街道旅
令和5年12月9日(日) 4回目の甲州街道旅は下高井戸宿を後にし
次の国領j宿手前で終り、さあ、次は・・・・
天候不順の令和6年。
遅れた桜もピークを過ぎ、ようやく天気も安定しそう。
令和6年4月11日(木)
昨年12月で途絶えていた甲州街道の旅を再開に。
どんどん足の進みがのろくなり、長く歩くのに不安を覚えるが、
ゆくりでいいんじゃない!とカミさんに押され、よし、やてみるか!と、
電車、バスを乗り継ぎ、前回足止めの京王線柴崎駅へ降り立った。
駅から北へ数分行くと国道20号(現甲州街道)柴崎駅入口交差点。
AM10:30 歩き旅の再開でどこまで歩けるかな?
朝はまだ冷え込みがあったが、暖かくなった名残り桜の青空の下、
うん、今日もいい旅日和(散歩日和かな)になりそう。
少し歩いた左手路地には、持参の街道図に金剛夜叉明王とある。
おっ、あれだな。
路地を入った左手に祠に金剛夜叉明王像が祀られてます。
夜叉明王は不浄や煩悩を吹き払うという。
案内板もなく、調べても安置年代はわからなかった。
その先が馬橋で流れる川は野川。
かって手前左側に立場があり、野川で馬を洗うなど人馬とも一息入れた所と
云われるそうです。
橋を渡ると街道書には、布田五ヶ宿と呼ばれる内の「国領宿」の江戸口(東口)と
あったが、示すものは何もなし。
国領から上石原までは布田五宿。
街道書によれば、
[現在の京王線・調布駅前後(国領駅から西調布駅)の約3キロほどの区間に、
数百メートル間隔で5つの小さな宿場があり、複数の宿場がひとつの宿場として
機能する「合宿」として、5宿が数日ずつ宿場の役を果たしていました。
江戸・日本橋から五里三十二町(約23.5km)と近く、4番目~8番目の
5つの宿場はまとめて、布田五宿/布田五ケ宿と呼ばれていた。
本陣や脇本陣はなく、中規以下の旅籠が5宿合わせて9軒という小さな宿場で、
史料によっては全部合わせてひとつの宿場として数えているものもあります。]
1843年(天保14)年では、
国領宿
人口:308人 家数:61 本陣:0軒 脇本陣:0軒 旅籠数:1軒
下布田宿
宿場データ 人口:429人 家数:95 本陣:0軒 脇本陣:0軒 旅籠数:3軒
上布田宿
宿場データ 人口:314人 家数:68 本陣:0軒 脇本陣:0軒 旅籠数:1軒
下石原宿
宿場データ 人口:448人 家数:91 本陣:0軒 脇本陣:0軒 旅籠数:0軒
上石原宿
宿場データ 人口:411人 家数:73軒 本陣:1軒 脇本陣:0軒 旅籠数:4軒
宿場データは「東海道宿村大概帳」より、
現在の調布市はこの5宿が中心となっている。
なぜ、こんな短い区間の宿場を幕府道中奉行の宿場として認めていたのでしょう。
野川を渡り5分ほど行くと、その名も「旧甲州街道入口交差点」で二叉となり、
国道から左手に別れ都道119号、次の宿場の布田五宿の内の一つ「国領宿」へ
入ります。
国領町へ入って行きますが、国領宿の長さは約900m。
上宿と下宿に別れ、現在の国領町がすべて含まれる。
