甲州街道四十四次 4

2022年(令和5年)春に、5年がかりの中山道69次の街道旅を終え、

11月には3年掛りで日光街道を完歩。

9年前の2月に、街道歩き旅、東海道53次へ一歩踏み出してから9年がかりで、

江戸幕府道中奉行管轄の5街道のうち、3街道、計293里・1178kmを

歩き終えました。

2023年、

年と共に足腰の衰えは如何ともしがたいが、

「足さえ前に出せば、よたよたでも旅は続けられる。」「旅立ってしまえば、

気持ちも動く」と、世は仕事始めの令和5年1月4日(水)

4街道目の甲州街道へと老々旅始め,、と始まった甲州街道の歩き旅。

3回目に冷え込みのきつい2月も最後の28日、内藤新宿を抜けて江戸を離れ、

下高井戸宿が近づいてきましたが、丁度京王線高井戸駅入り口があり、

またいつの日かに旅へと、足を止めてました。

 

日本橋旅立ち

歩き旅を終ての後に控えていた、肝臓癌治療後8年目の経過観察検査。

思いがけない癌再発・・・

再び手術かと悩んだが、最近注目されてる新しい放射線の一種、重粒子線放射で

治療を受けることになり、5月には無事終了し経過も良好。

12月初の半年検査では、癌は痕跡だけで消滅と嬉しい結果。

さっそくカミさんから「そろそろ街道へは」と誘われ、

この12月9日(日)10ヵ月ぶりに歩き旅の再開へ。

すっかり衰え気味の足腰。

異常に長がかった猛暑の日々には、早朝散歩は続けてきたが果たしてどこまで

歩けるか??

12月9日(日)、早めに家事を済ませて電車を乗り継ぎ、前回足止め駅の

京王線高井戸駅到着し、北へ10分ほど歩き国道20号(甲州街道)へ。

10時20分嬉しい甲州街道4回目の旅立ち。

甲州街道

江戸幕府によって整備された五街道の1つで5番目に完成した街道。

江戸日本橋から内藤新宿、八王子、甲府を経て信濃国下諏訪宿中山道と合流する

約53里209kmの街道。

44次の宿場が置かれ、江戸から甲府までの37宿を表街道、甲府から下諏訪までの

7宿を裏街道と呼んだ。

 

歩道橋で甲府に向かって国道の右側に渡ります。

渡った右側の国道北側(右側)には玉川上水が暗渠化され緑地や公園になっていて、

しばらくは玉川上水園地を歩きました。

何して遊ぼうか!

ぼくちゃんたちも仲間に入れてよ~

15分ほど緑地帯を歩き、再び国道20号、甲州街道へ戻ります。

戻た国道この付近には、明治40年創業竹細工の竹清堂が街道書には記されてるが、

見当たりません。

2階の竹で編んだ象がシンボルの、甲州街道を歩いた人たちの旅紀でたびたび登場していた竹細工店でしたが、調べてみると、2021年に当地での営業を止め、

八ヶ岳山麓へ移店したとあった。

すぐ先が京王線桜上水駅北の交差点。

この辺りが江戸を離れて最初の、下高井戸宿江戸方(東の入り口)と街道書にはある。 先ほど降りた駅・下高井戸駅があるが、宿場町は桜上水駅のほうが近いという。

(それらしき標識雰囲気など示すものはなく、高速高架下に街並みが続くのみ)

高井戸宿は日本橋から4里のところにあり、下高井戸宿と、次の上高井戸宿の2つの

宿場の合宿で高井戸宿。

当時は京都が日本の首都でしたから、京都に近いほうが“上”で、江戸に近いほうが“下”でした。

当初は、甲州街道の起点である江戸の日本橋から数えて一番目の宿場で、

旅籠も24軒存在していたというが、後に内藤新宿が設置され2番目の宿場となると、

内藤新宿との距離がさほどないこともあり、次第に素通りする旅人が多くなり

寂れた宿場町になったようです。

一宿で継ぎ立てを勤められず、月初から15日までを下高井戸宿、16日から月末までを

上高井戸宿が勤める合宿とし、通行大名が少なく脇本陣は置かれていませんでした。

1843(天保14)年の「甲州道中宿村大概帳」によると、

【下高井戸宿】
・本陣…1軒 ・脇本陣…なし ・旅籠屋…3軒 家数…183軒 ・人口…890人
【上高井戸宿】
・本陣…1軒 ・脇本陣…なし ・旅籠屋…2軒 ・家数…168軒 ・人口…787人

