甲州街道四十四次 10

予報は曇りだが、雨は大丈夫、行ちゃいましょう、で5月26日(日)、

先週に続いて甲州街道へ。

電車を乗り継ぎ前回足止めした中央線高尾駅

AM10:30 甲州街道10回目の旅立ち。

JR高尾駅

この駅舎は新宿御苑に造られた大葬用仮停車場の用材を使用し、現位置に建てられたと言われていて、文化財的価値のある建築

(デジカメが不具合が起き、明るさなどの調整が機能しなくなってしまった。

ISOなど調整しながらなんとか撮影なので見苦しいです。)

 

駅前を下ってすぐに国道20号(現旧甲州街道

右手銀杏並木は八王子からの来し道。

旅は左手、小仏方面へ。

通り道の生垣、斑入り葉の柘植の生垣。

花が真っ盛りで、小さなかわいい桜型。

日本橋から51km、まだまだ先は長い。

路肩に咲く大きな赤い花は、もうタチアオイだね、

早い開花のような気がずるが、咲き上がりてっぺんまで咲くと梅雨が明けると

いわれてる。

梅雨入りも近いんだ。

駅前から15分ほど、南浅川を両界橋で渡り、中央線高架下をくぐります。

川は高架下を通り抜けて右から高架向側の左手へ流れています。

この両界橋は南浅川に架かる橋で、江戸時代から橋が架けられていたという。

この両界橋のすぐ上流で、高尾山の北側を流れてきた小仏川と南側を流れてきた

案内川が合流して南浅川となるので、両界橋と名付けられた、と街道書にあった。

ガード下に石仏。

付近の工事などで移転されたのかな、街道書には石地蔵とだけあった。

おつ、強いね~

5分ほど行き、西浅川交差点から国道20号線と分かれ右折して行くのが

東京都道・神奈川県道となる都県道516号・浅川相模湖線で旧甲州街道

この道は神奈川県相模原市緑区の底沢橋付近の国道20号線に至る。

都県境の小仏峠を挟んだ前後の区間は山道になっていて、自動車の通行はできません。

ここからは左に小仏川、右にJR中央本線に挟まれた緩い登りの道となり、旧街道らしい雰囲気の漂う道に変わります。道路の両側には住宅が建ち並んでいるが、

いよいよ本格的な甲州街道歩きの区間に入ったようです。

前回同様杖は持参、一歩一歩行っくりと足を進めます。

「八王子市 高尾駒木野庭園」の文字が書かれた幟が立っています。

この高尾駒木野庭園は、隣にある駒木野病院の前身である小林病院の住居兼医院としての利用されていたもので、その後市に寄贈され平成24年4月に開園したという。

敷地面積2,900平方メートル(約880坪)の庭園は、池泉回遊式庭園と枯山水庭園、

露地(茶庭)から構成されている。

トイレ拝借を兼ねてちょいと一回り、ゆっくり腰を落ちtけて眺めたい庭園でした。

 

駒木野という文字が出てきましたが、このあたりが駒木野宿の江戸方(東口)と、

街道書に書かれていた。

庭園を後に、右手に続く駒木野病院の緩い上り道を前を10分ほど行くと

左手に新旧の地蔵尊

道路を改修する時に、このあたりの旧甲州街道沿いに立っていたお地蔵さんを集めて

祀ったものではないかと思われる。

 

右端の石仏は庚申さんかな。

すぐ右手の更地に街道書には記載のない、令和4年に建てられた

『旧小仏関所番 川村家住居跡」の案内板があった。

川村家はこの地に関所が移転した当初、一人で関番を務め、その後も代々関番を務めた

と・・・とある。

駒木野橋を渡ります。

左手に橋の架け替えで旧橋が無くなったため、橋に嵌め込まれていた

橋の名前の表札が、記念に石碑に埋め込まれて保存されていました。

通りを挟んで向かい側は小仏関所の跡で、国史跡「小仏関跡」です。
甲州道中でもっとも堅固と言われた関所です。徳川幕府甲州街道で重要視した

関所だったといわれるそうです。

小仏関所は武蔵国相模国の国境、高尾山の小仏峠周辺に設けられ、

東海道の箱根関所、中山道の碓氷関所とともに「関東の三関所」とも言われました。

北条氏滅亡後の天正18年(1590年)に関東の地に入った徳川家康によって、

元和2年(1616年)現在地に移設され整備されたといわれています。

旅人は通行手形を「手形石」に並べ手付き石」に手を置いて待つ、という。

手形石、手付き石

敷地内に「甲州街道駒木野宿」と刻まれた大きな石碑のが立っていた。

天保14年宿村大概要によれば、

家数73軒、人口355人、本陣1.脇本陣1,問屋場3、旅籠12軒。

小仏宿と合宿で問屋業務を務めた、とあり、小仏関所の移転により併設された宿場で

あったようだ。

上宿・中宿・下宿に分かれ、甲州街道に沿って約10町(約1.1km)に渡って続いていた。

来る途中に通って来た小名路あたりが下宿、関所周辺が中宿で、これから通る

摺指(するさし)が上宿。本陣は関所の東隣にあり、脇本陣もその隣にあった、

ともある。

先の大戦における八王子大空襲より宿場はあらかた消失してしまい、

今は跡を示す案内板なども全くありません。

わずかに旧宿場の面影を残すのみになっています。

遠くに圏央道の陸橋が見えてきます。

道はますます細くなりますが、今日は日曜とあって、小仏峠行のバスや車の往来が

頻繁にあり、要注意です。

バスなどはすれ違いが困難なところが多く、時間を合わせてところどころで待機すれ違いをしてるようです。

緩い坂道を5分ほどの左手に地蔵尊青面金剛像などの石仏石塔などが並んでます。

小さな地蔵尊の側の石碑には、甲州街道念珠坂と彫られてます。

昔、鬼が住んでいて人々を襲っていたが、あるとき襲った老婆に持っていた念珠の

紐が切れ念珠が飛び散った。飛び散った念珠に鬼は足を取られ、坂下転げて大穴に

落ちてしまい、再び鬼は現れなくなった。と街道書にはあったが、大きな穴はどこだ?

さらに5分程行くと、右手の石垣の上はみどり幼児園(誤字ではありません)で、
元は小学校の分校があった、と街道書にある。

すぐ先街道左脇には小仏川の清流が流れていて川端の一角の祠に、付近から集められたかのように、石仏石塔が収められてます。

一番左手は青面金剛像(庚申塔)で、宝永3年(1706年)建立と街道書にあった。

緩い上り坂道が続き、

先ほど遠目に見えていた圏央道が近づいてきました。

付近は中央道と圏央道が交差する八王子ジャンクションでしょう。

イカー時代は何度も利用していたジャンクション。

こんな高いところだったんだ。

さらに5分程、左手川沿いに古そうな平屋の建物は「蛇滝茶屋」で、

「旅籠ふじや新兵衛」と街道書にあり、高尾山の蛇滝信仰修行者の宿だったという。

軒下には無数の蛇滝信仰の講中の「講札」が掲げられていた。

すぐ先左手、川を渡る小道脇に。高尾山山中ある蛇滝への道標があり、判別しずらいが街道書では

「上行講 是よ蛇滝まで八丁」とあるようです。

茶屋の対面側には「いのはなトンネル列車銃撃慰霊碑」への案内碑です。
坂を登り進んだ奥に、第二次世界大戦末期、旧国鉄中央線いのはなトンネルに差し

掛かった列車が米軍機の銃撃空襲を受け、疎開の児童など52人以上が死亡、133人が

負傷した悲劇的な事件だの慰霊碑と街道書にありました。

高速高架真下に「高尾梅の郷まちの広場」があります。

一角の自然石の一つには「高尾梅郷」とありました。
小仏川沿いに点々と梅林がありましたが、まとめて高尾梅郷とよばれるそうです。

広場にはベンチやトイレ施設もあり、コンビニサンドで昼食足休め。

なんと1時間半でまだ2.5km、

ゆくり40分程足休めし再び街道へ。

広場の端に左手に川へ下る小道があり、道端には道標。

大きい道標は享和3年(1803年)建立で「是より高尾山道」と刻まれ、

小さのには蛇滝水行道場入口とあるそうです。

そういえば先ほどの広場にも小仏川を渡って対岸の高尾山の中腹(ケーブルカー

終点付近)に続く道が延びているそうで、多くのハイカーの行き来があった。
右手高く高架の高速道と家々が続き、左手下は小仏川、挟んで盛り上がる山は高尾山。

この辺りからも高尾山の中腹に続く道が延びている、と街道書に。

よく甲州街道旅記などのも出てくる峰尾豆腐店
寄せ豆腐やおからドーナツで人気だそうだが、定休日だった。

上空には何羽ものトンビが輪を描く街道。

石塀の上の盆栽風に仕上げた花は、セッコクでした。

右手のお寺は曹洞宗常林寺と街道書にある。

境内に板碑があると記されてたが、石碑は見かけたがわからなかった。

川沿い草わらに? ブロンズ像の展示には見えないが・・??

川沿いの緩急の坂道が続き付近の地名は裏高尾。

緩い坂道を上ると街道書には小山神社とあるが、わからないまま通り過ぎたようだ。

 

足休めからゆっくり登て来て30分ほど、左手に浅川国際マス釣場があり、

けっこう大勢の釣り人が楽しんでいた。

右手から流れ下って小仏川に合流の木下沢を渡ります。

「きのした」はなく「こげさわ」と呼ぶんだね。

木下沢から右へ、道は大きくカーブの先端左手に、細い道が分岐せていて道標が建っていて、
「右小仏峠景信山」「左日影沢高尾山」とあった。

5分ほどで中央線のレンガ造りガードをくぐると先は。

駒木野宿と次の小原宿の間の、間の宿小仏宿です。

小仏宿に入って10分ほど、右手の民家前の小さな社は街道書にある稲荷社かな?

街道書にも社側にも何も示すのは無く,由来は不明のまま。

街道書には先き右手に甲府さんど飛脚の定宿・三度屋跡とあるがこの付近なのか?

隣の石垣上の屋敷は、旅籠屋「鈴木藤右衛門」跡のようです。

街道書にある「明治天皇御小休所」の石碑が葉陰になりながらかろうじて確認。

(手前の石ではなくフェンスの内側)

通り過ぎてすぐ右手がバス発着所で、高尾駅からのバス終点停留所。

「まもなく発車しま~す」のアナウンスが聞こえ、小走りにもならない走り方で

何とか間に合い乗車、歩き旅は足止めに。

初夏のシーズンの日曜日ともあって、バスは2台で運行。

なんとか座れてバスに揺られて高尾駅へ。

高尾駅から5km、まだ午後の2時と時間は早かったが、気温も上がり、

まあ、今の我々にはちょうど良い按配かな。

バス、電車と乗り継いで、夕4時半には帰宅。

先は一つ目の難所、小仏峠越え。

登山道並みの山道が続くようなので、どうするか思案のしどろです。

 

甲州街道四十四次 9

さて、いつの日かと・・

八王子駅で足止めしてましたが、5月18日(土)

再び老夫婦は八王子駅に降り立ちました。

5月ながら今日は真夏日の予報。

水切れ注意で歩かなければね。

前回日野宿から歩いてきて八王子へ入り、この交差点で右手に街道は曲がりますが、

街道歩きは正式にはここで足止めし、直進して八王子駅へ向かってました。

駅から再び街道へ復帰し、赤い鳥居の見える左手方向へ足をすすめます。

赤い鳥居は市守大鳥神社

街道書には、この神社前が八王子j宿の江戸口(東口)で木戸があった、とある。

(前回通った新町の枡形付近が江戸口との一説もある)

