ツアー旅 種子島 屋久島 (種子島編)

山歩きをしなくなって(というより足腰が衰えてだね)、TVなどで、

魅惑の島・屋久島の旅番組を見るたび、行きたい気持ちは満々だけど、

  登れないもんな~・・

なんて躊躇してたが、カミさんが見ていた旅行案内に、

縄文杉だけが屋久島ではない、登らなくても楽しめる旅~・・・」。

                      思い切って行ってみない、の誘い。

 

屋久島は月に35日は雨が降る』とよく言われるのが屋久島の雨降り。

調べてみると、夏は比較的雨降りは少なく気候も安定ともあった。

「宇宙に一番近い島・種子島世界遺産屋久島4日間」

「よ~し、行かないで残念がるより、まずは行ってみよう!!」

ツアー利用の旅はスイスへ行って以来、12年振り。

旅の足はマイカー、宿泊はビジネスホテルか車中泊が基本だったか。

(旧街道歩き旅を始めてから、普通の旅行へゆくのは久しぶり)

と、ツアー予約を入れると、後日全国旅行支援適用との連絡が有った。

平成5年7月26日、

早朝、次男に最寄り駅の空港行きリムジンバス乗り場まで車で送ってもらい、

羽田より鹿児島空港へ。

(昨今は早朝のタクシー予約が、はなはだ難しく成ってるんです)

AM8:30 羽田第二ターミナル集合、なんと、ツアー参加は2組夫婦の4人。

(ツアー催行の参加人数は夫婦4組8人となっていたが、

 再開された全国旅行支援事業適用もあって、催行実施となったとか)

AM9:20 羽田発(ANA 鬼滅の刃

コロナ規制は解除されたが機内ではほとんどの乗客は、マスクは使用していた。

(乗務員は半々)

AM11:05 鹿児島空港

大型バスに7人(乗務員、ガイドさん、添乗員さん含み)が乗車して、

新婚旅行以来53年振りの鹿児島市内を通り、種子島へ向かう鹿児島港へ。

53年振りに眺めた桜島

鹿児島から水中翼高速船・トッピー・ロケットで種ケ島・西乃表港へ。

(入港してきた高速船、乗船は別の高速船)

PM1:00 出航

右手に、懐かしい開聞岳、そして左手に大隅半島突端の佐多岬灯台

巨大なコンテナ船は鹿児島港へ。

この灯台も岬から眺めたのを思い出していた。

海上南へ110km・1時間35分の船旅。

(旅で船に乗ったのは、マイカー時代フェリーで北海度へ渡って以来9年振り)

種子島西之表港

「本土最南端の佐多岬より南東約40㎞、平坦で南北に細長い地形。
ポルトガルから鉄砲が伝えられた「鉄砲伝来の地」。

現在は日本最大のロケット発射場のある種子島

歴史と近未来の種子島、北たから西之表市 中種子町 南種子町

人口 約28000人 周囲170km。」

(パンフ案内文より)

西之表港西之表市)より、こちらも大型バスに乗務員、ガイドさんを含め7人が

乗車、西海岸を南下し、中種子町で島を東海岸側へ横断。

幾つかあるマングローム園の内、阿嶽川河口のマングローブ林へ。

海水と淡水が入り混じる沿岸域にマングローブが分布しています。

初めて知ったのが、マングローブという植物は無い、ということ。

マングローブとは、熱帯および亜熱帯地域の河口汽水域の塩性湿地にて、特異な形態の根系,胎生種子などの特徴を持ち、植物群落や森林を形成する常緑の高木や低木の総称ということでした。

日本国内で、マングローブとして限定される種は、ヒルギ科・メヒルギ、オヒルギ、

ヤエヤマヒルなど5種あるという。

アジア地域における自然分布の北限は種子島といわれ、種子島では低温耐性の強い

背の低めのメヒルギのみが生育する。

阿嶽川もメヒルギが群落を成し、国指定天然記念物という。マングローブの高さは河川の中央部に近い部分では低く1~1.5m程度、,辺縁部は4m前後あった。

生育面積も比較的広く,良好な生育環境が残されているという。

(よくパンフなどで見る、四方に根の張ったマングローブを見上げる林とは違った

 景観だった)

