甲州街道44次 歩き旅 1

新年の幕開けは、快晴の穏やかな夜明けで開きました。

初日の出、初富士、家から自転車で10分ほどのスポット農道には、

例年以上の大勢の方々が見え、特に若い方が多かったですね。

2023年(令和5年)、今年は春に83才、カミさんは76才を迎えます。

令和5年初富士

昨年は春にコロナで5年がかりの中山道69次の街道旅を終え、11月には3年掛りで

日光街道を完歩。

2013年2月に東海道53次へ一歩踏み出してから9年がかりでしたが、

江戸幕府道中奉行管轄の5街道のうち、3街道、計293里・1178kmを

歩き終えました。

東海道53次 京都三条大橋到着 平成28年6月18日 (2016年)

中山道69次 京都三条大橋到着 令和4年年4月7日(2022年)

日光街道21次 栃木県日光市神橋到着 令和4年10月30日 (2022年)

すっかりライフワークの街道歩き旅だが、年と共に足腰の衰えは如何ともしがたく、

「来年も歩き旅続けられるかな・・・」とつい弱気の一言も。

正月も3日になって、カミさんが「明日、甲州街道旅立ってしまわない!」

と、なんと急遽4日、4街道目の甲州街道へ旅立ちすることに。

「前にさえ足を出せれば、よたよたでも旅は続けられる。あとは気持ち(気合)次第」

「旅立ってしまえば、気持ちも動くだろう」と、あれこれ弱気になったのを

と読まれたような?

 

令和5年1月4日(水)世は仕事始め。ならばこちらは老々旅始め。

なんて意気込んだ訳ではありませんが、ラッシュを避けてゆっくり電車へゆられ、

街道出発点「お江戸日本橋」へ。

AM11:00 東京・日本橋、4度目の旅立ち。

東海道中山道日光街道甲州街道の起点は江戸川(今の日本橋川)に

架けられた、日本橋

日本橋川は東京都千代田区中央区を流れる荒川水系一級河川です

徳川家康が幕府を開き、直後の早くに町地として開発され日本橋が架けられ、

ここが江戸と全国主要都市とを結ぶ五街道の起点。

交通の要所として定められてからは、江戸時代の越後屋(現在の三越百貨店)をはじめ

大店が集まり、また付近には金座や銀座が置かれるなど金融の中心でもあり、

江戸を代表する場所として大いに繁栄を極めたところでした。

現在でも日本橋界隈は、日本銀行本店や東京証券取引所など日本を代表する金融街

あり、また老舗の百貨店を含む商業施設や問屋街、製薬会社が連なる地域となって

います。

また築地から現在豊洲の新市場へ移転した市場も、元々は日本橋から江戸橋にかけての日本橋川沿い一帯にありました。

三越日本橋に面した建物の壁面に掲げられているエンブレム(社紋)の周囲には

多数の魚が描かれていて、その魚はこの日本橋魚河岸にちなんだものなのだという。

日本橋の手前に東京市道路元標、さらに日本国道路元標の複製が飾られています。

(実際の日本国道路元標は日本橋の中心の橋の上の路面に埋め込まれている)

甲州街道は、関東地方(武蔵国)の江戸に幕府を開いた徳川家康が、

慶長8年(1603年)に諸国を結ぶために整備した5つの主要な5街道、

(東海道中山道奥州街道日光街道甲州街道)の一つです。

甲州街道は正徳6年(1716年)正式名称は「甲州道中」となったが、甲州道中と甲州街道の表現が併用され、一般的には「甲州街道」と称することが多かったという。

江戸の日本橋を起点とし、八王子、甲府(山梨県)を経由し、諏訪湖畔の諏訪大社下社

秋宮付近にある中山道との追分、下諏訪宿を終点としています。

総距離約53里24町(約211km)。

その間に44の宿場があり、終点の下諏訪宿が45番目。

江戸から甲府までの37宿を表街道、甲府から下諏訪までの7宿を裏街道と呼んだ。

甲州街道終点兼中山道との追分)