 

5分ほど行った左手に、亀井堂本家の看板を掲げる和菓子屋さん。

亀井堂は、たしか神戸の瓦煎餅で知られる和菓子店なので支店なのかな。

すぐ先左手に街道書にある覚蔵寺。
創建年代は不明、もともとは真言宗の寺院で、慶長年間に日蓮宗に改宗。

山号「清月山」の扁額がかかる山門を入ると正面が本堂。
覚蔵寺は、日蓮上人が自ら彫ったとされる鬼子母神像が有名と街道書にはあり

「江戸名所図会」にも由来が紹介されていたという。

門前の案内板概略、

「 創建年代は不詳だが、慶長年間(1596-1614)に実成院日相が、真言宗寺院を

 日蓮宗寺院に改めて中興したと伝えられる。
 日蓮聖人直刻の鬼子母神があるので知られる。文永8年(1271)、日蓮が鎌倉の

 滝ノ口で危うく処刑されかかったときに、ゴマの餅をくれた老女に感謝し、

 鬼子母神像をこの老女に与えた。その後、覚蔵寺の13世日曜が、この老女から

 譲り受け、ここに祀ったものといわれている。」
鬼子母神像は本堂の中なのかな?内部は覗けなかったが・・・

覚蔵寺を後に5分ほど行くと、バス停が有り停留所名は宗源寺で右手に山門が見えた。

叡昌山(えいしょうざん)宗源寺 

寺伝によれば、

当寺開山光伯院日善の祖先は畠山重忠の一族で、創建は慶長年間(1596年~1615年)の初めで、十界諸尊(じっかいしょそん)を本尊とする日蓮の寺院。

境内の不動堂は、近くにあった明治5年(1872)に廃寺となった修験道本覚院の

不動堂を当寺境内に移設している。
 この不動堂はかつて高台にあったため、高井堂と呼ばれ、それが高井戸という地名の起源になったとする説もある。

「高井堂(たかいどう)」~「高井戸(たかいど)」というわけね。

不動堂(後世の改築お堂)

本堂前のコウヤマキは、樹齢推定400年と言われ、江戸初期の創建時に

植えられたと想定され、杉並区の天然記念物と札が建っていた。

街道書によれば、下高井戸宿の本陣は覚蔵寺の側にあったようで、

冨吉屋(吉田姓)が務め、本陣の前には高札場があり。向かいに篠崎家が勤めた

問屋場があったそうだが、面影や標識など示すものは何もなし。

おや、歩道路肩の植え込みに可愛らし小さなっ花と小さな黒い実がいっぱい。

イヌホウズキだね。

店先に並んでた七福神(石屋さん)

下高井戸宿江戸口から約800ほど、鎌倉街道入口付近が下高井戸宿甲州口(西口)

だった様です。

鎌倉街道は、坂東各地より鎌倉に至る道路の総称)

鎌倉街道入口の信号のところで甲州街道(国道20号線)を左手に渡ります。

すぐ先前方で高速道の高架が右手に別れて行きますが、手前に建っていたのは、

日本橋から4里(四番目16km )の下高井戸一里塚跡(上北沢の一里塚)

