ブログ表題は変更。
日光道中二十一次 街道散歩。
コロナで中山道の旅は完歩寸前で足止め。
それじゃ老い先は短い、動けるうちに歩けるうちに、と2020年6月16日
日本橋を出立し、日光道中の旅が始まりました。
あちらこちらと寄り道しながら、亀足亀足で日本橋から約8km、
南千住駅前へたどり着き足止め。
その後は残念ながらコロナは再炎上状態が続き、マスク無しでは外歩きもまま
ならなが、なにせ今年の猛暑がすごくマスク装着歩きはお手上げ。
秋風が吹き、コロナも少しは状況もよし、とは言え、まだまだ遠出までは・・
その後台風や悪天候で、今年の秋は不安定な日々続き。
GOtoも始まり、まちかねた方が多く利用してる様子にわれわれも、
と思ったが、まずは手始めに街道の歩き旅だ。
コロナもまだまだ不安定ではあるが、三密は避けられると、
お天気の様子を伺い、思い切って10月14日、歩き旅の再開へ。
環状線であるJR武蔵野線を利用し2回の乗り換えで、前回足止めの南千住駅へ。
家から最寄り駅までのバスも入れて約2時間弱で到着。
都心周りとほぼ同じ時間かかってる。
AM10:30、南千住着。
三か月振りの街道旅、いな散歩旅、記念ショットを写して、さあ行こう!
南千住駅を降りて、南千住駅の脇の歩道橋を越えると、常磐線と日比谷線に挟まれた
敷地には、江戸の三大刑場の一つ「小塚原刑場跡」で、まずは千住回向院から分院し、処刑人供養で建てられた「首切り地蔵尊」が祀られてる延命寺に。
東北大地震で首切り地蔵はかなり損壊したが、修復したことが書かれていた。
ネーミングがちょっと可哀そう。
JR常磐線の高架に分断され、北側に歴史的有名人が眠る千住回向院があり、
墨田区の回向院と区別するため『小塚原回向院』と呼ばれています。
この鉄道で分断された二つの地域が小塚原刑場跡で、1651年に創設され、
明治初年に廃止されるまで、ここで処刑された人は約20万人と云われています。
小塚原刑場での刑死者は丁寧に埋葬されなかったため、夏になると周囲に臭気が充満し、野犬やイタチの類が食い散らかして地獄のような様相だったといわれ、この有様を
見た墨田区の回向院住職が、刑死者を供養するため創建したのが常行堂で、
その後、小塚原回向院となり処刑された罪人を葬りました。
回向院の墓地は、荒川区指定記念物(史跡)小塚原刑場跡として文化財となって
区画され、完全に一般の方の墓地と分けられています。
(区案内文より)
回向院には、幕末の安政の大獄によって処刑された吉田松陰、橋本佐内、頼三樹三郎ら政治犯であった彼らの処刑は、小塚原刑場ではなく伝馬町牢屋敷でしたが、
罪人として回向院に葬られました。
史跡の一番奥に鎮座しているのが「吉田松陰」で、1863年に高杉晋作らによって
世田谷区若林に改葬され、その地に松陰神社が建立されたので、ここには当時の
墓石だけが文化財として保存されています。
万延元年(1860年)江戸城桜田門外で、井伊直弼を襲撃した18名の墓も
同じ千住回向院にある。
現在の墓石には〇〇先生、とありますので維新後に改めて建て直しなのでしょう。
そしてここで処刑や埋葬された、鼠小僧次郎吉墓(ちょこっとだけ写ってる)
片岡直次郎墓 高橋お伝墓 腕の喜三郎墓(左から)もありました。
鼠小僧墓は 両国の回向院にあるものが本来のものだそうです。
高橋お伝は明治12年1月に斬首刑となり、その後斬首刑が廃止された為、
お伝は最後の斬首刑囚となった。
1936年の年の軍若手将校による「二・二六事件」の銃殺刑も行われたそうです。
