジャンクション。

こんな高いところだったんだ。

さらに5分程、左手川沿いに古そうな平屋の建物は「蛇滝茶屋」で、

「旅籠ふじや新兵衛」と街道書にあり、高尾山の蛇滝信仰修行者の宿だったという。

軒下には無数の蛇滝信仰の講中の「講札」が掲げられていた。

すぐ先左手、川を渡る小道脇に。高尾山山中ある蛇滝への道標があり、判別しずらいが街道書では

「上行講 是よ蛇滝まで八丁」とあるようです。

茶屋の対面側には「いのはなトンネル列車銃撃慰霊碑」への案内碑です。
坂を登り進んだ奥に、第二次世界大戦末期、旧国鉄中央線いのはなトンネルに差し

掛かった列車が米軍機の銃撃空襲を受け、疎開の児童など52人以上が死亡、133人が

負傷した悲劇的な事件だの慰霊碑と街道書にありました。

高速高架真下に「高尾梅の郷まちの広場」があります。

一角の自然石の一つには「高尾梅郷」とありました。
小仏川沿いに点々と梅林がありましたが、まとめて高尾梅郷とよばれるそうです。

広場にはベンチやトイレ施設もあり、コンビニサンドで昼食足休め。

なんと1時間半でまだ2.5km、

ゆくり40分程足休めし再び街道へ。

広場の端に左手に川へ下る小道があり、道端には道標。

大きい道標は享和3年(1803年)建立で「是より高尾山道」と刻まれ、

小さのには蛇滝水行道場入口とあるそうです。

そういえば先ほどの広場にも小仏川を渡って対岸の高尾山の中腹(ケーブルカー

終点付近)に続く道が延びているそうで、多くのハイカーの行き来があった。
右手高く高架の高速道と家々が続き、左手下は小仏川、挟んで盛り上がる山は高尾山。

この辺りからも高尾山の中腹に続く道が延びている、と街道書に。

よく甲州街道旅記などのも出てくる峰尾豆腐店
寄せ豆腐やおからドーナツで人気だそうだが、定休日だった。

上空には何羽ものトンビが輪を描く街道。

石塀の上の盆栽風に仕上げた花は、セッコクでした。

右手のお寺は曹洞宗常林寺と街道書にある。

境内に板碑があると記されてたが、石碑は見かけたがわからなかった。

川沿い草わらに? ブロンズ像の展示には見えないが・・??

川沿いの緩急の坂道が続き付近の地名は裏高尾。

緩い坂道を上ると街道書には小山神社とあるが、わからないまま通り過ぎたようだ。

 

足休めからゆっくり登て来て30分ほど、左手に浅川国際マス釣場があり、

けっこう大勢の釣り人が楽しんでいた。

右手から流れ下って小仏川に合流の木下沢を渡ります。

「きのした」はなく「こげさわ」と呼ぶんだね。

木下沢から右へ、道は大きくカーブの先端左手に、細い道が分岐せていて道標が建っていて、
「右小仏峠景信山」「左日影沢高尾山」とあった。

5分ほどで中央線のレンガ造りガードをくぐると先は。

駒木野宿と次の小原宿の間の、間の宿小仏宿です。

小仏宿に入って10分ほど、右手の民家前の小さな社は街道書にある稲荷社かな?

街道書にも社側にも何も示すのは無く,由来は不明のまま。

街道書には先き右手に甲府さんど飛脚の定宿・三度屋跡とあるがこの付近なのか?

隣の石垣上の屋敷は、旅籠屋「鈴木藤右衛門」跡のようです。

街道書にある「明治天皇御小休所」の石碑が葉陰になりながらかろうじて確認。

(手前の石ではなくフェンスの内側)

通り過ぎてすぐ右手がバス発着所で、高尾駅からのバス終点停留所。

「まもなく発車しま~す」のアナウンスが聞こえ、小走りにもならない走り方で

何とか間に合い乗車、歩き旅は足止めに。

初夏のシーズンの日曜日ともあって、バスは2台で運行。

なんとか座れてバスに揺られて高尾駅へ。

高尾駅から5km、まだ午後の2時と時間は早かったが、気温も上がり、

まあ、今の我々にはちょうど良い按配かな。

バス、電車と乗り継いで、夕4時半には帰宅。

先は一つ目の難所、小仏峠越え。

登山道並みの山道が続くようなので、どうするか思案のしどろです。

 

甲州街道四十四次 9

さて、いつの日かと・・

八王子駅で足止めしてましたが、5月18日(土)

再び老夫婦は八王子駅に降り立ちました。

5月ながら今日は真夏日の予報。

水切れ注意で歩かなければね。

前回日野宿から歩いてきて八王子へ入り、この交差点で右手に街道は曲がりますが、

街道歩きは正式にはここで足止めし、直進して八王子駅へ向かってました。

駅から再び街道へ復帰し、赤い鳥居の見える左手方向へ足をすすめます。

赤い鳥居は市守大鳥神社

街道書には、この神社前が八王子j宿の江戸口(東口)で木戸があった、とある。

(前回通った新町の枡形付近が江戸口との一説もある)