の案内板でした。

「高井戸一里塚跡」説明板と、その裏に隠れるように立っている「日本橋から16km」のキロポスト

甲州街道(国道20号)は今まで空を塞いでしまっていた頭上を覆う

中央高速道高架が取れ、青空が広りました。

頭上の圧迫感から解放され、真っ青な空の下、やっぱり、いいね~。

青空の下歩きになって12,3分、一里塚跡から約800mに上北沢4丁交差点(京王八幡山駅入口)で、街道書には、上高井戸宿江戸口(東口)とあった。

この上高井戸宿も往時を偲ばせるものはほとんど何も残っていません。

上北沢4丁目交差点で、国道左手の交差する路地を南へ行くと京王八幡山駅

上高井戸宿は、ここから隣の芦花公園駅入り口あたりまで続いていたともある。

【上高井戸宿】
・本陣…1軒 ・脇本陣…なし ・旅籠屋…2軒 ・家数…168軒 ・人口…787人

東口から5分ほど先には、上高井戸交差点で幹線道路環八道が高架で交差しており、

交差点北東角に付近に、並木家が務めた上高井戸宿本陣武蔵屋があり、

細縁家が務めた問屋場があった、と街道書にはあるが示すものは何もなし。

甲州街道環八通りを通り抜けてすぐ先で国道20号線から左手に分岐し、

甲州街道(東京都道229号府中調布線)に入ります。

旧街道に入ってすぐ右手に入る道脇に石柱が建ち、街道書には「井の頭弁財天道道標」

とあり、道標には「是より一里半」と刻まれていた。

街道書には、井の頭公園(都立公園)の池畔に祀られる弁財天は延歴8年(789年)

伝教大師作と記されてる。

弁財天の宮社は鎌倉時代に焼失してしまったが、江戸時代になり、三代将軍徳川家光が、宮社を再建した。

井の頭と言う地名も、この池の水が江戸の飲料水の源(上水の頭)であることから、

「井の頭」と命名されたという。

元々は家康の時代の整備に伴い、この井の頭池が水源として選ばれました。

家康自身も何度かこの地を訪れているとのことです。

公園の湧水池は、フォークソングで知られる「神田川」、江戸の上水道(神田上水)、の源水です。

甲州街道に入り300mほど、左手に宗洞宗長泉寺の石柱が建ってます。

街道書によれば、

開創は慶安元年(1648年)で2年後に火災に遭い、明暦元年(1655年)に

この地に移った、

観音堂には「板絵着色西国巡礼図」という狩野派の絵師、中田小左衛門が描いた

杉並区有形民俗文化財があり、上高井戸宿の本陣を勤めた並木家の墓もこの長泉寺に

あるという。

観音堂は覗くことが出きませんでした。

山道両脇には、街道改修などで集められたと思われる道祖神や石仏などなど。

本堂

観音堂

長泉寺を過ぎたあたりが上高井戸宿の甲州方(西口)でした。

左手の道を入ると京王線芦花公園駅があり、交差点から先は世田谷区、

かっての鳥山村域に入って行きます。

国道20号(現甲州街道)とは違い、旧甲州街道のこの道には歩道がなく、

細い歩道帯が両側にあるのみ。

今日は日曜なので車両の通行は少ないので、よたよた歩きでも歩けるが、

日ごろは車両通行が激しく、かなり要注意と多くの街道記に書かれてます。

5,6分先き左手に大橋場跡というのがあり、金属製の親柱と石仏が数基立っている。

街道書には「武州千歳村大橋跡」、烏山用水に掛けられていた橋の親柱と記され、

奥隣の青面金剛石像は元禄13年(1700年)建立、その奥の地蔵尊は、

地頭名主を務めた下山家が建立の「下山地蔵-身代わり地蔵」とあった。

 

200m程の右手に「南烏山りんれい広場」という公園があり、

道場に「せたがや百景」の標石が建ち、奥には案内板もあった。

「せったがや百景」は世田谷区の広報によれば、

区民に世田谷の風景に関心を持ってもらうことを目的に、昭和59年に選ばれました。

選定に当たっては、好ましい風景として、区民からの推薦投票で選ばれた約400景の中から、選定委員会が200景の候補に絞ったものを、区民投票を実施し、票の多い順で100景が選ばれました。

とあり、百景に選定された場所には紹介する案内板が設置されています、ともあった。

ここの案内板には、

「旧甲州街道の道筋」「昔の街道筋を偲ばせるっ風景は残っていないが、この道筋

そのものが街道だったことを忘れるわけにはいきません」と記されていた。

 

標石

街道の路肩プランターに、おや、何の花かな?