川沿いの木道の敷かれたマングローブ林(メヒルギ)群落。

潮が引ていて小さなカニ(シオマネキ)やトビハゼなどが、ちょこちょこ動き回って

いた。

河をカヌーで楽しめるそうです。

初めて目にしたマングローブ(メヒルギ)の花。

マングローブ林から東海岸を南下すると、風光明媚な美しい砂浜の浜田海浜へでる。

海岸の砂浜を右手へ100m程行くと、太平洋の荒波が作り出した海蝕洞窟があた。
洞窟内は千人も座れほど広いと言われ、千座の岩屋(ちくらのいわや)い呼ばれる。

洞窟内へは干潮時には海岸沿いに岩伝いか、満ちていれば岩山の裏手の出入り口から

入れるという。

潮は引いてはいたが、海沿いの伝いは足元が危ういということで、裏手から洞窟内へ。

洞窟の大雑把な構造は北東側~南西側に貫通している洞窟が2本並んでいて、

その2本を、かなり腰を低くして通り抜ける洞窟がつないでいた。

かなり腰を低くして隣の洞窟へ。

洞窟内では、岩や海を背景におしゃれなシルエット写真が撮影できる、と若い方々の

人気スポットであるようです

帰りの砂浜で見つけたのは、根を張り芽生えたマングローブ、とガイドさんが

教えてくれた。

海岸沿い、いたるところに自生し咲いているハマユウ

ハマユウは海岸付近に自生し、夏の夕暮れとともに花が開花し、真夜中に満開に。

本土よりは気温も低く、涼しいという種子島だったが、今年の夏は暑いんだそうです。

スポットを足早に巡り、冷房の効いたバスへ駆け戻りホット一息。

今日の島めぐりを終えてバスはさらに南下し、島の南に建つ青い海と白い砂浜の

全室オーシャンビューのリゾートホテルへPM5:00、到着。

宇宙ロケット施設がすぐ近く、ロケット発射がホテルから見られるという。

ただし、ロケットの発射日が決定すると予約が殺到するので早いもの勝ちです、

と、ガイドさん。

(部屋の窓から)

左手の岬は象の頭のように見え、その名も「エレファントヘッド」と呼ばれるそうな。

洗面、バス、トイレは独立型なのがいいですね。

バスタブは広々としており、ゆっくりと汗を流し、服装も着替えてて夕食へ。

食事はレストランで、部屋着、スリッパは御法度。

和洋のコース料理、ビールが美味い!! むろん焼酎も。

島内で使える旅行支援金は二人で4千円。

夕食の飲酒代と土産代の一部に有効に使わせてもらった。

夕食後前庭で見上げた南国の月。

早朝からの乗物続きに、心地よい酔い。早めの就寝爆睡。

さすがに疲れもあって遅めの目覚め、すでに日は昇ていた。

海岸はサーフィンのメッカだそうで、大会も開催されるビーチという。

朝から波間を漂うサーファーの姿が見られた。

7月27日

和食と洋食のビュッフェ朝食を済ませ、再び大型バスに7人が乗り込んでホテルを

後にし、バスはさらに南下し種子島最南端の門倉岬へ。

門倉岬は天文12年(1543)、鉄砲を伝えたポルトガル人の乗った異国船が漂着した岬。一帯は公園になっていて、展望台や鉄砲伝来紀功碑、神社などがある。

銃といえば西部劇のライフル銃を思い出しますが、鉄砲といえばやはりポルトガル人によって種子島に伝えられた鉄砲、種ケ島銃かな。

信長の三段銃戦、歴史教科書にも載っていたような。

下車し岬へ向かう途中に、種子島を北限とするクワ科の常緑喬木で幹や枝から多くの

気根を生じた「ガジュマル」が数本植えられていた。

種子島のガジュマルは、防風、防潮、護岸のため、沖縄より移植したと

伝えられているそうです。

ガジュマル

門倉岬神社

門倉岬から望む、岬の岩礁と、東側に続く美しい前之浜海岸。

天文12年(1543)8月25日、種子島の南端門倉岬に明国船が漂着。

この船にはポルトガル人が乗っており、我が国初めての西欧人との出会いであった。

さらに遠くに見える島の先端には、種子島宇宙センター(ロケット基地)があり、

ロケット打上げ時には、岬からもきれいに見えるという。

鉄砲伝来の碑

海上まじかに山頂を雲が覆う屋久島が見えていた。

クマゼミかな?