江戸の日本橋から下諏訪宿というと中山道があり、当時はこの中山道のほうを使うのが一般的で、参勤交代の際に利用した藩も信濃高遠藩、高島藩(諏訪藩)、飯田藩の僅か

3藩だけで、それ以外の藩は中山道を利用していました。

中山道ルートは、途中に碓氷峠(標高約1,200m)、和田峠(標高1,600m)という難所と

言われる険しい峠あり、一見、甲州街道ルートと比べ随分と遠回りをする印象を

受けますが、中山道下諏訪宿までは総距離約56里約217km)、

甲州街道ルートと比べ僅かに6km遠いだけで、甲州街道にも笹子峠小仏峠という

難所の峠があり、甲州街道は将軍徳川家が軍事的目的で重要視したことが強く、

警備が厳しく、短い街道であるにもかかわらず、小仏と鶴瀬の2箇所に幕府直轄の

関所が設けられ、また、街道沿線の整備の状況も中山道に比べて悪かったという。

軍事的側面の強い街道だったのですが、太平の世になると信濃〜甲斐〜武蔵の流通が

盛んになり、甲州街道も大いに栄えるようになったという。

日本橋を後にし東海道と同じく銀座方面へ向い、50m程先で日本橋交差点を

右折して永大通りを西方向(JR東京駅の方向)に進みます。

この日本橋交差点は東海道との追分(分岐点)になっていて、直進する西方向銀座方面が国道15号線の旧の東海道

日本橋交差点を右折して、永大通りを西方向(JR東京駅の方向)に5分ほど行くと

「呉服橋交差点」で左右に交差するのが、かってはお濠の有った外堀通。

昔は江戸城の外堀があり、今は埋め立てられたが、呉服橋、一石橋、常盤橋、、鍛冶橋とか、多くの橋が架かっていた。

交差点を渡って右折し、すぐ先が高架下日本橋川に架けられた「一石橋」。

この一石橋は、旧江戸城外濠と日本橋川の分岐点に架橋され、

名の由来は、北橋詰の本両替町には幕府金座御用の後藤庄三郎、南橋詰の呉服町には

幕府御用呉服商の後藤縫殿助の屋敷があり、橋損壊の折りこれらの両後藤家の援助に

より再建されたことから、後藤の読みから「五斗(ごと)」、「五斗+五斗で一石」と

もじった洒落から「一石橋」と名付られたという。

現在の橋は平成12年(2000年)に架け替えられたものですが、その前の橋は大正11年(1922年)に架けられた鉄筋コンクリートRC花崗岩張りの見事なアーチ橋で、

橋長43m、幅員27mで親柱は4本、袖柱は8本。市電(路面電車)も通っていて、

関東大震災以前のRCアーチ橋としては都内最古のもので、平成14年(2002年)に

南詰の親柱1本を、中央区が区民有形文化財建造物に指定し保存されています。

南詰親柱の左手には安政4年(1857年)に建てられたという石標