ピンクはオキザリスだが、紫と色は??オキザリスの園芸種?

百景から10分ほどの左手路地脇に地蔵尊や上の欠けてしまった石仏などが並べられている。道路整備などの際、集められた様子。

側に有ったコンビニでトイレをお借りしようと思ったら、

「不心得な使い方された方がおり、貸出しは当面いたしません」とあっった。

なにがあたのかなあ~・・・

10分ほど先へ進むと、給田の交差点を過ぎた右手の民家の庭先に「新一里塚跡の碑」と刻まれた石柱が建ってた。

街道書には「明治3年に内藤新宿を起点として甲州街道に建てられた新しい一里塚で、

正面には「内藤新宿より三里 品川県」とあり、 六カ所設置して現存する物は

これのみ、と記されていおり、説明板も建てられていた。

説明板によると、起点はに日本橋ではなく、内藤新宿を起点にした理程標という。

なぜ設置されたのでしょう?

街道書には5分ほど行った左手の道を入ると右手に給田観音堂が記されてる。

徳川家所縁の尼寺跡だそうで、堂内には、昭和32年観音堂の近くの土中で発見された釈迦如来坐像と、千手観音とが安置されている。

境内には観音堂脇に宝永4年(1707年)建立の宝篋印陀羅尼経之塔がある。

かつて甲州街道沿いにあったが、ここを通る徳川関係の者は、必ず下馬しなければ

ならなかったので、後になってそのわずらわしさを取り除くためここに移されたと

いう。

街道に戻りすぐ先で仙川にかかる大川橋を渡った先は仙川三叉路交差点で、

国道20号に合流で、再び車の騒音に包まれ地域は仙川町。

合流地点の信号で国道の右手に渡ってすぐに、天台宗昌翁寺の大きな山門が見える。

街道書によれば、この一帯は駿府戦国大名今川義元の武将で、後に徳川家康

旗本になった飯高主水貞政が菩提寺として建立。

正保2年(1645年)建立ので宝篋印塔、宝永3年(1706年)建立の五輪塔

とも記されてるが、境内には見当たらなかった。裏の墓地のほうだったのか・・・
門前には、元禄時代庚申塔2基と、挟まれて宝暦年間尾のと廻国供養塔がある。
廻国供養塔とは、諸国零場詣の途中に病などのため不帰の人となった行者を供養する

