歩いて再び京の都への前に 日光道中二十一次 街道散歩(第七歩)後編

利根川を渡り、中田宿へと入ります。

江戸時代までは下総の国(千葉)であったが、明治8年に下総の内の利根川

北側地域が茨城県編入されたので、日光街道茨城県の西のはずれを、掠るように

北進する真直な一本道となっている。

この茨城県の宿場は、中田宿と次の古河宿の2つで、街道は現在県道228号。

中田宿北の入口と推定される利根川堤交差点に火の見櫓が立っていて宿の案内板も

建っていた。

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続き、

天保14年(1843年)日光道中宿村大概帳によると、 

第8宿 中田宿 江戸より8番目

栗橋宿より18町 約1.6km 江戸より約59.8km 14里34町

本陣1、脇本陣1、旅籠6軒 家数69軒、宿内人口403人

 古河資料によると、

「中田宿は、房川の渡しを控え元和10年(1624年)に創設された宿場町で、

栗橋宿とは合宿で、隣の古河宿や杉戸宿への継ぎ立て問屋業務は、半月交代で務めた。

江戸時代の中田宿は利根川に面して、現在は河川敷となってしまっている場所に

あった。再三の移転を経て、現在のような中田町の町並となったのは、

大正時代から昭和時代にかけての利根川の改修工事によってである。 

本陣・問屋や旅籠・茶店などの商家が、水辺から北へ、船戸、山の内、仲宿(中町)、上宿(上町)と、途中で西へ曲の手に折れながら現在の堤防下まで、延長530mほど続いて軒を並べていたが、ほとんどは農家との兼業であった」

現在は、移転を繰り返し近年の再構築された街だそうで、往時の面影は全くない。

 歩道帯の無い通りを行くと、大きな神社の看板が右手に、

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 奥に神社がと思ったが、通りの左手に「鶴峰八幡宮」があった。

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源頼朝によって、養和元年(1181)、相模国鶴岡八幡宮より分霊を勧請し創建
この時、鶴岡八幡宮の守護神ともされる丸山稲荷も勧請する。

その後、奥州藤原氏討伐の際も頼朝はこちらで戦勝を祈願したとされる。
天福2年(1234)、下総国香取神宮より分霊を勧請し合殿となる
永禄11年(1568)、所領五千石・社地五百石を寄与される

元々は現在の利根川河川敷付近にあった上伊坂村に鎮座して、
江戸初期に日光街道の中田宿が開宿された時、宿場の東にあった古墳上に遷座

大正元年(1912)、利根川改修工事の為に現在地に遷座

御祭神は誉田別命神功皇后経津主命

境内には「日光街道・旅の神」と「「水神社」「八坂神社」「浅間神社」「道祖神社」「琴平神社」が祀られており、 江戸期には日光街道鎮守ともされた神社でした。

日光街道を歩く旅人は、旅の安全を祈る5柱を祀る末社殿の前で足踏みをして安全を

祈願したとされ、現在も旅の安全や足腰の健康を祈願する方がいる。

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「鶴峰八幡宮」の隣には浄土真宗大谷派「光了寺」がある。

 昔は武蔵国高柳村(埼玉県栗橋町)にあって、高柳寺といい、弘仁年間(810~823)に弘法大師が創立したと伝えられている

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ここは静御前を葬ったという栗橋の「高柳寺(光了寺)」が、利根川改修工事などに

より移転したもので、山門脇には石柱が立っている。

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光了寺には、静御前が京都で雨乞いの舞を舞ったときに使用した
舞衣、守本尊、義経から拝領した懐剣、鎧が保管されています静御前後鳥羽上皇から賜ったという「蛙蜊龍(あまりりゅう)の舞衣」、義経肩身の懐剣・鐙(あぶみ)等が保存されている、という。

(予約をすれば拝観ができる、との記述があった)

境内には芭蕉の句碑が置かれている。

- いかめしき音や霰の檜木笠 -

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秋の街道だな~・・・

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この付近には日本橋から15遍目、中田の一里塚があったようだが、

示すものは全くなし。

「光了寺」からすぐ先、2分ほどの左手に広い駐車場奥に山門が見える。

本尊が阿弥陀如来という円光寺で、街道書では見事な庭園ありと記されてる。

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さらに3分ほど行くと右手には浄土宗本願寺があり、

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境内に文化年間(1804~8年)に発掘された板碑がある。

我が家の宗派なのでお参りをする。

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さらに3分ほど先の左手に真宗顕正寺の大きな石柱寺標が立ち、奥に伽藍が見えた。

会津若松公の庇護をうけた、と街道書にある。

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時刻も昼を回り、街道から右手に折れて平行して通る国道4号へと出で、

右手に、わが街発祥のうどんチェーン店の店舗があり、ほかに店もないので

昼食へ。

40分ほど足休めもして再び街道の県道228号原中田線へ。

500m程行くと、JR宇都宮線東北線)の踏切。

f:id:hansui:20201117151734j:plain踏切を渡るとほぼ直線の街道が延々と続き、両側に松の木が植えられ、広い道ではあるが街道らしい風情を演出している。

あっ、うどん店があった。

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500mほど行くと「中田の松原」と書かれた説明版が立っていた。

日光街道の踏切辺りから原町入り口にかけて古河藩二代藩主永井信濃守が植栽した

松並木があった。

街道は幅5間(9m)と地は広く両側を一段と高くして松が植えられた。

と説明板にあはあった。

東海道にもこれほどきれいな松並木はない。」と言われたほどであったという。

ご多分に漏れず、戦時中の油採種のため伐採され、植え替えられた松並木ではあるが、

なにか、江戸時代の街道を歩いてる感が湧いてきますね。

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付近の地名は茶屋新田で、街道書では右手奥に香取神社があり、付近は「立場茶屋」があった、と記されているが、示すものは無く不確定。(写真左・ここかな?)

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200m程先左手に少し入った畑地一角に石仏石塔群が並んでいた。

文政(1800年代)の文字も刻まれていてるが、説明板らしきものなく、

詳細は不明。なぜここに祀られてるの!て話しかけてた。

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木に登ったカボチャ

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こんもりとした林の中に、断固反対!

ズームで見ると茶園の看板が見えた。周辺は区画整理計画があるのかな。

我が家周りも現在開発調整指定が解除され、大規模再開発事業が始まっている。

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まだまだ続くまっすぐな街道。

利根川河川の花火かな?、と、たんたんと石仏石塔群から30分ほど進み

国道354の原交差点を越えると地域は原町へ入り、右手屋根付き小屋下に十九夜塔

があった。

街道書では、原町女人講中31人建立し、台石に「関宿境道」と刻まれ道標を兼ねた、

とあった。

(関宿とは下総の関宿藩ということ?)

(マンホール蓋デザインは、国道354号線の三国橋周辺の川岸で行われる花火大会の

 風景のデザインだった)

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 道路を挟んだ古河第二高等学校の校庭に「原町の一里塚」の西塚が復元されている、

と街道書にある。

江戸・日本橋から十六番目(十六里目)の一里塚だったが、陽が当たり影が出来て

よく判別できない。

ネット越しに覗くと、盛り土の上に塚木の榎が繁り、白い棒杭が立っている様に

見えたた。

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高校を過ぎると道には歩道がなくなり、道幅も狭く車の往来もはげしい。

道端を注意しながらキョロキョロ進みます。

街道書では50m程先の民家の門脇に道標があり、「左にっこう 右みちのく」と

刻まれてる、とありカミさんと注意しながら歩いたが、見つけられなかった。

原町自治会館の先には、「祭禮道道標」がある。

祭禮道は古賀の産土神・雀神社祭禮の際に旅人の迂回路になったのだそうだ。

またここが「原町口木戸跡」と言われ、古河城下の江戸口(南口)で、

土塁が築かれ番所があった、と街道書にある。

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街道沿いには小型の常夜灯風道案内が現れてきて、道も少し広くなった。

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道の左右に大きな樹が見えてきて、左手は真宗大谷派浄善寺で、本尊は阿弥陀如来

大木は銀杏の樹だった。

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50m程先で、左手からの公方通りと合っした台町三叉路が、古河宿の江戸口。

街道は枡形になるかな右手に折れて古河宿に入って行く。

角口には大きな常夜灯型モニュメントが建っていた。

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古河宿 江戸から9番目

中田宿から1里20町 5.6Km、江戸日本橋から16里4町 約65.6km、

江戸時代の全期を通じて、古河藩管理の古河三宿(中田・古河・野木)の一宿。

天保14年(1843年)『日光道中宿村大概帳』

本陣・脇本陣は各1軒、旅籠が31軒で、宿内の家数は1,105軒、人口は3,865人。

古河城は岩槻城宇都宮城と並び、将軍の宿城とされており、日光街道における

主要な宿場の一つであった。

 

左手に稲荷神社があり、参道口には安政2年(1855年)建立の如意輪観音像、

十九夜塔などがある。

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隣に長谷観世音寺標が建っている。

古河城の鬼門除けとして明応2年(1493年)、古河公方足利成氏が鎌倉の長谷寺より勧請したもので、累代古河城主が祈願をこめたところとされています。
背丈2メートルあまりの十一面観世音菩薩立像が安置されています。
日本三大長谷のひとつだそうです。

(次回に立ち寄ることとし、足を進めます)

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50m程先に古河城御茶屋口門跡の石碑が建っている。

古河城お茶屋口は、古河藩主 土井利勝が三代将軍家光の参詣の際もてなすための

茶屋を置いたことにはじまるといわれています。

将軍の日光参詣の宿泊・休憩は、岩槻・古河・宇都宮の三城を原則としていました。

参勤交代や日光参詣で通行する格式の高い大名もここで迎え、相手も挨拶をしていくきまりでした。
相手がそれ以下の場合は肴町の御馳走番所で挨拶を受けたのです。

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御茶屋口門から少し戻った右手奥に鳥居がチラと見えていた、八幡神社に寄る。
初代古河公方足利成氏鶴岡八幡宮を勧請、寛永19年(1642)に藩主土井利勝が古河城の鬼門よけとしてこの地に移したものという。

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時刻はPM2:50 帰宅の最寄駅からのバス時刻を考慮し、

古河宿は次回にゆっくり散策することにして、今日はここで足止め。

小路を北側へ向かえば、古河駅前通りへ出て、帰路へ。

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 PM6:20帰宅、第七歩の終了。

秋晴れが続きそう・・次回は・・

歩いて再び京の都への前に 日光道中二十一次 街道散歩(第七歩)前編

朝の冷え込みは厳しくなったが、日中は日差しも強く、快適な歩き日和りになりそう。

バス、電車を乗り継いで JR宇都宮線栗橋駅へ。

 2020年11月15日(日)無風、快晴 AM9:30 さあ、行こう。

f:id:hansui:20201116134333j:plain栗橋は、昭和32年に、栗橋町に静村・豊田村が合併し、平成22年3月23日に、

久喜市栗橋町鷲宮町・菖蒲町が合併し、栗橋町は「久喜市」となる。

前回、街道から栗橋駅へ向かった時は気付かなかったが、栗橋駅からすぐに右手へ

入る小路があり、「静御前の墓」と刻まれた石柱の建つ一角があった。

帰宅後調べた静御前についての資料。

久喜市広報歴史だより、静御前の伝承」
栗橋駅周辺の伊坂地区には、源義経の恋人であった静御前の悲恋にまつわる伝承が語り継がれています。

静御前は、舞を職業とする白拍子の磯禅師)の娘で、当代随一の白拍子と評されていました。室町時代初頭に書かれた『義経記』には、後白河法皇が雨乞いの儀式で100人の白拍子を順番に舞わせたところ、100人目の静御前が舞うとたちまち黒雲が現れ、3日間雨が降り続いたことから、法皇より「日本一」と称されたと記されています。

この静御前にまつわる伊坂地区の伝承では、兄源頼朝に攻められ、奥州に逃れた義経の跡を追う途中、義経の討死を知り、悲しみのあまり病となり、文治5年(1189)9月15日に伊坂で亡くなったとされています。静御前の遺骸は、伊坂の高柳寺に埋葬されたと伝えられます。なお、高柳寺は、後に中田(現在の茨城県古河市)へ移転し、光了寺と名を改めています。光了寺には、雨乞いの儀式で与えられたとされる「蛙蟆龍(あまりょう)の舞衣」が静御前の遺品として伝えられています。

また、栗橋北の経蔵院の本尊「地蔵菩薩像」(市指定文化財)には、静御前の持仏

との伝承が残されています。

現在、栗橋駅東口から徒歩1分の場所にある「静御前の墓」(市指定史跡)は、享和3年(1803)に勘定奉行関東郡代(ぐんだい)であった中川飛騨守(なかがわひだのかみ)忠英が、静御前の伝承を聞き、墓に墓標がないことを哀れみ建立したものです。