 市守稲荷とも呼び、創建時祭神は倉稲魂命、江戸期に天日鷲命が配神され、

市の守護神であり、11月の酉の日には、境内や甲州街道沿いに熊手などを売る店が

並び、大変な賑わいになるという。

国道20号(現旧甲州街道)を北西へ向かいます。

歩道常にところどころ日影帯があり商店も結構多いが、駅付近は混雑といってよいくらいの人波だったが、国道沿いはぐ~んと人通りは少ないな~。

あの人波はどこへ流れてるんでしょう。

そういえばデパートが無かったような、駅風辺でもみかけなかった気がする。

20号で45kmか・・

市守大島神社前から400m程、八王子横山町交差点。

交差点左手の角、横山町郵便局あたりが「川口脇本陣跡」など、この付近が八王子宿の中心街で、本陣、脇本陣問屋場などが軒を連ねていた、と街道穂にあるが、

それらしき風情、痕跡や案内板など示すものはひとつも無い。

もっとも、八王子は大火やあの大戦の大空襲などで、多大な被害を受けたたためだが、

なにか史跡を示すものがあってもいいのかな。

交差点を右手に数分ゆくと、左手に八幡八雲神社があった。

街道書には、

中世に多摩丘陵一常から相模に勢力を張った横山氏(武蔵七党のひとつ)の居館跡で、横山党の守護神、八王子の総鎮守、とある。

神社由緒略記には、

八幡八雲神社は、八幡神社( 誉田別尊応神天皇)と、八雲神社素盞鳴尊)を祭神

として合祀している。

八幡神社は延長二年(924年)小野隆泰が武蔵の国司の時石清水八幡宮をまつり、

その長子義孝は武蔵七党の横山氏の始祖になった。

八雲神社は大伴妙行が延喜十六年(916年)深沢山(城山の古称)に奉斎後、

慶長三年(1598年)八幡神社に奉遷して長く当地の氏神となった。

とあった。

合肥を示す神社拝殿の屋根、ご神殿も二つ、灯篭も.。

20号(街道)に戻り街道左手は八日町(八日市宿)にかわり、10分程行くと

夢美術館東交差点。

渡った先に八日市宿跡碑がありました。
街道書には「八日市宿に新野本陣、山上脇本陣があった、とあるが、

示すものはなく宿跡碑のみ。

交差点を右手に折れて100m程行くと左手に禅東院。

街道書には、

飢餓の際に唐辛子を内藤新宿の問屋に卸し救われたことから、祈願の際に唐辛子を

供える「とうがらし地蔵」が祀られている、とある。

とうがらし地蔵

左右の吊り飾りは唐辛子か、と思ったら千羽鶴だった。

街道へもどり5分ほどでっ八幡町交差点で先は八幡町。
右手から国道16号が20号に合流し左折、八日町交差点で右折して南下して行く。

交差点を左手に渡り、そのまま南へ歩きJR中央線を渡った左手に念仏院がある。

念仏院には元禄12年(1699)八日市名主新野与五右衛門を中心に村の協力で鋳造された時の鐘が残っていて、昭和初期まで明け六つ(午前6時)、

暮れ六つ(午後6時)に、八王子宿内にに時を告げていた。  と街道書にあった。

念仏院をあとに踏切を渡り線路沿いを西へ。

300m程を右へ折れた左手に産千代稲荷神社があり、鳥居左手に江戸初期に家康に

仕えた大久保石見守長安の陣屋跡の碑がある。

街道書には、

長安は元は武田家臣であったが、主家滅亡によって徳川家に仕えた。

慶長年間(1596~1615)関東代官頭となった大久保長安が八王子に陣屋を設けた際、

鬼門除けの守護神として産千代稲荷神社を奉斎したことに始まる。

才能を買われて金山奉行となり、石見・佐渡金山開発などに功ががあり八王子3万石を与えられた。

幕府の代官頭として八王子宿を開設し、八王子千人同心を組織し陣屋を置いた。

産千代稲荷神社は陣屋の陣屋内社。

境内は「大久保石見守長安陣屋跡」として八王子市の史跡に指定されている。

とある。

陣屋当時の井戸も残されていた。

境内では数種類の紫陽花が色づきだしていた。

神社を後に北へ街道へ戻ります。

銭湯があった。

街道へ戻り西へ。

本郷横丁交差点角に堂々たる風格の石造蔵の店舗。

雑貨屋さんだそうで今日はお休みのようだ。

500m程行くとY字路の変則4差路の追分交差点。

ここで甲州街道陣場街道(案下道)と分岐します。

Y字路を左手へ行くのが甲州街道で右手行くのが陣場街道。

追分交差には遠回りしなけりゃ横断歩道がなく、長い階段上りの歩道橋!

ありがたや、今はエレベーターがありました。

(少しでも足腰負担を減らすため、なんて言い訳しながら使わせてもらいました)

歩道橋を渡り右手に折れて再びエレベーター使用で街道に戻ると、

左手に追分道標が建っていた。

この道標は文化8年(1811年)に江戸の清八という足袋職人が、高野山に銅製の五重塔

奉納した記念に、江戸から高尾山までの甲州街道内藤新宿、八王子追分、高尾山麓小名路の3ヶ所に立てた道標の一つです。

「左甲州道中高尾小道」、「右あんげ道」と彫られている。

戦中の八王子空襲で4つに折れ、一部は行方不明になってしまいました。

現在の道標は最近になって復元されたものですが、2段目と4段目は当時のままのもので、それ以外は新しく石を補充して復元したもです。

と、側に建つ案内板にある。

あんげ道とは、陣馬街道のことで、案下川、案下峠を経由して相模国津久井郡

佐野川に至る古道で、案下峠を通ることから案下道(あんげみち)と呼ばれたそうです。

街道書には八王子千人同心屋敷記念碑が同じ場s所に記されてるが見つけられない。

再確認すると、Y地道の右手、陣馬街道側に建っていた。
 八王子千人同心は、江戸時代にこのあたりに住んでいた半士半農の武士集団で、武田家滅亡後、徳川家康が武田家旧臣を召し抱え甲州口の抑えとして八王子に配置。

10名の頭の下に、それぞれ100人の平同心を配し、最初は江戸の西口の防備、

その後日光東照宮の警備を担当した。

と街道書にある。

そして街道の町並みは千人町。

甲州街道の両側には立派なイチョウ並木が続き日影を提供有難い。

イチョウ並木は多摩御陵造営記念に植えられたもので、次の並木町、多摩御陵参道入口と続き、800本弱のイチョウがJR高尾駅の少し手前まで4Km近くも続いているという。

4,5分先き右手に日蓮宗了法寺

参道を入って右手に、なんだこりゃ?の超今風アニメチックイラスト。

街道書には千人同心の墓がある、とだけ記されてたが、

調べてみたら、若い方に人気で『萌え寺』として有名な寺院なんだそうです。

延徳元年(1489年)に開山されたという歴史のある寺院ですが、ここを一躍有名にした

のが入口の少女の アニメチックイラスト看板。

このイラストが話題となり、テレビ番組などでも取り上げられたことから『萌え寺』と呼ばれるようになり若い方々の参拝客が急増したという。

若い人ね~

まずはお寺になじんでもらう、有りでしょね。

そういえば、車も門横の自販機もアニメチックイラスとだった。

了法寺から約500m、西八王子駅西交差点。

駅そばのコンビニ、イートインコーナーで昼食兼足休め。

側の一角に大きな鉢植えで大きなユリの花、カサブランカかな?

街道に戻りさらに10分程ゆくと長房団地入口交差点。

右折してすぐ左折する「枡形道路」のその角に、大きな石の道標が建っています。

道標には、「右髙尾山 左真覚寺 」と書かれている。
真覚寺は南方600m位にあって、「芭蕉蛙塚の碑」があるという。

枡形になった道標の横を左折のここが旧甲州街道で、板塀の大きな民家があったり、

往時の佇まいがほんの少し残っています。

静かな雰囲気の街道を10分ほど行くと国道と合流し、左手に、曽洞宗長安寺。

参道の石はかって八王子市内を走っていた路面電車の敷石。

境内には、寛延3年(1750年)、安永5年(1777年)造立の地蔵尊がある。

と街道書にあった。

境内には何体かの古石仏があったので、どれなのかは判然としない。

すぐ先左手の八王子市役所横山事務所内にあるのがオオツクバネガシの木で、

側に解説板も建っていて、王子市天然記念物、と街道書にあった。

(逆光なので写りが悪い)

一見、一里塚のように見えるが、オツクバネガシの木の東側に江戸の日本橋から

12里目の「散田の一里塚」があったともいわれるが、現在はその位置は不明と

あった。

さらに銀杏並木の続く街道を西へ進みます。

はや柏葉紫陽花が咲きだし、西洋バイカウツギが甘い香りを漂らせています。

横山事務所から15分ほど多摩御陵入口交差点で右手に見事なケヤキの並木の参道が

続いている。この参道は850m位あるという。

御陵参道の入口の右側には「武蔵凌墓地参道」、左側には「多摩御陵参道」の石碑が

建っています。この奥には「大正天皇多摩凌」「貞明皇后多摩東凌」「昭和天皇武蔵野凌」「香淳皇后武蔵野東凌」がある。

多摩御陵入口交差点の1つ先の信号で、国道20号線から右に分かれる細い道路があり、ここが慶長9年(1604年)に開通した旧甲州街道で、黒塀の家がちらほらと残る旧街道らしい風情が残っている。

5,6分っほど左手に、ご祭神は大山咋命(おおやまくいのみこと)の東浅川山王社。

東浅川山王社にある「子育て地蔵尊」です。この子育て地蔵尊は“松姫地蔵尊”とも

呼ばれる。武田信玄の四女である松姫は武田家滅亡後八王子に移り、三人の娘を育て、

千人同心たちの心の支えであった、と街道書にはあった。

すぐ先右手に小さくて顔の可愛い石地蔵が置かれています。

その石地蔵の横から北に延びる細い道路は昔の鎌倉街道の1つで、八王子城に通じていたという。
  

すぐ先で旧甲州街道は、通称「高尾街道」にぶち当たり、「高尾街道」の

中央分離帯のフェンスで遮断されているので、左手へ曲がり町田街道入口交差点で

国道20号線に合流し、横断歩道橋で国道20号線を左手へ渡ります。

歩道橋を降りて左側にあるのが天正元年(1573年)八王子城主・北条氏照が再建したと伝わる、熊野神社

街道書には、

熊野神社の境内にあるこの大木はケヤキ(欅)とカシ(樫)の木が根元から一緒になって

成長した「相生木」で「縁結びの木」と呼ばれている。

この木の根元に自分の名前と思いを寄せる人の名前を書いた小石を2つ置くと、

願いが叶うといわれる、とあった。

たしかに根元は一緒だね。

熊野神社から約10分、高尾駅前交差点。

 

交差点を左に折れて、PM3:30 今日の歩き旅はお仕舞に。

持参の杖は有効のようで、今のところ足腰は大丈夫、といっても歩いたのは

6km強、杖を頼りいに~♬~・・そんな歌あったな~。

JR高尾駅は寺院風建物で何年ぶりだろう。

昔、高尾山へ何度も登ったことがあった。

駅前や電車内は大勢のハイカーなどで混雑気味。

半分近くは海外の方で、すでにコロナ前に戻ってるね。

さあ、いよいよ難所小仏峠も近いが・・峠越えは難しいか・・・・・またいつかに。

 終わり。

甲州街道四十四次 8

5月6日、再び街道歩き旅へ。

電車を乗り継ぎJR中央線日野駅へ。

改札前の駅構内。

日野駅

南口に出て駅舎沿いに右手に100m行くと左手に宝泉寺が見える。

浄土宗宝泉寺には、日野下本陣佐藤彦五郎と妻、のぶの墓があり、のぶは土方歳三

実姉である、と街道書にあった。

さらに街道書では、

本来の旧甲州街道は、宝泉寺の前のやや上り坂を200m弱ほど行く道で、

枡形が設けられていたが、現在はJR中央本線で遮断され通行はできない。

枡形は日野宿の諏訪方(西の口)で坂下地蔵堂があり、江戸口の東の地蔵にたいし、

西の地蔵とも呼ばれる、

正徳3年(1713年)造立の銅像地蔵尊坐像が安置されている、とあった。

往復するか迷ったが、「すぐ先は坂道のぼり、無理しないで先へね」のカミさんの

一言で、右手の中央線ガードをくぐり北側へ。

枡形の坂下地蔵堂(日野資料拝借写真)