門倉岬を後に戦国時代から現代へ戻り、バスは岬から遠望していた最先端宇宙時代へ

と向かいます。

種子島には、報道などで目にするJAXA宇宙航空研究開発機構)の実用衛星打ち上げ

基地、「種子島宇宙センター」と、人工衛星を監視する「増田宇宙通信所」があり

ます。

(パンフ案内文)

鹿児島の南、種子島東南端の海岸線に面しており、総面積約970万平方メートルにも

およぶ日本最大のロケット発射場で、世界一美しいロケット発射場といわれています。
当センター内には、「大型ロケット発射場」、「衛星組立棟」、「衛星フェアリング組立棟」などの設備があります。これらの設備で、人工衛星の最終チェックからロケットへの搭載、ロケットの組み立て・整備・点検・打ち上げ、打ち上げ後のロケットの追跡まで一連の作業を行っており、日本の宇宙開発において人工衛星打ち上げの中心的な役割を果たしています。

バスをおりて、まずは宇宙科学技術館へ。

技術館前に聳えたつロケト、H-Ⅱロケットは、1990年代に現在のJAXAの前身であるNASDA宇宙開発事業団)が開発した2段式衛星打ち上げ用ロケットです。

それまでのアメリカの技術を導入してライセンス生産していたものとは違い、

重要な主要技術の全てを日本国内で開発した初めてのロケットで、のちのH-ⅡAや

H-3ロケットに繋がる、純国産ロケットでもあります。(パンフ案内文)

ロケットといえば、当時は高校生だったかな、ペンシルロケトを思い出す。

たしか火薬式ロケットで、初発射実験は水平発射とニュースなどでの記憶が蘇った。

種子島宇宙センター内にある「宇宙科学技術館」は、昭和54年(1974年)

JAXA 種子島宇宙センター内に、わが国初めての本格的な宇宙開発の展示館として

オープン。

ロケットを中心に、人工衛星国際宇宙ステーション、月・惑星探査などについて

展示・紹介されていて、宇宙開発に関する様々な分野について実物大モデルなどを

使って楽しく学べる施設です。

シアターホールでの、ロケット発射場から3キロ地点での発射時の音響を、

大映像と共に体験した。

注意に「大変大きな音が出るため、妊娠中の方、心臓の弱い方、補聴器つけてる方

などにはご遠慮下さい」とあったが、まさにの大迫力大音響。

歴代ロケット(モデル)

人口衛星 

歴代日本宇宙飛行士の手形。

宇宙科学技術館を後にし、再びバスに乗車して、山(丘かな)を駆け上り、

実際にロケットを打ち上げる発射場を眺める展望所、ロケットの丘へ向かいます。

野外展示 H-ⅡAロケット(車窓から)

記念写真撮影スポットでもあるそうです。

車窓右手奥には、ロケット打ち上げ時に報道機関の取材場所となる建物のある

「竹崎展望台」

ロケットの丘から遠望する発射場。

大型ロケット発射場 右第一射点、左第二射点(場ではなく点というそうです)

射ち上がるロケット、なんどかTV映像などで見てますね。

大型ロケット組立場、ここから打ち上げ射点まで台車でゆっくり移動。

周辺には関連するいろんな施設棟が点在していた。

実際のロケットの発射には危険と爆音を伴います。

そのため打ち上げ当日は、種子島宇宙センター全域と射点から3km以内が立ち入り

禁止になってしまうそうです。

来る8月26日には、H2Aロケット47号機打ち上げが予定されおり、

島も大賑わいになるでしょう、とガイドさん。

失敗の後、成功してほしいですね。

宇宙センターを後にし、島中央部の高台に広がるゴルフリゾートのクラブハウス
にて、煌めく紺碧の太平洋を眺めながらの昼食。

その間に小雨雷名があったりしたが、出発時には青空が広がっていた。

(なぜは写真を写し忘れていた)

