日光道中二十一次 第13歩

すぐ先の左側に熱木不動尊が建つ。

熱木不動尊は、宇都宮城の乾の方角の守護であった
康平2年(1059年)、初代の宇都宮氏の祖「藤原宗円」が戦勝祈願して彫った

木彫りの不動尊を祀っている

また此の辺一帯は城下町特有の寺の多い一画となっている、と街道書にある。

宇都宮宿江戸口を過ぎて10分ほど行くと、西原バス停。

宇都宮宿へ入ったばかりだが、j時刻も午後の4時半。

JR宇都宮駅までは2km強あるようなので、今日の街道旅はここで足止め。

梅雨入り前に宇都宮宿は歩き抜けたいが・・・・またいつの日にか。

と、令和4年6月1日、第12歩の歩みを終了。

 

梅雨をへて、猛暑や不安定な天気続きの夏も過ぎ、早10月。

日中は夏日なれど、朝晩は涼し過ぎるくらいの陽気になり、

すっかり鈍った足腰だが、そろりと街道旅へ足を踏み出しに。

10月1日(土)、電車を乗り継ぎ、AM9:30 栃木県宇都宮駅着。

駅前からバスで前回足止めのバス停へ・・・ なんと下車停留所を間違えた・・・。

さあ~、見渡せど景色が違うような???

感覚的にはだいぶ手前の停留で降りてしまった様子。

西原三丁目・・いな、降りたのは西原二丁目〇〇だった・・・

確か路は南北道の「蓬莱大黒通り」だったはずが、この道は東西路だ。

回りの街並み風景を、遠い(自分にとっては)記憶を手繰りし「蓬莱大黒通り」を

見つけ、ようやく前回足止めバス停へたどり着き、やれやれお疲れさん。

(あとになって、カミさんが持ってるスマッホで調べられたね・・・て苦笑い)

と、年らしい凡失をしながらもAM10:30 日光へ向けて約34km。

さぁて、今日はどのぐらい歩けるか? 歩き旅を再開スタート。

気温はぐんぐん上がり、日向の歩きは厳しくなりそう。

道端のさく大きなアメリカ芙蓉。

 宇都宮宿は日光街道奥州街道筋の17番目の宿場町で宇都宮城の城下町でもあり

更に「二荒山神社」の門前町でもあった。

また奥州街道日光街道の追分で大いに賑わったとされ、

1844年(天保15年)の記録によれば、

人口15500人、家屋1693軒、本陣2軒、脇本陣1軒、旅館42軒。

宇都宮藩は慶長6年(1601年)奥平信昌の嫡子家昌が10万石で宇都宮藩が成立し、

以後宇都宮吊天井事件など芝居で演じられた本多正純など、譜代大名が代替わりし、

1868年(慶応4年) の   戸田忠友 代に  廃藩置県を迎えた。

維新戦争やこの大戦の空襲などの戦災で街並みは焼失し、当時の面影はすべて

失われて、今は県庁所都市として人口50万余の北関東最大の近代都市になっている。

 

「蓬莱大黒通り」を5分北上した左側に一向寺の大きな石柱が建ち、

参道が奥に伸びている。

街道書には、建治2年(1276)開山された時宗・一向寺とあり、

『汗かき阿弥陀』の記載が有った。

山門を歩入ると正面にご本堂、そして左手にお堂が建ち、『汗かき阿弥陀』の

青い説明板が立っていた。

『汗かき阿弥陀』で知られる阿弥陀如来坐像は、日曜日のみ拝観とあったが、

特別法要でもあるのか準備がなされており、お寺の方にお聞きすると

今日は特別に開扉され拝観できるというのでさっそくのお堂へ。

『汗かき阿弥陀』は【銅製阿弥陀如来坐像】で国指定重要文化財(昭和25年指定) 

旧国宝(大正3年指定) (入口の説明板)