 市守稲荷とも呼び、創建時祭神は倉稲魂命、江戸期に天日鷲命が配神され、

市の守護神であり、11月の酉の日には、境内や甲州街道沿いに熊手などを売る店が

並び、大変な賑わいになるという。

国道20号(現旧甲州街道)を北西へ向かいます。

歩道常にところどころ日影帯があり商店も結構多いが、駅付近は混雑といってよいくらいの人波だったが、国道沿いはぐ~んと人通りは少ないな~。

あの人波はどこへ流れてるんでしょう。

そういえばデパートが無かったような、駅風辺でもみかけなかった気がする。

20号で45kmか・・

市守大島神社前から400m程、八王子横山町交差点。

交差点左手の角、横山町郵便局あたりが「川口脇本陣跡」など、この付近が八王子宿の中心街で、本陣、脇本陣問屋場などが軒を連ねていた、と街道穂にあるが、

それらしき風情、痕跡や案内板など示すものはひとつも無い。

もっとも、八王子は大火やあの大戦の大空襲などで、多大な被害を受けたたためだが、

なにか史跡を示すものがあってもいいのかな。

交差点を右手に数分ゆくと、左手に八幡八雲神社があった。

街道書には、

中世に多摩丘陵一常から相模に勢力を張った横山氏(武蔵七党のひとつ)の居館跡で、横山党の守護神、八王子の総鎮守、とある。

神社由緒略記には、

八幡八雲神社は、八幡神社( 誉田別尊応神天皇)と、八雲神社素盞鳴尊)を祭神

として合祀している。

八幡神社は延長二年(924年)小野隆泰が武蔵の国司の時石清水八幡宮をまつり、

その長子義孝は武蔵七党の横山氏の始祖になった。

八雲神社は大伴妙行が延喜十六年(916年)深沢山(城山の古称)に奉斎後、

慶長三年(1598年)八幡神社に奉遷して長く当地の氏神となった。

とあった。

合肥を示す神社拝殿の屋根、ご神殿も二つ、灯篭も.。

20号(街道)に戻り街道左手は八日町(八日市宿)にかわり、10分程行くと

夢美術館東交差点。

渡った先に八日市宿跡碑がありました。
街道書には「八日市宿に新野本陣、山上脇本陣があった、とあるが、

示すものはなく宿跡碑のみ。

交差点を右手に折れて100m程行くと左手に禅東院。

街道書には、

飢餓の際に唐辛子を内藤新宿の問屋に卸し救われたことから、祈願の際に唐辛子を

供える「とうがらし地蔵」が祀られている、とある。

とうがらし地蔵

左右の吊り飾りは唐辛子か、と思ったら千羽鶴だった。

街道へもどり5分ほどでっ八幡町交差点で先は八幡町。
右手から国道16号が20号に合流し左折、八日町交差点で右折して南下して行く。

交差点を左手に渡り、そのまま南へ歩きJR中央線を渡った左手に念仏院がある。

念仏院には元禄12年(1699)八日市名主新野与五右衛門を中心に村の協力で鋳造された時の鐘が残っていて、昭和初期まで明け六つ(午前6時)、

暮れ六つ(午後6時)に、八王子宿内にに時を告げていた。  と街道書にあった。

念仏院をあとに踏切を渡り線路沿いを西へ。

300m程を右へ折れた左手に産千代稲荷神社があり、鳥居左手に江戸初期に家康に

仕えた大久保石見守長安の陣屋跡の碑がある。

街道書には、

長安は元は武田家臣であったが、主家滅亡によって徳川家に仕えた。

慶長年間(1596~1615)関東代官頭となった大久保長安が八王子に陣屋を設けた際、

鬼門除けの守護神として産千代稲荷神社を奉斎したことに始まる。

才能を買われて金山奉行となり、石見・佐渡金山開発などに功ががあり八王子3万石を与えられた。

幕府の代官頭として八王子宿を開設し、八王子千人同心を組織し陣屋を置いた。

産千代稲荷神社は陣屋の陣屋内社。

境内は「大久保石見守長安陣屋跡」として八王子市の史跡に指定されている。

とある。

陣屋当時の井戸も残されていた。

境内では数種類の紫陽花が色づきだしていた。

神社を後に北へ街道へ戻ります。

銭湯があった。

街道へ戻り西へ。

本郷横丁交差点角に堂々たる風格の石造蔵の店舗。

雑貨屋さんだそうで今日はお休みのようだ。

500m程行くとY字路の変則4差路の追分交差点。

ここで甲州街道陣場街道(案下道)と分岐します。

Y字路を左手へ行くのが甲州街道で右手行くのが陣場街道。

追分交差には遠回りしなけりゃ横断歩道がなく、長い階段上りの歩道橋!