宿場の雰囲気は勿論無くなっていて、サッカーFC東京のフラッグが沢山風に
なびいていた。
国領の地名は、かつてこのあたり一帯の土地が武蔵国の国府が管轄する国衙領で
あったことに由来し、江戸時代は天領であった。
旧甲州街道へ入りゆっくり10分程行くと国領駅入り口交差点で、
左手駅方向を見ると稲荷神社が見えた。
昇福稲荷大明神と街道書にあり、大正14年勧請されたとあった。
地域の地主神として信仰されたという。
駅前歩道のマンッホール蓋は、昭和49年制定 市の花 百日紅(サルスベリ)。
街路樹に満開の桜は黄緑色のウコン桜。
先で道は右へ屈折し、左手から合流してくる狛江通りのすぐ先に祠があり、
近くには、街道書に少し先右手に、かっては名主だった谷戸家に祀られていたという
谷戸稲荷神社と記されいるが、探せどもそれらしきは見つけらずパス。
帰宅後調べてみると、石材店(ありました)の裏手にあったようだ。
右手にちょと目についた赤と黒の蔵をもつ住宅。
右手に浄土真宗・圓福寺。
円福寺の創建年代は不詳だが、鎌倉時代鎌倉に開山し、その後多摩川沿いに移転。
寛永元年1624年)に当地へ移転したという。
街道書に、境内に天明5年(1785)造立の地蔵尊、とある。
入口を見逃しパスしてまったが、すぐ先右手に国領神社が街道書にあります。
元は多摩川のほとり杉森の地にあり、度重なる洪水の為この地へ移転してきた。
境内のご神木の藤の木は千年の藤と呼ばれ、樹齢500年といい、延命、商売繁盛の
神木として名高いという。
すぐ先、布田駅前交差点の右角の黒い大きな門柱、街道書には常性寺とある。
鎌倉時代の創建と言われ、元は多摩川沿いにあったが、慶長年間(1596~1615)に
現在地に移転した。その後、江戸時代に祐仙法印が上総国成田山新勝寺より
成田不動尊を勧請中興し、「調布不動尊」とも称されえいる、という。
門を入ると、正面に不動堂、右手奥に薬師堂(本堂)で、ご本尊、薬師如来像は
鎌倉時代に造立されたというが、拝観することはできなかった。
境内右手に地蔵堂があり、手前祠に安置されてるのは「小橋の馬頭観音」。
この馬頭観音塔は文政7年(1824)の建立で、甲州街道の小橋(現馬橋の西50m)の馬の捨て場に布田五宿をはじめ、八王子などの馬持ちが供養のために建てたもので、
中に「八王子馬買」の字があり、のちに移設してきたという。
(j地蔵堂堂内)
「小橋の馬頭観音」
馬頭観音を見つけると、旅してるんだな~・・
街道に戻ると先の西側で旧下布田宿に入ります。
約400mほど10分の左手に寺標石柱が建ち、奥に日蓮宗蓮慶寺。
本堂は参道正面にあり、その左手前には、御朱印寺を表わす朱塗りの山門が
残されている。
蓮慶寺は、戦国時代に布田郷を領していた中将出羽守が、当地に古くからあった
慶安3年(1649)徳川三代将軍家光から御朱印を拝領し御朱印寺として、朱塗りの
山門(赤門)を許され、住職は乗籠が許されていた、と街道書にある。
山門
おっ、牡丹が咲き始めてる!