そして小塚原回向院の壁には、歴史の教科書でも学んだ、あの前野良沢、杉田玄白の『解体新書』の扉絵がついた記念碑があり、日本初の腑分け(解剖)の地でもあった。
日本近代医学の黎明期の出発点となった歴史的な刑場です。
また、ここには60年弱ほど前の昭和の大事件“吉展ちゃん誘拐殺人事件”の
村越家菩提寺で、寺院入り口には吉展地蔵尊が建立されていました。
刑場を後に進む街道は刑場にちなみ、コツ(骨)通りと呼ばれたとか。
(小塚原・こずがぱらの地名が由来おもいわれそうです)
すぐ先で街道から左折し、現日光街道の国道4号に向かい円通寺へ寄り道。
曹洞宗円通寺は坂上田村麻呂の開創といわれる古い寺で、幕末には上野の山で官軍と
戦った彰義隊士の遺体を埋葬したことから、明治40年(1907年)に上野寛永寺の黒門(写真8)が移築されいます。
今も黒門の柱や梁に激しい官軍の攻撃弾痕が残されてます。
後で知りましたが、あの誘拐された吉展ちゃんの遺体が見つかったところで、
地蔵尊が祀られているそうです。
円通寺から国道4号を南千住交差点に向かい、本尊が笹団子如来と呼ばれ、
団子を笹に枝に刺して供えると病に霊験あらたかという西光寺をのぞき見して、
南千住の交差点で国道4号線は旧道にに合流し、
渡った所に「素戔嗚神社」があり、時期ですね、早くも七五三詣り姿が見られました。
戦後再建された大優美な拝殿、ご本殿 。
拝殿前の獅子座の珍しい狛犬。
躍動感姿も素敵ですが尻尾に特徴がありますね。
子供の無事成長を祈願した「子育て大銀杏」と呼ばれる銀杏は樹齢600年とか。
右手隅田川と千住大橋を模した石橋ああり、文政2年(1820年)、
「千住という所で船を上がれば・・・・」の奥の細道の一説が彫られている。
また「これを矢立の初めとして・・・・」と書かれた句札が立てられている。
境内には、小塚原の地名由来となる小塚(瑞光石)が祀られ、
元治元年(1864)に富士塚が築かれ浅間神社が祀られてます。
素戔嗚神社を後に150mほど先左手に、徳川家康が巡覧した折り腰かけた、
といわれる榎がある誓願寺は入りずらそうで寄らずに見送り、
先の隅田川には、最初に架けられた「千住大橋」が架かっている。
徳川家康が江戸入りした文禄3年(1594年)、伊奈忠次に作事奉行を命じて
隅田川に最初に架けた橋で、当初はここより200メートルほど上流に架橋され、
「大橋」と呼ばれていた。
その後下流にも橋が架けられたため、「千住大橋」と呼ばれるようになったという。
現在の昭和2年(1927年)に架橋された千住大橋の鋼鉄製アーチの桁には
「大橋」と書かれたプレートが貼られていている。
(現在は国道4号下り(北行き)の橋で、隣に上り橋が架橋されてます)
墨田川は上流は武州埼玉の秩父山地で埼玉の流れは「荒川」です。
「すみだ川」の名が登場したのは、西暦835年のこと。当時の政府の公文書に「住田河」と記されています。この「住田」が、どのように読まれていたのかは定かではありませんが、川の三角州に田を作ったという意味で「すだ」と呼ばれていたと考えられています。その後、平安時代の伊勢物語では、「すみだ川」という歌が詠まれ、すみだ川の名が全国に広まっていきました。このほかの記録には、「隅田」をはじめ「墨多」「住田」「澄田」など、いくつかの字を当てていますが、読み方は語感のよい「すみだ」に定着したようです。江戸時代以降、川の周辺は、桜の名所としてはもちろん、両国の川開きや向島百花園、七福神めぐりなど、多くの人に親しまれ、その当時から、この川の堤を「墨堤」と呼ぶようになり、漢詩などに好んで使われるようになりました。しかし、川の名称は定まらず、「大川」や「浅草川」と愛称で呼ばれ、また公的な文書では「荒川」とされていました。明治29年に制定された旧河川法でも、荒川の一部ということで一括して荒川と呼ばれています。その後、河川法が見直され、法的にも正式に「隅田川」となったのは、昭和40年になってからです。(墨田区広報より)