 この仏像は第12代城主宇都宮満綱が願主となって、応永12年(1405)、

長楽寺の本尊として造られた。

明治2年(1869)、長楽寺が廃寺になったので、本尊は一向寺に移された。

 作者は、宇都宮を中心に活躍していた鋳物師泰景重で、鎌倉時代の作風を残した

仏像である。

本像は,高さ約1mの青銅製で,蓮台は鉄,置台は露岩の大谷石で作られています。

衣には,1105文字が刻まれています。

 えりもとから衣にかけて1,105の文字が刻まれている。
     今までに国の凶事の前兆に発汗していることから,汗かき阿弥陀

呼ばれています。
 太平洋戦争,関東大震災,日清・日露戦争戊辰戦争,古くは五十里湖の大洪水,宇都宮家の滅亡の時などにも発汗したという。

発汗は,阿弥陀像の衣をつけていない皮膚の部分が、しっとりと汗をかいたように

なったと言われています。

一向寺の山門を入ったすぐ左側に,幕末から明治時代にかけて,宇都宮を中心に活躍した画家菊地愛山の墓があります。

(写真は写してなかったので解説板)
 愛山は文政2年(1819年)茂破町(もやぶりちょう:現大寛2丁目付近)に生まれ,明治39年(1906年)に88才で亡くなる直前まで絵を描き続けました。
 人物や花鳥などの描写に優れた画才を発揮して,嘉永年間(19世紀半ば)の日光東照宮の修復のときには,師鈴木梅渓(すずきばいけい)を助けたといわれています。「釈迦三尊十六羅漢像」(一向寺蔵),「延命地蔵菩薩縁日著色絵図額」(延命院蔵)をはじめとして,多くの作品が県や市の文化財に指定されています。

長い参道を街道に戻ると、右手、道を挟んで鳥居は学問の神、菅原道真を祀り、

「都宮城西の守護神、天満宮」と、街道書にある。

すぐ先の道を左に入ると、茅葺の山門を持つ「報恩寺」がある。

寛永16年(1639)に奥平家昌の正室が開山したもので、本堂は戊辰戦争で焼失し、その後再建されたものだが、山門は創建当時のままと云われている。

境内に戊辰戦争で戦死した各藩の戦死者墓石等が建ってる。

薩藩戦死者墓石の揮毫は、大勲位侯爵・松方義方 と読める。

「蓬莱大黒通り」に戻り報恩寺からさらに先に進むと、クランク曲がりの変則交差点で

鍵の手の曲がり、かっては路地には柵、木戸が設けられ枡形をなしていました。

 ここは六道の辻と呼ばれ、戊辰戦争宇都宮城争奪を目指す官軍(新政府軍)と

幕府軍が激戦を行った場所で、官軍戦死者は報恩寺に葬られたが、

旧幕軍は賊軍として公に弔わられず、有志の方が建てた旧幕府軍の戦死者の墓、

六道口の「戊辰の墓」がある。

報恩寺から六道にかけては、宇都宮城下西端に位置する武家屋敷町であった。
江戸時代、楡木・栃木へ通じる六道口を警備する役人屋敷が置かれていたというが、

その面影は全く残されていない。 

鍵の手・六道の辻から少し広い通りを約10分進むと「裁判所前信号」で突き当たり

右折し「材木町通り」の大きなビルが建ち並んで賑わう大通りに入る。

3分ほど南へ行くと、江戸時代の町名を残す問屋場や本陣・旅籠が並ぶ、伝馬町と

呼ばれる一番賑やかな所で、伝馬町バス停の先に、本陣跡の青い説明柱が立っている。

2軒あった本陣のうち、伝馬町にあった上野家本陣跡で、200坪(661m2)近い大きな建物でしたが、今は、屋敷の庭にあったイチョウの大木が、わずかに当時の面影を偲ばせてくれます。

本陣跡の反対側、この伝馬町の交差点が日光街道奥州街道の追分で、

右手へ宇都宮駅方向に奥州街道で、左折する向かいのバスの停まってる道が

日光街道で清住町通りにはいる。

追分を左折して旧日光街道に入ると、狭い二車線道路で歩道帯が無いうえ交通量も多く

軒下を縫うように足を進めなければならなかった。

右手に蔵造りの旧家がある。油を商い副産物の油粕を肥料として農家へ販売している

商家、と街道書にはあった。

付近に伝馬町の一里塚跡の案内板が建ってるというが、見落としてしまったらしい。

清住町通りに入ってすぐ道の左手に小さな社。

天保3年(1832年)、武州秩父の三峰山の火防の神分身を祀ったという、

三峰神社(八坂神社)がある。

さらに5分ほど行くと左手に宝勝寺が見える。

鎌倉幕府御家人で宇都宮家7代当主の景綱が蓮池から拾い上げた
阿弥陀如来像を祀った草庵が起源という。

恵心僧都(えしんそうず)作と伝わる秘仏・日限地蔵尊が有名。

交通が激しく横断は危険と判断、立ち寄らず。

この先の交差点あたりの道がクネっと曲がりの枡形の跡で、

往時は日光方の木戸があり、ここまでが宇都宮宿であったそうです。

交差点を右手に戻るように入ると延命院がある。

山門の前に、この寺で蒲生君平が学問を学んだということで、

蒲生君平先生少年時代修学の寺」と長々と刻まれた碑が立っている。

蒲生君平は明和5年の生まれで尊王論者。忠誠義烈の精神を貫き、「山陵志」を著し、天皇陵を比定したことで有名だそうだが知識なし。

境内には享保年間(1716~36)建立で、宇都宮市最古の木造建築物の一つで、

木造の延命地蔵菩薩立像を祀る地蔵堂がある。

地蔵菩薩は堂内が暗く、拝観は輪郭だけ。

元木戸口へ戻りすぐ右手に桂林寺がある。
宇都宮満綱の開基で、あの蒲生君平の墓がある。 
明治維新時の宇都宮城の戦いで、長州兵と大垣兵がこの寺に篭った。
その為会津兵の焼き討ちにあい、その後再建されたという。