この「静御前の墓」には、当初は墓標の代わりとしてスギの木を植えたとの伝承があります。文化・文政期(1804・1829)に編さんされた『新編武蔵風土記稿』には、「静御前の墓」と共にスギの大木が挿絵に描かれています。このスギは、弘化3年(1846)の利根川の氾濫により枯れてしまっています。

大正12年(1923)には地元の有志によって静女古蹟保存会が結成されています。現在では静御前遺跡保存会によって、静御前の命日と伝えられる9月15日には毎年墓前祭が営まれています。静御前の伝承は今もなお地元の人々によって語り継がれ、守られています。

 静御前については別の説もあるそうで、一角に建てられていた説明文の中に、

静御前はこの地で死んだとするが、捕らえられて鎌倉に送られ、源頼朝の前で舞いを命じられ、京に帰されたという話が一般的か? その後は母の故郷の大和高田の磯野の里に帰り余生を過ごしたとも」と記されていた。

f:id:hansui:20201116135848j:plain 真ん中の石碑には「静女之墳」とあり、中川飛騨守が建てたという古い墓石は、

左手のガラスを嵌めた石室に保存されている。

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周りには幾つかの石碑が置かれていて、

左上「坐泉の歌碑」

(江戸時代の歌人、坐泉はこの地にきて静御前を偲んで読んだ句

          村人が、文化3年(1806)に建立したといわれる)

  舞ふ蝶の 果てや夢見る 塚のかげ 

写左下 左「義経招魂碑」右「静女所生御曹司供養塔」

写真右 静御前百五十年祭記念碑。

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一角には、明治20年(1887年)に「静女家碑」(せいじょちょうひ)が建設

され、街道書によれば石碑には、墓域の整備が行われたことが記されていいる

そうです。

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 後にしてそのまま北へ小路を行くと、ここにも石柱があった。

この道が昔からの道のようでした。

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義経と言えば故郷北海道にも、逃れて蝦夷地へたどり着き、アイヌの酋長の娘と

 結ばれ、大酋長になったとの伝説があって、子供のころおばあちゃんから

 聞いたことがある」なんてお喋りしてるうちに、日光道中に戻り、

AM10:00、改めて栗橋宿(埼玉県久喜市)の日光道中街道散歩を始めます。

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第7宿 栗橋宿 

幸手宿より2里3町約8.3km  江戸より14里18町 約58km)

本陣1、脇本陣1、旅籠25軒、宿内家数404軒、宿内人口1741人

天保14年(1843年)日光道中宿村大概帳による)

 栗橋宿は利根川の舟運で栄えた。この地は関東平野の北辺に位置し、関所が置かれ

「入り鉄砲と出女」が厳しく警備された。利根川対岸の中田宿は合宿の形態をとって

 おり、両宿を合わせて一宿とする記述も有る。

 

街道を北へ進むと、江戸時代末期に建築された商家・橋原屋の二階建て瓦屋根の建物が建っている。店先に掲げられている屋号を記した木札には、明治時代には燃料店を営み、戦後は味噌塩など食料品も扱う、とあった。

往時の栗橋宿の面影を伝える家屋ですね。 

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少し先の右手で、カミさんが「ここの奥に石碑と案内板のようなのが建ってるわよ」

整地されたような、利根川への国道4号の堰堤が迫る空き地の奥に立っていたのは、

栗橋関所跡石碑で、そばに説明板が建っていた。

あれ、なにか場所が違うようだが??

街道書ではすぐ近くに栗橋宿本陣跡があるはずだが・・どう見渡しても見つからない。

後で神社で聞いた話では、

記念碑「栗橋関所址」は、今まで立っていた場所が進捗中の利根川堤防強化事業の

範囲内であることから、旧栗橋町商工会館跡地に仮移転をした、ということでした。 

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久喜市広報資料によると、

日光道中唯一の関所が設置されました。今日この関所は、一般的に「栗橋関所」と呼ばれていますが、江戸時代は栗橋と対岸中田(なかだ)(茨城県古河市)とを結ぶ渡船場の名称をとり、「房川渡中田御関所」と呼ばれていました。

栗橋関所が設置されたのは、江戸時代初頭で、寛永元年(1624)には、関所の警衛にあたる番士が幕府から任命され、関所の近所に定住したと伝えられています。この番士の屋敷跡は、昨年発掘調査が行われ、江戸時代末期から明治時代にかけての屋敷の礎石や茶碗等が出土しています。

栗橋関所では、常時4家の番士が交代で関所に勤務し、これらの任務にあたりました。この当時の業務や日々の出来事は、関所番士の一家である足立家に伝わった日記に詳細に記録されており、これらは現在「栗橋関所日記及び関係資料」として県の有形文化財に指定されています。

栗橋関所は、明治2年(1869)に廃止されましたが、大正13年(1924)に利根川橋の開通を記念して、近隣の人々によって、「栗橋関所址」碑が建てられ、現在は「栗橋関跡」として県の旧跡に指定されています。

 

 付近に栗橋宿の本陣を務めた池田家本陣跡と説明板と、街道書に記されてるが、

これも後で神社で聞いた話ではみんな無くなってしまった、と言っていたが

仮移転はしてないのかな?

他でもお聞きしたがわからなかった・・・

(後て調べてみたが不確定ながら、移転して建ってた関所跡碑の隣側がではないかと

 推測) 

  

 すぐ先は三又道で、現在の街道道筋は右斜めに利根川土手へ上がってゆくが、

付近一帯は利根川堤防強化改修の大規模工事中で、大型の工事重機やフェンスで囲われた一帯となっている。

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三又路突き当りに鳥居が見え、ご祭神・素戔嗚尊(すさのおのみこと)の八坂神社が

あり、一帯は大規模な工事地帯になっていた。

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久喜市広報によると、

現在は大規模な利根川堤防強化工事が2019年春より始まってた。

 久喜市栗橋地区には、日本最大の流域面積を誇る利根川が流れています。
 この利根川上流部及び江戸川右岸堤防がひとたび決壊すれば、その氾濫は埼玉県内だけでなく東京都まで達し、首都圏が壊滅的な被害を受ける恐れがあります。
 このような被害が発生する恐れのある区間において、堤防の浸透に対する安全性を確保するため、国において堤防拡幅による堤防強化対策を実施しております。

現在、八坂神社周辺地区の堤防強化対策工事を実施しており、平成35年度末(2023年度末)の完成を予定している。
 今後は、盛土工事に併せて、堤防の上に八坂神社を移転させる工事と神社境内の埋蔵文化財発掘調査なども同時に実施していく予定となっております。

張ってあったパネル写真。

写真中心の森が現境内。

左手裏手側の一段高く盛り土された台地には、すでに社殿が見えていて、

2021年春までに移転するという。

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 八坂神社は現在の場所への遷座は、慶長年間(1596-1615)に利根川の大洪水に見舞われた為であると伝えられている由緒ある神社 天王様と呼ばれ親しまれてきた、

栗橋宿の総鎮守で狛犬が鯉になっている。

利根川の洪水の際に鯉が「御神体」を運んできたことに由来するという。

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本殿はすでに高台へ移転したようで、仮本殿の前に狛鯉があった。

八坂神社は約400年振りに遷座する、歴史的時期に来合せたということだね。

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江戸中期設置と見られる立派な狛犬も守ってる。

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幣神の社や石碑も近々高台へ移転の様子。

御神木のケヤキ(と解説板にはあったが??の感じ、葉がちがうような)は、

どうするのだろ。

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神輿蔵が開かれ、移転の準備が始められていた。

久喜市広報

 この神輿は、八坂神社の夏祭り(神幸祭)の神輿で、「天王宮神輿文久三亥(1863)十月吉祥日」の棟札が、昭和45年(1970)の解体修理の時に発見されました。台輪の大きさは、四尺六寸五分(141cm)、高さは六尺五寸(197cm)あり、超重量級と言われ関東では大きな神輿の一つです。

神輿は、永年にわたり渡御が続けられ多くの人たちに親しまれてきました。特に、明治19年(1886)、利根川鉄橋が完成し、明治天皇行幸したおりには、河中で渡御し、勇壮な神輿振りが天覧に供されたと言い伝えられています。

 

作業をされていた若い関係者の方が、見ていってくださいと蔵内へ案内してくれ、

ゆっくりといろいろな神輿にまつわる話を聞きながら、拝見させていただいた。

超重量級と言われる神輿だそうで、昨今の例に漏れづ、当地も担ぎ手が少なくなり、

神輿好きの方々が浅草や各地から来て担ぎ上げるそうです。

あまりにもの重さに、来なくなった担ぎ手も多いんだとか。

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たしかに重量感のある威厳をもった神輿でしたね。

今年は例によって祭りが中止になったそうです。

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神社を出て、街道書にある経蔵院と関所番士屋敷跡を捜し少し歩き回ったが

全く判らず、通りかかった方に場所を聞いたら、経蔵院へは近くを通るからと

案内していただいた。ありがとうございます。

途中に木道標が一か所あったが結構小路を行くので、こっれではたどり着けないな・・

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ようやくたどり着いた経蔵院。

病に倒れた静御前が当寺で養生に努めたが、儚く生涯を閉じた、と街道書にある。

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隣に立つ説明板

栗橋町指定文化財 本尊地蔵菩薩
    昭和三十三年三月二十九日指定
 この寺は、貞観年代の慈覚大師の創建と言われ、最勝玉院とも呼ばれる台密修練の道場であった。
 保元のころ、願行坊宥俊阿闍梨(がんこうぼうにうしゅんあじゃり)が下河辺の荘司であった行平という人の寄付によって再び隆盛した。鎌倉時代、伊予守源義経の愛妾静御前は、奥州にいる義経を慕って侍女琴柱と僕僮を伴い旅に出たが、途中義経の悲報を聞いて、落胆のあまり病気になった。この寺で養生につとめたが、露のようにはかない生涯をとじた。琴柱は髪をおとし、西向尼(さいこうに)と名のって静を弔うために、京都嵯峨野から静御前の御持仏である地蔵菩薩を持ち帰った。その後、西向尼が没してから本尊としてこの寺に祭った。
 この仏像は漆乾製(和紙と漆)の立像で日本で三体だけという数少ない貴重な文化財である。
     栗橋町教育委員会

 

本堂前に年代物の石仏、墓石などが並び、隣には香取神社が祀られていた。

境内内のマンホール蓋には舞姿の静御前がデザインされていた。

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寺入口にはこれも江戸時代の天保と彫られた石仏石塔が建っていた。

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すぐそばに「関所番士屋敷跡」があったそうだが今は工事中で確認できない。

お寺を案内してくれた方に聞き漏らしてしまった。

久喜市資料では、

利根川上流河川事務所の東側近くに関所番士屋敷跡があった。ここは、利根川強化堤防により、埋め立てられる予定という、という記述があったので、香取神社後ろ側付近に跡地はあったようだ。

久喜市栗橋町の資料によると
 関所番士屋敷は、寛永元年(一六二四)に栗橋関所番士の住まいとして、江戸幕府が設けたものである。
 関所番士の定員は四人で、これを二組に分け、毎日明け六つ(午前六時)から暮れ六つ(午後六時)まで、二人一組五日間交代で勤務していた。
 維新期最終の番士は、加藤、足立、島田、富田の四家であった。手当は二十俵二人扶持は、一日五合の割合で、二人扶持は約十俵に当たる。扶持は、幸手宿本陣中村家から送米されていた。
  加藤家、島田家も現存しているが、富田家は、明治二年の関所廃止とともに東京へ移転している。
 各屋敷地とも高く盛土し、いずれも約千四百平方メートルである。
 なお、番士の墓は、常薫寺、深広寺にある。
 

街道に戻ります。

そういえば脇本陣や旅籠跡類も、それらしきものもは見つけられなかった。

八坂神社入り口へ戻り、利根川渡の左折して利根川土手道を登ります。

関所跡碑はかって土手道の途中にあったようです。 

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 土手上へでて川側へ交差点で渡り、右手に進んで利根川南詰めから川を渡ります。

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橋桁下に釣り人、なにが釣れるのかな?

危険注意看板はマムシ!!

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利根川を渡る橋は上り、下り二本の橋が架かていて、右手からの国道4号と合わさる。

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坂東太郎とも呼ばれた利根川は、群馬県利根郡みなかみ町にある三国山脈の一つ、

大水上山(標高1,840m)にその源を発し、本庄市付近で烏川に合流、

群馬県・埼玉県境を流れる。

江戸川を分流させた後はおおむね茨城県と千葉県の県境を流れ、茨城県神栖市

千葉県銚子市の境において太平洋(鹿島灘)へと注ぐ。

江戸時代以前は大落(おおおとし)古利根川が本流の下流路で東京湾に注いだが、

度重なる河川改修によって現在の流路となっている

(鉄橋を渡る貨物列車、流れの真ん中に立つ流木かな?)