ために建てられたものだという。 

本堂

庚申塔と廻国供養塔

参道前が日本橋から20km、

おや、向い側のマンション、白漆喰の蔵を取り込んでるよ。

内藤新宿で江戸を離れて、初めての蔵ですね。

マンションはオーナーの屋敷跡だったのかな。

すぐ先の仙川駅入口交差点の右側の店先に、「市旧跡・仙川一里塚跡」の石碑が

ありました。

碑には、日本橋から5里目(20km)の一里塚で、塚木は何が植えられてたかは

記されてない。
かつては、ここが甲州道中と三鷹街道の交差点であった、とも記されている。

一里塚跡から約400m7,8分に仙川二丁目交差点。

交差点を過ぎると右に分岐する坂道があり、右側の住宅川口家の門前の植木に

埋もれて石碑が半分見えていた。

街道書によれば、「瀧坂旧道標石」とあり、横には「馬宿 川口屋」と刻まれ、

ここが円弧状に残る「瀧坂道」といわれる坂道で、この辺りでは唯一残る

甲州街道とある。
川口家は、戦前まで馬方や行商人を相手に旅籠を営んでいたそうです。

 下って行く旧街道の瀧坂は、かってはかなりの急坂で、昔は雨が滝のように

流れ落ち、かなりの難所の一つから滝坂と呼ばれていたという。

現在はなだらかな坂になってしまってる。

瀧坂へはいるとすぐ左手の石像は、首の欠けた地蔵菩薩立像と薬師如来像と

街道書にあった。

滝坂を下ると250m程で再び国道に合流します。

「滝坂」の名前は滝坂小学校や滝坂下交差点など今でも残っているという。

合流した国道を5分ほど行くと、右手奥にイチョウンの大木のが見え、

右下に小さな稲荷神社があった。

イチョウ寛延元年(1748年)に、山岡平兵衛(屋号鹿島屋)が京都伏見稲を

勧請した折り、イチョウもこの時に植えたと伝わり、樹齢250年という。

この辺りは旧金子村で「金子のイチョウ」と名付けた」という説明板が建ってました。

柵があり、近づけなかったです。

その先は21km標識。

1,2分ほど先右手の路地は参道で奥に赤い山門が見えたのは、曹洞宗大雲山金龍寺。

街道書によると、

「建永元年(1206年)中国宋より茶の種子を持ち帰り、京都宇治の里に広めた

栄西禅師により開基された」とある。

慶安2年(1649年)、三代将軍徳川家光より寺領と朱印状を拝領し、

朱塗り門が許された。

境内には大閻魔像、瑠璃光薬師如来像や甲州街道に掲げられていた

高札場(移設)、貞享元年(1684年)建立の青面金剛像(庚申塔)や徳川家の位牌が保存されているという。

移設復元高札

青面金剛像(右)

金龍寺を後に、2,3分行くと、右手には路地があり、「鎮守厳島神社参道」の

石碑がありました。奥に厳島神社があるようですが、街道書には記載なく寄らずに

先へ進みます。

更に300ほど、右手に地蔵尊があり街道書には「妙円地蔵」。

街道書や建てられていた案内板の妙円地蔵の謂れは、

妙円は金子村の新助に嫁ぎましたが、両目を失明してしまい、その後、尼となり

「寿量妙円」と号しました。

妙円は村の人々に念仏を唱え、その浄財で地蔵菩薩を建立し、妙円は自分の死ぬ日を

予告していましたが、1日遅れて1817年(文化14)に亡くなる。

そのことを瀧澤馬琴が著した「玄同放言」に紹介したため江戸近郊まで知られ。

この話を聞いた渡辺崋山は、この地を訪ね「金子村妙円常念仏遺趾真景」と題した

挿絵を描いていている。

妙円の墓所深大寺にあるという。

地蔵は長い間頭部が欠損していましたが、昭和62年地元の有志によって修復された。

優しいお顔のお地蔵さんね~、カミさんが呟いていた。

 この先10分ほど、柴崎駅入口交差点の脇に、相当朽ちた地蔵菩薩像があったが、

街道書には謂れ記載はありません。 

時刻はPM3:00 

先ほどから足指に違和感があり、痛みも出ていていた。

最近はすっかり足腰が弱り、毎日散歩を欠かして無いが、よたよた歩きが強くなって

おり、足の甲や足指に変な負担をかけた歩きになってるようで、長いj時間の歩き時は

支障が起きることも多く、後ろから見ていたカミさんも右に傾いて歩いてる、という。

足止め予定は2km先の京王調布駅入り口でしたが、丁度京王柴崎駅の入り口。

歩き始めの下高井戸駅入り口からはわずか7kmだが無理することはなしで、

残念ながら旅はここで足止めに。

柴崎駅より電車で先の調布駅へ出、バスを乗り継ぎJR中央線、吉祥寺駅へ。

駅近くの井の頭公園をバスが通った折り、西陽を受けてモミジが晩秋の美。

さらに電車を2本乗り継いで、日暮れた我が街へ帰りつき、短い旅路ではあったが、

4回目の甲州街道旅は終り。

さあ、次は・・・・ 

令和5年12月9日(日) 終