東海道の多摩川が江戸の西の出入り口とすれば、隅田川は江戸の北の出入り口。
橋の北詰はトイレもある大橋公園で、松尾芭蕉が弟子の曾良とともに深川の住居から
舟に乗り、奥の細道の旅路につき、ここ隅田川の千住に上陸して日光街道に
足を踏み入れたことで、奥の細道矢立初めの句を詠んだことを記念して、
「奥の細道 矢立初めの地」と刻まれた石碑や句碑が建てます。
芭蕉の旅立ちは元禄2年(1689年)3月27日(陽暦の5月16日)で、
千住まで多くの門人、知人らも舟に乗り、二人の旅立ちを見送りに来たという。
旧道は、千住大橋北詰からこんな標識の立つ足立市場前交差点で国道4号から
右に分岐し交差点を渡ります。
渡ったところは広大な中央卸売市場・足立市場の前で、芭蕉生誕360年にあたり、
平成16年(2004年)に建立された、「奥の細道プチテラス」がありました。
松尾芭蕉の像、右横下には「奥の細道・矢立初芭蕉像」と彫られた碑が建っている。
横に「日光道中・千住宿」左側面に「ひだり・草加」右側面に「みぎ・日本橋」と彫られている道標も建ってます。
向かいには「此処はやっちゃ場南詰」の木札が立っている。
かって日光街道両側には、千住宿に向かって30数軒の青果問屋が軒を連ね、
「やっちゃい」のセリ声が響いていたことに由来の「やっちゃ場」と呼ばれ、
現在の足立区千住河原町。
神田、駒込、京橋、本所の青果市場もやっちゃ場と呼ばれ、千住と併せ
江戸の五大やっちゃ場といわれるている。
千住のやっちゃ場は戦国時代に市が開かれたことに始まるといわれ、
昭和まで続いた長い歴史をもつ青果市場で、隅田川の水運に恵まれた好立地によると
いわれている。
やっちゃ場通りだった街道を進むと、家屋に谷塚屋、柏屋などの屋号を掲げ
往時を伺がわせる。
京成線の高架下を潜ると左手に白壁の蔵を転用した「千住宿歴史プチテラス」がある。この蔵は千住に数多く現存する蔵の1つ、江戸時代後期に建造の紙問屋横山家の蔵を
平成五年(1993)に解体移築したもので、やっちゃ場時代の問屋街の面影を残す道具などが、保存・展示されているそうです。
その先に、「昭和五年・千住市場・問屋配置図」が立っている。
すぐ先に西新井大師道標があり、旧日光道中、是より西へ大師道、と刻まれている。問屋街はこのあたりまでのようです。
左手に100mほど小路を入ると、やっちゃばの鎮守の河原稲荷神社で、
足立区内最大の狛犬がある。
先の千住仲町地交差点渡って左手に仁王像建立中の「源長寺」があった。
源長寺は、将軍の鷹狩の時に休憩所、御膳所として使っており、脇本陣も兼ねていた。
源長寺の少し先一角に、2015年に設けられたミニ公園「掃部宿憩いのプチテラス」があった。
説明板によると掃部宿は千住本宿が拡大し、千住宿に組み込まれた宿だそうです。
しばらく歩くと交差点の先は、ほんちょう商店街へ入り、
交差点手前左手に千住高札場跡の標石があり、この付近からが千住宿中心の様子。
ほんちょう商店街に入り、先の交差点手前右手に日本橋から2番目の
「千住の一里塚」があった。まだ日本橋から2里、8kmしか進んでない?
