甲州街道四十四次 7

6回目の甲州街道から1週間余、

天気は薄曇りだが雨は大丈夫そう、とGW最終日の6日、再び街道歩きへ。

電車を3回乗り継いで、前回足止めの東京都国立市、JR南部線矢川駅へ降り立った。

駅から南へ歩き、おっ、地域コミニティーバスはマイクロバスだ。

路肩の花壇、いい色だねナデシコだね。

10分ほどで、旧甲州街道都道256・現甲州街道矢川駅入口交差点。

甲州街道国道20号は、国立で国道日野バイパス20号となり、

しばらくは都道256が、現甲州街道

交差点を渡ってすぐ左手の南養寺へ。

南養寺参道入り口には常夜燈が建ち、右手は千手観音供養塔。

常夜燈は秋葉山常夜燈で、寛政6年(1794)の建立。上谷保村にあったのが

移築されたという。

竿石には秋葉大権現、榛名大権現と刻まれている。

右側の千手観音供養塔は、寛政5(1793)年に圓成院の観音堂を南養寺に移築した際に、

本尊の十一面千手観音坐像を供養する塔として、享和3年(1803)に建立された、

と、そばに建てられた案内板があった。

南養寺は臨済宗建長寺派。 

開山は建長寺三十七世真照寺大定禅師物外可什大和尚で、

江戸期には寺領10石の御朱印状を拝領したという。

総門は安永9年に建てられ、本堂は文化元年(1804)、圓成院の観音堂を寛政5年(1793)に移築移築した

大悲殿、鐘楼は天明8年(1788)の建立、と案内板にあり、いずれも国立市指定史蹟・文化財とあった。

拝観しなかったが、本堂の北面には枯山水様式の庭園があるそうです。

 はやい!、境内にキスゲが咲いていた。

南養寺を出て交差点を北側へ渡り、すぐ右手の祠は、五知如来と街道書にある。

五智如来とは、仏教でいう五つの智を備えた仏のことで、大日如来の別名とも言われています…とのこと。

江戸時代に八王子から移住した人々が、それまで信仰していた五智如来を祀ったの始まりと伝えられている。

今でも10月には「おこもり」と呼ばれる、五智如来の供養が行われているともあった。

歩きを楽しみながら、

やあ、いい花付きだね~ニオイバンマツリ

ロゴかな?

五知如来より10分程、街道書では左手に旧青柳村、旧石田村の鎮守である

青柳稲荷神社の参道入口とあり、その左側には江戸時代前期造立の木造地蔵尊

安置されている青柳地蔵堂が建っている。

地蔵堂は中は見えませんでした。

右側には寛政11年(1799)建立の元青柳村の常夜燈が建ち、竿石には「秋葉大権現」「正一位稲荷大明神」「榛名大権現」と刻まれている。

傍らに嘉永2年(1849)建立という馬頭観世音があった。

地蔵堂の脇の参道を入っていくと青柳村の鎮守様、青柳稲荷神社。

5分ほど先の交差点の左手に下る坂道があり、万願寺渡し場跡口とで、

慶安年間(1648年~)30数年ほど、舟渡しがされたた、と街道書にある。

さらに5分ほど進むと国立市から立川市へ入り。

さらに10分、どちらへ進むのか?変則五差路の日野橋交差点。

正解は右手にスタンドのある一番狭い奥多摩道路と、街道書に。

甲州街道(都256)と別れ、ここから奥多摩街道を入り5分ほど、旧甲州街道

標識に沿って左に入り、桜並木になっている道を進む。

立川市の市の花、「こぶし」なんですね。

右手によく整備された広い敷地は市柴崎体育館

入口前建つ案内板の怪しいシルエットは?

体育館でトイレ拝借後、さらに下り交通量の多い都道29号線を横断すると、

突き当りの市の下水処理場前で右手に曲がる。

突き当り左側に、日野の渡し碑が建っていた。

街道書には、

「江戸初期の渡し場は下流の「万願寺の渡し」であった。低地のため度々の洪水に

見舞われ街道が分断されたことにより、街道は河岸段丘の上の現甲州街道に移され、

それと共に、貞享元年(1684)農耕作業などで使われていた日野の渡しが甲州街道

正式な渡しとして決められた。現在の立日橋(たっぴばし)の下流の位置にあたる。
 渡しは多摩川の冬期の渇水期には土橋が使われ、3月から10月までは船によって行われていた。江戸時代後期、文政7年(1824)からは通年船による渡しに改められている。
大正15年(1926)日野橋の架橋で、日野の渡しは江戸時代初期から続く270年あまりの歴史に幕を閉じた。」と記されている。

碑の向かい側一角に、大小の馬頭観がある。
小は年代物のようだが、大きい棒観音は大正13年(1924)建立と刻まれていた。

すぐ先を左折すると多摩川の土手に当たり、

土手上道を右折し、旧甲州街道として今は立川市と日野市を結ぶ

立日橋(たっぴばし)を渡ります。

多摩都市モノレール線の橋梁が一体となって供用され、この橋の上をモノレールも

通っています。

そしてこの辺りが、かつての多摩川の渡し。日野の渡し、日野渡船場などと呼ばれて

いた。

多摩川を渡ります。

久しぶりの大きな川渡り。

上流側

おおっ、富士山だ!

