日光道中二十一次 (第12歩)

先月、5月19日に再開した日光街道歩き旅。

約2週間が過ぎ、カミさんの足も異常無しで6月1日 、再び旅へ。

早朝家を出て、AM8:45、前回足止めのJR宇都宮線石橋駅(栃木県)へ下車。

予定は石橋宿から雀宮宿、宇都宮宿へ  14.4Km  だが、まあ、行けるとこまで。  

  石橋駅前のグリムの塔 
石橋の街中には、「グリムの森」という公園もあるという。
「グリムの森」のHPによると、グリム生誕の地である、ドイツ・ヘッセン州にある

シュタインブリュッケン村と姉妹都市になっているそうで、

ドイツ語で、「シュタイン=石」「ブリュッケン=橋」から、和訳すると「石橋」と

なり姉妹都市となったようであった。

天気は晴れ風も少しあり、まずまずの歩き日和り。

駅前で旅立ちショット

この花、なの花? 多肉植物のようだが。

駅から西北へ5分ほど行くと、国道4号と交わる石橋交差点で日光街道

そして旧石橋宿。

石橋の地名は街道東にかつてあった池上明神に、当時としては珍しい石の橋があった

からとのこと。

石橋は幕府領で代官北条雄之助が支配し、日光道中の15番目の宿場石橋宿。、
天保14年(1843年)の頃、

宿内家数は79軒、うち本陣1、脇本陣1、旅籠30軒、宿内人口は414人。
すぐ左手に立派な煉瓦塀、煉瓦門構えの建屋は、左手の薬局の元母屋かな?

名産・大谷石消防団車庫など見ながら足を進めると、

右手に開雲寺。

おや、隣の塀越しに覗くは、穂咲きしてるが梅花空木のようだが?

真言宗石橋山・開雲寺は、天応1年(781年)東光寺として開山。

文亀2年(1502年)にこの地に移る。慶長9年(1604)幕府から寺領七石を拝領し、

徳川将軍家日光東照宮参拝道中の休泊所となり葵紋の使用が許された。

土塀には城郭様式で銃眼や矢狭間(やざま)がある。
寺の本堂・庫裡・山門などは安政年間(1854~60)の再建であるという。

(修復をしてるからかな、古色蒼然とはしてませんね)

(矢狭間や鉄砲狭間)

開雲寺境内のユニーク羅漢像

開雲寺をあとに、往年の宿場街風情は残していない石橋宿を後にして、

国道4号を少し行くと、右手路肩に新しい馬頭観音や十九夜塔と、すっかり風化が

進んだ庚申塔

東京から94km、95km。単調な国道(日光街道)を40分ほど行くと。

地名は鞘堂となり、左手に鞘堂地蔵尊(さやどう)で、奥に小さなお堂があった。

鞘堂自治会の由来案内板には、

南北朝時代(1380年)の戦での戦死者の鞘を村人が集めお堂を立てた、とある。

いまは安産に霊験あらたかとあり、巧化のために現在のお堂は、昭和53年に

新たに建てられ、厨子には地蔵尊の頭部が収められ、日本画地蔵尊像画が祀られた

ともあった。(頭部だけ祀られるのも珍しい)

 

鞘堂から5分ほど行くと、左手に赤い鳥居が建ち。創建年代は定かではないそうだが、鞘堂新田村の鎮守の星宮神社があった。

鞘堂新田村は日光東照宮の造営後に開かれた村で石橋宿の助郷村。

石の祠が参道右手に並び、裏手にも多数祀られてるという。

すぐ先で96kmを過ぎ「北関東自動車道」の高架をくぐる。

北関東自動車道」の高架をくぐってすぐ先で宇都宮市に入ったようで、

地名が宇都宮市茂原(旧宇都宮藩領)となり、右手に茂原正観音道と刻まれた石柱が

建っている。(市境標識は写し忘れ)

 茂原観音はここを右に入り、JR線を越えて、現在の道で1.6Km先というので、寄り道はパス。

おや、大谷石土台に木造の小屋が載った蔵。

さっきから自衛隊車両が頻繁に国道を行き来していたが、左手に自衛隊基地入り口門が

あり、広大な自衛隊の宇都宮駐屯地の敷地が広がているようだった。

98km99km、民家風の交番などを見送り、30分ほど行くと

安塚街道入り口交差点で、ここが雀宮宿江戸方の入り口で、かっては木戸や土塁が

あったという。

雀宮宿は 江戸から16遍目の宿場町で、日本橋から25里11町(99.4Km)、

 宿内人口:268人、総戸数:72軒(本陣1・脇本陣1 ・旅籠38)

 日光街道が整備されてから街道沿に人々が集まり雀宮村が出来た。

その名は雀宮神社から由来する。

宿場は南北に5町20間(約582m)と小さかった。

雀宮宿へ入り、左手に小倉家が勤めた雀宿本陣跡石碑と街道書にあるが、

石碑は見つけられず、雀宮駅入り口交差点差し掛かり、駅入り口角に門を構えた

建屋が見え、交差点を右手に渡ります。

建屋の門前には、「旧仮本陣芦谷家建物、高麗門」と標柱が建ち、

「雀宿仮本陣」記したの大きな木札が掲げられていた。

仮本陣は代々芦谷家が勤め、名主、問屋を兼ね、建坪は94坪余あったという。

門(高麗門)は、後世に伝えるべき歴史的建造物として、令和元年に「宇都宮市認定建造物」に認定されたそうです。

(仮本陣は小倉家本陣と交代で務めた本陣ということのようです。)

敷地内に植樹された樹は梨の樹の様で、品種名「にっこり}

紐で結ばれた樹が「にっこり」のようです。

説明板に「明治天皇東北巡幸の折り休息され、庭の梨を太政大臣三条実美が皮を

剥いて差し上げた」とあったことからの命名かな?