右隣りには四国金毘羅山の分霊を祀った琴平神社があり、清住不動尊も丸られてる由。

清住町通りへ戻り何軒かの風情を残す家屋を見ながら、相変わらず軒下を縫って

危ない道が続きます。

先は枡形の痕跡を残す鍵の手になり曲がり、木戸口から20分ほど行くと道左手に

石碑が建っているのが見える。

街道書には、神道の牛馬の守護神で、仏教道の馬頭観音にあたる

「勝善神」石碑とある。

一説には「名馬の誕生を祈願するもの」とも言われてるそうな。

更に10分ほど行くと、左手から来る国道119号に合流。

ここからは歩道帯も復活でやれやれ一安心・・・。

はや時刻もお昼になり、お腹もすいたね~・・と10分ほど歩いた食事処へ。

手打ちうどん・そばの讃岐、

うどんは讃岐うどんだが、そばを注文し美味しかった~

辛味おろしかき揚げぶっかけ蕎麦、(箸を付けちゃいましたが)

かき揚げは揚げたてアツアツ・・辛味の大根おろし、冷たい麺とつゆ、

葱と花かつおがたっぷり・・  

お店に飾ってあった魚拓、見事な大ヒラメの魚拓。

全長 85cm 重さ6.5kgとある。釣り人は宇都宮の方らしい。

街道に戻り背から陽を受け、日陰の少ない暑い街道を歩みます。

気温は30℃近くまである感じで、少ない日陰を求めながら、水分補給に注意し

足を進めます。

12,3分行くと左手に上戸祭公民館があり、敷地内に薬師如来を祀る薬師堂が建ち、

堂裏には、文政5年(1822年)建立の如意観音像や十九夜塔などの石塔石仏が

安置されていた。

更に約100m程足をた左手の細い路地奥に鳥居が建ち、街道書には高尾神社とある。

高尾神社には1387年に建てられた供養塔・宝篋印塔(ほうきょういんとう)が建ち、

塔には「妙吉貞禅」の文字が刻まれていることから「妙吉塚」と呼ばれる。

妙吉貞禅は南北朝時代の宇都宮二荒山神社に仕えた僧だそうだが、

しかしこの塚については伝わる資料もなく詳細不明とのこと。

また、高尾神社の敷地内には、「妙吉安産子育高 地蔵尊」もあります。

昔、ここ戸祭(とまつり)村に、「新田の四郎」と呼ばれる大男が住んでいました。

四郎は、自分の背丈を後世に残そうと、同じ高さの石柱(地蔵尊の後ろ)を建てた

そうです。

街道へ戻ると電柱に標識が・・

5分ほど足を進めると、こんもり茂る樹々が見えだし、上戸祭交差点。

街道書には国道119号線の両側に桜の古木並木が始まる、とあり。

ありがたい、すこしは木陰の下を歩けそう。

中央に車道があり、両脇に桜と杉の並木、そして、更に
その外側の両方に車道よりも一段と高い歩道があります。

(歩道というより周辺の生活道で車も通ていた)

そしていつの間にか街道は桜並木から杉並木へと続いてゆきます。

歩道帯は少し少し高くなり、車道は一段低い所を通り、両側は杉並木が続いている。

今日の陽気は木陰は有難い、と1kmほど行くと大学のキャンパスが見えだし、

街道書には「上戸祭の一里塚」が記載されている。

江戸日本橋から28番目の一里塚で、1983年(昭和58年)修復整備され、

両塚が原型をとどめていた。(西塚)

日陰で暗いが東塚

庭の花などを見ながら、一里塚から 1kmほど行った頃、カミさんが左足に

痛みを感じると言う。以前にも同じ症状が出て通院したが、はっきりしたことは

わからなかったことがあった。

そうなれば暑さもあるし無理は禁物、調べるとすぐ先に弁天橋バス停がある。

一旦車道帯に降りて、少し先の交差点で右てへ渡り、バス停へ。

まだ日も高く、7kmほどの歩き旅だったが、老いの身には無理が禁物。

体長を整えて、いつの日か街道旅へ復帰を。

日光道中 第13歩の終り。