交差点を渡った左手が「問屋場跡・貫目改所跡」の標石がある。
貫目改所は、問屋場が扱う荷の重さを量った所である。
右手奥が北千住駅の差点より先は、江戸時代の宿場の活気を感じられる宿場町商店街
となり、
北千住駅前通りを横断すると、入り口アーチ左下の百円ショップ前に自転車などに
隠れるように、秋葉家が勤めた本陣跡碑が建っていた。
本陣は写真の100円ショップとその隣の建物を合わせた辺りにあり、
間口が狭く奥行の長い形状をしているが、361坪の敷地であった。
家数 2,370軒 (うち、本陣1、脇本陣1、旅籠55)
人口 9,956人
江戸四宿と呼ばれた東海道・品川宿、中山道・板橋宿、甲州街道・内藤新宿に比べて
家数、人口ともに上回り、千住宿は大繁盛した宿場といえる。
千住の地名は、鎌倉時代の末期(1327年)、荒井図書政次という人物が荒川から
千手観音を拾い上げて勝専寺に安置したことから名づけられたという説や、
足利八代将軍義政愛妾・千寿がこの地に生まれたからという説がある。
千住宿は日光街道、奥州街道の最初の宿場として繁栄し、水戸街道が分岐している。
寛永2年(1625年)に開設されたが、その後万治元年(1658年)に
やっちゃ場等があった掃部宿、万治2年(1660年)には千住大橋の南側の
小塚原、中村町が編入され、宿長は2キロメートル以上にも及ぶ大きな宿場となる。
現在も延々と賑やかな商店街が続き古くて趣のある建物が何軒か残っている。
(千住宿案内文より)
「千住が宿場として栄えたのは、慶長二年(1597)人馬引継駅となって以来のこと
だといわれている。
江戸時代の足立は、千住宿を中心に始まったといっても過言ではない
特に寛永二年(1625)日光東照宮建立により、日光道中発駅として、
また江戸4宿の一つとして繁栄し、約400年を経て今日に至っている」
(千住の町並景観を考える会・説明版より)
街道から左手にに昔ながらの細い小路を100mほど行くと、
千住本氷川神社があり、旧社殿に千住七福神の大黒天が祀られてます。
街道の戻り進むと 千住本町公園内には、「千住宿」の額を掲げた門と
傍らに「千住宿 高札場由来」の説明板が建っている。
商店のシャッター絵も多い。
千住本町公園の先宿場のはずれ近くには、横山家住宅が建っている。
本陣と同じように、間口が13間(約23メートル)と狭いの対して、
奥行は56間(約100メートル)と長い敷地に、江戸時代後期に建築された
二階建ての木造建物である。
横山家は、屋号を「松屋」といい、江戸時代から続く商家で、戦前までは手広く
地漉紙問屋 を営んでいた。
現在の母屋は、江戸時代後期の建造であるが、昭和十一年に改修が行われている。
間口が九間、奥行が十五間あり、大きくてどっしりとした桟瓦葺 (さんがわらぶき)の二階建である。 広い土間、商家の書院造りと言われる帳場二階の大きな格子窓 などに、一種独特の風格を感じる。
( 東京都足立区教育委員会・説明版より)
横山住宅の向かいが千住絵馬屋・吉田家で、江戸中期から絵馬をはじめ地口行燈や凧などを描いてきた際物(きわもの)問屋である。
現在も手書きで描く手法を継承し、江戸時代の絵馬の伝統を伝えている。
絵馬問屋の先、左手小路奥に銭湯が見えたが、現在も営業してるかな?の風情
20mくらい先にガーデンコーナーがあり、十字路右側に水戸街道の追分道標が
置かれており「北へ旧日光道中・東へ旧水戸佐倉道」と彫られている。
旧水戸街道はここから右手へ向かていたようだ。
約100mほどで街道は左へ折れ、角地に「北西へ旧日光街道、北へ下妻道」と