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半分くらいで埼玉、茨城の県境で下総の国(現在は常陸の国)へ入ります。

埼玉の県鳥はシラコバト、茨城はキジのようだ。

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15分ほど利根川橋を渡れば中田宿。

利根川北詰めで左手へ土手道を下って、右手へ北上して行く日光道中

江戸時代には橋は無く、南詰め付近から渡し船で割ったいたそうで「房川の渡し」

と言われていた。

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下って右手へ中田宿へ入ってゆきます。

曲がり向こう角に 「房川(ぼうせん)の渡し」と当初中田宿の江戸口にあり、

対岸の栗橋宿側に移転した、関所跡の説明板があったが、霞んでまったく判読不能

街道書には、

「舟渡しであった、将軍日光社参の際は五十一艘の舟を並べた船橋が架橋がされた。

房川(ぼうせん)の名の由来は、元栗橋に宝泉寺という法華寺があったことにより、

「坊前の渡し」と呼ばれ、のちに転訛し房川(ぼうせん)となった」と記されていた。

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橋の渡り詰めを左に入ると日光道中

少し先の交差点を渡ったか櫓の下に中田宿解説板が立っている。

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(なんとも解説文だらけのブログだね)

 後半へ続く、

歩いて再び京の都への前に 日光道中二十一次 街道散歩(第六歩)後編

時刻は正午、お腹も空いたと食事処の多い国道4号へ向かい、

またも入ったのが麺の店,、で 後半へ。

の続き。

今日の麺は「鳥湯麵」さっぱりとしながら、鶏がらベースのスープが

これまた当たり!

お腹を満たし街道へ復帰。

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 街道書を見るとこの先200mくらいの内国府間(うちごうま)交差点で、

国道4号と県道65号(街道)が合流なので、このまま国道を先へ進み街道へ合流。

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国道(街道)の右手を進むと、道の左手側に内国府間八幡神社の社標石柱が

建っていた。

小路参道を入た奥、右手が境内で社殿がある様子。

街道書では、

明和元年(1492年)創建で内国府間村の鎮守で、内陣には騎乗の八幡大明神と

香取大明神座像を安置している。明治40年に天神社と明治42年神明社を合祀して

いる。

他資料に平成19年、不審火により全焼、再建されたとあった。

像も焼失なのかな?4号は交通も激しく横断できないため、見送りで先へ進みます。

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内国府間交差点から10分ほど行くと権現堂桜堤交差点で、

右が県営権現堂公園4号公園があり、中川沿いの堤が散策コースになっている。

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堤防上は約1kmにわたって、約1000本のソメイヨシノの桜並木が続き

菜の花と合間って関東でも有名な権現堂桜堤としての名所となっている。

桜の時期は人人人の大賑わいといわれてるが、桜が終わった後の紫陽花も良く知られており、4年ほど前に紫陽花で訪れたことがあり、デジブックアルバムにしていた。

(写真は表紙だけ)

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  桜の時期は来たことが無く、免許返納前に来たいと予定してたが、コロナでね・・・
幸手市権現堂説明文から要約すると、

現在堤東側を流れてるのは中川。、昔の権現堂川は暴れ川で、権現堂堤は江戸を洪水から

守るために、寛永十八年(1641)に築堤された。

昭和になって利根川水系の大規模改修工事によって、権現堂川は締め切られ権現堂堤は

役目を終えた。大正9年(1920)に地域住民が立ち上がり、由緒ある権現堂堤を保存するため桜を植樹し始めた。

残念ながら太平洋戦争中や戦後に薪として伐採されてしまったが、現在、私たちが見ているのは、昭和24年(1949) から再び植樹された二代目の桜です。 

 「桜の季節が終わってからも四季折々に咲く花を」という思いから、ボランティアの

方たちを中心に、あじさいの花が植えられ、今では100種16,000株に増え、

6月の権現堂桜堤を色づかせます。

最近は春は水仙、秋は彼岸花が川側の堰堤に植えられている。

NPO法人幸手権現堂桜堤保存会の会員が一生懸命植え大切に育てました。

9月~10月にかけ、権現堂桜堤が真っ赤に染まり、素敵な花ロードになる。

 

 駐車場のトイレによって、堤上を歩いてそのまま街道へ出ることにし、ぶらぶら散策。

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権現堂堤が街道と交差するところに「明治天皇権現堂堤御野立所」と刻まれた碑が

立っている。

権現堂堤は明治9年(1876)に、明治天皇が巡幸のさいに立ち寄ったことから、

御幸堤や行幸堤(みゆき)とも呼ばれ、川は中川、橋は「行幸橋」、明治10年建立で

題字は岩倉具視だそうです。

行幸橋」を渡ります。

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中川は埼玉県羽生に源を発し、埼玉県、東京都を流れ利根川水系一級河川

末流は古利根川に合流し、越谷市付近で新方川と元荒川を合わせ、葛飾区内で

新中川を分ける。海から約8 kmのところで綾瀬川を合わせ、以後は荒川と接しながら

並流し。葛西海浜公園葛西臨海公園)の西なぎさの突端で東京湾に達している。

国土交通省河川事務所資料より)

左手上流側

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右手下流側 写真右側、権現堂堤、左奥に締め切られた旧権現川が権現湖としてある。

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橋を渡りきると左手へ下り国道の堤下側道を行くのが旧街道。

橋が架かるまでは対岸の橋の袂付近から通ってきてたのかな。

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少し先の左手空き地にポツンと置かれてるのは?

よく見てみると、下は兎(卯)と龍(辰)で笠の上は子丑寅と、十支で合わせて

十ニ支が彫られた灯篭だった。 なんでかな~??といっていたら、

カミさんが、こっち側に石屋さんみたいのがあるよ、て。

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しばらく行くと上部に地蔵像が彫られた「筑波道追分道標」が置かれている。

安政4年(1775年)の建立で、道標には「左・日光道」「右・つくば道」

「東・かわつま前ばやし」と刻まれている。

「かわつま」は現在の茨城県五霞(ごか)村字川妻、「前ばやし」は茨城県総和町前林の事である。

幸手市教育委員会の説明版より)

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左手に田園広がる旧街道らしい道幅の道を行くと、

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おや、ポツンと建ってるレトロな商店は、現役の吉羽屋酒店だった。

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100mくらい先左手に、創建は不詳だが内国府間村の鎮守である「雷電社湯殿社」

があった。 平成13年に不審火で全焼し再建したそうだ。

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境内には馬頭観音青面金剛庚申塔如意輪観音崎像十九夜塔等が置かれている。

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一旦国道沿いへ上がるがすぐに土手下側道へと街道は続く。

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ここから先は、頭上から騒音が降りかかる国道4号線の土手下側道を進み、

幸手市久喜市の境である小さな円形のトンネルをくぐることになる。

抜けると外国府間集落から、この地を開拓した人名に因んだ小右衛門集落に入る。

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トンネルを抜けて小右衛門町(旧村)で、江戸時代は幕府領栗橋宿の助郷だったとか。

旧家らしい蔵を残した屋敷塀と国道土手に挟まれた道が続き。

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しばらく行くと左手に真光寺があり、街道書では、境内には青面金剛庚申塔

文政8年(1825年)建立の如意観音像、十九夜供養塔等が建っている、とあるが

わからなかった。

(後で調べると墓地の隅にあったようだ)

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その先隣に、一里塚の説明版が立っている。

江戸・日本橋から13番目(十三里目)の「小右衛門の一里塚」の西塚がある。

現在塚上には権現堂川から移設した弁財天堂があり、お堂は最近建て替えてたとある。 

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一里塚跡から200mほどの国道4号脇に標識が建ち、国道4号から左手の南栗橋駅への道のトンネルとなり、抜けると左への道で駅方面へ行ける。

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抜けて国道側道を5分ほど行くと、大きな門構や白い蔵が見えてくる。

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街道書には「旧家」とだけ記されてるが、がっちりとした屋敷門や二連の多大きな蔵を残してる屋敷であった。

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東北新幹線の高架をくぐり、約700mほど行くと、側道(街道)は国道と合流し

200mほどの小演芸場の手前から、再び左手へ国道を分けて下ってゆく。

(演芸場には再開との幟や看板、花輪などが飾られ、浅草〇〇・・とあった)。

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下った左手は川通神社で鳥居には「香取宮八幡宮」と刻まれている。

境内に文化十一年(1814)の建立の常夜灯があるそうだが、どこにあったのか?

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騒音の国道4号から離れ、静かな街道にほっとする。

この赤と薄黄の実はなにかな? 秋ナスの花がいっぱい咲いてる、まだ実のるのかな?

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十字路脇の電柱下に「→北広島地蔵 ←会津見送り地蔵」と記された木道標が建っていた。街道書では北広島地蔵は金剛院(廃寺)地蔵堂厨子に中に安置されていた、

とだけある。

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300mほど先で道は二股になりここにも木道標が建てられ、右手の民家の敷地内の

ようなところ赤い鳥居があり、「会津見送り稲荷」があった。

街道書によると、この稲荷神社は狐に乗る茶吉尼天を埼信とした稲荷社だで、

「江戸時代、会津藩主の参勤交代による江戸参向に先立ち、藩士が江戸へ書面を届けるためにこの街道を先遣隊として進んでいました。ところが、栗橋宿下河原まで来ると地水のために通行できず、街道がどこかさえも分からなくなってしまいました。大変困っているところへ突然、白髪の老人が現われ、道案内をしてくれたといいます。そのお陰で、藩士は無事に江戸へ着き、大事な役目をはたせたといいます」とある。

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5分ほど道なりに行くと、国道125号をトンネルで、抜けた道用水路脇に

会津見送り稲荷 焙烙地蔵」を指している木道標があった。

さらに50m程先の道角にも木道標があり(写真上)、

ここが栗橋宿の江戸口との説があるのようだ。

第7宿:栗橋宿には日光街道で7番目の宿場町。

江戸から14里14町(56.5km)・幸手宿から2里22町(10.3km)、

本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠25軒、人口約1700人。 

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10m程先、右手にお堂があり焙烙焙烙地蔵が安置され、焙烙が沢山奉納され、

今年春に建てられたという説明板によると、

「関所破りが火炙りの刑に処せられた刑場跡、云々」とある。

宿外れの利根川の関所破りで捕まった人々が、火あぶりの刑に処され、村人が

その供養のために祀ったという。

線香の灰が「えぼ」に効くことから「えぼ地蔵」とも呼ばれるそうな。

焙烙地蔵は、中山道江戸府内にも「八百屋お七」にまつわる地蔵がありました。

あの地蔵は焙烙を被っていたね。

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100m程先右手が顕正寺

栗橋宿を開き、本陣職を務めた池田鴨之助の墓があるとのこと。

説明文では、開基は常陸の国(現・茨城県小美玉市)幡谷城の城主・幡谷次郎信勝で、

 信勝は亡妻を弔うため天台宗の僧となり光念寺を建立した。

下がって天正十八年(1590)戦国大名佐竹氏の急襲を受け幡谷城は落城、

光念寺も兵火により焼失してしまった。 

難を逃れ下総国中田(現・古河市中田)で幡谷山破邪院顕正寺を建てたが、

十六代善了のとき、栗橋町の開発者である池田鴨之介の招請により、

慶長十四年(1614)この地に移し法義を継承した、とある。

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 解説板(栗橋町教育委員会)によると、

 池田鴨之介(鴨之助)は、新編武蔵風土記稿によれば、並木五郎兵衛と共に、

幕府に願い出て、慶長年間(1596~1614)に、下総国栗橋村(元栗橋)より、村民を引き連れ、後の栗橋宿となる上河辺新田を開墾しました。

 池田家は、代々栗橋宿の本陣役を務めました。

 子孫、鴨平は明治二十二年に私立淑徳女学館を設立し早くから女子教育に力を入れ、その子義郎は、旧栗橋町の第三代町長として町政のためにつくしました、とある。

     

向かいには浄土宗無量山帰命院浄信寺。

街道書には、

本尊は阿弥陀如来

墓地に梅澤太郎右衛門の墓がありる。徳川二代将軍秀忠が日光社参の際に、

暴風雨の中、太郎右衛門は増水した利根川に飛び込み舟橋を守りました、

この功により貞宗の名刀と軍扇を賜り名字帯刀が許され、名主に任じられた、

とあった。

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少し先で木道標の立つ角を左手へ入ると深廣寺

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境内には高さ3.5mの「南無阿弥陀仏」の名号が刻まれてた、六角名号塔というのが