薄曇りだったので、富士の山を拝めるとは思てもいなかたので感激!

黒いからだに白いおでこと嘴、オオバンだね。

おや、カワウやシロサギ(ダイサギかな)もいた。

立日橋上で立川市から日野市へ入ります。

渡った先、立日橋南でモノレールと別れすぐ先は市民の森スポーツ公園交差点。

右手に市民の森スポーツ公園を見て歩き、現甲州街道(都256)に合流に

向かいます。

おっ、日野市のマンフォール、デザインはカワセミなんだ。

散歩公園や川沿いデカワセミん出会うことがあり、歩きにはデジカメ持参です。

しばらく出会ってないな~・・池のカワセミ

交差点の手前左手に、文化8年(1811)建立の馬頭観音があり、奥の祠に享和9年(1809)の造立という福地蔵ともいわれた東の地蔵が祀られていた。

街道書に、ここが日野宿の江戸(東)口とあり、いよいよ日野宿へ到着。

すぐ先が甲州街道都道256号線)で、右へ折れて日野宿の中心へ向かいます。

街道書には、

 日野宿は、 日本橋から数えて10番目の宿場。宿場町として整備されたのは

 慶長10年(1605)の ことで、八王子宿を整備した大久保長安の手によって

 開かれた。
 本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠20軒、問屋場一軒、総家数423軒、人口1556人
 宿は東の方より下宿、中宿、上宿と称し、中宿には名主、本陣、脇本陣を務めた

 2軒の佐藤家があった。とある。

洋館のように見えますが、実は蔵だそうで、元は有山家の蔵。

明治時代に建てられ、関東大震災後に改築されたという。

かつては日野銀行の店舗として使われていたが、現在は閉鎖中のようです。

隣にっは蔵も残されていた。

金網フェンスなった案内板説明には、

この通りには、有明家(屋号綿十)、中嶋家(嶋谷)、古谷家(油屋)土方家(土屋)

と、蔵の連なる街並みがあった、と記してあった。

おや、左手の駐車場看板には・・・屋号土屋の土方家跡かな。

おや、日野も5月は祭りなんだ。

2,3分先で川崎街道入口交差点。

向こう角に木に隠れて高幡不動道標が立っている。

街道書には、1884年(明治17)年に建てられた、とあった。

高幡不動新選組土方歳三菩提寺ともある。

すぐ先左手が、本陣としては東京都内で唯一遺された下佐藤家本陣跡(日野宿本陣跡)が現存し、公開されていた。

下佐藤家は隣の上佐藤家と交代で名主を勤め、正徳6年(1716)脇本陣と定められ、

幕末には本陣となった。。

  門脇に当主の佐藤彦五郎が開いた「天然理心流佐藤道場跡」の碑があった。

この道場で剣術を教えていたのがのちの新選組局長近藤勇である。近藤と土方歳三沖田総司井上源三郎山南敬助新選組主要メンバーはここで出会った、と街道書に。

本陣跡の屋敷内は街道歩きで、多く見学したので屋敷内へは上がらなかった。

 隣は下佐藤家と交代で本陣を務めた、上佐藤家跡で、正徳6年(1716)本陣と

 定められた。長屋門等は消失してしまったという。

本陣跡の向かいが問屋場・高札場跡で碑が立っている。

寄らなかったが次の信号を左折して行くと大昌寺、と街道書にある。 
墓地には、新撰組最大の支援者だったと言われる佐藤彦五郎と、その妻であり

土方歳三の姉であるノブが埋葬されており、新撰組にゆかりのある寺院。
 境内には日野宿の時の鐘がある。

と街道書にはあった。

おや、アジサイでは!もう咲き始めてるよ。

本陣跡から10分程、日野市役所入口交差点の先左手に八坂神社があった。

 日野八坂神社の創建年代は不詳だが、 慶安元年(1648)には徳川家光から

 社領免除と朱印地十四石を拝領した日野郷の総鎮守社。
 本殿は、寛政12年(1800)に完成したもので、本殿には、安政5年(1858)に

天然理心流近藤周助(勇の養父)の門人達により奉納された額があり、欅板に大小二本の木刀が架けられている、と街道書にあった。

神社の前の交差点を右手に渡り、街道は交差点先のY字路で右手に行くとある。

10mほど先で左折すると、元の道へ戻りすぐ先がJR日野駅だった。

 JR中央本線日野駅は旧官設鉄道日野駅で、駅舎は昭和12年竣工で民家風。

予定は八王子市に入り、3kmほど先のJR八高線北八王子駅までだったが、

残念ながら歩きに異変が出ため、歩きを見ていたカミさんのStopでここで足止め。

まあ、急ぐ旅じゃなし、ゆっくり行こう。

で、第7回はEND。