ありがたや、今はエレベーターがありました。

(少しでも足腰負担を減らすため、なんて言い訳しながら使わせてもらいました)

歩道橋を渡り右手に折れて再びエレベーター使用で街道に戻ると、

左手に追分道標が建っていた。

この道標は文化8年(1811年)に江戸の清八という足袋職人が、高野山に銅製の五重塔

奉納した記念に、江戸から高尾山までの甲州街道内藤新宿、八王子追分、高尾山麓小名路の3ヶ所に立てた道標の一つです。

「左甲州道中高尾小道」、「右あんげ道」と彫られている。

戦中の八王子空襲で4つに折れ、一部は行方不明になってしまいました。

現在の道標は最近になって復元されたものですが、2段目と4段目は当時のままのもので、それ以外は新しく石を補充して復元したもです。

と、側に建つ案内板にある。

あんげ道とは、陣馬街道のことで、案下川、案下峠を経由して相模国津久井郡

佐野川に至る古道で、案下峠を通ることから案下道(あんげみち)と呼ばれたそうです。

街道書には八王子千人同心屋敷記念碑が同じ場s所に記されてるが見つけられない。

再確認すると、Y地道の右手、陣馬街道側に建っていた。
 八王子千人同心は、江戸時代にこのあたりに住んでいた半士半農の武士集団で、武田家滅亡後、徳川家康が武田家旧臣を召し抱え甲州口の抑えとして八王子に配置。

10名の頭の下に、それぞれ100人の平同心を配し、最初は江戸の西口の防備、

その後日光東照宮の警備を担当した。

と街道書にある。

そして街道の町並みは千人町。

甲州街道の両側には立派なイチョウ並木が続き日影を提供有難い。

イチョウ並木は多摩御陵造営記念に植えられたもので、次の並木町、多摩御陵参道入口と続き、800本弱のイチョウがJR高尾駅の少し手前まで4Km近くも続いているという。

4,5分先き右手に日蓮宗了法寺

参道を入って右手に、なんだこりゃ?の超今風アニメチックイラスト。

街道書には千人同心の墓がある、とだけ記されてたが、

調べてみたら、若い方に人気で『萌え寺』として有名な寺院なんだそうです。

延徳元年(1489年)に開山されたという歴史のある寺院ですが、ここを一躍有名にした

のが入口の少女の アニメチックイラスト看板。

このイラストが話題となり、テレビ番組などでも取り上げられたことから『萌え寺』と呼ばれるようになり若い方々の参拝客が急増したという。

若い人ね~

まずはお寺になじんでもらう、有りでしょね。

そういえば、車も門横の自販機もアニメチックイラスとだった。

了法寺から約500m、西八王子駅西交差点。

駅そばのコンビニ、イートインコーナーで昼食兼足休め。

側の一角に大きな鉢植えで大きなユリの花、カサブランカかな?

街道に戻りさらに10分程ゆくと長房団地入口交差点。

右折してすぐ左折する「枡形道路」のその角に、大きな石の道標が建っています。

道標には、「右髙尾山 左真覚寺 」と書かれている。
真覚寺は南方600m位にあって、「芭蕉蛙塚の碑」があるという。

枡形になった道標の横を左折のここが旧甲州街道で、板塀の大きな民家があったり、

往時の佇まいがほんの少し残っています。

静かな雰囲気の街道を10分ほど行くと国道と合流し、左手に、曽洞宗長安寺。

参道の石はかって八王子市内を走っていた路面電車の敷石。

境内には、寛延3年(1750年)、安永5年(1777年)造立の地蔵尊がある。

と街道書にあった。

境内には何体かの古石仏があったので、どれなのかは判然としない。

すぐ先左手の八王子市役所横山事務所内にあるのがオオツクバネガシの木で、

側に解説板も建っていて、王子市天然記念物、と街道書にあった。

(逆光なので写りが悪い)

一見、一里塚のように見えるが、オツクバネガシの木の東側に江戸の日本橋から

12里目の「散田の一里塚」があったともいわれるが、現在はその位置は不明と

あった。

さらに銀杏並木の続く街道を西へ進みます。

はや柏葉紫陽花が咲きだし、西洋バイカウツギが甘い香りを漂らせています。

横山事務所から15分ほど多摩御陵入口交差点で右手に見事なケヤキの並木の参道が

続いている。この参道は850m位あるという。

御陵参道の入口の右側には「武蔵凌墓地参道」、左側には「多摩御陵参道」の石碑が

建っています。この奥には「大正天皇多摩凌」「貞明皇后多摩東凌」「昭和天皇武蔵野凌」「香淳皇后武蔵野東凌」がある。

多摩御陵入口交差点の1つ先の信号で、国道20号線から右に分かれる細い道路があり、ここが慶長9年(1604年)に開通した旧甲州街道で、黒塀の家がちらほらと残る旧街道らしい風情が残っている。