「満よひ子の志るべ(迷い子のしるべ)」なる碑が建っています。

江戸時代~明治時代付近はかなりの繁華街で迷い子が多く出、当時は迷い子は地元が

責任を持って保護するという決まりがあり、“しるべ”の左側には「たづぬる方」と

彫られた窪みに迷子や尋ね人の特徴を書いた紙を貼り、右側の「志(知)らする方」

の窪みに、それを見た心当たりがある場合は、その旨を書いた紙を窪みに貼って、

迷子、尋ね人を知らせ合った伝わっています。

この「満よひ子の志るべ」は浅草寺境内や湯島天神境内、両国橋橋詰など

往来の多い場所に数多く設置されたが、現存するものはこの一石橋のものだけという。この一石橋の「満よひ子の志るべ」は東京都指定有形文化財に指定されているという。

呉服橋交差点を過ぎ、まもなくJR東京駅という丸の内トラストタワーの手前のところで左折し、路地裏のような細い道が甲州街道

この細い道を少し進んだところにあるのが御存じ“TVドラマの

「北町奉行・遠山左衛門尉様、ご出座ぁ~!!」の遠山の金さん,名奉行・遠山金四郎景元で知られる「北町奉行所」があったところで、碑がありました。

南町奉行にはあの最後には大名となった大岡越前も、徳川吉宗の時代に就任している。

ちなみに、初代北町奉行徳川幕府開府の翌年、三河以来の譜代の米津勘兵衛が、

家康直々の命で初代北町奉行に任じられたという。

甲州街道丸の内トラストタワーの敷地に沿って右折し、そこから江戸城(皇居)の

和田倉壕に向かってほぼ真っ直ぐ延びていましたが、

現代の街道は日本を代表する巨大ターミナル駅東京駅の駅ビルの1階、

「北自由通路」が、八重洲北口から丸の内北口を繋ぎ、この「北自由通路」が

「東京駅の中の甲州街道」でした。

何度か通ったことにある通路ですが、街道として意識して歩くとは思っても

いなかったですね。

東京駅の丸の内北口に出てきました。

丸の内は徳川家康天正18年(1590年)に江戸城を居所とする前までは東京湾

一部で、日比谷入江と呼ばれていました。

天正20年(1592年)から入り江が埋め立てられ、新たに外堀が作られ、

「御曲輪内(おくるわうち)」と呼ばれるようになり、さらに堀で囲まれた内側という

意味で「丸の内」とも呼ばれていました。

さらに、親藩譜代大名江戸藩邸が24もあったため大名屋敷が立ち並び、

大名小路」とも呼ばれていたという。

現代は三菱の手でオフィス街が築かれ三菱グループ各社の本社や三菱地所所有の

オフィスビルが集中しています。

甲州街道は丸の内の北側を江戸城和田倉壕に向かってほぼ直ぐ延びていました。

そんな高層ビルの谷間に桜が咲いていた!!