丘のような山を下り西海岸へ。

沖遠くに三角垂の島は、鹿児島県に属する多くの火山島の中でも、本土に最も近い

薩摩硫黄島とガイドがあった。

海岸線を北上、左手に現れるは中種子町にある、「雄龍雌龍(おたつめたつ)の岩」。

波打ち際に、しめ縄と鳥居が設置され寄り添うように立つ2つの巨岩伝説は、

「ある嵐の夜、達五郎と達江という仲の良い夫婦が崖崩れに巻き込まれました。

 2人は夫婦岩として生まれ変わり、海に向かって右側が雄龍岩、左側が雌龍岩と

 呼ばれるようになった」という。

 水平線に日が沈む光景も美しく、サンセットを楽しむビュースポットで

 もあるそうです。

西海岸線を北上。

道端など、いたるところに咲いてる、ハイビスカス。

原種系ハイビスカスなんだそうだ。

種ケ島北部、上陸した西之表港近くにあるのが、月窓亭。

江戸中期 1793年、島主種子島家の家老職を務めた羽生道潔が 建造し、

羽生家が島を離れたことに伴い、明治19年(1886)、旧島主・種子島守時公の

住居となり、平成12年まで島主種子島家住宅として使用されたという。

現在は市の所有となり、平成22年から一般公開されています。

月窓亭

月窓亭を後に坂を下ると、種子島開発総合センター(鉄砲館)が建ち、その真向かいに榕城中学校があり、この地は、第14代島主・種子島時尭公が建設した内城跡地で、

鉄砲伝来当時の第14代島主種子島時尭公の像が建てられています。

種子島時尭公は鉄砲伝来のときは若干16歳で、資料によれば2丁の鉄砲を2千両で

買ったといわれているという。

ポルトガル人から譲り受けた鉄砲は、片時も離さずに持っていて、

日本人で初めて鉄砲を試射した人物という。

種子島開発総合センター(鉄砲館)

鉄砲の伝来は、戦の方法が激変した大事件でした。

天文12年(1543)8月25日、種子島の南端門倉岬に明国船が漂着。

この船にはポルトガル人が乗っており、我が国初めての西欧人との出会いであった。

時の島主第14代種子島時堯は、ポルトガル人が携える鉄砲を見て、優れた兵器と考え、2丁の鉄砲を求めて家宝とした。

その後、一挺は紀州津田監物へ贈るが後焼失。

残る一挺も明治10年西南の役の際、鹿児島の種子島屋敷において焼失した。

展示写真の銃は、初伝の銃は失われたが、幸い西村家に秘伝されていた

ポルトガル伝来銃が種子島家に 献上され、保存されてきたものである。

 銃は銃身がポルトガル伝来のものであり、銃床部分は後に製作され装着された

 ものである。(案内文)

初めて我が国へ伝えられた火縄銃の模作を当時の14代島主時尭から命じられた

八板金兵衛清定は、苦心の末、その翌年国産銃の製作に成功しました。

 この銃は、種子島家に古来八板金兵衛作と伝えられてきた火縄銃です。

(案内文)

砲のような手持ち銃

おや、と目を引いたのがこの骨格標本

ウシウマは体高約1メートル、体長約150センチメートル。

形はほとんど馬と同じだが、尻尾と毛が牛に似ている。

慶長2(1597)年の「慶長の役」で、島津公が朝鮮から数頭を持ち帰り、種子島

島主に飼育を命じた。島では西之表安城に牧場を設け、一時は約60頭に増えた。
しかし、明治の初め、牧場が廃止されて減少。戦後に絶滅し「幻の動物」と

言われている。 と案内文にあった。

う~ん、重たい!(わしゃ戦えんな~・・)

PM5:40 

種子島巡りを終えて再び高速船にて種ケ島を離れ、屋久島へ。

PM6:30 夕暮れ迫る屋久安房港入。


7月28日 屋久島編へ続きます。