東の地蔵

JR線ガードをくぐり、すぐ線路に沿って左折し坂道を上ります。

ゆるそうですが、けっこうな登り坂。

全回、前々回と歩きに不調がでて、旅をストップしたが、

今回の甲州街道歩きで初めて登山用のステッキを持参、ゆっくり上ります。

線路に沿った上り坂は大坂上通りと呼ばれ、坂道を上った先の曲がり付近が、

今日は歩かなかった宝泉寺前を経て来た、旧甲州街道が上がってきたところ

だったようです。

上った曲がり角右手に、3基の庚申塚と高幡山八十八個所の道標が並んで立っていた。街道書によれば、庚申塔は古いもので元禄7年(194年)、宝暦7年(1757年)などと記されてる。

鉄道や道路改修工事などで移設されたと思われます。

右手に曲がってすぐに、中央自動車道の高架を潜り、道路名は「大坂上通り」と

標記されていた。大阪は大きい坂という意味だった。

のちに調べた資料では、この大坂は約600メートルの距離で標高差約30メートルと

いうことでした。

 大坂上三丁目交差点でその登り勾配も終わりました。

さらに10分ほどで日野大坂上の交差点で、現甲州街道都道256と合流。

このあたりは甲州街道が日野の渡しに変更された頃から、新田開発が行われ耕作地と

なりましたが、それ以前は一面の原野で、よく夜盗が出没した物騒な場所だったのだ

そうです。
道幅が広くなり交通量も多く、 右手は日野自動車の本社工場が、この先1km弱

続きます。

工場入口。

 街道書には、その日野自動車の工場の敷地内に市の史跡である「上人塚」がある、

と記されている。

立ち入りはしなかったが、

この上人塚は、美濃から移住し、甲州街道の前身ともいわれる街道の建設に尽力し日野用水を開削。日野が宿場に指定された時に日野宿の問屋兼名主となった

佐藤隼人正信を称え、その業績をしたためた連署を上人塚に納めた…ともあった。

佐藤隼人正信は、日野本陣を務めた佐藤家の祖先のようです。

だだっ広い日野自動車の敷地がやっと途切れたところに、

江戸の日本橋を出てから10里目の「日野台一里塚跡」の説明板が建っている、

と街道書あったがが、生垣が大きく茂り説明板をは隠されていたようで、見つけられ

なかかった。

200mほど先日野台信号で道の左手へ渡ると、生垣と植木続くのが

コニカミノルタ」の工場で、甲州街道沿いに約400メートルほど続いている。

街道書には、

コニカミノルタの工場敷地の中には「富士塚」という名所がある。

富士塚」は

富士山の見える高台に築かれた富士山の形をした塚で、この塚に登れば富士山に

登ったことと同じとされ、富士山に登れなかったかたがたの信仰を集めました。

とあったが構内へ入れづパスしました。

富士塚は古墳であった、という説もあるようです。

道路向かいの看板、痛そうだね~

(すぐ隣のには整形外科があったけど・・・

コニカミノルタ工場を過ぎてすぐに八王子市に入り高倉町。

八王子市は、銀杏並木の印象が強かったが、バッサリ枝を切られた銀杏並木が続き

日影が全くありません。

街道沿いには銅葺きや瓦屋根の門構え旧家や、蔵のある旧家が幾つか並んでいる。

右手に建つ鳥居は、高倉稲荷神社と街道書にあり、享保3年(1718年)創建で、

高倉新田の総鎮守ともある。 

すぐさきは高倉町交差点。

右手に「高倉町珈琲」があり、すこ早いが足休めと昼食タイム。

聞くと「高倉町珈琲」はファミリーレストランチェーンの「すかいらーく」の創業者の一人の方が、「すかいらーく」の社長退任後に展開した喫茶店チェーンの創業店、

という。

珈琲の名があるが、パスタなどもある雰囲気のよい、寛げた飲食店でした。

何故か写真忘れたね。

300m程先、高倉町西交差点で左からの日野バイパス(国道20号)が合流し、

甲州街道は再び国道20号にかわり、旧甲州街道もしばらく国道20号線を歩きます。

おや、八王子市マンホール蓋。

江戸時代末期より八王子市に伝承されている人形劇「車人形」のデザインという。

カラー版もあるようなので、出会えるか楽しみ。

400m弱先でJR八高線跨線橋で渡ります。

八高線は東京都下八王子市と群馬県高崎市を結ぶ92.0kmのJR東日本鉄道路線

八高線を過ぎ大和田町に入り、しばらくして坂道となり、国道20号日本橋より

43kの表示。

その先右手に鳥居があった。

街道書では、

神社の創建は不詳だが、慶安2年、第3将軍徳川家光より受けた社領5石の御朱印状が

残されている。八王子宿の入口にある山王様として、江戸時代より参詣者の多い

神社、とある。

参道はすぐ急石段が続き、上がるのやめて鳥居前で頭を下げ礼拝。

すぐ先の道を右手に入ると、真言宗東光寺。

一角に年代不詳だが、馬頭観音庚申塔が建っていた。

台座が新しそうで、移設さてたのかな。

200m程先、大和田4丁目交差点で国道16号八王子バイパスと交差し、甲州街道

高架下を直進。

イカー時代、何度も通ったことがあった。

100m程先で左へ入る道が旧甲州街道

400m足らずの弓状の旧道で、当時の面影は残っていない。

途中一角に馬頭観音道祖神など石仏石塔を集めたところがあり、と街道書にあたが

見つけられなかった。

(あとで調べたが、すこし奥に入る様子)

旧道を出た所がちょうど浅川で和田橋北詰。

資料では、大和田橋は昭和の時代に入った昭和16年(1941年)に架橋された橋ですが、

その4年後の昭和20年(1945年)、第二次世界大戦終結間近の8月初旬に八王子市は

アメリカ軍のB29爆撃機による爆撃を受け、八王子も甚大な被害を蒙りました。

爆撃の焼夷弾跡が多数あり残されているとの碑も建っていた。

碑には

焼夷弾・弾痕の保存について
 八王子市は太平洋戦争終結の13日前、昭和20年8月2日未明に、米空軍の

 B29爆撃機180機の空襲を受け、約450名が死没、2000余名が負傷し、

 旧市街の約80%の家屋が消失する被害を受けました。そのとき多くの市民が

 大和田橋の下に避難し、尊い命が助かりました。

大和田橋の歩道上には、この空襲の時投下された焼夷弾の跡が17箇所残っています。車道の部分は過去の補修により、弾痕は残っていませんが、現在歩道上に残っている

弾痕の数から推測すると橋全体では約50個以上の焼夷弾が投下されたと思われます。建設省相武国道工事事務所では、この大和田橋の補修j工事にあたり焼夷弾の弾痕を保存し太平洋戦争の痕跡を永く後世に伝えるものです。

とあった。

本当に戦争、世界中でなくなることを願いたいですね。

大和田橋を渡ります。

街道書には、

浅川は江戸期は4~9月は徒歩渡り、10~3月は架橋された。

かっては鮎が名物で将軍家へも献上され、流末は多摩川へそそぐ、とある。

 大和田橋を渡ると20号と別れ大和田橋南詰交差点を右折し、北大通りに入ります。ここが旧甲州街道で、八王子宿へ向かって行きます。 

通りは北大通り、町は明神町

300m強は変則五差路で、街道は左手の細い方の道、町は新町。

すぐ左手の塀に葉を茂らせる真っ青の花、カンパニラ・アルペンブルーだね。

ちょっと日影が残念だけど、生垣のように大きく咲いてるのは珍しい。

隣の鉢植えの黄色い花は多肉植物の花は?

いや~ドクダミの八重咲だね。

花を楽しみながら200m程行くと、右手の小さな公園は竹の花公園。

一画に市史跡の日本橋から12里目の「竹の鼻の一里塚跡」の石碑が立っています。

ここは新町といって、八王子宿の東端になるという。

街道書には、

八王子宿は、江戸から数えて10番目(別の数え方もあります)の宿場町で、

八王子横山十五宿とも呼ばれたように、江戸側から)新町、横山宿、八日市宿、本宿、

八幡宿、八木宿、子安宿、馬乗宿、小門宿、本郷宿、上野宿、横町、寺町、久保宿、

嶋坊宿の15宿で構成されていた。

横山宿が一番大きかったので正式には「横山宿」と呼ばれる。

江戸時代になって以降、大久保長安により開発された宿場町です。

天保14年(1843年)の記録によると人口6026名、総家数1548軒、本陣2軒、

脇本陣3軒、飯盛旅籠も含め34軒の旅籠屋があった。

とある。

公園の隣はこの地の鎮守・永福稲荷神社がりました。

毎年9月に行われる例大祭、しょうが祭り等で地元では知られた神社という。

案内板には、

永福稲荷神社は創建は定かではないが、宝暦6年(1756年)、八王子出身の

力士・八光山権五郎が再建したもので、落慶の日に八光山権五郎が相撲を奉納したと

伝わっている、とあった。

社殿の前には、八光山権五郎の大きな石像が立ってる。

社殿の右側に芭蕉の句碑や、

享保8年(1723年)建立という青面金剛像があった、

神社のすぐ先は枡形で左手へ行きます。

街道書には、木戸があり刑場も付近にあたが、痕跡などはなし、とある。

南に向かう右手は一番大きかったという、横山町になった。

枡形を左折したあたりから、八王子宿の家々が街道の両側に軒を接して建ち並んでいたと、街道書にあった。
約300m弱行くと、国道20号(現、旧甲州街道)の八王子駅入口東交差点。

街道は20号を右手に折れてゆくが、時刻も丁度午後2時を回ったところ。

そのまま信号を渡り八王子駅方面へ。

渡って100mを左手に行けば子安神社と街道書にあり、曲がって少し行けば神社。

神社の案内板、

「今からおよそ1250年前、天皇陛下の皇后さまがご懐妊され、その安産祈願のために子安神社は創建されました。
  ご祭神は古事記の神話において、安産・育児・子授けの女神として有名な木花開耶姫命コノハナサクヤヒメノミコト)。
  一千年以上の長き歴史の中で八王子を見守り、崇敬を集めてきました。」
 

神社御由緒には、

当社は八王子市最古の歴史を持つ。
およそ1250年前、759(天平宝字3)年、第47代淳仁天皇の皇后・粟田諸姉(あわたのもろえ)の御安産を祈願すべく、勅命を受けた橘右京少輔が草創したと伝えられる。
以後多西郡(多摩川の西側)の総鎮守、安産の神として近郷より崇敬され、子安明神と称された。

安産の女神として有名な木花開耶姫命コノハナサクヤヒメノミコト)。

女性の神として、安産・子授け・育児のご利益を授けて、八王子を見守りてきました。

とあった。

古来より安産のため「底抜けひしゃく」を奉納するという、

木花開耶姫命コノハナサクヤヒメノミコト)

水子供養葦舟者

などなそ、安産、子育てにまつわる10社以上の末社を祭る神社でしたね。

けっこう大勢の安産祈願や子育て祈願方がお参りされていた。

神社を後にJR八王子駅へ。

電車を3本乗り継ぎ、旅は終わりました。

初めてスッテキ使用の歩き、足の状態はいい塩梅のようで、

これから先も頼ります。

終わり。

甲州街道四十四次 7

6回目の甲州街道から1週間余、

天気は薄曇りだが雨は大丈夫そう、とGW最終日の6日、再び街道歩きへ。

電車を3回乗り継いで、前回足止めの東京都国立市、JR南部線矢川駅へ降り立った。

駅から南へ歩き、おっ、地域コミニティーバスはマイクロバスだ。

路肩の花壇、いい色だねナデシコだね。

10分ほどで、旧甲州街道都道256・現甲州街道矢川駅入口交差点。

甲州街道国道20号は、国立で国道日野バイパス20号となり、

しばらくは都道256が、現甲州街道

交差点を渡ってすぐ左手の南養寺へ。

南養寺参道入り口には常夜燈が建ち、右手は千手観音供養塔。

常夜燈は秋葉山常夜燈で、寛政6年(1794)の建立。上谷保村にあったのが

移築されたという。

竿石には秋葉大権現、榛名大権現と刻まれている。

右側の千手観音供養塔は、寛政5(1793)年に圓成院の観音堂を南養寺に移築した際に、

本尊の十一面千手観音坐像を供養する塔として、享和3年(1803)に建立された、

と、そばに建てられた案内板があった。

南養寺は臨済宗建長寺派。 

開山は建長寺三十七世真照寺大定禅師物外可什大和尚で、

江戸期には寺領10石の御朱印状を拝領したという。

総門は安永9年に建てられ、本堂は文化元年(1804)、圓成院の観音堂を寛政5年(1793)に移築移築した

大悲殿、鐘楼は天明8年(1788)の建立、と案内板にあり、いずれも国立市指定史蹟・文化財とあった。

拝観しなかったが、本堂の北面には枯山水様式の庭園があるそうです。

 はやい!、境内にキスゲが咲いていた。

南養寺を出て交差点を北側へ渡り、すぐ右手の祠は、五知如来と街道書にある。

五智如来とは、仏教でいう五つの智を備えた仏のことで、大日如来の別名とも言われています…とのこと。

江戸時代に八王子から移住した人々が、それまで信仰していた五智如来を祀ったの始まりと伝えられている。

今でも10月には「おこもり」と呼ばれる、五智如来の供養が行われているともあった。

歩きを楽しみながら、

やあ、いい花付きだね~ニオイバンマツリ

ロゴかな?