十月桜のようだが、まだ咲き残っていたんですね。

丸の内北口から和田倉壕に向かって150m程、右手の豪壮な雰囲気のビルヂング

日本工業倶楽部で、このあたりは「伝奏屋敷(てんそうやしき)」があったという。

伝奏屋敷は武家伝奏または勅使の宿舎として江戸に設けられた屋敷です。

武家伝奏は朝廷に置かれた役職で、江戸幕府との各種交渉がその主な仕事でした。

その武家伝奏たちが宿泊することから伝奏屋敷と名付けられました。

伝奏屋敷は広さが坪数にして2,530坪もあったと言われています。

赤穂義士忠臣蔵と言えば発端は江戸城内の松の廊下が有名ですが、そもそもの発端は

この伝奏屋敷で、浅野内匠頭吉良上野介から勅使接待の指導を受けていたことから

発してたといいます。

伝奏屋敷の北隣には評定所がありました。評定所は幕府の最高裁判機関で、

当時は各種政策の立案や審議もここで行われていて、三奉行(寺社奉行町奉行(北町&南町)、勘定奉行)が対応していたそうです。

更に150m程進むと横切る大通りは日比谷通りで、横断歩道で渡ります。

渡ると皇居の内濠で日比谷通りに沿って左手へすすみます。

皇居(江戸城)を取り巻く一連のお濠(堀)が内濠(内堀)でそれぞれ名称が付けられ、

ここはその1つ、「和田倉濠」。左手濠に木橋の面影を残したコンクリ-ト橋の

和田倉橋が掛り、橋を渡ると和田倉門が有ります。

日比谷通りに沿って130m程で和田倉門交差点。

その先からは馬場先濠となり、和田倉門の交差点で行幸通りの広い道路が交差し、

その先は馬場先濠に沿って日比谷へ向かいます。

和田倉門の交差点の行幸通り左手奥、突き当りに見えるのは赤レンガの東京駅です。

丸の内にある歴史的建造物と言えば、東京駅丸の内駅舎で、この建物は辰野金吾

設計により大正3年(1914年)に竣工した鉄骨レンガ造駅舎。

関東大震災でも大きな被害は受けなかったのですが、昭和20年(1945年)の空襲で損壊。戦後、3階建てを2階建てとする応急的な復興工事が行われました。

2003年に国の重要文化財に指定され、2012年に元の3階建てに復元されました。

西奥は皇居前広場へと向かってます。

行幸通りを横断し日比谷通りを南へ進みます。

右手の馬場先壕に渡り鳥の水鳥が十数羽。もう来ていたのか、キンクロハジロ

あまり見かけないな~君の名は?幼鳥なのかな・・

たしか、バンだったね。

左手のローマ風円柱の立派な建物は明治安田生命保険相互会社の本館

(略称:明治生命館)です。

第2次世界大戦後は、進駐してきた連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)に接収され、

昭和31年(1956年)に返還されるまで、アメリカ極東空軍司令部として使用され、

平成9年(1997年)、国の重要文化財の指定を受けました。

皇居二重橋へ続く406号道、馬場先門交差点。

右手奥に馬場先門が有ったそうです。

奥へズームしてみると二重橋が見えました。

馬場先門交差点を横断し、右手壕は日比谷濠で、左手に帝国劇場、

そして、左手にの方柱10本が立ち並んだギリシャ風の豪壮で美しい建築館は、

平成16年(2004年)には東京都選定の歴史的建造物に指定されてた第一生命館。

この建物は第二次世界大戦中は陸軍により東部軍管区司令部が置かれ、屋上に高射砲陣地が設置されていました。

終戦後の昭和20年(1945年)にGHQに接収され、総司令部本部として使用され、

昭和27年(1952年)7月に返還されるまで連合国最高司令官総司令部として使用されて

いました。館内には連合国軍最高司令官を務めたダグラス・マッカーサー元帥の

執務室がそのまま保存されているのだそうです。

平成元年(1989年)から平成7年(1995年)にかけて再開発保存されてます。

その先は日比谷通りと晴海通りが交差する日比谷交差点です。

昔から交通量が多く、昭和5年(1930年)に日本初の電気式信号機が設置された。

お濠と甲州街道はここで右折し、晴海通りに入ります。

路は右折しますが、左手は日比谷公園が広がっていて、日比谷交差点渡って

50余年振りに公園内へ足をいれました。

まだ婚約中にカミさんとデートで歩いたことが有ったんですが、まるで初訪問の

感じでしたね。

おや、新春の紅葉景色?

日比谷交差点からの入り口から入ってすぐに「日比谷見附跡」の碑が建っています。

「見附」とは、街道の分岐点など交通の要所に置かれた見張り所のことです。

この石垣は江戸城外郭城門の一つ、日比谷御門の一部で、城の外側から順に、

高麗門(こまもん)、枡形、渡櫓、番所が石垣で囲まれていたが、石垣の一部だけが

ここに残っているという。

江戸時代は石垣の西側は濠となっていましたが、公園造成時にその面影を偲び造成した

「心字池」がありました。

全体を上から見ると、「心」の字を崩した形をしているのだそうですが・・。

池端のムラサキシキブの実がまだ綺麗な色合い。

池の岩陰のアオサギ君、君は何を見つめてるのかな?