 「雀宮駅前交差点」から5分、の右側に祠があり、中に数個の石碑が納まっていた。

安政5年(1858年)の大きな馬頭観音石碑と、大正11年(1922年)建立の

馬の神を現す生駒神、勝善神(馬力神)が収められていた。

「馬の神様」は街道旅で初めてかな。

 すぐ隣は、宿場名の由来となった雀宮地区の産土神である郷社雀宮神社。 


雀宮神社、長徳3年(997年)八幡太朗義家によって創建され、雀宮村の鎮守。

正徳3年(1713年)東山天皇より金文字で雀宮と書かれた勅額(ちょくがく)が

下賜され、今でも社殿に保管されている。

この額が社頭にあるため日光社参の将軍や諸大名は参詣を常としました。

(正徳3年(1713年)に下賜されたという「雀宮」と書かれた勅許額。)

鎮守としての鎮めるから轉じて雀(’すずめ)とも、別の説文では、
百人一首歌人藤原実方(さねかた)が陸奥守として任地に赴任すると、

妻の綾女が夫の元へと向いましたが、この地で病死した。

夫の藤原実方も任地で死亡し、霊魂が雀となって飛来し、綾女塚の上まで来て

息絶えた。里人が憐れみ塚上に二人を祭り雀宮神社と称した、これが地名の雀宮の

由来になった。」ともある。

ご本殿はベンガラ塗り?

可愛いお願い

神社のすぐ先は、東京から100Kmの標柱が立っていた。

100kmか~・・・

すぐ先で旧道は左手に少しの間分岐し国道と平行に続く区間を通ります。

少し離れただけで国道の騒音から逃れての15分ほどの静かな街道歩きです。

101km、102km、大谷石倉などを見送りながら

30分ほど行くと、地名は台新田で左側に塗り替えたばかりのようなお堂は

縁起の良い名称の寿鶴(すず)薬師堂と街道書にはある。

地蔵尊如意輪観音像を安置とあるが堂内は覗えない。

案内板もなく由来は不明。

薬師堂から約10分弱、右手に学問の神菅原道真を祭る天神社菅原神社。

この辺りは台新田村立場跡で高札場があったそうで、領内の名主や町年寄は当社にて

宇都宮藩主参勤の送迎を行い、将軍社参の際は境内に仮の御茶屋が設けられたという。

15分ほど進み。国道わきのCaféですこし足休めを兼ねてコーヒータイム。
終えて20分ほど行くとバス停があり名が一里で、そばの交差点名も「一里」の表記。

往時はこの辺りに江曽島一里塚があったそうだが、ここも説明板などは無し。

一里交差点を過ぎてすぐからは電線地下化ですっきりとした国道に変貌。

15分ほど行くと「西原交差点」で、長いこと付き合ってきた国道4号線が

右に分かれ、日光街道は直進する国道119号線とのお付き合いとなり、

「国道119・日光街道・日光31Km」の道標が出てきた。

 国道119号に入り、時代を感じる大工場やJR日光線の越架橋など過ぎて

15分ほど行くと変則四差路のの不動前交差点。

江戸時代初期まで奥州街道追分だったが、その後付け替えられたという。

不動前からはマスク常着で10分ほど行くと、東武日光線のガードがあり、

過ぎたところが日光街道江戸口で、宇都宮宿の木戸や土塁、番所が有り、

明け六つから暮れ六つまで通行ができた、と街道書にはある。

宇都宮宿は 江戸から17番目の宿場で、11万石宇都宮藩の城下町、また日光街道

奥州街道の追分でもあったので、交通の要衝として賑わったそうだ。

本陣2、脇本陣1、旅籠42軒があったという。

すぐ右側に、屋根のかかった市指定史跡があり、街道書によれば、「維新期の尊皇家、蒲生君平勅旌(がもうくんぺいちょくせい)の碑で、明治になって維新に大きな功績があったとしてが追賞されたとあり、元宇都宮城主蒲生家の流れの人物ともある。

 街道から左に宿場の目印となっていた、樹齢は推定800年で根回りは20mほどもある「新町のケヤキ」があったそうだが残念ながら切り倒されたという。

この付近は、江戸時代には宇都宮城下の南端に位置し、元和5年(1619)、

宇都宮城本多正純により日光街道の付け替えがなされたとき、街道沿いに新しく

開かれたところで、町の名もそれに由来するという。

すぐ先右側に「一向寺旧地蔵寺参道」と刻まれた石碑が建っているが、現在の一向寺はもう少し先にあるそうです。

 左側に1605年(慶長10年)に開基された台陽寺の参門

戊辰戦争で戦死した宇都宮藩士の墓がある。また、境内には、子安地蔵尊も祀られている。

すぐ先の左側に熱木不動尊が建つ。

熱木不動尊は、宇都宮城の乾の方角の守護であった
康平2年(1059年)、初代の宇都宮氏の祖「藤原宗円」が戦勝祈願して彫った

木彫りの不動尊を祀っている

また此の辺一帯は城下町特有の寺の多い一画となっている、と街道書にある。

不動尊の先に西原バス停。

宇都宮宿へ入ったばかりだが、j時刻も午後の4時半。

JR宇都宮駅までは2km強あるようなので、今日の街道旅はここで足止め。

 

5分待ちで来たバスで、JR宇都宮駅へ出て家路へ。
郊外の街道歩きはほとんどをマスクを外しての歩き。

梅雨入り前に宇都宮宿は歩き抜けたいが・・・・またいつの日にか。