五知如来より10分程、街道書では左手に旧青柳村、旧石田村の鎮守である

青柳稲荷神社の参道入口とあり、その左側には江戸時代前期造立の木造地蔵尊

安置されている青柳地蔵堂が建っている。

地蔵堂は中は見えませんでした。

右側には寛政11年(1799)建立の元青柳村の常夜燈が建ち、竿石には「秋葉大権現」「正一位稲荷大明神」「榛名大権現」と刻まれている。

傍らに嘉永2年(1849)建立という馬頭観世音があった。

地蔵堂の脇の参道を入っていくと青柳村の鎮守様、青柳稲荷神社。

5分ほど先の交差点の左手に下る坂道があり、万願寺渡し場跡口とで、

慶安年間(1648年~)30数年ほど、舟渡しがされたた、と街道書にある。

さらに5分ほど進むと国立市から立川市へ入り。

さらに10分、どちらへ進むのか?変則五差路の日野橋交差点。

正解は右手にスタンドのある一番狭い奥多摩道路と、街道書に。

甲州街道(都256)と別れ、ここから奥多摩街道を入り5分ほど、旧甲州街道

標識に沿って左に入り、桜並木になっている道を進む。

立川市の市の花、「こぶし」なんですね。

右手によく整備された広い敷地は市柴崎体育館

入口前建つ案内板の怪しいシルエットは?

体育館でトイレ拝借後、さらに下り交通量の多い都道29号線を横断すると、

突き当りの市の下水処理場前で右手に曲がる。

突き当り左側に、日野の渡し碑が建っていた。

街道書には、

「江戸初期の渡し場は下流の「万願寺の渡し」であった。低地のため度々の洪水に

見舞われ街道が分断されたことにより、街道は河岸段丘の上の現甲州街道に移され、

それと共に、貞享元年(1684)農耕作業などで使われていた日野の渡しが甲州街道

正式な渡しとして決められた。現在の立日橋(たっぴばし)の下流の位置にあたる。
 渡しは多摩川の冬期の渇水期には土橋が使われ、3月から10月までは船によって行われていた。江戸時代後期、文政7年(1824)からは通年船による渡しに改められている。
大正15年(1926)日野橋の架橋で、日野の渡しは江戸時代初期から続く270年あまりの歴史に幕を閉じた。」と記されている。

碑の向かい側一角に、大小の馬頭観がある。
小は年代物のようだが、大きい棒観音は大正13年(1924)建立と刻まれていた。

すぐ先を左折すると多摩川の土手に当たり、

土手上道を右折し、旧甲州街道として今は立川市と日野市を結ぶ

立日橋(たっぴばし)を渡ります。

多摩都市モノレール線の橋梁が一体となって供用され、この橋の上をモノレールも

通っています。

そしてこの辺りが、かつての多摩川の渡し。日野の渡し、日野渡船場などと呼ばれて

いた。

多摩川を渡ります。

久しぶりの大きな川渡り。

上流側

おおっ、富士山だ!

薄曇りだったので、富士の山を拝めるとは思てもいなかたので感激!

黒いからだに白いおでこと嘴、オオバンだね。

おや、カワウやシロサギ(ダイサギかな)もいた。

立日橋上で立川市から日野市へ入ります。

渡った先、立日橋南でモノレールと別れすぐ先は市民の森スポーツ公園交差点。

右手に市民の森スポーツ公園を見て歩き、現甲州街道(都256)に合流に

向かいます。

おっ、日野市のマンフォール、デザインはカワセミなんだ。

散歩公園や川沿いデカワセミん出会うことがあり、歩きにはデジカメ持参です。

しばらく出会ってないな~・・池のカワセミ

交差点の手前左手に、文化8年(1811)建立の馬頭観音があり、奥の祠に享和9年(1809)の造立という福地蔵ともいわれた東の地蔵が祀られていた。

街道書に、ここが日野宿の江戸(東)口とあり、いよいよ日野宿へ到着。

すぐ先が甲州街道都道256号線)で、右へ折れて日野宿の中心へ向かいます。

街道書には、

 日野宿は、 日本橋から数えて10番目の宿場。宿場町として整備されたのは

 慶長10年(1605)の ことで、八王子宿を整備した大久保長安の手によって

 開かれた。
 本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠20軒、問屋場一軒、総家数423軒、人口1556人
 宿は東の方より下宿、中宿、上宿と称し、中宿には名主、本陣、脇本陣を務めた

 2軒の佐藤家があった。とある。

洋館のように見えますが、実は蔵だそうで、元は有山家の蔵。

明治時代に建てられ、関東大震災後に改築されたという。

かつては日野銀行の店舗として使われていたが、現在は閉鎖中のようです。

隣にっは蔵も残されていた。

金網フェンスなった案内板説明には、

この通りには、有明家(屋号綿十)、中嶋家(嶋谷)、古谷家(油屋)土方家(土屋)

と、蔵の連なる街並みがあった、と記してあった。

おや、左手の駐車場看板には・・・屋号土屋の土方家跡かな。

おや、日野も5月は祭りなんだ。

2,3分先で川崎街道入口交差点。

向こう角に木に隠れて高幡不動道標が立っている。

街道書には、1884年(明治17)年に建てられた、とあった。

高幡不動新選組土方歳三菩提寺ともある。

すぐ先左手が、本陣としては東京都内で唯一遺された下佐藤家本陣跡(日野宿本陣跡)が現存し、公開されていた。

下佐藤家は隣の上佐藤家と交代で名主を勤め、正徳6年(1716)脇本陣と定められ、

幕末には本陣となった。。

  門脇に当主の佐藤彦五郎が開いた「天然理心流佐藤道場跡」の碑があった。

この道場で剣術を教えていたのがのちの新選組局長近藤勇である。近藤と土方歳三沖田総司井上源三郎山南敬助新選組主要メンバーはここで出会った、と街道書に。

本陣跡の屋敷内は街道歩きで、多く見学したので屋敷内へは上がらなかった。

 隣は下佐藤家と交代で本陣を務めた、上佐藤家跡で、正徳6年(1716)本陣と

 定められた。長屋門等は消失してしまったという。

本陣跡の向かいが問屋場・高札場跡で碑が立っている。

寄らなかったが次の信号を左折して行くと大昌寺、と街道書にある。 
墓地には、新撰組最大の支援者だったと言われる佐藤彦五郎と、その妻であり

土方歳三の姉であるノブが埋葬されており、新撰組にゆかりのある寺院。
 境内には日野宿の時の鐘がある。

と街道書にはあった。

おや、アジサイでは!もう咲き始めてるよ。

本陣跡から10分程、日野市役所入口交差点の先左手に八坂神社があった。

 日野八坂神社の創建年代は不詳だが、 慶安元年(1648)には徳川家光から

 社領免除と朱印地十四石を拝領した日野郷の総鎮守社。
 本殿は、寛政12年(1800)に完成したもので、本殿には、安政5年(1858)に

天然理心流近藤周助(勇の養父)の門人達により奉納された額があり、欅板に大小二本の木刀が架けられている、と街道書にあった。

神社の前の交差点を右手に渡り、街道は交差点先のY字路で右手に行くとある。

10mほど先で左折すると、元の道へ戻りすぐ先がJR日野駅だった。

 JR中央本線日野駅は旧官設鉄道日野駅で、駅舎は昭和12年竣工で民家風。

予定は八王子市に入り、3kmほど先のJR八高線北八王子駅までだったが、

残念ながら歩きに異変が出ため、歩きを見ていたカミさんのStopでここで足止め。

まあ、急ぐ旅じゃなし、ゆっくり行こう。

で、第7回はEND。

甲州街道四十四次 6

4月11日の甲州街道再開から半月余、

真夏日に近い28日(日)再び甲州街道へ。

電車バス、電車と乗り継いで前回足止めの京王線東府中駅へ。

前回は途中から江戸初期の街道、甲州古道を少し歩き東調布駅前へ来てました。

甲州古道は、品川街道と呼ばれ、江戸時代の初期には東府中までの道が、

甲州道中の一部として使われていたといわれてる。

東府中の駅で甲州街道都道229)と出合い合流します。

駅前は変則的な4差路状で旧甲州軌道(都道229)は、左手斜め方向へ進みます。

カラーのマンホールはヒバリの親子と梅の花

2,3分でJR南武線の踏切りを渡ると、八幡町へ入ります。

左手の線路は、東府中駅から1km弱の府中競馬場駅への線路。

通過した電車は結構混んでいたので、競馬開催かな?

そうでした、今日日曜日、ダービーとの関連があるのかも。

府中競馬場、思い出した、チョンガーだったころ1度だけ足を運んだことがあった。

おっ、トキワツユクウサでは、

踏切を渡り約10分ほどゆくと左手遊歩道に八幡宿碑があった。

碑には、

八幡宿は“宿”という字は付いてはいますが宿場ではなく、農業中心の集落で、

先に鎮座する大國魂神社社領に属していて、国府八幡宮の周辺に発達した村落で

八幡宿村と呼ばれていが、甲州街道が開設により街道筋に移転した。

とある。

すぐ先の左手に「武蔵国八幡宮」の石碑、鳥居が立ち参道が奥に続いてます。

鳥居の手前に、文化11年(18144年)に建造という常夜燈があった。

街道書では、台座には常夜燈、燈籠正面に秋葉大権現と刻まれている、とある。

参道を行くと、東府中駅からの京王電鉄競馬場線に分断されていた。

渡ると武蔵国八幡宮八幡神社が鎮座しています。

国府八幡宮は、聖武天皇(在位724年~749年)が一国一社の八幡宮として創建という

由緒ある神社で、大國魂神社の境外末社の1つで、八幡宿という地名が

この神社に由来しるそうです。

参道を戻りさらに10分ほど行くと、八幡宿交差点。

先は宮元町(旧新宿)へ入り、府中宿の内の「新宿」が始まり、

交差点向かいのビル脇に大きな幟が建ていた。

街道書にある「新宿標石」は幟建柱の根元にあるようです。

府中宿は府中三町「番場・本町・新宿(しんしゅく)」によって構成されていた

と言われるようなので、府中宿の江戸口にあたるのかな?