5,6分っほど左手に、ご祭神は大山咋命(おおやまくいのみこと)の東浅川山王社。

東浅川山王社にある「子育て地蔵尊」です。この子育て地蔵尊は“松姫地蔵尊”とも

呼ばれる。武田信玄の四女である松姫は武田家滅亡後八王子に移り、三人の娘を育て、

千人同心たちの心の支えであった、と街道書にはあった。

すぐ先右手に小さくて顔の可愛い石地蔵が置かれています。

その石地蔵の横から北に延びる細い道路は昔の鎌倉街道の1つで、八王子城に通じていたという。
  

すぐ先で旧甲州街道は、通称「高尾街道」にぶち当たり、「高尾街道」の

中央分離帯のフェンスで遮断されているので、左手へ曲がり町田街道入口交差点で

国道20号線に合流し、横断歩道橋で国道20号線を左手へ渡ります。

歩道橋を降りて左側にあるのが天正元年(1573年)八王子城主・北条氏照が再建したと伝わる、熊野神社

街道書には、

熊野神社の境内にあるこの大木はケヤキ(欅)とカシ(樫)の木が根元から一緒になって

成長した「相生木」で「縁結びの木」と呼ばれている。

この木の根元に自分の名前と思いを寄せる人の名前を書いた小石を2つ置くと、

願いが叶うといわれる、とあった。

たしかに根元は一緒だね。

熊野神社から約10分、高尾駅前交差点。

 

交差点を左に折れて、PM3:30 今日の歩き旅はお仕舞に。

持参の杖は有効のようで、今のところ足腰は大丈夫、といっても歩いたのは

6km強、杖を頼りいに~♬~・・そんな歌あったな~。

JR高尾駅は寺院風建物で何年ぶりだろう。

昔、高尾山へ何度も登ったことがあった。

駅前や電車内は大勢のハイカーなどで混雑気味。

半分近くは海外の方で、すでにコロナ前に戻ってるね。

さあ、いよいよ難所小仏峠も近いが・・峠越えは難しいか・・・・・またいつかに。

 終わり。

甲州街道四十四次 8

5月6日、再び街道歩き旅へ。

電車を乗り継ぎJR中央線日野駅へ。

改札前の駅構内。

日野駅

南口に出て駅舎沿いに右手に100m行くと左手に宝泉寺が見える。

浄土宗宝泉寺には、日野下本陣佐藤彦五郎と妻、のぶの墓があり、のぶは土方歳三

実姉である、と街道書にあった。

さらに街道書では、

本来の旧甲州街道は、宝泉寺の前のやや上り坂を200m弱ほど行く道で、

枡形が設けられていたが、現在はJR中央本線で遮断され通行はできない。

枡形は日野宿の諏訪方(西の口)で坂下地蔵堂があり、江戸口の東の地蔵にたいし、

西の地蔵とも呼ばれる、

正徳3年(1713年)造立の銅像地蔵尊坐像が安置されている、とあった。

往復するか迷ったが、「すぐ先は坂道のぼり、無理しないで先へね」のカミさんの

一言で、右手の中央線ガードをくぐり北側へ。

枡形の坂下地蔵堂(日野資料拝借写真)

東の地蔵

JR線ガードをくぐり、すぐ線路に沿って左折し坂道を上ります。

ゆるそうですが、けっこうな登り坂。

全回、前々回と歩きに不調がでて、旅をストップしたが、

今回の甲州街道歩きで初めて登山用のステッキを持参、ゆっくり上ります。

線路に沿った上り坂は大坂上通りと呼ばれ、坂道を上った先の曲がり付近が、

今日は歩かなかった宝泉寺前を経て来た、旧甲州街道が上がってきたところ

だったようです。

上った曲がり角右手に、3基の庚申塚と高幡山八十八個所の道標が並んで立っていた。街道書によれば、庚申塔は古いもので元禄7年(194年)、宝暦7年(1757年)などと記されてる。