21基並んでいる。

説明板によると、

 この塔は、当山二代住職単信上人が伊豆大島より大石を船で持ち帰り、

承応三年~明暦二年(1654~1657)の間に千人供養塔を二十基建立、

その後明和三年(1766)に九代住職法信上人が三千人供養塔を一基建立した、

とあった。 

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境内一角には、石仏石塔古墓などが整然と集められ安置されていた。 

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軌道書では 築地塀と家門とだけ記されてるが・・・築地塀は京都などに多い塀だった。

隣には時代を感じる奥行きのある民家もあった。

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PM3:15、今日は先の栗橋駅入り口交差点で足止めとし、左折して栗橋駅へ。

(一説では、ここが宿江戸口ともいわれるそうだ)

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途中に真言宗、福寿院があった。

境内には入らなかったが、街道書では正保4年(1647年)創建で、

本尊は不動明王。墓地前に江戸末期に造立されたという福寿塩地蔵尊が安置され、

イボとり地蔵とも呼ばれる子育て地蔵といい、脇に栗橋七福神・福禄寿があった。

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JR宇都宮線で帰宅。

おや、マンホール蓋デザインに「鯉」が・・

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歩いて再び京の都への前に 日光道中二十一次 街道散歩(第六歩)前編

時刻はPM3:30。

目的の幸手宿中心までは約2km強ほどだが、幸手市には到着した。

今日の街道散歩はここで足止め。

今年は秋バラを見に行けなかったが、思いがけなくバラの家へ立ち寄って、

沢山のバラを楽しむことができた。

東武日光線杉戸高野台駅より家路へ。

 さあて、次回は次の日曜日が体が空いてるが、・・・。

11月3日 第5回、終了。 

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お天気良し、歩けるうちに歩けるときに。

行楽お出かけは控えて、街道歩きに専念中、でもないが

続いて11月8日(日)再び日光道中へ。

いつものようにバス、電車を乗り継ぎ、東武日光線杉戸高野台駅から

(ありゃ、もちょいと前に置けばよかったな・・)

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日光街道国道4号線)へでて北へ向かいます。

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10分ほど進むと、上高野小入口の信号でY字路となり、国道から別れ左手街道を

進みます。

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東武日光線の踏切を渡り、300mほど行く幸手市南公民館の玄関先に

「上高野村道路元標」が置かれている。

街道書によると、元は御成街道沿いにあったが、平成に入って旧日光街道

この場所に移転したとのこと。 (移設して意味があるのかな??)

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道路元票から200mくらい先で高速園央道をくぐります。

圏央道は、南は東名高速、中央高速、中ほどで関越道、少し西側で東北道

東で常磐道、東端で京葉道などを繋ぐ環状道で、良く利用していた高速道でした。

おっ、マンホール蓋に農水の文字が。かっては周辺は田園が広がっていただろうな。

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そして幸手と言えば権現堂桜並木で、マンホール蓋も桜デザイン。

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過ぎて15分ぐらい歩くとT字路になり、合流する道は日光御成道

街道書には、

中山道(江戸の)本郷追分から分岐し、川口・鳩ケ谷・岩槻を抜けて日光道中

幸手に至る。

家光の時代に整備され、徳川家康を祀る東照宮に参詣する代々の将軍が通行した。

日光道中は宇都宮まで奥州街道を兼ねた、とあります。

江戸の本郷追分は、現在の東京大学農学部前で中山道と分岐しており、中山道の旅で

4年前に通っていて、追分一里塚跡碑が建ってました。

あそこで別れた道がここで合流したわけです。

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 案内板には、

日光道中日光御成道合流地点 幸手市南二-十‐三十地先、 

地元で羽生道と呼ばれている道も合流しており、ここを多くの旅人が行きかったと

思われます」幸手市教育委員会・ともありました。 

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(江戸、追分一里塚跡)

日光御成道中山道本郷追分から川口、鳩ケ谷、岩槻を経て日光道中幸手宿に至ります、日光御成道は家光の代に整備され、以降歴代将軍の日光社参道となりました。

日光社参の将軍は諸大名のように各宿場の本陣に宿泊する訳にはゆきません。譜代大名が守備する居城を宿城としました、日光道中には古河城まで宿城がありません、そこで岩槻街道を経由して岩槻城を宿城とする道筋が御成道となりました。

中山道解説文より)

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すぐ先の一角は古そうな墓地で、塀際には地蔵尊(頭部無し)、無縁塔(下右)、

天保2年(1831年)建立の馬頭観音(下中)等石仏や石塔が集められている。 

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すぐ先には「太子堂」があり、聖徳太子が祀られている。

街道書には、明治11年1878年)お堂を仮校舎として上高野小学校が開校したと

記されているが、お堂は立て直した? 

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その先には上高野神社が祀られ、境内の八坂神社は慶長5年(1600年)の創建という。

明治42年、上高野村の十一社が八坂神社を中心に合祀され翌年に上高野神社と改称

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合祀されている八坂神社は慶長五年(1600)の創建で、境内社として天満宮

浅間社、第六天社、稲荷大明神、などが祀られ、何故か境内周りには

文化元年(1800年代)の文字が刻まれた馬頭観音等々、無数の石仏石塔が並び、

十二社合祀のさい、各社周りにあったものを移設したのかも、とカミさん。

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街道に戻って、その先に左手を入ると浄土宗鷹尾山誓願院・神宮寺がある。

源頼朝が奥州征伐の折に、この地で鷹狩りを行い、戦勝を本尊の薬師如来に祈って

開基したとも伝えられ、この故事から鷹尾山誓願院の名が付けられたといわれます。 

ここも山道わきにも、時代物の石塔石仏墓石などが両側に整然と並んでいた。

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 200mほど先で東武日光線踏切を越え、400mほど行くと

バイパス4号を分けた国道4号が、志手橋交差点で枡形に合流し、倉松川を渡ると

旧右馬之助町へ入ります。 

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合流地は幸手宿の江戸口にあたり、信号の先には高札場があったそうだが、

今はその跡も示すものも見受けられない。

幸手宿、

日本橋から12里12町(48.4Km)、鉢石へ23里27町(93.3Km)

 天保14年(1843年)の「日光道中宿村大概帳」によると、

幸手宿の長さ9町45間、道幅6間、家数962軒、人数3,937人、本陣1軒、旅籠27軒と

あり、城下町に併設された宿を除くと、千住宿、越ヶ谷宿に次ぐ日光道3番目の

規模を誇った。

また幸手市資料では、宿駅としての幸手宿は、南から右馬之助町、久喜町、仲町、荒宿の4ヶ町より構成されており、開宿当初は久喜町、仲町の2町が宿の中心で、荒宿、右馬之助町が宿に組み込まれたと考えられている、とある。

 

右手に神明神社が鎮座し、鳥居の脇に「螺(たにし)不動」と彫られた石碑が

ありました

神明神社は宝暦5年(1755年)伊勢神宮の分霊を祀って創建され、

右馬之助町の鎮守。

町名はこの地を開発した新井右馬之助に因んでいう由。

境内には成田不動と、境内の左側にあるのが、「たにし不動」と呼ばれる

「菅谷(すがたに)不動尊」が祀られ、眼病などの時に田螺を食べるのを絶って

治癒を願い、二つの田螺を描いた絵馬を奉納し祈願すると霊験あらたかという。

田螺(たにし)ではなく螺(つぶ)と書いてタニシ?

絵馬は残されてないのかな・・・

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境内には水神宮や安永三年(1774)建立の庚申塔等があり、

狛犬が抱えていたのは田螺?、ではなくて牡丹の花のようです。

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すぐ先は幸手駅入り口交差点で、左手へ行けば東武日光線幸手駅があり、

電柱の地下化ですっきりとした街並みが続いてます。

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駅入り口交差点左手に小公園があり2基の明治大帝行在所御跡碑が建っている。

案内板によると、天皇行幸でお泊りの場所が「行在所」で、立寄るだけでは

行在所とは言わないとか。

こちらは1881年明治14年)と1896年(明治29年)の2度明治天皇の行在所となった

中村家があった場所とのこと。

奥の石碑題字は日本海海戦東郷平八郎元帥の由。

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幸手駅入口交差点のそばに旧岸本家住宅主屋があります。

土蔵造り二階建て(一階木造平屋建て)で、江戸時代末期に建てられ、

国の登録有形文化財にも登録されている。

かっては醤油醸造業をいちなんでいたが、現在は主屋だけが残っていて、

カフェとして活用されているそうです。

(写真はなぜかピンボケで、パンフ拝借フォット)

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駅方面へ足を向けしばらく行くと、左手に一色稲荷神社が祀られてます。

江戸時代初期まで幸手を支配した一色氏の陣屋跡で、稲荷は一色氏の守護神で

陣屋稲荷と呼ばれた。

幸手市の広報のよると、

幸手駅附近一帯に、城山又は陣屋という地名が残っているが、ここは古河公方

足利氏の家臣一色氏が館を構えた跡といわれている。一色直朝(なおとも)は天文年中(1532~55)に足利晴氏、義氏にしたがい、田宮庄(幸手庄)に住したという。後、徳川家康に仕え、幸手庄のうちにおいて五一六〇石余の領地を与えられている。

 現在は昔をしのぶ土塁跡などは見ることが出来ない。」とあった。    

 

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駅入り口交差点へ戻り、そのまま直進すると国道4号
その道沿いにパネルが並んでいる。

調べてみたら、「幸手」にちなんでの「ハッピーハンドレリーフ」だそで、

その年その年の一番幸せだと思われる男女1名を選んで、その手形を展示してる

そうで、一番手前は、 シンクロナイズドスイミングの小谷 実可子さんでした。

たしかオリンピックで日本選手団の旗手を務めてたね。

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幸手市商工観光課パンフより

幸手の始まり
幸手の地名は諸説あり、アイヌ語で「乾いている」を表す「さッ」あるいは水が涸れた流れを表す「さッテク」を語源とするアイヌ語説、また倭健命(ヤマトタケルノミコト)が東国下向のおり訪れた島が「薩天ヶ島(さってがしま)」と言われるようになった説など諸説ある。幸手は古くは下総の国に属し、後に大半は武蔵国編入された。

幸手宿のなりたち
日光道が整備される以前より、幸手利根川水系による河川舟運と鎌倉街道中道の人の往来で、交通の要衝として栄えていたとされる。特に中世では、古河公方重臣幸手一色氏との縁が深く、政治的・軍事的にも重要な場所であったことが伺われる。江戸時代になり日光道が整備されると、1616(元和2)年に幕府より人馬継立を命ぜられ幸手宿となった。幸手宿は日光街道のみならず、将軍家による日光社参の道である日光御成道との結節点でもあり、重要な地だったと考えられる。現在もその当時の道幅のままで約1km続いています。江戸時代、幸手天領でした。そのことからも幕府が幸手を重要な土地と捉えていたことがわかります。

 

NPO日光街道幸手を感じる会」というのが活動しているそうで、一文に

幸手の街は予算が潤沢でない為、旅行者のみなさんに親切な標識とか、観光地として充分に整備を行うというところまで手が回らないんですよ。市民レベルでできることは取り組んでいるんですがそれもなかなか思い通りにはいきません。でも私はそんな風に思う一方で「幸手はこのままでもいいんじゃないか」とも思ってるんですよ。幸手の街は今から400年前の道がそのままの道幅で残っていたりするんですよ。そんな街を歩くとやはり感じてくるものがあります。宿場町でもあり、城下町でもあった幸手という土地は歴史の宝庫なんです。春にはこの街で有名な「権現堂堤の桜並木」をご覧いただいた帰りに、日光街道の辺りをブラブラと歩いてみてください。それだけで歴史を感じられることでしょう。

お金をかけて飾りつけた観光施設を建てたり、広告費をじゃぶじゃぶ使ったりしなくったってその街の良さを伝えることは出来る、次の時代へ引き継いでいくことはできる。」とありました。

日常暮らしながら歴史を維持してゆくということは、住民にとっては大変なことで

しょうね。

はい、心得しながら楽しませていただきます。

  

昔は「朝萬」と表記してたという、今に歴史を伝える老舗旅館「あさよろず」。

幸手商工会資料によると、

 文政二年(1819年)に旅館業として創業し、180年を経て現在に至る。

先祖は、武州大沢(越谷市)出身の「萬屋久兵衛」氏。幸手に移り息子達が独立し、

それぞれ当時流行のネーミング「○萬」を名乗り、次男「萬屋久兵衛」が営む。
江戸時代は日光街道を通る旅人のための宿として、明治にはいると行商人の宿や利根川で軍事演習の際の軍人や要人が滞在。その後、幸手の発展と共に営業を続け現在に至ります。
また館内には『宿札』が残り、明治9年と14年に明治天皇行幸したときに同行した宮様や随行員の方々、明治末の利根川大演習で滞在した要人のものがあります。