 街道書によれば、

「府中は、かつては武蔵国(現埼玉南部・東京・川崎・横浜)の国府が置かれた

政治・文化の中心地であった。

鎌倉幕府の崩壊で衰退し、江戸時代に入ると、日本橋から約7里半(約30km)に

位置する4番目(数え方によっては9番目とも)の宿場町で、鎌倉街道甲州街道が交わる交通の要衝でもあり、江戸を出立して最初の宿泊場所としては最適な距離で非常に

栄えた宿場でした。

宿並は新宿(現在の宮町)、番場宿(現在の宮西町)、本町の3町(府中三町)で構成され、

天保14年(1843年)の記録によると

本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠38軒、問屋場3軒、家数430軒、人口は2,762人 」

とある。

さらに300mほどで大国魂神社東交差点。

街道書には、

明治サウスビル脇に明治天皇行在所跡解説があり、田中三四郎家が務め、昔柏屋といい柏屋脇本陣のの碑が立つっている、とあった。

屋敷は府中郷土の森へ移築したそうで、前に行った郷土の森に古民家がありました。

直ぐ隣に近江屋中屋平兵衛脇本陣跡があたというが、示すものやその痕跡すら

何もなし。

100mほど先は、大国魂神社前交差点で、北側の京王線府中駅前から続く

ケヤキ並木は大国魂神社の参道であり「馬場大門の欅(けやき)並木」と言われ、

国の天然記念物に指定されている。

南側に大きな社標が建ち、参道は続き大国魂神社が鎮座してる。

ケヤキ並木は、

「1062年、源頼義、義家父子が、前九年の役の戦勝祈願御礼として、

けやきの苗千本を寄進したことに始まりといわれ、その後、徳川家康が関が原、

大坂両役の戦勝の御礼として馬場を献上し、けやきの苗を補植しました。

現在のけやき並木には、その江戸初期のものが数本残っているほか、

けやきが約110本、その他えのきなどの老樹を含め、合計で約120本の木が

植えられている。

大正13年、国の天然記念物に指定されました。

けやきの並木道が指定されているのは日本でここだけです。」

とあり、幕末までは馬市も開催されていた、という。

現在もケヤキ並木保存のため、市内の学校行事として植樹が行われてるという。

大きな大国魂神社社標石の建つ前の交差点に、2本のケヤキ古木。

年代を重ねた重厚な風情ですが、右の樹齢を重ねたケヤキは3mくらいから上部は

伐採されてるが、幹から太い枝が伸び葉を茂らせている。

よくみると、何と伐採された太い幹は空洞化していて、新たな若木が中で育ち

枝を広げていたのでした。

下部と上部には四角く小窓が開けられ、内部が見られるようになっていた。

古木の幹はところどころ穴が開き、若木の枝が外へ伸ばしていた。

こんな再生のしかた、驚きですね。

街道歩きをして宇ると、けっこう古木大木に出会うことがおおいですね。

中山道では、桜にモミジが芽生えていたことがあった。

大国魂神社について、府中観光協会の資料によると、

大国魂神社は葉景行天皇41年(111)の創祀と伝えられ、

御祭神は 大國魂大神 で出雲の 大国主命 と同一の神とされる都内屈指の古社。

武蔵国の一之宮から六之宮までを合わせて祀るため、「六所宮」とも呼ばれ、

武蔵国の総社にあたる。

境内地がかつての武蔵国国府跡にあたり、境内の東側に跡も「武蔵国衙跡地区」として国の史跡に指定されています」

とある。  

大鳥居を潜りケヤキに囲まれた参道を進む随神門、中雀門と進むと、重心の低い拝殿があり重厚な本殿に到着。

例大祭は「くらやみ祭」と呼ばれ、東京都指定無形民俗文化財に指定されており、

関東三大奇祭の一つに数えられています。

参道では5月初のくらやみ祭りの準備が進められていた。

随神門

隨神門は平成23年に「御鎮座壱千九百年事業」として改築という。

門は高さ8.5m幅25m、扉は畳5畳分程。国産の檜で、屋根は銅板葺き、

木造の門として大きく大変美しい立派な門です。

重厚な本殿

この本殿は寛文7年(1667)に4代将軍綱吉によって再建されたもの。

本殿裏に樹齢およそ1000年と伝えられる銀杏の大木があるというので、回ります。

この大銀杏の根元には、蜷貝が生息していて、産婦の乳がでないときに、この蜷貝をせんじて飲むと乳の出が良くなると言われました。近年は、手を合わせると産後の肥立ちがよくなるという、謂れがあるという。

街道へもどり、交差点の大ケヤキ

(右が、若木が空洞から茂ったケヤキ、赤い木囲いがしてある)

大国魂神社前交差点から先は宮西町となり旧番場宿に入ります。

ここから府中街道との交差点まで、200m程がかっての府中宿の中で、

旅宿なども立ち並ぶ最も賑わった所で、その番場宿内の「神戸」と呼ばれる場所で

あったという石碑が建っていた。

番場宿は名主の茂右衛門にとって開設され、茂右衛門宿とも呼ばれたそうです。

 まもなく甲州街道と北上する川越街道、南下する相州街道(現在の府中街道)の

府中市役所前交差点になり、昔は札の辻と呼ばれ南側に府中高札場が当時のまま

残されている。

板塀に囲まれ、りっぱな門を持つ高札場の奥は、大國魂神社の御旅所で、5月の例大祭(くらやみ祭り)の際に、8基の神輿がここに渡御するという。

交差点向かい側右手のマンションなどが建つ付近は元本陣があったとか。

そして北側の蔵造りの酒屋は、創業万延元年(1860年)創業という、

「中久本店」。

隣接して今は跡形もないが、問屋場があったと街道書にある。

(酒屋さんの店内壁に、問屋場があた、との案内板があるという)

中久本店のすぐ先に小さな公園と番場会館があり、会館前に番場宿碑が建てられて

いた。

付近には江戸時代に近江屋、信州屋といった旅籠があったそうです

おっ、番場屋、割烹料亭のようだ。

賑わった宿場の雰囲気がありますね。

街道書にも付近は脇本陣や旅籠などがあったというが、示すものは何もなかった。

すぐ先で左右に伸びた緑地帯のある緩い坂には鹿島坂碑が建っている。

碑には、

甲州街道と交わる鹿島坂は、大國魂神社例大祭に関係する鹿島田家からその名がとられたそうです。かつては鹿島田坂と呼ばれていたのが、いつからか鹿島坂になった、

とあった。

片町に入ってすぐ右手に片町碑があり、片町の名前は、南側に広い境内の高安寺が

あるため、北側にしか町並みが無かった為と云われる、と記されていた。

そして左(南)側は大きな寺標が建つ曹洞宗・高安寺境内です。

そして高安寺。

街道書によれば、

「ここは平将門を討伐した藤原秀郷の館跡と伝わっています。

後に見性寺というお寺が建てられ、、戦乱により荒廃しいたのを、

室町幕府の将軍足利尊氏が再興し、龍門山高安護国禅寺と号したのが
はじまりとされています。

高安寺の「高」は尊氏の旧名・高氏からとったのだそうです」とある。

総門を入って右に折れると、明治5年建立という大きな山門が現れます。

山門の正面では仁王像ですが、

山門を入った裏側の右手は、山門には珍しい「地獄の脱衣婆」の像が鎮座する、

境内の奥までは入らなかったが、奥には秀郷稲荷という祠や、さらにその奥に

平家滅亡後に鎌倉入りを許されなかった源義経武蔵坊弁慶がこの井戸の水を使って

大般若経を書き写したという伝説がある「弁慶の硯井といわれる井戸があるという。

 

街道の戻り,右手に「弁慶坂」碑がある。

この坂は高安寺に伝わる弁慶の伝説に由来、などとあった。

先ゆるい坂になってるが、この坂のことかな?

緩い坂を下ったところで、京王線の5号踏み切を渡ります。

渡ってしばらくして、なにげなく街路樹をいて気が付いた、ネグンドカエデ!

枝の伸びが多く、樹形を整えるのに手間がかかる、と聞いていた。

街路樹としては珍しのでは?

美好町三丁目交差点から先は本宿町に入り、左手に大きな冠木門を構えた家が、

かって旧本宿村の名主を務めた内藤家、と街道書にある。

この門は幕末期の府中宿の本陣であった、番場宿の矢島家の門を移したもの、

ともあります。

5分ほど先で本宿町交差点で、国領町で別れた国道20号(現甲州街道)と合流。

先はしばらく20号を歩くようです。

(本宿交差点付近が府中宿西口との説もあるようです)

5分ほど先、本宿交番前交差点の西側角に常夜燈が立っている。

秋葉大権現の常夜燈で寛政4年(1792)本宿村講中が立てたもの、

と案内板がもあった。

   
交差点から200m程先の交差点手前、右手に本宿村の鎮守である熊野神社が、

鎮座し、鳥居左手には「国史跡、武蔵府中熊野神社古墳」の看板が立っていてます。

本殿奥には、飛鳥時代の上円下方墳といわれ、最近保存整備工事があったような感じで葺き石で覆われた古墳の姿があった。

ここで古墳に出会うとは思ってなかったな~

(拝借写真)

神社参道右手には、山車蔵があり手前に本宿碑が建っていた。
本宿は甲州道中が開設される以前は宿場であった、とある。

神社より南武線の上を通る「西府橋」を通り10分ほどで、国立市に入ります。 

100mほどで「国立インター入口」交差点。

国道20号はバイパスとなり日野バイパスと呼ばれ、先っはしばらく都道256.

越えてすぐ右手に獅子宿碑。

宿と云っても、宿場のことでは無くて、街道書によてば、

谷保天満宮で奉納される獅子舞の獅子頭を昭和44年まで、佐藤家が保存していた

ので、その獅子頭の保存場所と云う意味で、佐藤家は獅子舞の稽古をする

家、「獅子宿」と呼ばれていた、とある。 

(ということは碑の付近は佐藤家の屋敷跡かな)

その先右手の大きな薬医門を備える家は江戸時代名主を務めた「本田家」という。

さらに幕府の馬医者を勤め、門は乗馬のまま通れる造りになっているという。
薬医門は閉じていても、横の木戸から患者が出入りできるようにしてある
奥の屋敷も含めて国の登録文化財だそうです。

本田家から100m程先に1863年(文久3)年に建てらた旧下谷保村の

秋葉山常夜燈があった。

先の歩道橋で南側へ渡ります。

歩道橋を降りたところ家塀に、「関家かなどこ跡」案内板があった。

「かなどこ」とは鋳物のことで、江戸三名鐘の新宿天龍寺梵鐘は関家の鋳造とある。

すぐ先が谷保天満宮交差点。

左手に大きな寺標が建ち、広大な森は谷保天満宮です。

街道書によれば、

東日本最古の天満宮であり、亀戸天神社湯島天満宮と合わせて「関東三大天神」と

呼ばれています。

903年・・・菅原道真の三男・道武が、道真の死後父の像を彫りこれを祀ったのが

天満宮の始まりという。

しかしながらこの像の出来が良くない所から「野暮天」「野暮」の語源になった。

とある。

「やほてんまんぐう」ではなく「やぼてんまんぐう」が正しいのかな。

鳥居をくぐり参道を進み、

石段を下ります。

当初、甲州街道は今よりも南側の低い場所を通っていて、谷保天満宮は街道に面して南向きに造られていました。それが江戸時代中期、街道が北寄り、従来よりも高い台地上に付け替えられたため、石段を下るようになったそうです。

そして拝殿。

立ち寄りしませんでしたが、拝殿を裏手にまわると、江戸名所図会にも記載されている
「常盤の清水」が数百年も昔から涌いていて、枯れた事が無いと言われ、
昔は近所の人々の井戸として使用されていたそうです。

えっちら、階段を上り街道へ。

5分ほど行った左手に、古そうな地蔵尊が4体あたが、街道書には記載はなかった。

かって街道沿いあたのを集めたのかな?

先の交差点で北側(右手)に渡り、街道の右側を歩きます。

5分程の右手の住宅入口脇のところに、潤澤学舎跡と記された案内板が建っていた。

街道書には、

「明治五年、各村に学校の設置が義務付けられると、翌年、青柳村で私塾を開いていた

吉左衛門氏を校長とし、校舎はこちらの杉田氏の私邸内にある蚕室を借り受け、

仮校舎にし開校されました。当初の生徒は30人だった」とある。

案内板の建つお宅が、旧杉田綴邸で子孫の方がお住まいかな?