街道へ戻ると寺の西隣で下布田宿が終わり、布田五宿の中心であった上布田宿に
入ります。
街道書には交差点手前北側に、国道20号越えて続く参道の先に、
布田五ヶ宿の総鎮守布多天神社と記されてるが、我々の足では往復に
小1時間かかりそうで寄らづに進みます。
別資料には、
「創建年代は不明。社伝ではおよそ1940年前の垂仁天皇の御代の創建とされ、
平安時代初頭の延長5年(927)に編纂された延喜式神名帳の武蔵国多磨郡に記述が
ある式内古社である。
元の社殿は現在の布田5丁目にあったが、文明年間(1469~87)に
文明9年(1477)に現在地に遷座し、室町時代の天正18年(1590)年4月に
豊臣秀吉が小田原の北条を攻略する際、人々を安堵させるために出した「
太閤の制札」が神社所蔵として残る。
また往古広福長者という人が、当社に七日七夜参籠して神のお告げをうけ、
布を多摩川にさらし調えて朝廷に献った。
これが木綿織のはじめといい、帝はこの布を調布と名づけられ、以来このあたりを
調布の里とよぶようになったといわれる。」
進んで小島町1丁目交差点。
手前右手に日本橋から6番目、小島一里塚の碑があるそうだが見逃しってしまった。
すぐ先の下石原1丁目交差点を越すと旧下石原宿へ入る。
街道書には旧下石原宿へ入200m程先を北側へ真っ直ぐ進み国道を越えたところに
下石原宿の鎮守八幡神社が記されてるが寄らずに進みます。
進んだ先左手に常演寺がある。
門前右手に地蔵祠と嘉永3年(1850年)建立の常夜燈などが並んでいる。
常演寺を過ぎ5分ほど、左手に人が通い抜けられる程度の小路があり、
塀に金山彦神社の案内板があった。
小路を入ると、周辺の刀鍛冶により創建されたといわれ、金属加工業などの方々から
の信仰が厚いといわれる金山彦神社があった。
そのまま小路を行くと通りへ抜け、右手に源生寺裏門入口の石柱があり境内へ。
臨済宗建長寺派源正寺と街道書にある。
開山は天文24年(1555年)開基は太田対馬守盛久。
大田道灌の弟の子孫が石原に住んで、大田対島守盛久を名乗っていたという。
参道口に小屋掛けした六地蔵があり、
隣に天明3年(1783年)建立という日本廻国供養塔が建っている。
寺の前で道はわずかに右にカーブし、国道から分岐した都道229が合流し、
合流するあたりから布田五宿最後の上石原宿に入ります。
4,5分ほど行くと中央高速道ガードで、
手前左手に西光寺は、街道書によれば、
創建は応永年間(1394~)で家光から14石2斗の寺領を受けた朱印寺。
寛文年間(1661-1672)には天台宗に改めたという。
明治12年(1879)の火災により、弘化4年(1847)造立の山門、享保年間(1716~36)造立の仁王門などを除いて多くが焼失しているそうな。
仁王門は、市内に残る唯一の仁王門で、年代も十八世紀初頭と特定できる貴重な建物である。正面両脇間に仁王像を安置し、また楼上に銅鐘を釣るので、仁王門でもあり鐘楼門ともいう。
門脇には、弘化3年(1846)建立の常夜燈が立っている。「秋葉大権現」「榛名大権現」「鎮守両社宮」、台座には「宿内安全」など刻まれている。
その隣に新撰組局長近藤勇座像がある。近藤勇は天保5年(1834)多摩群上石原村で
生まれた。
街中にもいたるところに「近藤勇生誕の地」の幟が立ていた。
西光寺を出るとすぐに中央自動車道の下をくぐり、右手に黑塀の旧家を見ながら暫く
進むと
300m程で飛田給に入り、布田五宿は終わります。
さらに5分ほど飛田給駅入口を過ぎ、
すぐ先左手に飛田給薬師堂があります。
街道書によると、
元仙台藩典医であった松前意仙が、諸国遍歴の末にこの地に住み着き、
医業のかたわら、深く仏道に志した。
貞享3年(1686)石像瑠璃光薬師如来立像を彫り上げた後、
自ら墓穴を掘り、自ら入定し成仏した。
薬師堂にはこの像が安置されている。
境内にある行人塚は、松前意仙の墓で自身よって作られた。
村人たちの薬師如来に対する信仰は深く、現在も毎月12日に、薬師講の人たちによってお勤めが行なわれています。
石像瑠璃光薬師如来立像は、はじめは野外に置かれていましたが、
弘化4年(1847年)に仏堂が建てられ、堂内に安置されるようになりました。
行人塚
お堂内は小窓もなく堂内を拝見することはできませんでした。
お勤めがあった時くらいしか拝観できないんでしょうね。
薬師堂の左脇から入れる道があり、その道は江戸初期1684~88年)以前の
甲州古道(品川街道)と街道書にはあったが、入らず旧甲州街道(都道229)の
方を歩きます。
少し先で府中市白糸台に入る。
右手の古びた常夜燈は、街道書によれば嘉永5年(1852年)建立。
台石に「諏訪大明神」「秋葉山大権現」などと刻まれている、とある。
またその先、かっては立場茶屋があったといわれている所で、今はその面影は
残されていない。
おや?家にも咲いてる雲南黄梅のようだが、枝ぶりや葉が違うような。
石塀を覆いかぶさるように茂る樹、はてなんだろう??