鉄道や道路改修工事などで移設されたと思われます。

右手に曲がってすぐに、中央自動車道の高架を潜り、道路名は「大坂上通り」と

標記されていた。大阪は大きい坂という意味だった。

のちに調べた資料では、この大坂は約600メートルの距離で標高差約30メートルと

いうことでした。

 大坂上三丁目交差点でその登り勾配も終わりました。

さらに10分ほどで日野大坂上の交差点で、現甲州街道都道256と合流。

このあたりは甲州街道が日野の渡しに変更された頃から、新田開発が行われ耕作地と

なりましたが、それ以前は一面の原野で、よく夜盗が出没した物騒な場所だったのだ

そうです。
道幅が広くなり交通量も多く、 右手は日野自動車の本社工場が、この先1km弱

続きます。

工場入口。

 街道書には、その日野自動車の工場の敷地内に市の史跡である「上人塚」がある、

と記されている。

立ち入りはしなかったが、

この上人塚は、美濃から移住し、甲州街道の前身ともいわれる街道の建設に尽力し日野用水を開削。日野が宿場に指定された時に日野宿の問屋兼名主となった

佐藤隼人正信を称え、その業績をしたためた連署を上人塚に納めた…ともあった。

佐藤隼人正信は、日野本陣を務めた佐藤家の祖先のようです。

だだっ広い日野自動車の敷地がやっと途切れたところに、

江戸の日本橋を出てから10里目の「日野台一里塚跡」の説明板が建っている、

と街道書あったがが、生垣が大きく茂り説明板をは隠されていたようで、見つけられ

なかかった。

200mほど先日野台信号で道の左手へ渡ると、生垣と植木続くのが

コニカミノルタ」の工場で、甲州街道沿いに約400メートルほど続いている。

街道書には、

コニカミノルタの工場敷地の中には「富士塚」という名所がある。

富士塚」は

富士山の見える高台に築かれた富士山の形をした塚で、この塚に登れば富士山に

登ったことと同じとされ、富士山に登れなかったかたがたの信仰を集めました。

とあったが構内へ入れづパスしました。

富士塚は古墳であった、という説もあるようです。

道路向かいの看板、痛そうだね~

(すぐ隣のには整形外科があったけど・・・

コニカミノルタ工場を過ぎてすぐに八王子市に入り高倉町。

八王子市は、銀杏並木の印象が強かったが、バッサリ枝を切られた銀杏並木が続き

日影が全くありません。

街道沿いには銅葺きや瓦屋根の門構え旧家や、蔵のある旧家が幾つか並んでいる。

右手に建つ鳥居は、高倉稲荷神社と街道書にあり、享保3年(1718年)創建で、

高倉新田の総鎮守ともある。 

すぐさきは高倉町交差点。

右手に「高倉町珈琲」があり、すこ早いが足休めと昼食タイム。

聞くと「高倉町珈琲」はファミリーレストランチェーンの「すかいらーく」の創業者の一人の方が、「すかいらーく」の社長退任後に展開した喫茶店チェーンの創業店、

という。

珈琲の名があるが、パスタなどもある雰囲気のよい、寛げた飲食店でした。

何故か写真忘れたね。

300m程先、高倉町西交差点で左からの日野バイパス(国道20号)が合流し、

甲州街道は再び国道20号にかわり、旧甲州街道もしばらく国道20号線を歩きます。

おや、八王子市マンホール蓋。

江戸時代末期より八王子市に伝承されている人形劇「車人形」のデザインという。

カラー版もあるようなので、出会えるか楽しみ。

400m弱先でJR八高線跨線橋で渡ります。

八高線は東京都下八王子市と群馬県高崎市を結ぶ92.0kmのJR東日本鉄道路線

八高線を過ぎ大和田町に入り、しばらくして坂道となり、国道20号日本橋より

43kの表示。

その先右手に鳥居があった。

街道書では、

神社の創建は不詳だが、慶安2年、第3将軍徳川家光より受けた社領5石の御朱印状が

残されている。八王子宿の入口にある山王様として、江戸時代より参詣者の多い

神社、とある。

参道はすぐ急石段が続き、上がるのやめて鳥居前で頭を下げ礼拝。

すぐ先の道を右手に入ると、真言宗東光寺。

一角に年代不詳だが、馬頭観音庚申塔が建っていた。

台座が新しそうで、移設さてたのかな。

200m程先、大和田4丁目交差点で国道16号八王子バイパスと交差し、甲州街道

高架下を直進。

イカー時代、何度も通ったことがあった。

100m程先で左へ入る道が旧甲州街道

400m足らずの弓状の旧道で、当時の面影は残っていない。

途中一角に馬頭観音道祖神など石仏石塔を集めたところがあり、と街道書にあたが

見つけられなかった。

(あとで調べたが、すこし奥に入る様子)

旧道を出た所がちょうど浅川で和田橋北詰。

資料では、大和田橋は昭和の時代に入った昭和16年(1941年)に架橋された橋ですが、

その4年後の昭和20年(1945年)、第二次世界大戦終結間近の8月初旬に八王子市は

アメリカ軍のB29爆撃機による爆撃を受け、八王子も甚大な被害を蒙りました。

爆撃の焼夷弾跡が多数あり残されているとの碑も建っていた。

碑には

焼夷弾・弾痕の保存について
 八王子市は太平洋戦争終結の13日前、昭和20年8月2日未明に、米空軍の

 B29爆撃機180機の空襲を受け、約450名が死没、2000余名が負傷し、

 旧市街の約80%の家屋が消失する被害を受けました。そのとき多くの市民が

 大和田橋の下に避難し、尊い命が助かりました。

大和田橋の歩道上には、この空襲の時投下された焼夷弾の跡が17箇所残っています。車道の部分は過去の補修により、弾痕は残っていませんが、現在歩道上に残っている

弾痕の数から推測すると橋全体では約50個以上の焼夷弾が投下されたと思われます。建設省相武国道工事事務所では、この大和田橋の補修j工事にあたり焼夷弾の弾痕を保存し太平洋戦争の痕跡を永く後世に伝えるものです。