宿泊者には明治の元勲、伊藤博文板垣退助大久保利通などそうそうたる方々が

名を連ねるという。

建物はリニューアルされて現代的な造りになりましたが、かつては木造三階建て

時代もあったとか。

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過ぎて左手の道へ入ると、 1615年元和年代(1600年~)創建という古刹、

浄土真宗本願寺派 法林山 担景寺の山門、伽藍が見えます 。

本尊は平安時代中期の僧、源信(恵信僧都)作の阿弥陀如来像。

現代は地域最安値で永代供養ができる、と謳ってるだそうで、

スパー同士のコマーシャルみたい。お寺も維持運営は大変ですね。

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街道に戻り10mほど、 中1丁目(南)の交差点右手にポケットパークがあり、

日光街道幸手宿」の説明版と「問屋場跡」の説明版があり、奥は勤労福祉会館で

公衆トイレがあった。

この場所は幸手宿の問屋場跡だそうで、問屋場は宿並に面し、間口六間一尺、

奥行三十三間半、百六十八坪で、問屋場、人足溜、馬小屋などの建物がありました。

問屋場は人足二十五人と馬二十五疋を常備し、問屋四人(久喜町・仲町・荒宿・

右馬之助町で一日交替であったという)、年寄八人、帖付四人、馬指四人、見習一人、月行事四人の総勢二十五人が詰め問屋業務をこなしました。

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古くは田宮町とも呼ばれた幸手の中心部は、江戸幕府による街道整備の結果、日光道中6番目の宿場である幸手宿として発展した。徳川将軍が日光社参で通る日光御成道が上高野村で合流、また宿内で日光社参の迂回路である日光御廻り道、更に外国府村で筑波道が分岐し、陸上交通の要衝として大いに栄えた。

日光街道幸手宿 説明版より)

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説明板には大正、昭和初期の幸手の写真があった。

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隣にある裏手に奥深い敷地に蔵が並んだ旧家は街道書に記載なく、周辺にも説明板などはなかったが、帰宅後調べてみると幸手市商工会の資料に、建屋は大正11年の

建築で、かっては味噌醸造業を営んでいた平井家、とあった。 

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問屋場跡少し先向「うなぎ屋」は「本陣・知久(ちく)家跡」でした。

知久家は本陣(大名宿)・問屋・名主の三役を兼ね、幸手宿で最も重要な役割を

果たした家柄で、初代帯刀(たてわき)は長野県伊奈郡の豪族の出で、同郷の関東郡代伊奈熊蔵より幸手宿の久喜町開拓を命ぜられ、諸役を務め、明治三年(1870)に

本陣が廃止されるまで、代々幸手宿の繁栄に尽くしました。 明治六年、知久家の書院で小学校が開設され、明治九年、明治天皇が東北巡幸の折に宿泊されています。

屋敷は、間口約39m・奥行約80mで、約千坪ありました。

幸手市教育委員会

あれれ・・営業中の札が掛ってるが暖簾が???

 

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本陣跡の少し先を左手に入ってゆくと、 満福寺。

一色氏の開基、本尊の如意観音菩薩は安産子育てにご利益がある由。

解説板が・・・

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 満福寺入り口を街道に戻らず左手へ行くと、街道書図では雷電神社が記載されて

いたが、幸宮神社が鎮座してました。

案内板によると、かっては八幡香取神社といってたが、明治の神社合祀のより

幸手の総鎮守となり幸宮神社となった。

境内に祀られてる八坂神社は、創建から400年を越える由緒ある神社、

と記されてました。

時期の七五三で境内はにぎわってました。

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街道書には幸宮神社の記載がなく、幸手宿の総鎮守として、ご神体は幸手城主一色氏

が奉納した雷神という雷電神社が記されてるが、案内表示なども見つけられず、

不明のままに花や実を愛でながら北へ進むとT字路へで、先の小路を入った先が、

聖福寺の裏手側に出て、境内の幼稚園入り口でした。

(帰宅後調べてみると、雷電神社は道をもう一本西寄りの道側で、幸宮神社とは背を

 合わせたような感じで祀られていたようです)

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菩提山東皐院・聖福寺は、応永年間(1394~1428)の創建といわれ、

御朱印十石を拝領しました600年続く浄土宗のお寺。

本尊は阿弥陀如来です、観音像は運慶作と伝えられています。 

 

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その「聖福寺」の参道に入ってみると、直ぐの右手に、下の写真の真新しい
芭蕉句碑」がありました。

  ”幸手を行ば 栗橋の関” (芭蕉)     

 ”松杉を はさみ揃(そろ)ゆる 寺の門” (曽良

芭蕉の句に上の句が無いのは謎らしいですが、下の曽良の句との連歌になっているという説もあるそうです。

また、曽良の句の中の”門”は、この聖福寺の勅使門を指すそうです。

 平成13年、日光街道四百年を迎えたおり山門の改修工事も成り、併せてこの句碑を

建立したという。

奥の細道の旅を終えた芭蕉は4年後の元禄六年九月十三日に江戸・深川の芭蕉庵で句会を催したときにみちのくの旅を想い曽良と共に詠んだ句だということである。

幸手市建築経済部商工観光課発行マップより引用)

 

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徳川三代将軍家光が日光社参の折、御殿所(将軍の休憩所)として使用し、例幣使や

歴代将軍が十八回にわたり休憩所しました。
本堂の「将軍の間」の彫刻は日光東照宮のあの「眠り猫」を作った左甚五郎と伝わる。その他、運慶作と言われる阿弥陀如来がある。

山門は唐破風の四脚門で勅使門と呼ばれ将軍の通行のみ許された。勅使門は幸手市の指定文化財となっている。

幸手市教育委員会説明板)

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 さて、街道に戻ったすぐ先で街道は右手へ枡形に曲り角に「幸手の一里塚跡」の

説明版が立っている。江戸・日本橋から12番目(十二里目)の一里塚である。 

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 一里塚跡の道路向こうが「正福寺」(しょうふくじ)です。

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境内には、移設されたという大きな日光街道の道標(写真右)があり、

中央面に馬頭観世音供養 寛成12年、左側面に日光道中、刻まれていて、

右側面には権現堂河岸とありました。

(道路改修などで移設は止む得なかったのか)

日光街道の道標の奥には、義賑窮餓(ぎしんきゅうが)の碑(写真左上)があります。

 その説明板によると、1783年の浅間山の大噴火の際、関東一円には灰が
降り、冷害も重なって大飢饉なりました。

この時、幸手町の有志が金品を出し合って、難民の救援に当りました。

この善行を知った関東郡代の伊那忠尊が、この顕彰碑を建てさせたのだそうです。

無縁仏となった石仏石塔供養塔なども、小山のようにが積み上げてありました。

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正福寺をを出て街道(県道65号)を行くと緩く左手へ曲がった右手に、

街道書に記された、創業文久年間(1861年~江戸時代)の銘菓「名物塩がま」の

老舗石太菓子店があった。(どんな菓子なのかな?)

(商工会解説分より抜粋)

石太菓子店は、名前の由来になった初代中村石太郎氏によって創業し現在に至ってる。
 数ある和菓子の中でも、創業時からそのまま受け継がれている伝統の和菓子が、

『塩がま』です。

「塩がま「」の起源は江戸時代(文政年間)に幸手市内国府間で菓子製造を営んでいた、

『大阪屋』の樋口清左衛門氏によって作られたといわれている。

もち米・砂糖・塩等材料を用いて、型に押し固めて作るので、押し物菓子の一種に

なります。口に入れたときに、「ほっこり~」とする食感で、お茶と一緒に頂くのが

一般的です。

明治天皇東北御巡幸の際に、『塩がま』を献上致しました。

(現在は何店かで製造されてるようです)
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すぐ先が変則十字路で街道(県道65)は左手へ行くが、直進すると国道4号へでる。

向かい左角(空き地)付近に先ほどの正福寺にあった道標が置かれていたところで、

直進して4号を横切って進む道が権現堂河岸への道になるようだ。

権現堂河岸は、幸手宿の東北14町30間の権現堂村の権現堂川沿いに設置された

河岸場で、幸手宿に集散する物資や年貢米の移出入港の機能を果していた。

江戸時代前期、伊奈氏を中心とした利根川東遷事業が行われ、権現堂川、江戸川が

整備された。新田開発による米作の増大と相まって、これらの川を利用した江戸との

間を結ぶ舟運が発展した。(幸手市観光課)

右手電柱の脇には木道標が建てられていた。

熊野神社はどこかな・・)

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時刻は正午、お腹も空いたと食事処の多い国道4号へ向かい、

またも入ったのが麺の店。

 後半へ。

 

歩いて再び京の都への前に 日光道中二十一次 街道散歩(第五歩 編)

2020年10月24日

公園橋(西)交差点を左へ行くと東武スカイツリーライン東武野田線

春日部駅で、今日は足止めです。続く

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11月、今年もあと2ヶ月で新たな年を迎えます。

とうとうコロナは終息気配も見せていないが、

Gotoでは多くの方が利用し、3千万人と報道されてビックリ!

そんな中だが、3日(祝日)は週間天気では小雨予報だったが、晴れに変化。

それじゃ行くべ~・・夫婦は北風に吹かれながらてくてく歩きを楽しむことに。

AM7:30家を出、バス、電車を乗り継ぎ、乗換駅で朝のCaféタイムをとって

前回足止めの埼玉県西部の春日部駅到着。

旅立ちショットを撮って、AM9:30 出立。

今日の目標は約12.5km先の幸手宿。

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約300mほど駅前通りを東に向かい、公園橋西交差点で街道へ。

左手へ向かえば街道復帰、

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ですが、そのまま信号を渡り、右手に街道書で「敷地は大落古利根川まで続き、

豪壮な家屋と蔵を残している」と記されてる田村荒物店(写真左)を見ながら

その先の春日部市の中心を流れる、利根川の支流、大落古利根川に架かる

日本では珍しい橋長79mの上に広がる橋の上公園「古利根川公園橋」へ寄り道。

春日部市制30周年を記念して造られ、園内には、麦わら帽子の形をコンセプトにした

モニュメントがあり、日没後にはライトアップされて古利根川と公園の景色を彩る

そうです。

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 公園橋から再び街道(かすかべ大通り)へ戻り道中を始めます。

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すぐ右手に問屋場跡の案内板が有る。

文政9年(1826年)には、春日部宿の江戸口付近の三枚橋に移転した。

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 問屋場跡と並んで慶長年間(1596~1615年)創業の「永島庄兵衛商店」が

あり、屋根に鍾馗様が乗っている。

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すぐ先の新町場西交差点で街道は右折し粕壁宿を後にするが、

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右角地は佐渡屋跡で、戦前まで浜島家が米穀商を営んでおり、明治時代前期築の

重厚感溢れる黒い土蔵(国登録文化財)が残されている。

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そしてなんでかな??で、

交差点の道路を挟んで向かい角は、黒蔵と高札場跡についての標柱が建っていた。

 

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右折しての街道への前に、日光道中粕壁宿の突当りに粕壁宿近在の本寺といわれて

いた粕壁宿の古刹「最勝院」へ足を向けます。

辺りは寺町と呼ばれ、五つの寺院の屋からが並んでるそうです。

 

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真言宗智山派寺院の最勝院は、華林山慈恩寺と号します。

慈恩寺の僧奝尊が、慈恩寺を退いて永正元年(1504)当地に創建した。

足利尊氏との戦いに敗れて自刃した、春日部重行を葬った塚があることで、

春日部という地名の由来と云われている。

日光東照宮に移葬される三代将軍家光の亡骸が仮安置されたところでも有る由。 

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新町場西交差点へ戻り曲がると、大落(おおおとし)古利根川 に架かる新町橋で、

新町橋・上喜蔵河岸」の標柱が立っている。

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単に古利根川と呼んでいるが、大落古利根川が正式名称のようです。

(上流、下流新町橋

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春日部市資料より)

大落古利根川(おおおとしふるとねがわ)は、埼玉県を流れる一級河川

江戸時代以前は利根川本流がこの河道を流れ東京湾へ注いでいた。

久喜市杉戸町の境にある葛西橋から、松伏町下赤岩付近で中川に合流する

延長26.7km、の一級河川

その名の示す通り、古くは利根川の本流として、いくたびかの大洪水を引き起こし、

江戸時代の初期に、利根川が現在の流路に付けかえられたため、

この流れは大落古利根川として残されました。

 その後、この川は数回の改修を経て、今日の姿となり、中川流域の主要な河川として、また葛西用水の幹線として治水と利水の両面で重要な働きをしています。

なお、当川の「大落」とは農業排水を落とす幹線排水路の意味です。

国土交通省河川に関する資料より)