ある旧下妻道道標が立ていた。
右手には江戸時代から続く「骨つぎと云えば名倉、名倉といえば骨つぎ」と云われる
名倉醫院が現在も開院しており、江戸末期の長屋門がありました。
左へ折れて進むと江戸時代には無かった荒川の土手に阻まれる。
この荒川は、隅田川の岩淵水門で分流した人工の川、荒川放水路で、
かってはあたり一帯は一面の草原で日光街道は、そのまま草原帯をまっすぐ進ん
だようだが、今は寸断されて土手に沿って左手に行き、ガードをくぐって
現日光街道・国道4号の左側に抜け、
螺旋階段を上って荒川土手上の千住新橋南詰め橋を渡って北へと進みます。
とてもこの川が人工の川とは思えないほど幅広く広がってるが、
かって一帯は草原で旧日光街道は斜めに対岸の方へ通じていて、右下付近には
「光沢が見事な茶釜」が名物で、八代将軍吉宗が鷹狩りの折りに休息し褒めた、
と言われる爺ヶ茶屋もあったようです。
国道4号で9km・・
上流
千住宿方向振り返り、
次の宿場、草加宿へ。
「あら、ハートだわ!」カミさんの指さす河原に蔓性草が描いてた。
なんてよそ見しながら歩いていて、土手上へ左手に降りるところを通りすぎてしまい
土手下道を越えて螺旋道を左手に下ると、巨大な近代お堂の真福寺。
塀に沿って400mほど行くと、街道が斜めに通てきて江戸時代の日光街道が
通ていた所へ出て、川田橋交差点を渡って街道復活、復帰。
合流した街道右手にこれも近代的に建った伽藍の日蓮宗善立寺。
今は斎場となったそうだが。
秋を感じながら再び街道を北上し、善立寺から20mほど行くと、
左手角に小さなお堂は石不動尊が祀られ、街道書によれば、
傍らの地蔵尊は荒川の土手にあったもので、お堂内には耳の病に霊験あらたかな
石造耳不動尊像が安置されてる。
お堂前の石柱は道標で、「八彦尊道是より二丁」と彫ってあり、
左手へ行くと喉に後利益のある八彦尊が安置された赤不動(明王院)があると
記されてます。
石不動尊から10分ばかり歩き、左手に少し入った所に「佐竹屋敷跡」の碑と「佐竹稲荷神社」がある。ここは秋田藩主佐竹候のお抱え屋敷跡で参勤の際の休憩所であった。
稲荷社は屋敷神として祀られていたのだそうだ。
さらに600mほど北上すると、街道と斜めに交差する道との右角に
「右日光道中・左東武鉄道旧線路跡」と刻まれた道標が立っている。
斜めの道は旧東武鉄道の軌道跡だそうです。
道標に従って旧日光街道を直進すると、ここから駅前商店街らしくなっていく。
梅島小前交差点、梅島駅前交差点を過ぎると東武線のガードをくぐり街道は続きます。
島根4丁目で徳川二代将軍秀忠、三代将軍家光が鷹狩の際にこの先にある「安穏寺」に立ち寄るために渡ったという 「将軍家 御成橋 御成り道松並木跡」の石碑。
(写真ぼけのため、拝借安穏寺フォット)
3里目の一里塚があったらしいが、痕跡も案内板もない。
さらに少し先には「鷲神社」がある。この神社は文保二年(1318)の創建でこのあたり(島根村)の鎮守である。享和二年(1802)建立の明神型石鳥居は足立区の有形文化財に、神楽殿で奉納される「島根囃子」と「島根神代神楽」は同区の無形文化財に指定されている。
交差点から15分ばかり歩くと増田橋道標があり
「増田橋跡・北へ日光道中・西へ旧赤山道」と刻まれている。
時刻はPM4:00
東京スカイツリーライン・竹ノ塚駅入り口にて、今日の散歩旅は足止めし家路へ。 おっ、カッパマスク!
帰りの電車の中でカミさん曰く。
「まだ日本橋か20kも歩いてないわ、旅というより散歩、散歩」
旅日記表題、さっそく変更です。