すぐ先の住宅門脇には、新しそうな「馬頭観世音」の石碑があった。

かっては馬頭観世石像があった、ということでしょうか、謂れは不明。

5分程ゆくと右手に大きな寺標石は、臨済宗永福寺

街道書では、寛文年間(1661年~)の創建。

脇仏の木造「阿弥陀如来座像」は鎌倉時代作の古仏、とある。

本堂前へ来たがお堂内は開館できず、案内板もなかったです。

街道に戻って先に進むと、街道左手に旧上谷保村の常夜燈がある。

街道書によれば、

寛政6年(1791年)建立、街道の右側にあったもので、道路の拡張に伴って

こちら側に移された。

そばに建つ塔は、千手観音供養塔で、享和2年(1802年)建立である、とあった。

先隣に奥に山門を構えたお寺、臨済宗南養寺があったが、すぐ先にJR南武線矢川駅

入り口交差点なので、南養寺は次回の旅にとし、今日の旅はここで足止めに。

東府中駅から約7km。

見短い散歩旅でしたが、汗ばむような天気に恵まれ青空の下の街道歩き。

さ、次回は多摩川渡りだ、いつの日かに。

電車を4回乗り継いで家路へ。

甲州街道 6 END。

 

 

 

 

 

甲州街道四十四次 5

街道旅

令和5年12月9日(日) 4回目の甲州街道旅は下高井戸宿を後にし

次の国領j宿手前で終り、さあ、次は・・・・ 

 

天候不順の令和6年。

遅れた桜もピークを過ぎ、ようやく天気も安定しそう。

令和6年4月11日(木)

昨年12月で途絶えていた甲州街道の旅を再開に。

どんどん足の進みがのろくなり、長く歩くのに不安を覚えるが、

ゆくりでいいんじゃない!とカミさんに押され、よし、やてみるか!と、

電車、バスを乗り継ぎ、前回足止めの京王線柴崎駅へ降り立った。

 

駅から北へ数分行くと国道20号(現甲州街道柴崎駅入口交差点。

AM10:30 歩き旅の再開でどこまで歩けるかな?

朝はまだ冷え込みがあったが、暖かくなった名残り桜の青空の下、

うん、今日もいい旅日和(散歩日和かな)になりそう。

少し歩いた左手路地には、持参の街道図に金剛夜叉明王とある。

おっ、あれだな。

路地を入った左手に祠に金剛夜叉明王像が祀られてます。

夜叉明王は不浄や煩悩を吹き払うという。

案内板もなく、調べても安置年代はわからなかった。

その先が馬橋で流れる川は野川。

かって手前左側に立場があり、野川で馬を洗うなど人馬とも一息入れた所と

云われるそうです。

橋を渡ると街道書には、布田五ヶ宿と呼ばれる内の「国領宿」の江戸口(東口)と

あったが、示すものは何もなし。

国領から上石原までは布田五宿。

街道書によれば、

[現在の京王線調布駅前後(国領駅から西調布駅)の約3キロほどの区間に、

 数百メートル間隔で5つの小さな宿場があり、複数の宿場がひとつの宿場として

 機能する「合宿」として、5宿が数日ずつ宿場の役を果たしていました。

江戸・日本橋から五里三十二町(約23.5km)と近く、4番目~8番目の

5つの宿場はまとめて、布田五宿/布田五ケ宿と呼ばれていた。

本陣や脇本陣はなく、中規以下の旅籠が5宿合わせて9軒という小さな宿場で、

史料によっては全部合わせてひとつの宿場として数えているものもあります。]

1843年(天保14)年では、

国領宿 

人口:308人 家数:61 本陣:0軒 脇本陣:0軒 旅籠数:1軒

下布田宿
宿場データ    人口:429人 家数:95 本陣:0軒 脇本陣:0軒 旅籠数:3軒
上布田宿
宿場データ    人口:314人 家数:68 本陣:0軒 脇本陣:0軒 旅籠数:1軒
下石原宿
宿場データ    人口:448人 家数:91 本陣:0軒 脇本陣:0軒 旅籠数:0軒
上石原宿
宿場データ    人口:411人 家数:73軒 本陣:1軒 脇本陣:0軒 旅籠数:4軒
宿場データは「東海道宿村大概帳」より、

現在の調布市はこの5宿が中心となっている。

なぜ、こんな短い区間の宿場を幕府道中奉行の宿場として認めていたのでしょう。

 野川を渡り5分ほど行くと、その名も「旧甲州街道入口交差点」で二叉となり、

国道から左手に別れ都道119号、次の宿場の布田五宿の内の一つ「国領宿」へ

入ります。

国領町へ入って行きますが、国領宿の長さは約900m。

上宿と下宿に別れ、現在の国領町がすべて含まれる。

宿場の雰囲気は勿論無くなっていて、サッカーFC東京のフラッグが沢山風に

なびいていた。

国領の地名は、かつてこのあたり一帯の土地が武蔵国国府が管轄する国衙領

あったことに由来し、江戸時代は天領であった。

甲州街道へ入りゆっくり10分程行くと国領駅入り口交差点で、

左手駅方向を見ると稲荷神社が見えた。

昇福稲荷大明神と街道書にあり、大正14年勧請されたとあった。

地域の地主神として信仰されたという。

駅前歩道のマンッホール蓋は、昭和49年制定 市の花 百日紅(サルスベリ)。

街路樹に満開の桜は黄緑色のウコン桜。

先で道は右へ屈折し、左手から合流してくる狛江通りのすぐ先に祠があり、

寛政10年(1798)建立という青面金剛像の庚申塔

近くには、街道書に少し先右手に、かっては名主だった谷戸家に祀られていたという

谷戸稲荷神社と記されいるが、探せどもそれらしきは見つけらずパス。

帰宅後調べてみると、石材店(ありました)の裏手にあったようだ。

右手にちょと目についた赤と黒の蔵をもつ住宅。

国領駅入口から約500mほで京王線布田駅入口の道。

右手に浄土真宗・圓福寺。

円福寺の創建年代は不詳だが、鎌倉時代鎌倉に開山し、その後多摩川沿いに移転。

寛永元年1624年)に当地へ移転したという。
 街道書に、境内に天明5年(1785)造立の地蔵尊、とある。

六地蔵尊右の大きな地蔵尊かな)

入口を見逃しパスしてまったが、すぐ先右手に国領神社が街道書にあります。

元は多摩川のほとり杉森の地にあり、度重なる洪水の為この地へ移転してきた。

境内のご神木の藤の木は千年の藤と呼ばれ、樹齢500年といい、延命、商売繁盛の

神木として名高いという。 

 

すぐ先、布田駅前交差点の右角の黒い大きな門柱、街道書には常性寺とある。

鎌倉時代の創建と言われ、元は多摩川沿いにあったが、慶長年間(1596~1615)に

現在地に移転した。その後、江戸時代に祐仙法印が上総国成田山新勝寺より

成田不動尊を勧請中興し、「調布不動尊」とも称されえいる、という。

門を入ると、正面に不動堂、右手奥に薬師堂(本堂)で、ご本尊、薬師如来像は

鎌倉時代に造立されたというが、拝観することはできなかった。

境内右手に地蔵堂があり、手前祠に安置されてるのは「小橋の馬頭観音」。

この馬頭観音塔は文政7年(1824)の建立で、甲州街道の小橋(現馬橋の西50m)の馬の捨て場に布田五宿をはじめ、八王子などの馬持ちが供養のために建てたもので、

中に「八王子馬買」の字があり、のちに移設してきたという。

(j地蔵堂堂内)

「小橋の馬頭観音

馬頭観音を見つけると、旅してるんだな~・・

街道に戻ると先の西側で旧下布田宿に入ります。

約400mほど10分の左手に寺標石柱が建ち、奥に日蓮宗蓮慶寺

本堂は参道正面にあり、その左手前には、御朱印寺を表わす朱塗りの山門が

残されている。

蓮慶寺は、戦国時代に布田郷を領していた中将出羽守が、当地に古くからあった

真言宗閻魔寺を、天文元年(1532)に日蓮宗に改めて開基。

慶安3年(1649)徳川三代将軍家光から御朱印を拝領し御朱印寺として、朱塗りの

山門(赤門)を許され、住職は乗籠が許されていた、と街道書にある。
 山門

おっ、牡丹が咲き始めてる!

街道へ戻ると寺の西隣で下布田宿が終わり、布田五宿の中心であった上布田宿に

入ります。

蓮慶寺の先5分ほどで「調布駅北口」交差点。

街道書には交差点手前北側に、国道20号越えて続く参道の先に、

布田五ヶ宿の総鎮守布多天神社と記されてるが、我々の足では往復に

小1時間かかりそうで寄らづに進みます。

別資料には、

「創建年代は不明。社伝ではおよそ1940年前の垂仁天皇の御代の創建とされ、

 平安時代初頭の延長5年(927)に編纂された延喜式神名帳武蔵国多磨郡に記述が

 ある式内古社である。
 元の社殿は現在の布田5丁目にあったが、文明年間(1469~87)に

 文明9年(1477)に現在地に遷座し、室町時代天正18年(1590)年4月に

 豊臣秀吉が小田原の北条を攻略する際、人々を安堵させるために出した「

 太閤の制札」が神社所蔵として残る。
 また往古広福長者という人が、当社に七日七夜参籠して神のお告げをうけ、

 布を多摩川にさらし調えて朝廷に献った。

 これが木綿織のはじめといい、帝はこの布を調布と名づけられ、以来このあたりを

 調布の里とよぶようになったといわれる。」

 

進んで小島町1丁目交差点。

手前右手に日本橋から6番目、小島一里塚の碑があるそうだが見逃しってしまった。

すぐ先の下石原1丁目交差点を越すと旧下石原宿へ入る。

街道書には旧下石原宿へ入200m程先を北側へ真っ直ぐ進み国道を越えたところに

下石原宿の鎮守八幡神社が記されてるが寄らずに進みます。

進んだ先左手に常演寺がある。

門前右手に地蔵祠と嘉永3年(1850年)建立の常夜燈などが並んでいる。

常演寺を過ぎ5分ほど、左手に人が通い抜けられる程度の小路があり、

塀に金山彦神社の案内板があった。

小路を入ると、周辺の刀鍛冶により創建されたといわれ、金属加工業などの方々から

の信仰が厚いといわれる金山彦神社があった。

そのまま小路を行くと通りへ抜け、右手に源生寺裏門入口の石柱があり境内へ。

臨済宗建長寺派源正寺と街道書にある。

開山は天文24年(1555年)開基は太田対馬守盛久。
大田道灌の弟の子孫が石原に住んで、大田対島守盛久を名乗っていたという。
参道口に小屋掛けした六地蔵があり、

隣に天明3年(1783年)建立という日本廻国供養塔が建っている。

寺の前で道はわずかに右にカーブし、国道から分岐した都道229が合流し、

甲州街道都道119から229号となります。

合流するあたりから布田五宿最後の上石原宿に入ります。

 4,5分ほど行くと中央高速道ガードで、

手前左手に西光寺は、街道書によれば、

創建は応永年間(1394~)で家光から14石2斗の寺領を受けた朱印寺。

寛文年間(1661-1672)には天台宗に改めたという。
 明治12年(1879)の火災により、弘化4年(1847)造立の山門、享保年間(1716~36)造立の仁王門などを除いて多くが焼失しているそうな。
 
 

仁王門は、市内に残る唯一の仁王門で、年代も十八世紀初頭と特定できる貴重な建物である。正面両脇間に仁王像を安置し、また楼上に銅鐘を釣るので、仁王門でもあり鐘楼門ともいう。

門脇には、弘化3年(1846)建立の常夜燈が立っている。「秋葉大権現」「榛名大権現」「鎮守両社宮」、台座には「宿内安全」など刻まれている。

その隣に新撰組局長近藤勇座像がある。近藤勇天保5年(1834)多摩群上石原村で

生まれた。

街中にもいたるところに「近藤勇生誕の地」の幟が立ていた。

近藤勇首塚や供養塔など、東海道中山道でみてますね。

西光寺を出るとすぐに中央自動車道の下をくぐり、右手に黑塀の旧家を見ながら暫く

進むと

300m程で飛田給に入り、布田五宿は終わります。
さらに5分ほど飛田給駅入口を過ぎ、

すぐ先左手に飛田給薬師堂があります。

街道書によると、

仙台藩典医であった松前意仙が、諸国遍歴の末にこの地に住み着き、

医業のかたわら、深く仏道に志した。

貞享3年(1686)石像瑠璃光薬師如来立像を彫り上げた後、

自ら墓穴を掘り、自ら入定し成仏した。

薬師堂にはこの像が安置されている。
 境内にある行人塚は、松前意仙の墓で自身よって作られた。

村人たちの薬師如来に対する信仰は深く、現在も毎月12日に、薬師講の人たちによってお勤めが行なわれています。

石像瑠璃光薬師如来立像は飛田給薬師堂の本尊で、

石像瑠璃光薬師如来立像は、はじめは野外に置かれていましたが、

弘化4年(1847年)に仏堂が建てられ、堂内に安置されるようになりました。

 行人塚

お堂内は小窓もなく堂内を拝見することはできませんでした。

お勤めがあった時くらいしか拝観できないんでしょうね。

薬師堂の左脇から入れる道があり、その道は江戸初期1684~88年)以前の

甲州古道(品川街道)と街道書にはあったが、入らず旧甲州街道都道229)の

方を歩きます。

少し先で府中市白糸台に入る。

右手の古びた常夜燈は、街道書によれば嘉永5年(1852年)建立。

台石に「諏訪大明神」「秋葉山大権現」などと刻まれている、とある。

またその先、かっては立場茶屋があったといわれている所で、今はその面影は

残されていない。 

おや?家にも咲いてる雲南黄梅のようだが、枝ぶりや葉が違うような。

石塀を覆いかぶさるように茂る樹、はてなんだろう??