江戸時代の日比谷公園は、仙台伊達藩三代藩祖綱宗まで、仙台藩桜田上屋敷

あった所で、伊達政宗は江戸参勤の折、寛永13年(1636年)この地で70年の生涯を

閉じた、と「仙台藩伊達政宗 終焉の地」という案内看板が立っていました。

街道へは戻らず、そのまま日比谷公園内を歩き、日比谷交差点から10分ほどの

祝田門から甲州街道へ戻ると二重橋へ通じる祝田交差点。

甲州街道である国道20号線(国道1号線と重複)は、この祝田橋交差点で晴海通りから

内堀通りに変わり、祝田橋を過ぎて内濠も日比谷濠から「凱旋濠」に変わり、

内堀通りをお濠に沿って桜田門へ歩いています。

左側は官庁街で江戸時代は大名屋敷が並んでいた所。

資料によれば、左手レンガ造りの旧法務省本館は東北米沢藩跡地でした。

この建物は明治28年(1895年)に竣工し、基本設計は明治政府が招聘して建築顧問官を

務めていたお雇い外国人のドイツ人建築家で、実施設計と工事監理は河合浩蔵が行

いました。

戦災の空襲により全焼し、昭和25年(1950年)ころほほぼ建されたが、

平成6年(1994年)の改修工事では文化財としての観点から、創建時の外観に戻され、

法務総合研究所及び法務図書館として利用されるようになりました。

本格的なドイツ・ネオバロック様式の外観に特徴があり、都市の景観上貴重で、

平成6年(1994年)12月27日には国の重要文化財に指定されました。

ちなみに奥の桜田門交差点に建つ建物は、御存じ、桜田門の警視庁で、

元は豊後杵築藩邸でした。

TVドラマなどでもお馴染みの警視庁正面

桜田門交差点のお濠の右手奥は江戸城桜田門で、幕府大老井伊直弼の暗殺事件、

桜田門外の変の門で、正式には外桜田門

昭和36年(1961年)に「旧江戸城桜田門」として国の重要文化財に指定されています。

桜田門から壕は日比谷壕から桜田壕。

桜田門交差点で国道1号は左手に南へ向かい、桜田壕沿いの道は甲州街道国道20号の内堀通り標識が現れます。

弓なりに左手に曲って正面は国会前交差点で奥に国会議事堂です。

現在の建物は昭和11年(1936年)に帝国議会議事堂として建設されたものです。

建物は鉄骨鉄筋コンクリート造り、9階建て。

左右対称の形を成しており、正面に向かって左側に衆議院、右側に参議院が配置されています。

甲州街道(国道20号線内堀通り)は国会前の交差点のところで、内濠(桜田濠)に沿って

緩やかに右にカーブしていきます。
国会前の交差点を渡ったところの地名は「千代田区永田町1丁目1番地」。

内濠(桜田濠)側を歩いて行くので立ち寄りませんでしたが、

街道書によれば交差点を国会側に左手に渡るとちょっとした公園(国会前庭)に

なっていて、江戸の名水「櫻の井」があり、付近一帯は近江彦根藩35万石・井伊家の

上屋敷が置かれていましたとあります。

この井伊家上屋敷跡はそれ以前は加藤清正邸跡で、この「櫻の井」は加藤清正

命じて掘られたものだと伝えられています。

現在の井戸は昭和43年(1968年)、道路拡張のため国会前の交差点内から原形のまま

約10メートル離れた現在の地に移設復元されたものですとも記されてました。

内濠通りは緩い上り坂となってきて三宅坂

坂両側の並木はユリの木の大木が続いてます。

緩い傾斜の三宅坂を進むと右壕端に「柳の井」の案内板が立っていました。

桜田壕の土手下に柳の木にちなむ井戸があって名水として知られたという。

お堀に下る石段がかすかに見えるが立ち入り禁止の様でした。

さらに上ると三宅坂交差点です。

三宅坂交差点は、右手に国道246号(通称:青山通り)の起点となっています。

坂の名前は、江戸時代この坂の途中に譜代大名三河田原藩1万2千石、 三宅家の上屋敷があったことに由来します。

明治維新以降、陸軍の中枢参謀本部三宅坂に沿って置かれ、戦前戦中には「三宅坂」と言えば参謀本部の代名詞でした。

大戦後は付近は米軍に接収されて、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の将校が住む

パレス・ハイツになり、土地が返還された後の昭和40年(1965年)からは国立劇場最高裁判所が相次いで建設されました。

写し方が悪いですが、三宅坂交差点を右手に渡ったところが最高裁判所

坂上国立劇場でした。