とあった。

本当に戦争、世界中でなくなることを願いたいですね。

大和田橋を渡ります。

街道書には、

浅川は江戸期は4~9月は徒歩渡り、10~3月は架橋された。

かっては鮎が名物で将軍家へも献上され、流末は多摩川へそそぐ、とある。

 大和田橋を渡ると20号と別れ大和田橋南詰交差点を右折し、北大通りに入ります。ここが旧甲州街道で、八王子宿へ向かって行きます。 

通りは北大通り、町は明神町

300m強は変則五差路で、街道は左手の細い方の道、町は新町。

すぐ左手の塀に葉を茂らせる真っ青の花、カンパニラ・アルペンブルーだね。

ちょっと日影が残念だけど、生垣のように大きく咲いてるのは珍しい。

隣の鉢植えの黄色い花は多肉植物の花は?

いや~ドクダミの八重咲だね。

花を楽しみながら200m程行くと、右手の小さな公園は竹の花公園。

一画に市史跡の日本橋から12里目の「竹の鼻の一里塚跡」の石碑が立っています。

ここは新町といって、八王子宿の東端になるという。

街道書には、

八王子宿は、江戸から数えて10番目(別の数え方もあります)の宿場町で、

八王子横山十五宿とも呼ばれたように、江戸側から)新町、横山宿、八日市宿、本宿、

八幡宿、八木宿、子安宿、馬乗宿、小門宿、本郷宿、上野宿、横町、寺町、久保宿、

嶋坊宿の15宿で構成されていた。

横山宿が一番大きかったので正式には「横山宿」と呼ばれる。

江戸時代になって以降、大久保長安により開発された宿場町です。

天保14年(1843年)の記録によると人口6026名、総家数1548軒、本陣2軒、

脇本陣3軒、飯盛旅籠も含め34軒の旅籠屋があった。

とある。

公園の隣はこの地の鎮守・永福稲荷神社がりました。

毎年9月に行われる例大祭、しょうが祭り等で地元では知られた神社という。

案内板には、

永福稲荷神社は創建は定かではないが、宝暦6年(1756年)、八王子出身の

力士・八光山権五郎が再建したもので、落慶の日に八光山権五郎が相撲を奉納したと

伝わっている、とあった。

社殿の前には、八光山権五郎の大きな石像が立ってる。

社殿の右側に芭蕉の句碑や、

享保8年(1723年)建立という青面金剛像があった、

神社のすぐ先は枡形で左手へ行きます。

街道書には、木戸があり刑場も付近にあたが、痕跡などはなし、とある。

南に向かう右手は一番大きかったという、横山町になった。

枡形を左折したあたりから、八王子宿の家々が街道の両側に軒を接して建ち並んでいたと、街道書にあった。
約300m弱行くと、国道20号(現、旧甲州街道)の八王子駅入口東交差点。

街道は20号を右手に折れてゆくが、時刻も丁度午後2時を回ったところ。

そのまま信号を渡り八王子駅方面へ。

渡って100mを左手に行けば子安神社と街道書にあり、曲がって少し行けば神社。

神社の案内板、

「今からおよそ1250年前、天皇陛下の皇后さまがご懐妊され、その安産祈願のために子安神社は創建されました。
  ご祭神は古事記の神話において、安産・育児・子授けの女神として有名な木花開耶姫命コノハナサクヤヒメノミコト)。
  一千年以上の長き歴史の中で八王子を見守り、崇敬を集めてきました。」
 

神社御由緒には、

当社は八王子市最古の歴史を持つ。
およそ1250年前、759(天平宝字3)年、第47代淳仁天皇の皇后・粟田諸姉(あわたのもろえ)の御安産を祈願すべく、勅命を受けた橘右京少輔が草創したと伝えられる。
以後多西郡(多摩川の西側)の総鎮守、安産の神として近郷より崇敬され、子安明神と称された。

安産の女神として有名な木花開耶姫命コノハナサクヤヒメノミコト)。

女性の神として、安産・子授け・育児のご利益を授けて、八王子を見守りてきました。

とあった。

古来より安産のため「底抜けひしゃく」を奉納するという、

木花開耶姫命コノハナサクヤヒメノミコト)