(帰宅後教えていただきました。

茂ってる植物は、匍匐性常緑小低木、「ワイヤープランツ
咲いてる花はウンナンオウバイで埋もれてる)

さらに10分程行くと、車返団地交差点の右手に観音院がありました。

街道書には、 観音院は、神明山金剛寺と号し、創建年代等は不詳。

 山門脇に、宝永7年(1710)造立の地蔵尊享保3年(1718)建立の庚申塔

 文政4年(1821)建立の馬頭観音などがある。

 観音院の裏手に神明社がある。

この神社は古代に多摩川で麻布を染めた染殿にゆかりのある神社といわれ、

参道口に下染屋についての説明版がある。

地名の起こりは、調布(てづくりぬの)の布を染めたところで、鎌倉時代には染殿があった所といわれている。もともとは染屋村であったが、その後、上下2村に分かれたが、その時期は不明とのこと。寛永12年(1635)の検地帳には、下染屋となっていると、細か文字で彫られている。

 下染屋神明社の創建年代等は不詳ながら、往古日本武尊の御衣を染め、入れた瓶を埋めた地に明神を勧請したとも伝えられ、また弘長年間(1261-1264)の創建とも伝えられる。稲荷社を文永年間(1264-1247)に合わせ祀ったといい、明治4年村社に列格したという。

なお、染屋の地名は、南北朝時代の資料にも載っているという記述もあった。

 参道口に嘉永6年(1853)建立の秋葉山常夜燈がある。
 

西武多摩川線を渡ります。

越えて5分ほど、不動尊前交差点左手に染谷不動堂がありました。

江戸時代は、玉蔵院といい、染谷八幡神社別当寺であった。

この境内には国の重要文化財である銅造阿弥陀如来像安置する小堂(宝物殿)があり、
 解説石版が建てられていた。

それによると、銅造阿弥陀如来像は、鎌倉時代の弘長元年(1261)、上野国八幡庄にて造立された善光寺式の阿弥陀像である。

鎌倉時代末の元弘3年(1333)、南朝の忠臣・新田義貞公が鎌倉攻めに際して

陣中守護のため奉戴したと伝わる。

以来南朝守護の神像として奉安され続けたが、承応2年(1653)に玉川洪水のため

染屋(現在の白糸台周辺)に移される。

街道書では国重要文化財とあたが、解説版には国宝と彫られてた。

、お堂内は見ることはできない。

 

 境内にはには上染屋についての説明碑があり、それによると

「上染屋の集落はもともと多摩川のほとりにあったが、度重なる洪水を避けてこの地に

 移ったようである。地名の起こりは俗説として調布(てづくりぬの)を染めたとこ

 ろであったとかろであったとか、鎌倉時代に染殿のあったところなどといわれて

 いる。古くは一つの村落であったが、いつのころからか上染屋と下染屋に分かれた」

不動尊を後に300mほど行くと白糸台1丁交差点で、先は旧常久村に入ります。

さらに10分程、右手に常久八幡神社

常久村の鎮守社。例に漏れず多摩川の洪水により移転鎮座している。

神社入り口手前の交差点から左手入る道があり、旧甲州街道から甲州古道へと

向かい、300mほど先で古道・品川街道に入りすぐに、常久一里塚跡の碑が

立っている。 
道は江戸初期の甲州街道にあたり、日本橋から7番目の一里塚という。

甲州街道へは戻らず、そのまま西へ足を進めると15分ほどで、街道(都道229)

へ合流し、左手は京王線東府中駅

時刻も午後の4時で、進んだのは約7km。

当初の予定は約2km先の府中駅だったが、今日の旅はここで足止めに。

電車、バス、電車と乗り継ぎ、夕6時帰宅。

よたよた歩きでも、歩けば進む。

付き合ってくれてありがとう、カミさん、でした。

梅雨入り前には,都を抜けたいな・・・・

甲州街道四十四次 4

2022年(令和5年)春に、5年がかりの中山道69次の街道旅を終え、

11月には3年掛りで日光街道を完歩。

9年前の2月に、街道歩き旅、東海道53次へ一歩踏み出してから9年がかりで、

江戸幕府道中奉行管轄の5街道のうち、3街道、計293里・1178kmを

歩き終えました。

2023年、

年と共に足腰の衰えは如何ともしがたいが、

「足さえ前に出せば、よたよたでも旅は続けられる。」「旅立ってしまえば、

気持ちも動く」と、世は仕事始めの令和5年1月4日(水)

4街道目の甲州街道へと老々旅始め,、と始まった甲州街道の歩き旅。

3回目に冷え込みのきつい2月も最後の28日、内藤新宿を抜けて江戸を離れ、

下高井戸宿が近づいてきましたが、丁度京王線高井戸駅入り口があり、

またいつの日かに旅へと、足を止めてました。

 

日本橋旅立ち

歩き旅を終ての後に控えていた、肝臓癌治療後8年目の経過観察検査。

思いがけない癌再発・・・

再び手術かと悩んだが、最近注目されてる新しい放射線の一種、重粒子線放射で

治療を受けることになり、5月には無事終了し経過も良好。

12月初の半年検査では、癌は痕跡だけで消滅と嬉しい結果。

さっそくカミさんから「そろそろ街道へは」と誘われ、

この12月9日(日)10ヵ月ぶりに歩き旅の再開へ。

すっかり衰え気味の足腰。

異常に長がかった猛暑の日々には、早朝散歩は続けてきたが果たしてどこまで

歩けるか??

12月9日(日)、早めに家事を済ませて電車を乗り継ぎ、前回足止め駅の

京王線高井戸駅到着し、北へ10分ほど歩き国道20号(甲州街道)へ。

10時20分嬉しい甲州街道4回目の旅立ち。

甲州街道

江戸幕府によって整備された五街道の1つで5番目に完成した街道。

江戸日本橋から内藤新宿、八王子、甲府を経て信濃国下諏訪宿中山道と合流する

約53里209kmの街道。

44次の宿場が置かれ、江戸から甲府までの37宿を表街道、甲府から下諏訪までの

7宿を裏街道と呼んだ。

 

歩道橋で甲府に向かって国道の右側に渡ります。

渡った右側の国道北側(右側)には玉川上水が暗渠化され緑地や公園になっていて、

しばらくは玉川上水園地を歩きました。

何して遊ぼうか!

ぼくちゃんたちも仲間に入れてよ~

15分ほど緑地帯を歩き、再び国道20号、甲州街道へ戻ります。

戻た国道この付近には、明治40年創業竹細工の竹清堂が街道書には記されてるが、

見当たりません。

2階の竹で編んだ象がシンボルの、甲州街道を歩いた人たちの旅紀でたびたび登場していた竹細工店でしたが、調べてみると、2021年に当地での営業を止め、

八ヶ岳山麓へ移店したとあった。

すぐ先が京王線桜上水駅北の交差点。

この辺りが江戸を離れて最初の、下高井戸宿江戸方(東の入り口)と街道書にはある。 先ほど降りた駅・下高井戸駅があるが、宿場町は桜上水駅のほうが近いという。

(それらしき標識雰囲気など示すものはなく、高速高架下に街並みが続くのみ)

高井戸宿は日本橋から4里のところにあり、下高井戸宿と、次の上高井戸宿の2つの

宿場の合宿で高井戸宿。

当時は京都が日本の首都でしたから、京都に近いほうが“上”で、江戸に近いほうが“下”でした。

当初は、甲州街道の起点である江戸の日本橋から数えて一番目の宿場で、

旅籠も24軒存在していたというが、後に内藤新宿が設置され2番目の宿場となると、

内藤新宿との距離がさほどないこともあり、次第に素通りする旅人が多くなり

寂れた宿場町になったようです。

一宿で継ぎ立てを勤められず、月初から15日までを下高井戸宿、16日から月末までを

上高井戸宿が勤める合宿とし、通行大名が少なく脇本陣は置かれていませんでした。

1843(天保14)年の「甲州道中宿村大概帳」によると、

【下高井戸宿】
・本陣…1軒 ・脇本陣…なし ・旅籠屋…3軒 家数…183軒 ・人口…890人
【上高井戸宿】
・本陣…1軒 ・脇本陣…なし ・旅籠屋…2軒 ・家数…168軒 ・人口…787人

 

5分ほど行った左手に、亀井堂本家の看板を掲げる和菓子屋さん。

亀井堂は、たしか神戸の瓦煎餅で知られる和菓子店なので支店なのかな。

すぐ先左手に街道書にある覚蔵寺。
創建年代は不明、もともとは真言宗の寺院で、慶長年間に日蓮宗に改宗。

山号「清月山」の扁額がかかる山門を入ると正面が本堂。
覚蔵寺は、日蓮上人が自ら彫ったとされる鬼子母神像が有名と街道書にはあり

「江戸名所図会」にも由来が紹介されていたという。

門前の案内板概略、

「 創建年代は不詳だが、慶長年間(1596-1614)に実成院日相が、真言宗寺院を

 日蓮宗寺院に改めて中興したと伝えられる。
 日蓮聖人直刻の鬼子母神があるので知られる。文永8年(1271)、日蓮が鎌倉の

 滝ノ口で危うく処刑されかかったときに、ゴマの餅をくれた老女に感謝し、

 鬼子母神像をこの老女に与えた。その後、覚蔵寺の13世日曜が、この老女から

 譲り受け、ここに祀ったものといわれている。」
鬼子母神像は本堂の中なのかな?内部は覗けなかったが・・・

覚蔵寺を後に5分ほど行くと、バス停が有り停留所名は宗源寺で右手に山門が見えた。

叡昌山(えいしょうざん)宗源寺 

寺伝によれば、

当寺開山光伯院日善の祖先は畠山重忠の一族で、創建は慶長年間(1596年~1615年)の初めで、十界諸尊(じっかいしょそん)を本尊とする日蓮の寺院。

境内の不動堂は、近くにあった明治5年(1872)に廃寺となった修験道本覚院の

不動堂を当寺境内に移設している。
 この不動堂はかつて高台にあったため、高井堂と呼ばれ、それが高井戸という地名の起源になったとする説もある。

「高井堂(たかいどう)」~「高井戸(たかいど)」というわけね。

不動堂(後世の改築お堂)

本堂前のコウヤマキは、樹齢推定400年と言われ、江戸初期の創建時に

植えられたと想定され、杉並区の天然記念物と札が建っていた。

街道書によれば、下高井戸宿の本陣は覚蔵寺の側にあったようで、

冨吉屋(吉田姓)が務め、本陣の前には高札場があり。向かいに篠崎家が勤めた

問屋場があったそうだが、面影や標識など示すものは何もなし。

おや、歩道路肩の植え込みに可愛らし小さなっ花と小さな黒い実がいっぱい。

イヌホウズキだね。

店先に並んでた七福神(石屋さん)

下高井戸宿江戸口から約800ほど、鎌倉街道入口付近が下高井戸宿甲州口(西口)

だった様です。

鎌倉街道は、坂東各地より鎌倉に至る道路の総称)