三宅坂交差点から街道はお濠に沿って少し急坂の上り坂に成って行き、お濠の土手も

かなり高くなってきました。

街道書によると、このあたりに日本橋を出てから最初の甲州街道一里塚「隼町一里塚」があったが、所在地は不明とありました。

登りつめたところが右手に半蔵門

江戸城西端に位置する門で、大手門とは正反対の位置にあります。

この門内は、江戸時代には吹上御庭と呼ばれ、隠居した先代将軍や、将軍継嗣などの

住居とされていました。

現在は吹上御苑と呼ばれ天皇のお住まいに一番近く、天皇及び内廷皇族の皇居への

出入りには主にこの半蔵門が用いられているという。

そのため警護は厳重で門前には交番が設置され、一般人の通行は認められていません。

半蔵門の名称については、徳川家の家来服部正成・正就父子の通称「半蔵」に由来するといい。服部家の与力、伊賀同心がこの門外に組屋敷を構えていました。

甲州街道はここから左手にお濠を離れ、ほぼまっすぐ西に延びているのですが、

半蔵門から壕に沿って先は桜の知られる千鳥ヶ淵が続いてゆきます。

西へ向かう街道沿は麹町一帯が旗本屋敷が建ち並んでいたといわれ、有事の際には

将軍家脱出経路と考えており、半蔵門江戸城の搦手門にあたると言えるそうです。。

半蔵門交差点で、甲州街道(国道20号線)は左折し、内堀通りから分かれて新宿通りに

入り、麹町を抜け四谷駅、さらに新宿駅方面へと向かいます。

(50年ほど前、親戚の悲しい出来事の確認をしたことが有った麹町警察署

此処でした。)

警察所から100mほどで麹町1丁目。

街道書では、左手に坂をすこし下ると疱瘡に関わる霊験が伝えられる

太田姫稲荷神社の分社が有り、麹町地域における疱瘡などの病気平癒祈願の稲荷、

とあったのでちょいと寄り道。

更に少し下って右手へ入ると平河天満宮が有ります。

菅原道真を主神に八幡宮東照宮徳川家康)を相殿の神として祭っています。

文明10年(1478)に大田道灌が江戸城本丸内の梅林坂上に勧請したのが始まりと

言われ、徳川家康入城後、本丸修築のためこれを平川門外に移り、慶長11年(1606)

現在の地に遷座しました。 
 徳川幕府に特別な格式で待遇され、紀州藩徳川家、彦根藩井伊家の祈願所でもあり

ました。天保15年に氏子町により奉納された銅鳥居や、力石、狛犬千代田区

文化財に指定されています。

 梅が天神様のシンボルであるのと同様に、牛(神牛)も天神様のトレードマークです。平河天満宮にも撫で牛が1体、石牛が4体鎮座しています。

街道へ戻りさらに15分ほど行くと麹町6丁目、右手に心法寺。

浄土宗で、三河国の秦宝寺から天正18年(1590)に徳川家康といっしょに江戸に来た然翁聖山和尚が創始者です。

墓地には下野皆川藩松平家の墓や酒樽の形の墓などいろいろ面白い墓石がありが

あるそうですが墓地内へは入れません。

境内に、自分の体の治してほしい部分と同じお地蔵さんの体に塩を塗って

お祈りするとご利益があるとされる塩地蔵がありました。

塩を塗られて水分が抜けたため、お痩せになったのか、細身のお体ですね??

すぐ先は四ツ谷、左手は良く知られるのが上智大学です。

現在は地上17階、地下1階建ての白亜の近代的な建物に大変貌を遂げている。

50m程先はJR中央線と総武線東京メトロ丸ノ内線南北線という4つの路線の

四ツ谷駅で、右手に駅東側に回ると「四谷見附」の跡があります。

江戸城の西の玄関にもあたる要所のひとつで、実質的な甲州街道の出発点。

見附とは街道の分岐点など交通の要所に置かれた見張り所のことです。この四谷見附は両側を高い頑丈な石垣で固められ、そこに黒々としたガッチリ構えた見附門があったと言われています。この門は六ツ時(午後6時頃)には容赦なく扉が閉められたのだそうです。

甲州街道は四谷見附橋を渡って続いてゆきます。

時間はまだ午後の2時半過ぎ、日本橋からわずか5km強旅をしただけですが、

老々夫婦歩い旅の一日目はここで足止めにしました。

JR中央線で新宿駅へ向かい、かって通勤で通いなれた西武新宿線で帰路へ。

降り立った自宅最寄り駅前では、夕暮れ月が「おかえり」

躊躇していた街道歩き旅、始まってしまいました。

よろよろ亀足、ペンギン歩きでも、足さへ前に出せればいつかは目的地にたどり着く。

さ~て、次はいつの日か・・・。