その昔、利根川東京湾に流れ込んでいました。

徳川幕府は江戸時代の初期に、将軍のお膝下(おひざもと)である関東の生産基盤づくりのため利根川や荒川の乱流整理を行いました。その工事は、利根川の本流を鬼怒川の支流につなぎ太平洋に放流させるもので、約50年の歳月を要しました。

 銚子から太平洋への流れは人工的に作られたものだったんですね。

 ( 江戸川に関する資料もあったので記載)

また、その昔、江戸川という川はありませんでした。
江戸時代、江戸の町(現在の東京都)を洪水から守り、銚子から江戸までの交通路を開き、さらに田や畑を広げるために、利根川の流れを東に変えるという大工事が行なわれました。これが「利根川東遷(とねがわとうせん)」です。徳川家康の命により、文禄3年(1594年)に始まり、60年の月日が費やされました。
利根川東遷より前、今の江戸川は太日川(ふといがわ)と呼ばれていました。
利根川東遷により、渡良瀬川利根川に流れ込むようになりました。一方、関宿から

金杉までの間を掘って新しい川を作り、利根川と太日川をつなぎました。こうして誕生したのが江戸川です。

 

荒川と墨田川など、 江戸時代からの河川の改修工事は近代的動力の無い時代。

主に人力での仕事、いまさらながらすごいことをやって来たんだ、

と驚くばかりですね。

 

橋を渡り切ると左折し県道319号をゆき、すぐに「八坂香取稲荷合社」がある。

元旦の歳旦祭は千貫神輿の渡御が行われるそうで、

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ユニークな狛犬と、文政10年(1827年)建立と刻まれた御神燈があります。

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隣の仲蔵院境内から大きく伸びて、稲荷神社境内で木枠に支えられてる大木の老松。

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隣の永禄元年(1558年)創建の「仲蔵院」。

境内には寛政4年(1792年)建立の青面金剛庚申塔が置かれている。 

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10分ばかり先に「史跡小渕一里塚跡」の碑が置かれている。

江戸・日本橋から九里目)の一里塚で、傍らに天保三年(1832年)建立の

庚申塔が立っている。 

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すぐ先には、関宿往還との立つ追分道標が置かれ、街道書によると

左の大きな道標は、宝暦四年(1754)建立で「青面金剛、左日光道」、

右の小さな道標は宝永六年(1709)建立で、「右方せきやど道、左方あうしう道」と

刻まれているそうです。

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先の小淵の交差点で再び国道4号線に合流し、合流地点で東西に横切るは国道16号

バイパス。

国道16号は「東京環状」とも呼ばれ、横浜市相模原市、八王子市、埼玉西部、

さいたま市千葉市など首都30~40km圏の主要な都市を結び、千葉の君津からは海上で、浦賀水道の対岸、横須賀市走水へ指定区間として続く延長約330kmの重要な

道路。我が家からも近く良く利用する国道でした。

この付近も何回か横切っていたことがあった。

行く先方向板に栃木の町名が出てきた。

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しばらく行って左手に、市の有形文化財に指定されているという、

立派な山門、桜門(仁王門)の建つ「小渕観音院」があった。

迫力ある顔している山門の仁王様は、残念ながら少々痛ましい姿だね~。

本尊の聖観音は、「こぶとり観音」とも呼ばれイボ、コブ、アザにご利益があると

いわれているそうな。

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境内には「毛のいえば(ものいえば)唇寒し秋の風」と刻まれた芭蕉の句碑が置かれている。奥の細道紀行で芭蕉はこの寺に宿泊したという説があるそうです。

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北春日部駅入り口、江戸時代幕府から寺領十石の御朱印状を拝領したという

曹洞宗不二山浄春院の寺標を左手に見て進むと、

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すぐ先は春日部市から杉戸町 へ入り、歩道上に北緯36度を示す地球儀の

モニュメントが置かれている。
同じ緯度上に、チンタオ、ラスベガス、地中海などがあるそうだ。

 

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約500mほど単調な国道を歩き交差点を右へ入ると香取神社で、

境内に寛政6年(1794年)建立という、青面金剛庚申塔等がおかれていた。

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さらに15分ほど行き、街道は国道4号から左に分岐するが、信号、横断歩道がなく、

すこし先の歩道橋を渡って街道へ入る。 

右手に大きな門構えの家があった。

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街道書によると、高野家が茶屋を営んだとされる「堤根立場跡」のようです。

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街道書図によると、街道は国道4号と左手奥に流れる大落古利根川の間を通っている。

入ってすぐ左手に曹洞宗 九品寺があり本尊は阿弥陀如来

境内には道標を兼ねた庚申塔には、正面は「青面金剛」、左右に「左日光」「右江戸」と刻まれていて、横に馬頭観音が祀られてる。

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 脇に「日光街道の道しるべ」の説明版があった。

「この道しるべ は、天明四年(一七八四)堤根付の農民四十二人が協力して、新川村(春日部市)の石工・星野常久に作らせ、江戸と日光方面を知らせた。また、この道路の向い側の高野家が、立場を営み、馬で荷物を運ぶ人・駕籠をかつぐ人・旅人・馬などが休む場所となっていたので、この道しるべを多くの人々が見ながら旅を続けたと思われる。
この石塔は、庚申の夜、人間の身体にあって人を短命にするという三尸を除いて、青面金剛 に疫病の予防治療と長生きができるように祈る庚申信仰 を表すものであり、道しるべを兼ねたものである。
なお、見ざる・聞かざる・言わざるは、三尸 になぞらえ、眼や耳や口をふさいで悪事を天の神に報告させないという意味がある。」 杉戸町教育委員会

 

 

過ぎて少し先左手に小社があり、街道書では大六天を祀ると」書かれている。

並びにも立派な門構えの屋敷があった。

(同じ敷地内とも見えるので、家神かな?)

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国道と合流手前の道を国道側へ入った角に、ラーメン店での看板を見つけ、

ちょっと昼前だが、お腹も空いたと足を向けた。

久しぶりに湯麵にしたが、これが大当たりで旨かったですね。

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暫しの足休めし、すぐ先が街道との合流交差点なのでそのまま国道を進みます。

合流交差点手前に道の駅の案内板「アグリパーク・ゆめすぎと」があった。

かって何度も利用したことがあった道の駅だった。

一番最近は5年くらい前かな・・

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先で街道も合流し、交差点のすぐ右てに慶安2年(1649年)中興という

真言宗「馬頭院」で、本尊は伝教大師策作の馬頭観世音菩薩像。

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境内には文永7年(1270年)建立と言われる板石塔婆、

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元文5年(1740年)建立の青面金剛庚申塔等等がある。

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「馬の事悪と厄とを食い尽くす 旅おも守馬頭観音」と刻まれた碑が置かれている

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明治初には学校も開かれた。

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馬頭院から300mほど歩むと左手に「バラの家」看板が、あれあの店は!!

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何年か前に長野・軽井沢のバラ園へ行ったときに見たバラのことを、係の方に

紹介して頂いたバラ専門栽培育成店で、以前来たときはマイカーだったのです。

カミさんが庭にバラを何本か植え始めたころで、お目当てのバラや肥料を買った店で、歩いてきての出合いにビックリ。

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招待イベントをやっていましたが、係の方に了解を頂き、いくつもの栽培ハウスを

1時間以上も楽しんで後にしました。

堤根の交差点から国道と左手へ別れて、街道は杉戸宿へ向かいます。

 

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うっかりすると見落としてしまうそうな、右手の民家の生け垣の中に、

「三本木の一里塚」の説明版が立っている。

江戸日本橋から十里目(10番目)の一里塚である。

このあたりが宿場町の入口になるかな。

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第5宿 杉戸宿

 日本橋から10里23町(41.8Km)粕壁宿より1里21町(約6.6km)

 宿内人口:1,663人、総戸数: 365軒(本陣1・脇本陣2・旅籠46)

日光街道奥州街道、関宿往還の交通の要衝として栄えたそうだ。 

天保十四年(1843)日光道中宿村大概帳による)

元和二年(1616)近郊の村を集めて宿場町を作った。五と十のつく日に六斎市が立ち

近郊の商業の中心地であったという。

宿案内文に、平成28年(2016年)に宿場開宿400周年を迎えたとある。

その先右手へ小路を入ると、正面には万福寺があり、六地蔵が祀られている。

明治期には本堂が清地学校の仮校舎となったそうな。

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裏手側に回り込むと八幡神社が祀られいる。

三本木の鎮守で、境内の手水石は文政2年(1819年)の作とあるが風化して判読不可能。

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宿の南東端、清池二丁目の信号の所に文政5年(1822年)創業の銘酒「杉戸宿」の蔵元である関口酒造がある。旧屋号は「豊島屋」。

家屋は築後約120年の時を刻み、現在の当主は6代目で、約200年間、伝統の製法で

日本酒を造っています。「豊泉」や「杉戸宿」などの銘柄は杉戸町の人々に愛され

続けています。

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おや垣根に咲く花は??

帰宅後調べてみると南米原産、ナス科のツルハナナスだった。

咲き始めは紫でしだいに白花になる。

蔓性で春から晩秋ころまで咲き続く結構強靭な蔓性植物だった。

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來迎院

本尊の不動明王像は運慶作と伝わり、奥州藤原氏三代の守護仏だったとか。

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街灯に伏見屋の看板が下がってるので、

寛延元年(1748年)創業と言われた造り酒屋「伏見屋久五郎」の跡と思われる。

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先に杉戸宿高札場跡があり高札が復元されていた。

宿資料によると、

もともとは杉戸宿と関宿道との分岐点にあったが、江戸後期・天保14年(1843年)に

日光街道沿いの様子を記した『日光道中宿村大概帳』の資料に基づき、

杉戸町日本工業大学が協力して、ほぼ原寸大で、この場所に復元されました。

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高札場の先に鳥居が建ち、奥の社殿は清地村の村社近津神社。

貞享元年(1684年)の創建で、古い社殿は2001年に残念ながら焼失という。

近津神社の狛犬は特異な姿勢で、顔を背けていることから「見返りの狛犬」と

造立は江戸末期・元治元年(1964年)で、狛犬は火災を免れましたという。

狛犬写真ボケボケのため拝借しました)

 

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左手の小路を入ると、元和9年(1623年)の創建と伝わる、東福寺

本尊は不動明王で、明治22年(1889年)杉戸町役場が置かれたという。

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f:id:hansui:20201105070813j:plain前の道が町境であったようで、石柱が置かれていた。

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街道へ戻った角は、街道書では扇屋という旧旅籠跡とあるが、今は扇屋の看板を掲げた

洋品生地店で、子孫の方が営業してるのかな。

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扇谷から先に見えていたが、先の交差点手前の銀行の前に、明治天皇御小休址碑が

建っていている。

街道書では、ここは元杉戸宿問屋場跡で、裏には伊奈稲荷神社が祀られていた。

明治9年(1876)東北巡幸に出向いた明治天皇が、当時、県区務所が置かれていたこの場所で、休憩をとったことを記す石碑です。

ちなみに明治天皇がこの場所で休憩した時間は5分程度だった、とある。

 

 

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交差点を渡ったところの「とらや薬局」は、江戸時代、杉戸宿の漢方医として名を

馳せた虎屋善蔵の診療所「虎屋」跡地。

街道書では、敷地には「虎屋の松」と呼ばれるりっぱな松が植えられている、と

あるが見つけられなかった。

現在、虎屋善蔵の子孫にある当主が「とらや薬局」を営んでいて「虎屋」の屋号を

今に伝えています。

宿資料に、とらや薬局の場所は、日光街道をはさんで虎屋の松の斜め前、とあったので

薬局の向かい側が「虎屋の松」のあったとこのようだった。

交差点は信号機に「本陣跡地前」の地名プレートが付いているが、

本陣跡はここから120m先になるようだ。

交差点を左手へ行くと、東武動物公園駅(旧杉戸駅)に向かう。 

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虎屋の先の埼玉県信用金庫のところは、杉戸宿最後の名主、鈴木小左衛門の宅跡。

そして先隣は、

 

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街道書によれば、脇本陣・蔦屋権左衛門跡(現マツモト金物)で、

建坪九十四坪の屋敷があったが門構えは無かった、とある。 

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さらに先となりには本陣門と松の木を残す、長瀬本陣跡、

建坪約166坪半であったと 「宿村大概帳」 に記されている。

脇本陣は本陣を挟んで1軒ずつ建てられていたが、門構えはなかったという。

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さらに先隣には脇本陣・酒屋伝右衛門跡(現松本屋製パン所)が並んでいた。

 

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脇本陣のすぐ先の「愛宕神社前」の交差点を北に延びる道が「関宿道」で、

傍らには道標があり

「久喜方面」(関宿道)「幸手方面」(日光街道)と刻まれている。

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交差点を左手へ入ると杉戸宿の鎮守愛宕神社が祀られており、社殿わきには文政13年(1830年)建立の聖徳太子碑等がある。

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宿場町の面影を残す古民家や蔵が今も少しは残っていて、右手は渡辺金物店跡。

かすれて読みがたいが、

「平成になって金物店の看板は降ろしましたが、月に1回、クラブ茶屋という地域交流会の場として、活用されています・・・」の掲示板を掲げていた。

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右手に曲がる左角地に大正4年建立という道標が建ってます。

久喜方面、幸手方面、と刻まれている。

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宿場町の北西端は桝形に右手へ曲がり、曲がり角にに昔ながらの家屋と蔵を残した

小島定右衛門邸(角穀屋跡)がある。

角穀跡とは、角にある米穀問屋という意味で、江戸の商店と情報交換をしながら、

杉戸宿で米の取引を行っていました。

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左手には、永禄三年(1562)幸手城主・一色義直が開山した「宝性院」がある。

街道書には、本尊は胎蔵界大日如来で杉戸七福神毘沙門天も祀られている。

境内には「不動明王像」「青面金剛庚申塔」などが置かれており文化七年(1810)

建立の馬頭観音像があり「日光道中」と刻まれている。

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寺入り口わきに、杉戸宿の案内板があった、

江戸方面からの入り口付近にもあったのかな??