鎌倉街道入口の信号のところで甲州街道(国道20号線)を左手に渡ります。

すぐ先前方で高速道の高架が右手に別れて行きますが、手前に建っていたのは、

日本橋から4里(四番目16km )の下高井戸一里塚跡(上北沢の一里塚)

の案内板でした。

「高井戸一里塚跡」説明板と、その裏に隠れるように立っている「日本橋から16km」のキロポスト

甲州街道(国道20号)は今まで空を塞いでしまっていた頭上を覆う

中央高速道高架が取れ、青空が広りました。

頭上の圧迫感から解放され、真っ青な空の下、やっぱり、いいね~。

青空の下歩きになって12,3分、一里塚跡から約800mに上北沢4丁交差点(京王八幡山駅入口)で、街道書には、上高井戸宿江戸口(東口)とあった。

この上高井戸宿も往時を偲ばせるものはほとんど何も残っていません。

上北沢4丁目交差点で、国道左手の交差する路地を南へ行くと京王八幡山駅

上高井戸宿は、ここから隣の芦花公園駅入り口あたりまで続いていたともある。

【上高井戸宿】
・本陣…1軒 ・脇本陣…なし ・旅籠屋…2軒 ・家数…168軒 ・人口…787人

東口から5分ほど先には、上高井戸交差点で幹線道路環八道が高架で交差しており、

交差点北東角に付近に、並木家が務めた上高井戸宿本陣武蔵屋があり、

細縁家が務めた問屋場があった、と街道書にはあるが示すものは何もなし。

甲州街道環八通りを通り抜けてすぐ先で国道20号線から左手に分岐し、

甲州街道(東京都道229号府中調布線)に入ります。

旧街道に入ってすぐ右手に入る道脇に石柱が建ち、街道書には「井の頭弁財天道道標」

とあり、道標には「是より一里半」と刻まれていた。

街道書には、井の頭公園(都立公園)の池畔に祀られる弁財天は延歴8年(789年)

伝教大師作と記されてる。

弁財天の宮社は鎌倉時代に焼失してしまったが、江戸時代になり、三代将軍徳川家光が、宮社を再建した。

井の頭と言う地名も、この池の水が江戸の飲料水の源(上水の頭)であることから、

「井の頭」と命名されたという。

元々は家康の時代の整備に伴い、この井の頭池が水源として選ばれました。

家康自身も何度かこの地を訪れているとのことです。

公園の湧水池は、フォークソングで知られる「神田川」、江戸の上水道(神田上水)、の源水です。

甲州街道に入り300mほど、左手に宗洞宗長泉寺の石柱が建ってます。

街道書によれば、

開創は慶安元年(1648年)で2年後に火災に遭い、明暦元年(1655年)に

この地に移った、

観音堂には「板絵着色西国巡礼図」という狩野派の絵師、中田小左衛門が描いた

杉並区有形民俗文化財があり、上高井戸宿の本陣を勤めた並木家の墓もこの長泉寺に

あるという。

観音堂は覗くことが出きませんでした。

山道両脇には、街道改修などで集められたと思われる道祖神や石仏などなど。

本堂

観音堂

長泉寺を過ぎたあたりが上高井戸宿の甲州方(西口)でした。

左手の道を入ると京王線芦花公園駅があり、交差点から先は世田谷区、

かっての鳥山村域に入って行きます。

国道20号(現甲州街道)とは違い、旧甲州街道のこの道には歩道がなく、

細い歩道帯が両側にあるのみ。

今日は日曜なので車両の通行は少ないので、よたよた歩きでも歩けるが、

日ごろは車両通行が激しく、かなり要注意と多くの街道記に書かれてます。

5,6分先き左手に大橋場跡というのがあり、金属製の親柱と石仏が数基立っている。

街道書には「武州千歳村大橋跡」、烏山用水に掛けられていた橋の親柱と記され、

奥隣の青面金剛石像は元禄13年(1700年)建立、その奥の地蔵尊は、

地頭名主を務めた下山家が建立の「下山地蔵-身代わり地蔵」とあった。

 

200m程の右手に「南烏山りんれい広場」という公園があり、

道場に「せたがや百景」の標石が建ち、奥には案内板もあった。

「せったがや百景」は世田谷区の広報によれば、

区民に世田谷の風景に関心を持ってもらうことを目的に、昭和59年に選ばれました。

選定に当たっては、好ましい風景として、区民からの推薦投票で選ばれた約400景の中から、選定委員会が200景の候補に絞ったものを、区民投票を実施し、票の多い順で100景が選ばれました。

とあり、百景に選定された場所には紹介する案内板が設置されています、ともあった。

ここの案内板には、

「旧甲州街道の道筋」「昔の街道筋を偲ばせるっ風景は残っていないが、この道筋

そのものが街道だったことを忘れるわけにはいきません」と記されていた。

 

標石

街道の路肩プランターに、おや、何の花かな?

ピンクはオキザリスだが、紫と色は??オキザリスの園芸種?

百景から10分ほどの左手路地脇に地蔵尊や上の欠けてしまった石仏などが並べられている。道路整備などの際、集められた様子。

側に有ったコンビニでトイレをお借りしようと思ったら、

「不心得な使い方された方がおり、貸出しは当面いたしません」とあっった。

なにがあたのかなあ~・・・

10分ほど先へ進むと、給田の交差点を過ぎた右手の民家の庭先に「新一里塚跡の碑」と刻まれた石柱が建ってた。

街道書には「明治3年に内藤新宿を起点として甲州街道に建てられた新しい一里塚で、

正面には「内藤新宿より三里 品川県」とあり、 六カ所設置して現存する物は

これのみ、と記されていおり、説明板も建てられていた。

説明板によると、起点はに日本橋ではなく、内藤新宿を起点にした理程標という。

なぜ設置されたのでしょう?

街道書には5分ほど行った左手の道を入ると右手に給田観音堂が記されてる。

徳川家所縁の尼寺跡だそうで、堂内には、昭和32年観音堂の近くの土中で発見された釈迦如来坐像と、千手観音とが安置されている。

境内には観音堂脇に宝永4年(1707年)建立の宝篋印陀羅尼経之塔がある。

かつて甲州街道沿いにあったが、ここを通る徳川関係の者は、必ず下馬しなければ

ならなかったので、後になってそのわずらわしさを取り除くためここに移されたと

いう。

街道に戻りすぐ先で仙川にかかる大川橋を渡った先は仙川三叉路交差点で、

国道20号に合流で、再び車の騒音に包まれ地域は仙川町。

合流地点の信号で国道の右手に渡ってすぐに、天台宗昌翁寺の大きな山門が見える。

街道書によれば、この一帯は駿府戦国大名今川義元の武将で、後に徳川家康

旗本になった飯高主水貞政が菩提寺として建立。

正保2年(1645年)建立ので宝篋印塔、宝永3年(1706年)建立の五輪塔

とも記されてるが、境内には見当たらなかった。裏の墓地のほうだったのか・・・
門前には、元禄時代庚申塔2基と、挟まれて宝暦年間尾のと廻国供養塔がある。
廻国供養塔とは、諸国零場詣の途中に病などのため不帰の人となった行者を供養する

ために建てられたものだという。 

本堂

庚申塔と廻国供養塔

参道前が日本橋から20km、

おや、向い側のマンション、白漆喰の蔵を取り込んでるよ。

内藤新宿で江戸を離れて、初めての蔵ですね。

マンションはオーナーの屋敷跡だったのかな。

すぐ先の仙川駅入口交差点の右側の店先に、「市旧跡・仙川一里塚跡」の石碑が

ありました。

碑には、日本橋から5里目(20km)の一里塚で、塚木は何が植えられてたかは

記されてない。
かつては、ここが甲州道中と三鷹街道の交差点であった、とも記されている。

一里塚跡から約400m7,8分に仙川二丁目交差点。

交差点を過ぎると右に分岐する坂道があり、右側の住宅川口家の門前の植木に

埋もれて石碑が半分見えていた。

街道書によれば、「瀧坂旧道標石」とあり、横には「馬宿 川口屋」と刻まれ、

ここが円弧状に残る「瀧坂道」といわれる坂道で、この辺りでは唯一残る

甲州街道とある。
川口家は、戦前まで馬方や行商人を相手に旅籠を営んでいたそうです。

 下って行く旧街道の瀧坂は、かってはかなりの急坂で、昔は雨が滝のように

流れ落ち、かなりの難所の一つから滝坂と呼ばれていたという。

現在はなだらかな坂になってしまってる。

瀧坂へはいるとすぐ左手の石像は、首の欠けた地蔵菩薩立像と薬師如来像と

街道書にあった。

滝坂を下ると250m程で再び国道に合流します。

「滝坂」の名前は滝坂小学校や滝坂下交差点など今でも残っているという。

合流した国道を5分ほど行くと、右手奥にイチョウンの大木のが見え、

右下に小さな稲荷神社があった。

イチョウ寛延元年(1748年)に、山岡平兵衛(屋号鹿島屋)が京都伏見稲を

勧請した折り、イチョウもこの時に植えたと伝わり、樹齢250年という。

この辺りは旧金子村で「金子のイチョウ」と名付けた」という説明板が建ってました。

柵があり、近づけなかったです。

その先は21km標識。

1,2分ほど先右手の路地は参道で奥に赤い山門が見えたのは、曹洞宗大雲山金龍寺。

街道書によると、

「建永元年(1206年)中国宋より茶の種子を持ち帰り、京都宇治の里に広めた

栄西禅師により開基された」とある。

慶安2年(1649年)、三代将軍徳川家光より寺領と朱印状を拝領し、

朱塗り門が許された。

境内には大閻魔像、瑠璃光薬師如来像や甲州街道に掲げられていた

高札場(移設)、貞享元年(1684年)建立の青面金剛像(庚申塔)や徳川家の位牌が保存されているという。

移設復元高札

青面金剛像(右)

金龍寺を後に、2,3分行くと、右手には路地があり、「鎮守厳島神社参道」の

石碑がありました。奥に厳島神社があるようですが、街道書には記載なく寄らずに

先へ進みます。

更に300ほど、右手に地蔵尊があり街道書には「妙円地蔵」。

街道書や建てられていた案内板の妙円地蔵の謂れは、

妙円は金子村の新助に嫁ぎましたが、両目を失明してしまい、その後、尼となり

「寿量妙円」と号しました。

妙円は村の人々に念仏を唱え、その浄財で地蔵菩薩を建立し、妙円は自分の死ぬ日を

予告していましたが、1日遅れて1817年(文化14)に亡くなる。

そのことを瀧澤馬琴が著した「玄同放言」に紹介したため江戸近郊まで知られ。

この話を聞いた渡辺崋山は、この地を訪ね「金子村妙円常念仏遺趾真景」と題した

挿絵を描いていている。

妙円の墓所深大寺にあるという。

地蔵は長い間頭部が欠損していましたが、昭和62年地元の有志によって修復された。

優しいお顔のお地蔵さんね~、カミさんが呟いていた。

 この先10分ほど、柴崎駅入口交差点の脇に、相当朽ちた地蔵菩薩像があったが、

街道書には謂れ記載はありません。 

時刻はPM3:00 

先ほどから足指に違和感があり、痛みも出ていていた。

最近はすっかり足腰が弱り、毎日散歩を欠かして無いが、よたよた歩きが強くなって

おり、足の甲や足指に変な負担をかけた歩きになってるようで、長いj時間の歩き時は

支障が起きることも多く、後ろから見ていたカミさんも右に傾いて歩いてる、という。

足止め予定は2km先の京王調布駅入り口でしたが、丁度京王柴崎駅の入り口。

歩き始めの下高井戸駅入り口からはわずか7kmだが無理することはなしで、

残念ながら旅はここで足止めに。

柴崎駅より電車で先の調布駅へ出、バスを乗り継ぎJR中央線、吉祥寺駅へ。

駅近くの井の頭公園をバスが通った折り、西陽を受けてモミジが晩秋の美。

さらに電車を2本乗り継いで、日暮れた我が街へ帰りつき、短い旅路ではあったが、

4回目の甲州街道旅は終り。

さあ、次は・・・・ 

令和5年12月9日(日) 終