水子供養葦舟者

などなそ、安産、子育てにまつわる10社以上の末社を祭る神社でしたね。

けっこう大勢の安産祈願や子育て祈願方がお参りされていた。

神社を後にJR八王子駅へ。

電車を3本乗り継ぎ、旅は終わりました。

初めてスッテキ使用の歩き、足の状態はいい塩梅のようで、

これから先も頼ります。

終わり。

甲州街道四十四次 7

6回目の甲州街道から1週間余、

天気は薄曇りだが雨は大丈夫そう、とGW最終日の6日、再び街道歩きへ。

電車を3回乗り継いで、前回足止めの東京都国立市、JR南部線矢川駅へ降り立った。

駅から南へ歩き、おっ、地域コミニティーバスはマイクロバスだ。

路肩の花壇、いい色だねナデシコだね。

10分ほどで、旧甲州街道都道256・現甲州街道矢川駅入口交差点。

甲州街道国道20号は、国立で国道日野バイパス20号となり、

しばらくは都道256が、現甲州街道

交差点を渡ってすぐ左手の南養寺へ。

南養寺参道入り口には常夜燈が建ち、右手は千手観音供養塔。

常夜燈は秋葉山常夜燈で、寛政6年(1794)の建立。上谷保村にあったのが

移築されたという。

竿石には秋葉大権現、榛名大権現と刻まれている。

右側の千手観音供養塔は、寛政5(1793)年に圓成院の観音堂を南養寺に移築した際に、

本尊の十一面千手観音坐像を供養する塔として、享和3年(1803)に建立された、

と、そばに建てられた案内板があった。

南養寺は臨済宗建長寺派。 

開山は建長寺三十七世真照寺大定禅師物外可什大和尚で、

江戸期には寺領10石の御朱印状を拝領したという。

総門は安永9年に建てられ、本堂は文化元年(1804)、圓成院の観音堂を寛政5年(1793)に移築移築した

大悲殿、鐘楼は天明8年(1788)の建立、と案内板にあり、いずれも国立市指定史蹟・文化財とあった。

拝観しなかったが、本堂の北面には枯山水様式の庭園があるそうです。

 はやい!、境内にキスゲが咲いていた。

南養寺を出て交差点を北側へ渡り、すぐ右手の祠は、五知如来と街道書にある。

五智如来とは、仏教でいう五つの智を備えた仏のことで、大日如来の別名とも言われています…とのこと。

江戸時代に八王子から移住した人々が、それまで信仰していた五智如来を祀ったの始まりと伝えられている。

今でも10月には「おこもり」と呼ばれる、五智如来の供養が行われているともあった。

歩きを楽しみながら、

やあ、いい花付きだね~ニオイバンマツリ

ロゴかな?

五知如来より10分程、街道書では左手に旧青柳村、旧石田村の鎮守である

青柳稲荷神社の参道入口とあり、その左側には江戸時代前期造立の木造地蔵尊

安置されている青柳地蔵堂が建っている。

地蔵堂は中は見えませんでした。

右側には寛政11年(1799)建立の元青柳村の常夜燈が建ち、竿石には「秋葉大権現」「正一位稲荷大明神」「榛名大権現」と刻まれている。

傍らに嘉永2年(1849)建立という馬頭観世音があった。

地蔵堂の脇の参道を入っていくと青柳村の鎮守様、青柳稲荷神社。

5分ほど先の交差点の左手に下る坂道があり、万願寺渡し場跡口とで、

慶安年間(1648年~)30数年ほど、舟渡しがされたた、と街道書にある。

さらに5分ほど進むと国立市から立川市へ入り。

さらに10分、どちらへ進むのか?変則五差路の日野橋交差点。

正解は右手にスタンドのある一番狭い奥多摩道路と、街道書に。

甲州街道(都256)と別れ、ここから奥多摩街道を入り5分ほど、旧甲州街道

標識に沿って左に入り、桜並木になっている道を進む。

立川市の市の花、「こぶし」なんですね。

右手によく整備された広い敷地は市柴崎体育館

入口前建つ案内板の怪しいシルエットは?

体育館でトイレ拝借後、さらに下り交通量の多い都道29号線を横断すると、

突き当りの市の下水処理場前で右手に曲がる。

突き当り左側に、日野の渡し碑が建っていた。

街道書には、

「江戸初期の渡し場は下流の「万願寺の渡し」であった。低地のため度々の洪水に

見舞われ街道が分断されたことにより、街道は河岸段丘の上の現甲州街道に移され、

それと共に、貞享元年(1684)農耕作業などで使われていた日野の渡しが甲州街道

正式な渡しとして決められた。現在の立日橋(たっぴばし)の下流の位置にあたる。
 渡しは多摩川の冬期の渇水期には土橋が使われ、3月から10月までは船によって行われていた。江戸時代後期、文政7年(1824)からは通年船による渡しに改められている。
大正15年(1926)日野橋の架橋で、日野の渡しは江戸時代初期から続く270年あまりの歴史に幕を閉じた。」と記されている。

碑の向かい側一角に、大小の馬頭観がある。
小は年代物のようだが、大きい棒観音は大正13年(1924)建立と刻まれていた。

すぐ先を左折すると多摩川の土手に当たり、

土手上道を右折し、旧甲州街道として今は立川市と日野市を結ぶ

立日橋(たっぴばし)を渡ります。

多摩都市モノレール線の橋梁が一体となって供用され、この橋の上をモノレールも

通っています。

そしてこの辺りが、かつての多摩川の渡し。日野の渡し、日野渡船場などと呼ばれて

いた。

多摩川を渡ります。

久しぶりの大きな川渡り。

上流側

おおっ、富士山だ!