ただ、高札場の跡なと違うようだが・・高札場を移設する前に建てられたのかな?

ただその場所場所には、全く示す案内板などは杉戸宿は無かったので、街道書などを

持参して歩かないと、みんな見逃し素通りになってしまうね。

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 えっ、東京食堂??

後で調べたら仕出し食堂で、創業者が元鉄道員だったそうでる。 

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斜め向かいには、旧家・渡部勘左衛門邸がある。当時は多数の小作人を抱えていた

という。

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500m弱約15分ほどで再び旧道は国道4号線に合流し騒音に包まれながらの歩きです。交通事故があったのかな。

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30m弱行くと左手に大きなインテリア家具の店があり、トイレ拝借。

向かい道路越奥に鳥居と社殿が見え、街道書にある八幡神社らしいが、横断歩道や信号が全くなく、見送り。

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 綺麗に咲いてるわ~、欲しいわね~のカミさん。

ダリアかな?八重シュウメイギク

向かいに広大な駐車場があり、大きな蔵造り風?の建物は食事処のようだった。

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厳島神社

境内内に天満宮を祀り、文政5年(1822年)建立の庚申塔がある。

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10分ほど歩くと「山田うどん」の駐車場内に「荻島の一里塚跡」の説明版が

立っている。江戸・日本橋から十一里目(11番目)の一里塚である。

おっ、国道距離も44km、11里か・・・

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5分ばかり行くと「幸手団地入口」の交差点がある。このあたりが杉戸町幸手市

境だった。

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時刻はPM3:30。

目的の幸手宿中心までは約2km強ほどだが、幸手市には到着した。

今日の街道散歩はここで足止め。

今年は秋バラを見に行けなかったが、思いがけなくバラの家へ立ち寄って、

沢山のバラを楽しむことができた。

東武日光線杉戸高野台駅より家路へ。

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さあて、次回は次の日曜日が体が空いてるが、・・・。

第5回、終了。











 

 

歩いて再び京の都への前に 日光道中二十一次 街道散歩(第四歩 後編)

 200mほど先で新方川を戸井橋で渡り、越谷市から春日部市に入ります。
 新方川は元の千間堀です、流末は中川に落合います。

続きへ入ります。 

橋で越谷市から春日部市へ入り、マンホールデザインも春日部市の花、「藤」に。 

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市の花、フジと言えば春日部牛島の藤が昔から全国的に知られてます。

同じ県内でも、我が家とは西と東の端同士もあって、訪れる機会が無かったが、

10年ほど前に今が見ごろと花便りをいただき、車を走られたことがあった。

 

牛島のフジは紫フジの巨木で、伝承によると弘法大師御手植えと伝えられ、

樹齢は1,000年とも1,200年とも言われてる。

当所は寺の境内だったそうですが廃寺となり、現在は小島家による藤花園により

管理公開されている。

1928年(昭和3年)に国指定の天然記念物となり、1955年(昭和30年)には

特別天然記念物に格上げされている。(説明文より抜粋)

そのほかに樹齢300年の藤も咲いてました。

そうそう、今は春日部駅の西側のにも1kmと言われる藤棚があって、

見ごたえがありました。

(10年前撮影の牛島の藤)

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常陸の国の町名が出てきました。

大枝地区になり、

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300mほど先左手奥に、大きな看板を掲げた真言宗豊山派歓喜院があり、武里観音

として広く知られているそうです。

(塀の向う側、大きな本堂が建ってます)

歓喜院の手前に平屋で、歓喜院の寺鎮守として、また大枝村の鎮守五穀豊穣の神と

して建てられた、大枝香取神社(手前の平屋)がこじんまりと鎮座してました。

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すぐ先の武里駅入口交差点で左折すると、右手に浄土宗大畠山西光寺があります。

参道口に地蔵尊天保六年(1835)建立の庚申塔がありました。

境内に入れば宝暦四年(1754)建立の普門品供養塔もあるそうです。

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武里駅入り口から約30mほどで川を渡ると、地域は大畑から備後に入ります。

弘法大師が備後國から観音像を移す際に行方不明となったが、この辺りで見つかった

ので当地を備後と命名しました、との由緒の地名だそうです。

600mほど行き、正善小入口交差点を過ぎると右手奥に

御雷(たけみかづち)神社が鎮座しています。

元は雷電社と称していたが明治初年に現在の社号に改め、境内に富士浅間宮大権現を

祀る富士塚があります。

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さらに300mほど先、備後交差点手前の右手奥に浄土宗称名寺があります。
 

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境内に享保六年(1721)造立の三界萬霊地蔵尊(写真左上)や、

生信忍譽と刻まれ、子宝に恵まれない婦人がこの石に腰掛けると授かるとう金精様と

呼ばれる男石があります。(写真左下)

境内の墓石も古いようでした。

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街道書にある地蔵祠はどこかな?と行くと、300mほど先左手に、二体の地蔵立像

が安置された祠がありました。

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地蔵像からしばらく行った備後(北)交差点の右手に、江戸日本橋より8番目の

史跡備後一里塚跡碑がありました。

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先すぐ右手に、境内に親鸞聖人旅姿像がある浄土真宗本願寺派善巧寺があります。

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街道書によると、藤塚橋交差点の右手に入ると藤塚橋があり大落古利根川が流れて

るようです。

立ち寄りませんでしたが、大落(おおおとし)とは農業排水を落とす(流す)の意で、利根川の本流でしたが、江戸時代初期の東遷事業により江戸湾から鹿島灘に注ぐ河川に付け替えられあそうです。

藤塚橋の位置には三蔵渡しと呼ばれる渡船場があり、昭和八年(1933)には

有料の木橋が架けられ、賃とり橋と呼ばれた橋だったそうです。

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藤塚橋からタンタンと30分ほど行くと、東武野田線ガードをくぐります。

野田線で一つ東側に「藤の牛島駅」と今は改名された駅があるんです。

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300mほど粕壁東を進むと左手に東町大下稲荷神社が鎮座し、境内には庚申塔等が

あるようです。

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さらに300mほどの一宮歩道橋右手に、八坂神社が鎮座しています。

粕壁宿の市神として信仰され、江戸時代には牛頭天王社と呼ばれました。
 境内には文政二年(1819)建立の猿田彦大神塔等があります。

 明和7年(1770年)の火災で社殿が焼失のため、勧請の由来等は不詳です。

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八坂神社前の一宮交差点で国道と分かれ街道は左手へ行き、再び旧道を歩く

ことになり、神社前辺りが粕壁宿の江戸口になるようです。

枡形と言われる曲がり道かな?

信号が青になり、三叉路をいったん直進してから国道を左手に横断。

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粕壁宿、

江戸日本橋から9里2町(約36km)、4番目の宿場町です。

古利根川の舟運により江戸と結ばれ、諸物資の集散地として栄え、毎月4と9の

付く日に六斎市が立ち大いに賑わいました。

天保14年(1843年)の日光道中宿村大概帳によると、

宿内家数は773軒、本陣 1、脇本陣 1、旅籠45軒、宿内人口は3701人。

 

一宮交差点で国道を左手にわたるとすぐ先にの右手に曹洞宗医王山東陽寺の東門が

あり、、右手国道越の路地奥に鳥居が見え神社がありました。

街道書によると、神社は粕壁宿の鎮守で新田義貞の鎌倉攻めに功があった春日部時賢が鎌倉鶴岡八幡宮を勧請した東八幡神社で、樹齢600年の大欅などが有るようです。

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左手の国道4号から入れる東陽寺の門がありそのまま境内へ。

曹洞宗寺院東陽寺、寺説によれば創建年代等は不詳ながら、文明年間(1469-1487)に春日部八幡神社の東隣に創建したと伝えられ、寛永元年(1624)に焼失、寛文2年(1662)当地に再建し中興開山したと伝えられます。

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本堂の階段の右手には、松尾芭蕉と同行の曽良旅日記の一節

「廿七日夜カスカベニ泊ル江戸ヨリ九里余」と芭蕉曾良の絵が刻まれた碑が

あります。平成元年に奥の細道紀行300年を記念して建立されたそうです。

芭蕉は1日目の宿泊地は、奥の細道

「其日漸(そのひようよう)早加と云宿にたどり着にけり。」と書いているので

2説あるようですね。

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正門(山門)から出ると粕壁宿の街並み道です。 

宿場内の通りの長さは24町35間(約3km)あったとそうです。

宿並左手の金子歯科医院の前に脇本陣(本陣)跡標柱がありました。
 中宿(仲町)の蓮沼庄兵衛が脇本陣を勤めた後、天保元年(1830年)現在地で

旅籠を営んでいた高砂屋竹内家が脇本陣を引継ぎ、嘉永2年(1849年)から

幕末までは五番目の本陣を勤めた。

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 (標柱は比較的新しく、ナンバーが振って有り、脇に簡単な説明書きがありました。

  後で調べると、宿入り口の八坂神社を①として順位設置されてるようです)

資料によると先の文化会館交差点の付近には、かつて水路があり、板石三枚の橋が

 架けられていたところから、この辺りは三枚橋と呼ばれていた。

 この交差点を左折(写真では右折)すると春日部市郷土資料館があります。

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200弱先へ進んだ群馬銀行付近が街道書では、文化六年(1809)から

嘉永二年(1849)まで小沢家が務めた本陣跡と、記されてます。

小沢家は四番目の本陣を勤めたそうです。

粕壁宿の本陣は、古くは関根次郎兵衛家が務め、その後火災などもあり、

関根助右衛門家、見川家、小沢家、竹内家の順で合わせて5度移転したそうです。

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春日部大通り(旧日光街道)は電線類の地下化し、道も大幅に拡幅され、

すっきりとした街並みに変貌しているため、往時の面影はあまり感じられない。

(右手の匠大塚はあの親子喧嘩の? その前は西武だったと思うが)

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向かいのげんき薬局前に本陣跡標柱(写真真ん中)があります。

街道書では、二番目に本陣を務めた関根助右衛門本陣跡で、宝暦四年(1754年)

まで勤めました。

粕壁宿の本陣は五回変遷していると前にありました。

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粕壁東一丁目交差点を過ぎると左手に春日部仲町郵便局があります、この辺りが

粕壁宿開設当初の一番目の、関根次郎兵衛本陣跡ともいわれるようですが、

示すものは何も残されてなく不確実と言われます。

先に進むと右手に大木の松の木、蔵造りの店舗、横や後ろに豪壮な蔵や家屋を持つ

旧商家・東屋田村本店があり、店前に天保五年(1834)建立の道標には、

「西南いハつき(岩槻) 北日光東江戸 右之方陸羽みち」と、

 あるそうです。

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すぐ先の公園橋(西)交差点手前の右手に田村荒物店(分家)があります。

側面に回るとわかるようですが、街道書では「敷地は大落古利根川まで続き、

豪壮な家屋と蔵を残している」そうです。

中宿(仲町)と呼ばれたこの辺りには間口が狭く奥行きの長い敷地の米問屋など

蔵造りの商家や旅籠屋などが軒を連ねていたそうです。
 公園橋(西)交差点を左へ行くと東武スカイツリーライン東武野田線

春日部駅で、今日は足止めです。

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東武線、JR武蔵野線、バスと乗り継いでPM6:10帰宅

(帰りの電車の中で思いだしたのは、春日部と言えばTVアニメや映画などで人気の「クレヨンしんちゃん」が住民登録をしてる町だった。

 ところどころにキャラクター絵があったようだが・・・)

第4歩、終わります。

歩いて再び京の都への前に 日光道中二十一次 街道散歩(第四歩 前編)

2020年10月21日

今朝、JR武蔵野線から東武スカイツリー線へ乗り換えた新越谷、南越谷駅入り口。

時刻も夕暮れ近しの4:20.