(帰宅後教えていただきました。
茂ってる植物は、匍匐性常緑小低木、「ワイヤープランツ」
咲いてる花はウンナンオウバイで埋もれてる)
さらに10分程行くと、車返団地交差点の右手に観音院がありました。
街道書には、 観音院は、神明山金剛寺と号し、創建年代等は不詳。
山門脇に、宝永7年(1710)造立の地蔵尊、享保3年(1718)建立の庚申塔、
文政4年(1821)建立の馬頭観音などがある。
観音院の裏手に神明社がある。
この神社は古代に多摩川で麻布を染めた染殿にゆかりのある神社といわれ、
参道口に下染屋についての説明版がある。
地名の起こりは、調布(てづくりぬの)の布を染めたところで、鎌倉時代には染殿があった所といわれている。もともとは染屋村であったが、その後、上下2村に分かれたが、その時期は不明とのこと。寛永12年(1635)の検地帳には、下染屋となっていると、細か文字で彫られている。
下染屋神明社の創建年代等は不詳ながら、往古日本武尊の御衣を染め、入れた瓶を埋めた地に明神を勧請したとも伝えられ、また弘長年間(1261-1264)の創建とも伝えられる。稲荷社を文永年間(1264-1247)に合わせ祀ったといい、明治4年村社に列格したという。
なお、染屋の地名は、南北朝時代の資料にも載っているという記述もあった。
西武多摩川線を渡ります。
越えて5分ほど、不動尊前交差点左手に染谷不動堂がありました。
この境内には国の重要文化財である銅造阿弥陀如来像安置する小堂(宝物殿)があり、
解説石版が建てられていた。
それによると、銅造阿弥陀如来像は、鎌倉時代の弘長元年(1261)、上野国八幡庄にて造立された善光寺式の阿弥陀像である。
鎌倉時代末の元弘3年(1333)、南朝の忠臣・新田義貞公が鎌倉攻めに際して
陣中守護のため奉戴したと伝わる。
以来南朝守護の神像として奉安され続けたが、承応2年(1653)に玉川洪水のため
染屋(現在の白糸台周辺)に移される。
街道書では国重要文化財とあたが、解説版には国宝と彫られてた。
、お堂内は見ることはできない。
境内にはには上染屋についての説明碑があり、それによると
「上染屋の集落はもともと多摩川のほとりにあったが、度重なる洪水を避けてこの地に
移ったようである。地名の起こりは俗説として調布(てづくりぬの)を染めたとこ
ろであったとかろであったとか、鎌倉時代に染殿のあったところなどといわれて
いる。古くは一つの村落であったが、いつのころからか上染屋と下染屋に分かれた」
不動尊を後に300mほど行くと白糸台1丁交差点で、先は旧常久村に入ります。
さらに10分程、右手に常久八幡神社。
常久村の鎮守社。例に漏れず多摩川の洪水により移転鎮座している。
神社入り口手前の交差点から左手入る道があり、旧甲州街道から甲州古道へと
向かい、300mほど先で古道・品川街道に入りすぐに、常久一里塚跡の碑が
立っている。
道は江戸初期の甲州街道にあたり、日本橋から7番目の一里塚という。
旧甲州街道へは戻らず、そのまま西へ足を進めると15分ほどで、街道(都道229)
時刻も午後の4時で、進んだのは約7km。
当初の予定は約2km先の府中駅だったが、今日の旅はここで足止めに。
電車、バス、電車と乗り継ぎ、夕6時帰宅。
よたよた歩きでも、歩けば進む。
付き合ってくれてありがとう、カミさん、でした。
梅雨入り前には,都を抜けたいな・・・・