薄曇りだったので、富士の山を拝めるとは思てもいなかたので感激!

黒いからだに白いおでこと嘴、オオバンだね。

おや、カワウやシロサギ(ダイサギかな)もいた。

立日橋上で立川市から日野市へ入ります。

渡った先、立日橋南でモノレールと別れすぐ先は市民の森スポーツ公園交差点。

右手に市民の森スポーツ公園を見て歩き、現甲州街道(都256)に合流に

向かいます。

おっ、日野市のマンフォール、デザインはカワセミなんだ。

散歩公園や川沿いデカワセミん出会うことがあり、歩きにはデジカメ持参です。

しばらく出会ってないな~・・池のカワセミ

交差点の手前左手に、文化8年(1811)建立の馬頭観音があり、奥の祠に享和9年(1809)の造立という福地蔵ともいわれた東の地蔵が祀られていた。

街道書に、ここが日野宿の江戸(東)口とあり、いよいよ日野宿へ到着。

すぐ先が甲州街道都道256号線)で、右へ折れて日野宿の中心へ向かいます。

街道書には、

 日野宿は、 日本橋から数えて10番目の宿場。宿場町として整備されたのは

 慶長10年(1605)の ことで、八王子宿を整備した大久保長安の手によって

 開かれた。
 本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠20軒、問屋場一軒、総家数423軒、人口1556人
 宿は東の方より下宿、中宿、上宿と称し、中宿には名主、本陣、脇本陣を務めた

 2軒の佐藤家があった。とある。

洋館のように見えますが、実は蔵だそうで、元は有山家の蔵。

明治時代に建てられ、関東大震災後に改築されたという。

かつては日野銀行の店舗として使われていたが、現在は閉鎖中のようです。

隣にっは蔵も残されていた。

金網フェンスなった案内板説明には、

この通りには、有明家(屋号綿十)、中嶋家(嶋谷)、古谷家(油屋)土方家(土屋)

と、蔵の連なる街並みがあった、と記してあった。

おや、左手の駐車場看板には・・・屋号土屋の土方家跡かな。

おや、日野も5月は祭りなんだ。

2,3分先で川崎街道入口交差点。

向こう角に木に隠れて高幡不動道標が立っている。

街道書には、1884年(明治17)年に建てられた、とあった。

高幡不動新選組土方歳三菩提寺ともある。

すぐ先左手が、本陣としては東京都内で唯一遺された下佐藤家本陣跡(日野宿本陣跡)が現存し、公開されていた。

下佐藤家は隣の上佐藤家と交代で名主を勤め、正徳6年(1716)脇本陣と定められ、

幕末には本陣となった。。

  門脇に当主の佐藤彦五郎が開いた「天然理心流佐藤道場跡」の碑があった。

この道場で剣術を教えていたのがのちの新選組局長近藤勇である。近藤と土方歳三沖田総司井上源三郎山南敬助新選組主要メンバーはここで出会った、と街道書に。

本陣跡の屋敷内は街道歩きで、多く見学したので屋敷内へは上がらなかった。

 隣は下佐藤家と交代で本陣を務めた、上佐藤家跡で、正徳6年(1716)本陣と

 定められた。長屋門等は消失してしまったという。

本陣跡の向かいが問屋場・高札場跡で碑が立っている。

寄らなかったが次の信号を左折して行くと大昌寺、と街道書にある。 
墓地には、新撰組最大の支援者だったと言われる佐藤彦五郎と、その妻であり

土方歳三の姉であるノブが埋葬されており、新撰組にゆかりのある寺院。
 境内には日野宿の時の鐘がある。

と街道書にはあった。

おや、アジサイでは!もう咲き始めてるよ。

本陣跡から10分程、日野市役所入口交差点の先左手に八坂神社があった。

 日野八坂神社の創建年代は不詳だが、 慶安元年(1648)には徳川家光から

 社領免除と朱印地十四石を拝領した日野郷の総鎮守社。
 本殿は、寛政12年(1800)に完成したもので、本殿には、安政5年(1858)に

天然理心流近藤周助(勇の養父)の門人達により奉納された額があり、欅板に大小二本の木刀が架けられている、と街道書にあった。

神社の前の交差点を右手に渡り、街道は交差点先のY字路で右手に行くとある。

10mほど先で左折すると、元の道へ戻りすぐ先がJR日野駅だった。

 JR中央本線日野駅は旧官設鉄道日野駅で、駅舎は昭和12年竣工で民家風。

予定は八王子市に入り、3kmほど先のJR八高線北八王子駅までだったが、

残念ながら歩きに異変が出ため、歩きを見ていたカミさんのStopでここで足止め。

まあ、急ぐ旅じゃなし、ゆっくり行こう。

で、第7回はEND。