竹ノ塚から約11km約4里弱、今日の街道散歩は足止めとし、家路へ。

綺麗な三日月を見上げながらPM5:30帰宅。

今日もまずは元気に歩けたこと、ありがたし。

さあて、この後のお天気はどうかな・・・第3回終わりました

f:id:hansui:20201026104006j:plain歩けるときに歩けるうちに、はい、お天気良しと街道散歩へ。

2020年10月25日 日光道中二十一次 街道散歩 第4回へ。

AM7:30家を出バス、電車を乗り継いでJR武蔵野線南越谷駅へ。

駅前Caféでお茶タイムを取り、出立ショット撮影。

県道49(日光街道)の交差点より北へむけAM9:10、出立。 

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 JR武蔵野線のガードをくぐって進むと、紀州藩の鷹狩り場があったという

瓦曽根(かわらぞね)に入ります。

右手の照蓮院駐車場の奥に窮民救済の碑があります。

瓦曽根村の名主中村彦左衛門は飢饉に備え、金子を幕府御貸付所に預け入れ、

天明年間(1781~89)の凶作の際に元利金を払い下げて窮民に分け与えました。

との解説でした。

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隣に真言宗慈氏山照蓮寺があり、創建年代は不詳ですが、天正19年(1591)に

徳川家康より寺領五石の御朱印状を拝領した古刹ということです。

街道書には戦国武将・武田勝頼の遺児・千徳丸の供養塔がある、と記されてます。

越谷市の資料によると、

瓦曽根秋山家の祖は、甲斐國武田氏の家臣秋山信藤(しんどう)で、その子長藤は

天正10年(1582年)武田氏滅亡の際、武田勝頼の遺児幼君千徳丸をともなって

瓦曽根村に潜居しました、千徳丸は間もなく早世しましたが、それを悲しんだ長藤は

照蓮院の住職となってその菩提を弔ったと伝わっています。 
 秋山家の墓所寛永14年(1637年)建立の御湯殿山千徳丸と刻まれた

小さな五輪塔(供養塔)がありました。

(ただし境内内には案内的ものは無く、事前に知らなければ見過ごしてしまいますね)

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 照蓮院向いはY字路三叉路(瓦曽根ロータリー交差点)で街道は県道49から

左手へ行き、角に里程標があると街道書にあるが、見渡してもわからなかった。

(後で確認すると渡ったところの手前の、三角地の先端にあったようだ)

瓦曽根ロータリーのY字路を左の街道に入り、少し先で町名が瓦曽根から越谷になり、

越谷宿へと入ったようで、歩道帯の無い狭いけど交通量の多い道を越谷駅入口の

交差点をまで来ました。

(交差点で左側へ渡ります。まっすぐ行くと越谷駅

f:id:hansui:20201026142557j:plain越谷宿は江戸(日本橋)からの約28km(約7里)。

 日光街道および奥州街道の3番面の宿駅(宿場町)であり、武蔵国埼玉郡にあった。

天保14年(1843年)の日光道中宿村大概帳によると

宿内家数は1500軒、本陣 1 脇本陣 4、旅籠52軒 4603人。

宿並は明治期の2度の大火でほとんど焼失したという。
宿場は現在の越谷市中心部から、元荒川の北側にある北越谷近辺まであり、

当時は北越谷周辺の方が栄えていたそうで、越ケ谷宿は2と7の付く日に六斎市が

立ち、近郷商圏の中心地だったという。

 

駅入り口の少し先 の路地奥に鳥居が見へ、街道書では文和2年(1353)の

創建で越ケ谷宿新町の鎮守、新町八幡神社とあった。

f:id:hansui:20201026145107j:plain車の行き交う狭い道の軒下を縫うように歩きます。

越谷2丁目交差点の付近に江戸日本橋より六里目の越谷一里塚があったようだが、

影も形も案内も無し。

f:id:hansui:20201026145927j:plain右手塀際に見つけた案内標識江戸時代末期に建てられた蔵で、平成29年に寄贈され、現在は改修したコミュニティ施設として公開したようです。 

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街道へ戻る際、街道書にある樹齢400年以上というタブノキは何処かな、と
回り道しながら街道へ戻ったが、それらしい樹は見つけられなかったが、

写していた黒塀の屋敷内にあったようだ。

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 宿並に戻る手前で奥に神社が見え、街道書のある浅間神社で中町の鎮守です。

鳥居手前のケヤキは、樹齢六百年で越谷市指定天然記念物だそうです。

神社は越谷有形文化財工芸品で応永32年(1425年)銘の富士山と大日如来

型取った懸仏(かなえぼとけ)というのが有り、室町時代の創建ではということです。 

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 信号交差点に戻ると右手が問屋場跡です、会田五郎兵衛が勤めましたが遺構は残されていません。

左手の国登録有形文化財 木下半助商店は脇本陣四ツ目屋跡で、浜野家が勤めました。

明治時代後期から大正時代にかけて建築された道具店で、表通りに面する店舗のほか、土蔵、石蔵、主屋、稲荷社が現存しています。 

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次いで右手に蔵造りの塗師屋があります、 東講商人鑑には太物荒物店 塗師(ぬし)屋右衛門と言われた小泉市右衛門宅。漆を扱っていた店で屋号を塗師屋。

古くは漆を扱い、後に太物(綿、麻織物)を商っていたそうです。

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並びが明治三十三年(1900)築、蔵造りの鍛冶忠です。

前の職業は鍛冶屋だったそうで、屋号もそれにちなんだ店名です。明治になり、今の荒物屋に変わり、藁工品(筵、こも、荒縄)などを取り扱い現在に至っております。

(右端が塗師屋)

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昭和レトロの雰囲気も残された街並みですね。

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 宿並を進むと右手に市神社が鎮座しています、本町の鎮守で二と七の付く日に六斎市が立ちました。

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奥に長く、後ろに重厚な蔵を持つ、典型的な街道筋の商家

はかり屋、の暖簾が掲げられていた。

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今日は、休店日だが「荒物屋」と呼ぶにふさわしい金田金物店店は現役。
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荒川の本流であった元荒川を大沢橋で渡ります、明暦元年(1655)関東代官伊奈半左衛門によって高欄付の板橋が架橋され、境板橋と称しました。

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立ち寄りしませんでしたが、右手に元荒川に沿って進むと、先の右手に越ケ谷御殿跡があるそうです。

徳川家康、秀忠の鷹狩りの休泊所でした、明暦三年(1657)の振袖火事で江戸城が全焼すると、急遽越ケ谷御殿を解体し、江戸城の復興にあてたといいます。

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元荒川(明暦年間は荒川の本流であった。)に架かる大橋(大沢橋)を渡ると

大沢と呼ばれた集落(現大沢町)へ入ります。

かっては越谷宿の中心部で越谷宿本陣などががあったようだが、現在は案内板も

何もなく、今はその雰囲気は見られなかったですね。

街道書に記された場所を探しながらの、憶測宿場散策です。

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「きどころ」の看板が掛かっているパン屋のビルがある。

ここが本陣大松屋福井権右衛門跡のようです。

当初、越ケ谷町の会田八右衛門が本陣を勤めましたが、没落したため大沢町の福井家が本陣を勤め問屋名主を兼ねました。

 

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 宿並を進むと右手の深野造園が玉屋脇本陣跡です、深野彦右衛門が勤めました。

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次いで左手の生そば三枡屋が虎屋脇本陣跡です、山崎次兵衛が勤めました。

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右手の若松屋印刷が問屋場跡です、江沢太郎兵衛が勤めました。

敷地奥に鬼瓦等を残しているそうです。

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  信号交差点を越すと左手に、真言宗智山派梅華山照光院があります、

墓地に本陣(パン屋のところ)を勤めた福井家代々の墓があり、

梵鐘は安永八年(1779)の鋳造で、明治十年(1877)大沢小学校が開校され

たという。

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先を右に進むと左手に香取神社が鎮座しています.。

応永年間(1394~1427)に下総國一の宮香取神宮の分霊を勧請し、

大沢村の鎮守としました。

今日は日曜なので、七五三、宮参りの沢山のファミリィーで大賑わい。

子供の成長に合わせた祝い行事は、今や定番の家族イベントで艶やかに定着ですね。

 

香取神社という名前の神社は、「香取」を社名に持ち経津主神を祭神とする神社。
関東地方を中心として全国に約400社あり、千葉県香取市香取神宮を総本社とする。多くは香取神宮から勧請して創建され、神宮と同じ経津主神を祀っている。
 主に利根川・江戸川沿いを中心に分布する。

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慶応2年(1866年)建立の本堂。

裏手の奥殿の四面には、見事な彫刻が施されている。  

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香取神社の先左手の東武スカイツリーライン北越谷駅を越すと、

大沢から北越谷に入ります、この境が越ケ谷宿の北口で、この先は東武線の敷設に

よって消滅し、東武線高架に沿って右カーブで250mほど行き高架の下をくぐり、

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旧道へ復帰で、向こう角は土手になっており古奥州道道標など三塔が建ち

右の青面金剛庚申塔は道標を兼ねて「右じおんじ のじま道」と刻まれている。

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300mほど行くと左側に、砂利の敷き詰めた道の奥に大きな門があり 、

こんもりとした森がある。

手持ち資料には御殿場とあるが、鴨の飛来が少なくなった東京浜離宮の代替として

明治37年(1904年)皇室用の遊猟場として建設された、宮内庁埼玉鴨場でした。

約11万7000㎡の敷地の中に約1万2000㎡の鴨池があり、今でも皇室の方や

大使館の方が鴨狩りにくるそうです。

付近から地名は大林に替わった。

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鴨場の森が途切れた左手奥に、享保5年(1740年)創建の曹洞宗大林寺があった。

街道書によれば、門前の大乗妙典一千部供養塔は元文5年(1740年)の建立で、

境内のお堂に祀られた出世大黒天は、嘉永元年(1848年)の造立とある。

大黒天は厨子のような中で、扉が閉まって見られなかった。

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先からは歩道帯が再びなくなり、頻繁に車の行き交う道端しを窮屈に歩きます。

しばらく行くと左奥に大林の鎮守様香取神社がある。

境内に青面金剛庚申塔猿田彦大神庚申塔、など数基の塔があるが、説明板などは

無く、先ほどの香取神社の賑わいと雲での差はなんでだろう??

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東武鉄道の踏切が見え、手前の祠にも宝永七年(1710)建立の青面金剛庚申塔

置かれている。

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踏切を越えてすぐの木立の下に隠されたように、馬頭観音地蔵尊と思われる、

石仏石塔群が集められていた。

周辺の道路など整備の際に集められたかな。

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街道沿いの住宅の合い間などに小さな墓地が結構残されていて、墓地の隅に多数の

庚申塔等が建っていた。

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国道4号バイパス高架をくぐり大袋駅入り口交差点を過ぎ、歩道なき道をゆくと

下間久里地区に入りました。

ずいぶん小さな墓地が多くなり、同姓の墓石が多く地域集落一族の墓らしい。

地蔵堂阿弥陀堂が祀られ、敷地内に地蔵尊像や多数の石仏石塔等が並んでいる。

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下間久里には江戸日本橋より数えて七里目の下間久里の一里塚があったそうですが、

今は存在位置共に不明だそうです。

越谷伝統工芸の松崎ダルマ産業の向いを右に入ると、カラフルな秋の花々が咲いて

いて、奥に下間久里村の総鎮守、下間久里香取神社が鎮座していますです。

例大祭に奉納される獅子舞は、太夫獅子、中獅子、女獅子の三頭一組で舞う獅子舞で

祈祷獅子の形態を保っている(埼玉県指定無形民俗文化財)と街道書に記されてる。

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相変わらず歩道帯の無い街道を進むと、左手に松が聳える家があり、

街道書では秋田屋(上原家)秋田炉跡とあります。

この辺りは越ケ谷宿と粕壁宿の中間に当たり、八軒の茶屋が軒を連ね元荒川で獲れた

鰻の蒲焼が名物だった間久里の立場でした。

中でも秋田屋には参勤の秋田藩佐竹侯が必ず立ち寄り、藩主専用の座敷秋田炉(しゅうでんろ)があったという。

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街道は陸橋入口交差点にて国道4号線に合流し、ようやく歩道帯が復活です。

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せんげん台交差点手前の国道4号標識。

春日部5km?(春日部のどこまででなんだろう?)

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200mほど先で新方川を戸井橋で渡り、越谷市から春日部市に入ります。
 新方川は元の千間堀です、流末は中川に落合います。

後半へ続きます。